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2024年を振り返り、2025年を展望する(2/5)(1,850字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 1週間前
これから世界は右傾化していくだろう。右傾化というと警戒する人も多いが、人間社会で一番怖いのは「左傾化」である。なぜなら、左傾化の行き着く先に待っているものこそ、最大の恐怖である「全体主義」だからだ。これは多くの人が知らないことだが、戦前戦中の日本は、陸軍による左翼国家(右翼ではない)になり、最後...
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【わかる中東ニュース(11)】 「シリアの混乱はCIAが植え付けた】 「『犯罪組織→英雄→戦争犯罪人』ーCIAに翻弄された世界
コメ0 山口敬之メルマガ 2週間前
【わかる中東ニュース(11)】「シリアの混乱はCIAが植え付けた】「『犯罪組織→英雄→戦争犯罪人』ーCIAに翻弄された世界中の政治家」「求められる東條英機元首相の名誉回復」🟥紛争激化の切り札は「CIAによって作られた英雄」 トランプ次期政権が解体しようとしているディープステイト=DSにはいろいろな定義があります。...
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石原莞爾と東條英機:その66(1,738字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 2週間前
石原莞爾は武藤章ら対中国強硬派の満州組からは敬遠されるようになっていたが、二・二六事件での活躍もあって、中央部ではまだ高い影響力を保持していた。そんなとき、広田内閣が瓦解し、新しい総理大臣として元陸軍の宇垣一成が天皇から指名された。これに対して、石原が妨害工作へと動くのである。後に石原は、この妨...
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石原莞爾と東條英機:その65(1,934字)
コメ2 ハックルベリーに会いに行く 3週間前
1936年12月、石原莞爾のはしごが武藤章によって密かに下ろされ始める。そうしてこれ以降の数年間が、石原にとって一つの「受難の時代」となっていく。その石原の受難を見る前に、まず当時の内閣の動きから確認したい。石原と武藤の一件から3ヶ月後の1937年2月、時の広田内閣が総辞職した。広田内閣は、二・二六事件の責...
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石原莞爾と東條英機:その64(1,872字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 4週間前
1936年の2月に、石原莞爾は武藤章と協力して二・二六事件を鎮圧した。このとき、中心的な働きをしたのが石原と武藤だった。そうして一度は協力関係を築いた二人だが、すぐに袂を分かつことになる。二・二六事件の後、武藤は関東軍――つまり満州へと異動になる。赴任後、内蒙古(モンゴル)の分離独立工作を担当することに...
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石原莞爾と東條英機:その63(1,862字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 1ヶ月前
二・二六事件は1936年に起こっている。つまり太平洋戦争開戦の9年前だ。ここからの9年間が、激動なのである。戦争中を抜かせば、日本の最も脂っこい時代だ。石原莞爾は1889年生まれなので、47歳から56歳までがその激動の時代ということになる。そのため石原自身も、まさに脂が乗り切っていた時期だが、それが逆に石原に...
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石原莞爾と東條英機:その62(1,818字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 1ヶ月前
二・二六事件が起こったとき、石原莞爾は参謀本部作戦課長という肩書きだったが、早くから反乱部隊の鎮圧組織に身を置き、その要として活躍した。二・二六事件は繊細に推移する。最初は荒木貞夫や真崎甚三郎を中心にこれを容認する雰囲気が広がったが、そこから石原莞爾らの働きで徐々に鎮圧するという考えが広がってい...
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石原莞爾と東條英機:その61(1,883字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 1ヶ月前
相沢事件は1935年8月12日、夏の暑い盛りに起こった。それから半年、皇道派は追い詰められた。永田鉄山の復讐に燃える統制派の画策によって、その主要なメンバーが満州へと派兵されることになったのだ。つまりかなり強硬な敵対工作、弱体工作を講じてきたのである。すると皇道派は、窮鼠猫を噛むで、究極の手段に訴える。...
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石原莞爾と東條英機:その60(1,924字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 1ヶ月前
永田鉄山が相沢三郎に殺された。その報に接したとき、石原莞爾は「なんだ、殺されたじゃないか」と言ったとされる。そして相沢に対しては、「妻子もある40代の男が、命をかけて何かをするということは、陸軍にはまだ見込みがある」と言ったとされる。つまり、永田鉄山の側ではなく、むしろ相沢三郎の側についたのだった...
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石原莞爾と東條英機:その59(1,847字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 2ヶ月前
化物と化した戦前の陸軍。その中で石原莞爾はどのような存在だったのか?彼は陸軍内で、誰からも文字通り一目も二目も置かれていた。いろいろな理由はあるが、やはりその独特の個性に因るところが大きい。誰に対しても一歩も引けを取らない。しかも満州事変を主導したという実績もある。満州事変は陸軍の「心の拠り所」...
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石原莞爾と東條英機:その58(1,885字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 2ヶ月前
皇道派は荒木貞夫と真崎甚三郎を旗頭としていた。荒木も、元々は一夕会の領袖を務めるなど、統制派の永田鉄山とは非常に近しい関係にあった。永田鉄山が荒木を引き立て陸軍大臣に仕立て上げたという経緯さえあった。ところが荒木は、陸軍大臣になってからは、腐敗した閣僚や経済人を一掃し、陸軍が中心となる国家を作ろ...
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石原莞爾と東條英機:その57(1,698字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 2ヶ月前
永田鉄山を殺したのは相沢三郎という陸軍将校だった。つまり永田の後輩であり部下だ。陸軍士官学校出身で当時46歳の中佐だった。この事件は、犯人の名を取って「相沢事件」と呼ばれている。相沢三郎は1889年に仙台で生まれる。実家は旧仙台藩士だった。そして石原莞爾も同じ1889年の生まれで、同じ東北(山形)の旧武家...
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石原莞爾と東條英機:その56(1,737字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 2ヶ月前
東條英機は久留米で電報を受け取った。そこに永田鉄山の訃報が載っていた。ただちに東京へのキップを取り、鉄道で一昼夜をかけて上京した。そうして永田邸を訪れ、その亡骸と対面した。東條英機にとって永田鉄山とは何だったのか?それは「全て」といっていい。永田鉄山こそ東條英機の生きる理由のようなものだった。師...
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石原莞爾と東條英機:その55(1,769字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 3ヶ月前
こうして永田鉄山は殺されてしまった。東條英機はそれを左遷先の久留米で聞いた。この頃、東條英機は久留米で苦しみながらもなんとか部下を掌握していた。当時の若手将校は、その多くが皇道派だった。しかも久留米は、真崎甚三郎が自分の子飼いを赴任させ、固めていた。そのため東條英機にとっては完全にアウェーだった...
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石原莞爾と東條英機:その54(1,854字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 3ヶ月前
真崎甚三郎は陸軍大臣になれず、代わりになったのは林銑十郎だった。これによって今度は真崎と林が対立するようになり、真崎は林の追い落とし工作をあれこれと計るが、逆に林の怒りを買って、今度は林が真崎に教育総監の地位も辞職するよう求める。真崎はこれに頑として抵抗したが、ついにその地位を剥奪されてしまう。...
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ドラッカー学会糸島大会が終わった(1,142字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 3ヶ月前
今回は『石原莞爾と東條英機』の回だが、お休みして土曜日に行われたドラッカー学会糸島大会について書きたい。まずは終わってホッとしている。大過はなかった。会場のインターネット回線が使えなくて配信がピンチに陥ったが、原田さんという実行委員の人が持っていたWi-Fiを貸してくれて事なきを得た。これがなかったら...
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石原莞爾と東條英機:その53(2,039字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 3ヶ月前
気のいいオッサンの荒木貞夫は1931年、満州事変の真っ只中で、永田鉄山らの後押しもあって陸相に就任する。しかし1932年から若手将校たちが荒木の元に参集するようになり、やがて「皇道派」を形成する。いい気になった荒木は盟友真崎甚三郎とともに自らを利する独裁的な人事を行う。しかしこれが皇道派以外の反感を買い...
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石原莞爾と東條英機:その52(1,800字)
コメ2 ハックルベリーに会いに行く 4ヶ月前
荒木貞夫は陸軍を「天皇の軍」という意味で「皇軍」と呼び、その在り方=「道」を道徳に説いていた。だから、荒木の元に参集した若手将校たちは「皇道派」と呼ばれた。その皇道派の行動理念は昭和恐慌、あるいは世界恐慌を機に始まった経済の混乱に対する「義憤」にある。彼らは猛烈に怒っていた。何に怒っていたかとい...
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石原莞爾と東條英機:その51(1,543字)
コメ3 ハックルベリーに会いに行く 4ヶ月前
東條英機は1934年8月1日に久留米に赴任する。ちょうど50歳のときだから、これは完全に左遷だった。出世街道なら、いよいよ中央の主要なポストも伺おうかという年齢だ。これで東條は消えた、と多くの人に思われた。しかし一方、東條は消えた、と思わない人も多かった。なんといってもあの永田鉄山の懐刀で、その永田自身...
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石原莞爾と東條英機:その50(1,817字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 7ヶ月前
「国体」とは何か? それは「日本」という美しい国のことである。この我々が愛してやまない美しい日の本の国――自然ももちろん美しいが、何よりそこに住う人々が美しい。この日本の美しさこそが「国体」である。我々日本人の祖先が、古来より連綿と命懸けで守ってきたものだ。この考えをナチュラルに持っている日本人は...
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石原莞爾と東條英機:その49(1,857字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 7ヶ月前
皇道派の荒木貞夫は「気のいいおっさん」だった。気のいいおっさんで若者好きだったのだが、こういう人物はときどきいる。そしてここからが少し複雑なのだが、荒木貞夫はやはり頭が少し悪かった。陸大を主席で卒業しながら「頭が悪い」とはどういうことか? それは「言われたことは苦もなくできるが自分の頭で考えるの...
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連載についてなんとなく考えてみる(1,105字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 7ヶ月前
いまだに下痢は続いているが、体調はだいぶ良くなってきた。今日で長かった一週間が終わるが、今月はなぜか予定が立て込んでいてなかなか休めない。しかも、雨が降らなくて気が滅入る。普通は雨がやまなくて気が滅入るのだが、ぼくの場合は庭で植物を育てているので、雨が適度に降ってくれないと困るのである。暑いのと...
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石原莞爾と東條英機:その48(1,581字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 7ヶ月前
一夕会は宇垣一成や宇垣閥を牽制するために荒木貞夫、真崎甚三郎、林銑十郎を盛り上げた。実際、東條英機は荒木貞夫に相当な尊敬の念を抱いていた。荒木貞夫はどのような人物か?1877年生まれで旧一橋家の出身である。つまりバリバリの徳川だ。1897年に陸軍士官学校を卒業し、1907年には陸大を首席で卒業する。そうして...
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石原莞爾と東條英機:その47(1,652字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 8ヶ月前
ここで陸軍の「派閥史」を概観してみたい。1873年に陸軍省が創設され、ここから山縣閥が始まる。山縣は1938年の生まれなので、スタート時はまだ35歳の若さであった。1889年に、ドイツに留学した東條英機の父、英教が山縣に長州閥の弊害を直談判する。それが山縣の恨みを買って、英教は出世街道から脱落する。英教は34歳...
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石原莞爾と東條英機:その46(1,696字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 8ヶ月前
1929年に歩兵連隊長になった東條英機は、部下の歩兵たちにとっては理想に近い上司だった。常に下々のことを気にかけてくれ、偉ぶったところが少しもなかった。東條は、部下たち全員の顔や氏素性を覚え、何くれとなく声をかけたり、また気にかけてくれたりした。陸大を受ける将校がいたら、受験勉強に励めるよう、仕事の...
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石原莞爾と東條英機:その45(1,708字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 8ヶ月前
満州事変で石原莞爾が激動の中心にいた頃、東條英機は何をしていたのか?彼は東京にいた。歩兵第一連隊長として、出世街道のほぼど真ん中を順調に歩んでいた。一方で、東條は一夕会でもど真ん中を歩いている。一夕会のトップは押しも押されもしない永田鉄山だったが、東條はその直下のナンバーツーだった。そして、忙し...
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石原莞爾と東條英機:その44(2,107字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 8ヶ月前
石原莞爾はスイスから帰国した直後、仙台の歩兵第四連隊長に着任する。これは、心身の疲れから引退を申し出た石原を引きとどめるため、陸軍上層部が用意したポストだった。石原の故郷である山形に近い地で、石原の好きな歩兵たちとの仕事だ。そこで心身の疲れを癒してほしいという狙いがあった。ここから分かるのは、こ...
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石原莞爾と東條英機:その43(1,568字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 8ヶ月前
石原莞爾は事変がなった後、満州での参謀の職を解かれ、日本に戻される。このとき、事変において上司に無断で自らが兵を動かした責任を取り、陸軍の除隊を申し入れる。が、慰留された上に大佐に昇進までさせられて、踏みとどまった。このことで分かるのは、石原は満州事変がなった瞬間から、それに必ずしも満足してはい...
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石原莞爾と東條英機:その42(1,952字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 9ヶ月前
「満州」は、中国大陸のうち朝鮮半島と接している東端の部分だ。そこを北へ行くと、ロシア(ソ連)とも国境を接している。満州の北側は北海道よりも緯度が高く、冬は非常に寒い。鉄道が通るまでは、ほとんど未開の土地であった。それが、20世紀に入ってからの鉄道の拡大で、一気に開発されていく。そして日本は、そこに...
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石原莞爾と東條英機:その41(1,897字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 9ヶ月前
関東軍は、満州事変の成り行きを見ながら、満州国の建国と、そこにおける溥儀の皇帝擁立を決めた。つまり満州は、日本に組み込むのではなく、またその統治下とするのでもなく、独立国として存在させ、その権威づけに溥儀を利用しようとしたのだ。溥儀とは誰か?愛新覚羅溥儀は、清の最後の皇帝である。いわゆるラストエ...
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石原莞爾と東條英機:その40(1,693字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 9ヶ月前
石原莞爾は満州事変を計画し、現場で指揮した。ただし、石原には権限がないので、あとは上の者が乗っかってくるかどうかが勝負だった。上の者とは天皇までをも含む。石原は、満州事変で日本そのものを動かそうとしたのだ。しかしもちろん、石原が単独で計画したのではなく、そこには板垣征四郎のバックアップがあり、さ...
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石原莞爾と東條英機:その39(1,824字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 9ヶ月前
当時の陸軍将校には有り体にいって「バカ」と「ずる賢いやつ」しかいなかった。ちなみにここでいう「バカ」とは、勉強はできるが考える力がない者のことだ。バカは皇道派になり、ずる賢いやつは統制派になった。そして、バカとずる賢いやつは相性が悪い。文字通り犬猿の仲である。ぼくもずる賢い人間だが、バカがこの世...
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石原莞爾と東條英機:その38(1,909字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 10ヶ月前
満州事変の直前まで、張学良は中国軍と手を結んで、満州鉄道の隣に新たな鉄道を建設し、これの実質無効化を計画していた。これが一つのきっかけとなって、日本軍はとうとう陰謀に打って出る。指揮をしたのは板垣征四郎で、作戦を立案したのは石原莞爾であった。ただこのとき、板垣と石原は、いかに蜜月の中であろうと、...