高浜原発3、4号機の再稼働をめぐり、福井地裁の樋口英明裁判長は14日、住民らの訴えを認め、運転を禁じる仮処分決定を出した。画期的な裁判であった。
ここで原発の再稼働で重要な論点を示した。「基準地震動」である。
「原子力発電所の耐震設計において基準とする地震動。地質構造的見地から、施設周辺において発生する可能性がある最大の地震の揺れの強さのこと。単位はガル。」
「基準地震動」を設定し、そこまで耐える設計をする。
逆に言えば、「基準地震動」を超える地震が起これば、原子力発電所はどうなるかわからない、つまり地震の起こる可能性が高いということである。
ここで福井地裁の樋口英明裁判長は次の判決を出した。
「基準地震動は原発に到来することが想定できる最大の地震動であり、基準地震動を適切に策定することは、原発の耐震安全性確保の基礎であり、基準地震動を超える地震はあってはならないはずであ
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現世真実真理に対する現世利益、どちらに生き方の軸足を置くかの問題であり、生きることに対する洞察力が深いか浅いかの問題でもある。
この現実社会で問題になるのは、①まったく洞察しない人、②洞察できても体制に無条件順応する人、③洞察できても現世利益に軸足を置く人などであろうか。
傾向的には、③は電力関係者利益を受ける地域住民を含む、②は公務員、企業管理者、マスコミなど行政組織の制約を受ける人、、①は原発に対し無関心な人、または、体制マスコミ順応者と言える。
この国は、国民はドイツと同じように1流であり、原発反対が強いが、政府、国会議員、官僚、マスコミが3流であり、民意を無視しているに過ぎない。民主主義形態をとっていながら、民主主義国家ではないのは、国民がおとなしく怒らないからである。日本人の長所であり短所でもある従順性を体制が悪用しているのである。
基準地震動を前提とした原発再稼動の安全性ついて。
この件は、品質管理(統計学)の知識がある方なら容易に理解可能かと。
基準値を設けても、それを超える異常値というのは必ず発生します。
これが製造業であれば、製造プロセス(工程)の改善で、異常値発生
の確率を減らすことができますが、製品や部品と違って「自然現象」
をコントロールすることなどできません。
過去のデータを引っ張ってきて、最大値を採る手法も不完全です。
なぜなら、我々はここ数十年のデータしか測定できてないわけで、
日本列島が誕生した歴史からすれば、それこそ短い時間でしかない。
それ以前に、「基準地震動を超える地震」が過去の事例として
実際に存在してるわけですから、論外です。
「さて皆さんは、A、B、Cのどの立場をとるか」
「人間には3つの生き方がある」というのは、これはあくまで、
「通産省内で言われていた言葉」(役人の人生哲学)ですよね。
私個人としては、第4の生き方(Dの立場)、
「好きなことを仕事にする」「興味のあることを仕事にする」に一票!
職人や技術者であれば、「道を追求する」というのもありでしょう。
結局、A、B、C、Dのいずれの立場をとった生き方をしても、
「隣の芝は青く見える」ことには変わらないですよ。
「理屈」で考えるよりは「感性」で道を選ぶほうが幸せになれる
のではないでしょうか。
前回書き忘れましたが、工学系(技術系)には「感性」が必要ない、
というのもまったくの「偏見」です。
研究職、技術職にもっとも必要なのは「感性」です。
このブログのコメントに時々出没されては、孫崎先生に皮肉を言って
去っていく「oldjapさん」がおりますが、こういった一風変わった方
が実は技術者としては超一流であることがあるんです。
技術・研究開発において、行き詰った既存の概念や常識を打ち破るには、
「遊び心」や「いたずら心」というのは極めて大切なんです。
若い人たちへのメッセージですけど、老年の私にもコメントさせて下さい。
孫崎先生のお話は実に興趣に溢れ説得性があります。「太った豚より痩せたソクラテス」を新聞記事で目にしたのはサラリーマン駆け出しの頃でした。イエロヤンキとかエコノミックアニマルとか悪口言われながら外貨獲得尖兵として汗を流していました。友達と酒場で飲みながら「せいぜい痩せた豚だよな」なって冗談言っていたのを思い出します。
トーマス・カーライルが主張するところの「THE EVERLASTING NO」を生きるのは自分らだけで十分だ。「THE EVERLASTING YEA」を生きるのは聖職が保証される裁判官や学者だと信じて居ました。後年になって、正確に言えば、今頃になって、日本の憲法学の主流が歪んでいることや、原子力工学や地震学の主流が訳の分からないことを言っていることを知るに及んで、日本の殆ど全ての領域が「THE EVERLASTING NO」の世界にあることを知り愕然としているのです。
大江健三郎氏や小出裕章氏が「日本を根本から造りなおす必要がある」と主張していますが、その主張が方々で反響し大きなうねりになるのを願うばかりです。
私も技術者(研究職)です。これまで40年近く,好きな仕事に(雑用も多々ありましたが)従事させてもらいました。その過程で自然現象に関係する仕事に就き,tako2008さんのコメントにある「D」タイプの重要性の認識と同時に,自然に対して畏敬,というか自然の制御が人間の利己心の最たるもののひとつではないか,と思うようになりました。
言い換えれば「自然」を「自分の都合のよいように解釈」「近視眼的に自然を改変」の大きな弊害に気付くようになってきました・・・ 科学者や工学屋も「D」と同時に,国民としての専門家として「B」は(全ての人に)必要な要素ではないかと思うのです。
多くの科学現象や技術は,一般の人には難しすぎるのは当然です。そこで偏見のない,ときの権力に左右されないよおうに,メディアが「B」の立場でわかりやすく提供することが極めて重要になるのですが・・・
政府が「世界一厳しい」と自賛する基準は、10年間に5回も超えている。それが事故にならなかったのは「幸運」でしかない。2年ごとに福島のような事故が起こったら、この国は完全に崩壊してしまうだろう。
日本人は、そんな無責任の輩に、この国を任せておくのだろうか。
地震も津波もない米国の原子力技術を無定見に取り入れた、原子力委員会の愚が3.11の原発事故を大きくしたと言っても過言ではないでしょう。名誉・誇りや使命感のない委員会だったから、湯川さんや朝永さんも原子力委員を辞任したのでしょうね。しかし、一度デッチ上げてしまった20箇所の原発。問題ありと気づきつつも、あとは官僚お得意の「前例踏襲と横並び(米国従属)」の理論構築(=レトリック)に狂奔する毎日。税金のムダ使いはなにも「公共事業」ばかりではない。こんな「今だけ、カネだけ、自分だけ (植草一秀・鈴木宣教)」みたいな官僚を何百人も且つ一生雇用していることが無駄遣いになっている。そういえば、某県庁にも少なからず居た。決まって大出世している。国家から地方を合わせると、人件費と言えども膨大な無駄遣い!
テンペランスですな。技術者というよりジャーナリストかな?天秤というより方位磁針かな?判断は心の赴くままという訳にもいかないか。
そんなことを置いといて、ソロモンの偽証ではないけれど、判断するものの立場が傾いていては世界は歪んでしまいます。Everlasting NoでもYesでもいいし、その中間でももちろんいい。ただ感情に左右されてはいけない。欲望に左右されてもいけない。そういう判断がこの世界で効力を持つのなら世界は変えられる。もっともっと公平な立場にいる必要がある。
落書きみたいになってきたが、Temperanceとはタロットの14番目のカードで相反する二つの原理を結びつける力を持つとされる。単なる自制というのではなく相反する二つの力を内包する世界をまとめあげる重要な役割を担う。原理主義は正しくても破滅する。外貨集めに奔走しても地獄の世界だ。要するに長い忍耐を伴う難しい役割なのだ。第天使ミカエルはその二つの世界を知り抜いている。すべてを知っているからこそ正しい判断ができる。神に似たものは誰だ?極端に走ったルシファーへの問いだ。
>>4
ご意見ありがとう御座います。
我々も、好きな仕事だけをやっていられれば幸せですが、
技術者も倫理感を持つことは大切なことですね。
私の経験だと、工学系の人には、自分にも他人にも「嘘」のつけない、
愚直な方々が多く、根の悪い人はあまり見たことがありません。
しかし、組織の規模が大きくとなってくると、個人より組織の性格が
表に出てくることがあるようです。
昔に親父から聞かされた話なのですが、昔は特許戦争の時代でもあり、
勝つためには「嘘も方便」で運営していくのが当たり前だったとか。
管理者に昇格したものの、通常管理業務の他に、書類やデータの改ざん
といった仕事も任されたらしく、こんな仕事は嫌だといって、技術者に
戻してもたらったそうです。今はそんなことは聞かないようですが。
私は別に、綺麗事だけで世の中が上手く行くとは思っていません。
時には、必要悪と割り切った組織の運営も必要だと思っています。
家に帰ると「良いお父さん」であっても、会社や組織の一員となると
倫理的におかしなことであっても平然と仕事としてこなしてしまう。
「役が人を変える」「人が役に染まる」といったところでしょうか。