今、『天皇と軍隊』という映画が上映されている。
製作:2009年,フランス
日本公開:2015年8月8日
さまざまな問題を内蔵している。
私は、昭和天皇は、戦後、処刑される可能性のある中、「命」と「地位」をマッカーサーから与えられた。それと引き換えに従米政策路線をとった。戦後史の中で、日本が米国に隷属する路線を取る中で、天皇は極めて大きい役割を演じたと思う。
昭和天皇が退位することと、天皇制廃止は同じではなかった。その意味で、天皇は戦争責任を認識し退位し、現天皇に移すべきであったと思う。
この映画も昭和天皇が天皇であり続けたことと、日本の対米従属の関連を述べている。
この映画で最も違和感を持つのは、集団的自衛権に関する部分である。
この路線を「空白のある部分」として当然実施しなければならないと論ずる五百籏頭真氏の論には納得できない。
私としては、この映画を見て改めて考
コメント
コメントを書く60年安保世代の私は、寮などで夜遅くまで、皆で議論したことを思い出します。
現在のように、安保と憲法を切り離して考えるようなことをしなかった。日本の自衛をどうするのかの根本の話であった。
現在の人たちは、安保と憲法問題を切り離して考えている。
安保は不可侵であり議論することができず、憲法問題だけが議論の対象になっている。日本政府に対する抵抗ないし反対勢力であり、安保反対勢力でなくなっているのです。三島由紀夫の考えを私は共感できるが、多くの人は、違憲で抵抗する程度でしょう。安倍首相退陣に追い込むことに精力を費やすが、安倍首相が退陣しても、程度の差こそあれ、安倍現象はなくならないことがわからないのである。本質に眼を向けず、退陣ゲームをしているに過ぎないのです。
今回の安保法制に反対する人々の中に、とにかく自衛隊は違憲であるから廃止するか、憲法9条を変更して矛盾をなくせという意見も少なくない。しかし私はこの意見に簡単には与しない。確かに自衛隊は政治的妥協の産物かもしれないが、そこには苦労しながら70年間これをぎりぎり守ってきた憲法解釈の伝統が積み重なっているからである。
専守防衛、自衛のための組織としての自衛隊はギリギリ合憲である。この解釈を是としない人々には異論や不満があると思う。しかし、この解釈はそれ程おかしな解釈ではない。個人において生存権のための闘争が認められているのと同様に、いかなる国も自然権としての自衛の権利がある。もちろん、集団的自衛権などは明らかに違憲であり論外である。
このような議論をする時に大切なことは、憲法の歴史的経緯を無視して条文だけに拘泥するべきではないということである。具体的に言えば、現行憲法は、日本が国際社会復帰するために、連合国によって決められた枠組みを前提としていることを忘れてはならない。それは日本が無謀な戦争開始で自ら招いた無秩序にけりをつけるため、ポツダム宣言を受諾するしかなかったということだ。それ以後、日本はその秩序の中で生きていかねばならなくなった。それが講和条約とともに受け入れた日米安保条約である。日米安保によって、我々は半独立国という地位を引き受けることで、戦後復興を果たした。これは仕方のない現実であった。
その上で、私たちは歴史的事実を直視しつつ、少しでも日米安保などの現実を憲法の理想に近づけていくという困難な課題へ挑戦していかなければならない。 安倍政権は戦争法案によってこの課題から逃避しただけでなく、戦後政治・外交で先人たちが築き上げてきた努力をすべて台無しにしている。
このような時に、安易に憲法改正を唱えることは敵に塩を送ることになりかねない。たとえそれが第9条をさらに厳密に規定する内容であっても、憲法改正という議論そのものが現政権を利する危険につながることを認識しなければならない。今はその時ではない。この法案をいったん廃止することこそが目下の急務である。盗人に追い銭をしてはならない。
三島ってほんとにイカれてたんだなあ。
自衛隊が違憲だとちゃんと知ってたところを見ると
まともな日本語読解力があったようにはみえるけど。
でもそれくらいはわたしの小学生の孫でもわかるからなあ。
憲法を読んで、ちゃんと自衛隊が違憲とわかるくらいは。
やっぱり三島はイカれてたんだなあ。
三島由紀夫の自衛隊員に向けたクーデタを促すアジ演説をこのように提供され、改めて具に吟味すると彼の天皇制認識に大きな錯誤があると思わざるを得ません。
元来、天皇制は日本国民を統治する権力の象徴としてだけあったのではなく、朝鮮半島、中国大陸への侵略のためにもあった。そういう構造上の仕組みを彼は弁えていない。若し自衛隊が決起してクーデタを起こし、戦前の天皇制を復活させたら、自衛隊は世界最強の軍と日本国土で戦うことになり、勝てる戦争には絶対ならない。
戦後レジームとは、天皇制にだけ限って言えば、朝鮮半島、中国大陸への侵攻権限?を米国に100%譲渡してしまっているということだと思う。そのことを明文化したのが憲法9条だと思う。皇族の中でそのことを十分理解されている人は平成天皇だけだと私は思います。
続く
>>4
続き
三島由紀夫のアジ演説で感心することは「建軍の本義」に触れているところです。自公民とそのシンパが手っとり早く作った安保法制で仮に米軍の要請で自衛隊が米国が作った戦線、つまり西部戦線か東部戦線のどこかに派遣され死亡者が出たらアーリントン墓地に葬られることになる。そんなことで日本国民は納得するだろうか。「建軍の本義」は軍であればなくてはならないもの。中国軍の人民解放、米国の世界制覇精神、ロシアのスラブ魂、アラブのジハードに相当するものがなければならない。自公民は米国の要請で法を作ったが、我々にとっては幸い、弁証法的に見ても不発に終わらざるを得ないのです。
ここで、三島由紀夫のアジ演説に接して、改めて認識したことは自衛隊はあくまで自衛隊であって軍ではないということ。もし、自公民の都合で米国の戦場に赴くことがあれば、それは単なる傭兵か私兵ということになる。
>>4
2節目の下から2行目「世界最強の軍」は正しくは「世界最強の米軍」です。
三島由紀夫がこんな演説をしていたなんて知りませんでしたね。内容の善し悪しはともあれ、心に響くものはあります。小説の方はあまり好きになれないのですがね。マスコミはいたいところを疲れて慌てたのかもしれませんね。まあ人間の人生だからいろんな選択があっていいと思います。人は誰しも自分が幸せになれる選択を選ぶ権利はあるはずです。自衛隊が日本の為に立ち上がってもまたアメリカにこてんぱんにやられるのでは全くの愚行です。ただ戦後日本には、根源の歪みがあること。アメリカに使われるだけの道を歩んでいること。すべてが本質をついている気がします。難しい境遇の日本にはどんな選択が可能なのか?偏見を排除してもう一度考えなくてはいけませんね。本当は日本は貴重な国なのです。あなたも自分の人生をどぶにしてるような愚行はしないでくださいね。あなたに与えられた役割と人生を全うしてくださいね。
三島由紀夫氏の演説内容を初めて文章として読みました。こんな演説をしていたんだなと、何故か感動しました。
小生が会社に就職して数年の時で、富士○株式会社川崎工場に出向していた時、会社の人の会話で事件を知りました。
後年、尊敬するカトリックの神父さんに「三島由紀夫は何故死んだんですか?」と聞いたら、「(彼の)美意識だろ」と仰っていました。
日本人の美意識があるんですよね、きっと。
生放送を見ましたが、孫崎さんの認識は間違っています。
1)天皇の憲法への認識
孫崎さんは天皇は護憲であると考えられています。天皇は立憲君主ですから護憲であるのは当然です。しかしながら、孫崎さんの念頭にある第九条をも天皇が守ろうとしているかは、疑問です。
それは、実質第九条は死文と化しているからです。憲法は慣習法ですから、憲法そのものがあっても守られていない限り死にます。この憲法の常識は小室直樹先生の”憲法の問題点”を参照ください。
2)三島由紀夫の天皇感
三島由紀夫がなぜ天皇を崇め奉り必要としたかは、彼の著作を読めば分かります。
天皇が人となれば、日本人は近代国家にはなれない。ゆえに天皇の人間宣言を悔やんだ。
その天皇への思い入れと、彼の自衛隊での蜂起とは直接的に結びつくものではありません。
三島が憂えたのは、日本の近代国家への道から後退すること、後退へ導いているアメリカへの恨み(言葉が適当は多少疑問がありますが)です。
3)天皇の戦争責任
孫崎さんは、この点に関しては全く間違っています。博識である孫崎さんがなぜここまで稚拙であるのかとさえ思います。天皇は明治憲法下でも立憲君主です。ゆえに、国民の意思には逆らえません。国会に拒否権を発動できないのです。よって、国会が戦争を遂行すると決めた以上、承認するしかない。実際、日清戦争を天皇は公に反対しましたが、国会は明治天皇の意思を明白に無視しました。これが立憲君主です。イギリス女王の立場と同じです。国会には逆らえません。
是非とも孫崎さんには、勉強の後認識を新たにしてもらえるようお願いいたします。
加えて、天皇は開戦に明確に反対でした。これは開戦時に読まれた詩からも、述べられた言葉でもでも分かります。
それに東条英機を首相に選んだのは天皇ではありません。天皇は誰一人首相を選んだことはありません。国事行為として承認はしますが。もちろん拒否権はありません。聡明な孫崎さんが、天皇が東条英機を首相にしたと思われる根拠を知りたいと思います。