日露戦争から始まり、何故真珠湾攻撃にいったのかという一点に絞り、動きをみてきた本を書いてきましたが、出版社より、正式のタイトルと出版予定日の連絡がありました。タイトルは『日米開戦の正体―なぜ真珠湾攻撃という道を歩んだか』で、発売予定日は4月25日です。
私は歴史学者ではありません。まして日本史の専門家ではありません。
この本の。焦点は一点です。
「戦後の日本で、米国の圧倒的な影響力の下、日本の首相が自主を唱えた時にどうなるか」、これで戦後の歴史を見ました。『戦後史の正体』です。
同じように、今回、日露戦争から、真珠湾攻撃までの期間を書く目的はただ一つです。「何故真珠湾攻撃という愚かな道を歩んだか」です。
今、何故、「真珠湾攻撃という愚かな選択をしたか」を書いてみようと思ったか、説明した方がいいと思います。
私は今、日本の進む道に大変な危機感を持っています。
原発の再
コメント
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younghope曰く、「偏向しない事実を直視する孫崎さんの目は、絶対に必要なものです」。
私の立場からすると孫崎の目は大変偏向している。上に示した孫崎の福島原発に対する解釈がその一例である。世の中には右に偏向した人、左に偏向した人など、様々な人が存在する。偏向とは、ある人が自分の見方が正しいという基準に照らして、たの人々の意見を批判しているにすぎない。一般的に「正しい」とは発言者の立場にとって利得・便宜が得られるという意味であり、特定の信仰、宗教に基づくものではない。
> 驚くべき共通性があります。
挙げられた①~③は日本社会のあらゆるレベルで日常的に見られる光景でしょう。実体験的にもそう思います。
しかし、この手の事を若い同僚に話しても「会社って、必ずしも正論が通じないっていう、そういうところ あるじゃないですか」等と したり顔で返す者が殆どです。
孫崎さんが座長であれば そうはならないわけですが...それは極めて稀なケースで、重要な地位を占める前に排除されるのがオチでしょう。
かくして①~③は止まず、早晩ジリ貧になって破綻。それでも懲りず いつまで経っても①~③に勤しむ国...
そうなっている原因の一つは、生活習慣病の如く慢性化した、人を評価する仕組みが腐り切っていることにあると思います。
例えばサッカーで、優勝常連に名を連ねるようなビッグクラブになればなるほどヘタな選手が出てくる-などあり得ませんが、その種のことが日本社会では平気で起こってしまう。
子供の頃から、問題に即してじっくり本質を見極めるよう習慣づけられることはなく、とにかくその場をさっさと切り抜けるよう嗾けられる。それでは「ゴールを決める」ことにはなりませんが、日本では その場が(特に上の者にとって)都合よく収まれば それでいいのです。
日頃の努力も「ゴールを決める」ための実力アップには向けられず、如何に上が喜ぶように(嫌われないように)振舞うか、ゴマスリに向けられるため、「正しい事か否か」など二の次、三の次といっていいでしょう。
こうした、本質論を意識から追いやるために 嘘と詭弁を正当化して恥じない日本人の長年の「生活習慣病」を改める必要があると思います。
>>6
福一では一号炉だけが水素爆発だ。2号炉は東電がベントして減圧し大爆発の難を避けた。福島の汚染の90%はこの人為的なベントに基づくものだ。3号炉と4号炉は核爆発が起こり水蒸気爆発に発展し建屋が吹き飛んだ。こんなことも解明しないで「原子力発電の根本的欠陥とは言えない」という結論に達するのは論理的でないのみならず科学的でもない。
推測だけれど、国民の支持があったからこそ安倍は好き勝手して涙まで流したと仮定しよう。私としては好きなだけ涙を流せばいいと思う。国民も支持するだろう。もう泣きまねも飽きたら次ぎにいけばいい。国民もつきあうのに飽きるだろうから。
人間、許されているという感覚は必要だ。自分自身そうだし、つらい思いをした人間ならなおさらだろう。自分を守る高い壁は、本当の自分では許されないから築いた砦だ。それが故に攻撃的なのだ。本当の自分がこの世で受け入れられるのなら、人を攻撃する必要は全くない。
>>4
貴重な感想、ありがとうございます。
この世の中は差別が闊歩している。男女差別格差、年齢差別、学歴差別、大学差別、入社経路差別など差別が極めて多い。、地域に密接に結びついた県庁で労働組合に対する不当労働行為である不当な差別を受けながら、信頼できる仲間、温かい家族の支援に支えられ、定年を迎えられたことを伺い、大変うれしく尊敬します。信念を曲げて地位、名誉を得ても、その職を離れれば、ただの人、信念に生きたあなたは、老後に充実感を味わっておられるのではないでしょうか。羨ましいです。
>>7
右とか左を偏向と思わない。右が正しければ左も正しい。右が間違いなら左も間違いである。自分の見方考え方でなく、他人とか集団の主義主張をそのまま、自分の言葉として、オームのように主張するのを偏向と見ているのです。その人がその人の言葉で、右であろうが左であろうが、主張するのは、その人に与えられた権利であり、当たり前のことではないか。それを認めないとしたら、認めない社会が偏向しているのです。
現在の政治状況が真珠湾攻撃の愚行に走って行った戦前と似た状況だとの指摘に、強い興味を惹かれました。当時は、大正デモクラシーが破壊され、物が言えない状況になったと思います。現在、再び言論の自由、良心の自由が、今回は政治権力だけでなく、社会全体の雰囲気として、また金権によって、締め付けられているように思います。民主主義が言論の自由の上にしか成立しないとすれば、民主主義の最大の危機です。
人間は困難な時代を忘れたり、危機に目をつぶって安心するという本質があるとの番組を、巨大津波に関連して見ました。今こそ、戦前の時代の人は非常に少なくなっているでしょうが、何故、馬鹿な対米・対中戦争に突入したのか、その記憶がある人に話してもらいたいし、掘り起こして欲しいと思います。歴史には、忘れてはならない記憶があるはずです。
アメリカは宣戦布告を待っていた、と言いたいのかも知れないが、そういう問題ではないだろうと思う。要するに感情問題にそそのかされているのはどちらなのだという問題だ。そして折り合うつもりがないのなら、それはそれで構わない。わからないのは外野がなぜかばう。ダメなものはダメだ。真珠湾もくそもない。
日本は戦争の季節に入ったのだなとこれはもうはっきり言えますね。
諸行無常とはよくいったものです。
日本列島でこれほどながく続いた平和は江戸時代まで遡らなくては
ならず、そのあとの明治は戦争狂が大手をふった時代でした。
いまの勇ましいことをいう日本人たちは平和ぼけして具体的な戦争の
イメージがわかないのでしょう。
勇ましいことをいえば自分が愛国者だと錯覚できるし、それはなかなか
魅力的な自己陶酔であることでしょう。
ただ、わたしは中国とのあいだで尖閣戦争がおきれば(それはもう高い確率で
起きます。いまの日本政府の対中姿勢からは戦争にならない外交解決に至る
ルートがわたしの想像力では見つからない。)すぐに日本人は目が醒めます。
海上自衛隊の壊滅を見せつけられて。
そしてそこからあらたな対中関係の模索が始まるのでしょう。
ミッドウェーは遠くなりにけりです。
それまで日本はいまのままで突っ走るのだろうと思っています。
わたしはもうあきらめています。
ダメと思わない方がいい。このまま終わってはいけない。絶対にいけない。そんなこと言えた義理じゃないけれど。戦争のイメージは正直想像しかねる。意味もわからない。理解できないものは理解しないという方針でいいかと思う。ただ諦めるべきじゃない。過去を乗り越えれば、未来がそこにあるはずだ。