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「料理店の寝椅子 彼女たちとの普通の会話」 5_1作家のよしもとばななさんと (全4回)
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「料理店の寝椅子 彼女たちとの普通の会話」 5_1作家のよしもとばななさんと (全4回)

2015-01-22 11:00

     12年前に『スペインの宇宙食』を出版した時、それが売れるとか、ましてや自分が文筆家になるなど、まったく思っていなかった。というより、最初に出版の話が来たときは間違いなく詐欺だと思ったし、詐欺ではないとわかってからも、これは自嘲でも防御的なポジショニングでも何でもなく、ガッチガチに正味の話が「誰が読むんだこんなモン」と思っていた。厳密に言えば「誰が読むんだこんなモン。俺の(音楽活動の)ファン以外に」だが。

     自著のコンテンツの話もどうかと思うのだが、あの本は前半がライブの告知(書籍化においては、その部分──何月何日にどこで、料金いくらとかいったデータ──はすべて省かれているが、今思えば、すべて省かなければよかったと思う)のための、つまり、ネット告知というのが面白かったのでやっただけで、もしあれが紙だとすれば(『スペインの宇宙食』は紙だが・笑)フライヤーの裏面に書いてある能書きを集めたものだし、後半はネットの日記だ。

     ウィンドウズ95による「インターネット元年」という偉大なヴィンテージ(ワインラヴァーには聞き飽きた苦笑的な小ネタだろうが、95年はフレンチワインの歴史における最も偉大な年のひとつに数えられている。なのでワタシは、今年の新成人にやや期待している)から2年遅れとはいえ(あの本の書かれたものの多くはワタシのPC購入年である97年に書かれている)、わが国におけるインターネットの普及率はたしか50%をギリギリで下回っていたか、上回っていた。

     そんな時期であるところにもってきて、さらに「自分の音楽活動のファン向け100%」に向けて書いた文章が、独立した書籍として、一般層の読者に訴求するわけがないじゃん。と30歳のワタシが思っても「ご謙遜を」とは言われないだろう。「音楽家の中にエッセイストの才能を併せ持つ者がたまにいて、名エッセイ集を出す」という細々とした歴史はたしかに存在するが、その100%は紙媒体に、プロもしくはセミプロのライターとして、稿料をもらい、字数や締め切りを守って書かれた文章の書籍化である。ワタシは現在に至るまで、事の評価とは別に、『スペインの宇宙食』は基本的にマーケットの閉じられた同人誌だと思っている。

     なので、出版して間もなく、「作家(あるいは、音楽家の、批評家の、etc.)の誰彼さんが、あの本をすごく褒めてましたよ」という話が相次いだのだが、ワタシは「ああ、出版業界というのは、こうやって書き手を持ち上げるということをするのか。音楽業界と比べると、さすがに古典的なことよのう」と、まったく信用していなかった。

     その中で、最も初期の、最も熱狂的だったものが、作家のよしもとばななさんだと知ったときのワタシの反応は、テレビのバラエティを見慣れている方ならばすぐに想像できるだろう。ワタシが出演しているとする。ストローのささったウーロン茶かなんかを持って。そして、さっきまでニコニコ話していたワタシは、この件を振られるなり、手にもったウーロン茶をフリーズさせ、いきなりものすごい怪訝な顔になって、「え?」と言う。険しいワタシの顔は止め絵の大写しになり、テロップに「え?」と大きく出る。場合によっては画面全体が着色される。

     もうお互いにフィフなので、特にエクスキューズもなく書くが、よしもとばななさんの一般的な理解、要するに、誰が形成したのか、その共犯的な比重関係はともかく、パブリック・イメージとしては「お父さんがものすごく偉い批評家で、それとは関係なく、エコロジカルで透明感のある(やや突っ込んで言えばユング的な集合無意識の産湯なイメージの。という意味で村上春樹と類似していなくもない)小説を書く、癒しの人」で、ほぼ不正解の無慈悲なブザーは鳴らないと思うし、そのこと自体にはワタシは何の文句もない。

     ただ、よくある話だが、それはある一側面に過ぎない(そう、メインコンテンツでさえないと、ワタシは評価している)。なにせよしもとさんは、両親の血統をはじめとして多くの違いを越え、ワタシとひとつ違うだけの、同じ時代に青春を迎えて、同じ時代に同じユースカルチャーを喰らい(よしもとさんにはジャズ喫茶経験はないが)、つまり78年以降の文化的激動を、東京のあらゆるクラブや変わった映画館で経験した、ゴリゴリのニューウェーヴ猛者であり、もっとシンプルに言えば、ガチンコの「バブルさん」なのである。

     ワタシは「同世代的共感」というものを、比較的に衒いなく評価する。今さらアレに愛憎入り乱れたって仕方がないではないか。東京ロッカーズやゲルニカを、小滝橋通沿いにあった頃の新宿ロフトで聴いたことがない者に、ピテカンでドキドキしながら、変な赤いカクテルを飲んだことがない者に、ゴダールの新作を六本木の映画館でうつらうつらしながら見たことがない者に、ワタシの音楽をあれこれいうなんてぶわははははははは滑稽千万だよキミー。という話である。

     「え?」と言って固まったワタシが、そもそもよしもとさんについてほとんど何も知らなかったこと(初期の代表作とその映画化しか触れていなかった)、そうした無知がほぼ100%引き起こす愚行としての、笑ってしまうような類推(椎名桜子みたいなモノではないか、とか、お洒落エコだろうとか、うわはははははははははよしもとさんスンマセン!! でも特にワタシ個人が馬鹿過ぎるという話じゃないですコレは。人類自体が馬鹿すぎる話に近い)、そして、よしもとさんの多面性、特に上記の、同世代的な共感溢れる側面がガッサガッサ積載されていることを知ったのは、今回開口一番に触れられる「最初の対談」の時だった。『スペインの宇宙食』が、いくら閉じたマーケットに向けて書かれたフライヤーの能書きだとしても、個人が書いたものだ。陽性であろうと陰性であろうと、同時代的共感による激しい反応が出ることは自然なことである。その日以来、ワタシは初めてあの本の自己評価に若干の上方修正を加えた。

     作家・エッセイストとしてのよしもとばななさんの知名度や浸透度がワタシを遥かに超えるものであるのは言うまでもないので、よしもとさんに関する紹介文などワタシには書く必要性は愚か、権利すら無いのではないかと思うほどだ。しかし、よしもとさんのアナザーフェイズを、特に狙わずとも自然に引き出せるコンペティションにおいては、同世代の音楽家であるワタシが最低でもファイナリストにはなれる自信に漲っている。バブルさんの思い出話は、日めくりカレンダーのようだったタクシー券や、タダで入れたディスコの話だけではないのである。ダライ・ラマ14世との対談を果たしながら、その印象を「ヤクザみたいだった」と喝破するところからこの対談は始まる。あえて使ったこともない言葉を使うが、癒されたがりの皆さまはともかく、ストリートのヘッズどもよ、よしもとばななを舐めるんじゃねえ。

     

     

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    ├○ 対談メモ

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    ├○ 於)四谷荒木町・山灯

    ├○ 開始時刻) 20141105日午後08

    ├○ 終了時刻) 20141106日午前00

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