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【第157回 直木賞 候補作】『月の満ち欠け』佐藤正午
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【第157回 直木賞 候補作】『月の満ち欠け』佐藤正午

2017-07-10 11:00
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  はやぶさを下車した21番線ホームから、新幹線の改札を経て、その先は道案内の表示板に目を配り、キャリーバッグを転がす旅人やビジネススーツの男女や、外国人観光客らにまじってコンコースをめぐり歩いたすえに、およそ半時間がかりで彼は目的の場所にたどり着いた。
  東京ステーションホテル2F。
  改札出口の丸の内南口と中央口を取り違え、いちど駅舎の外まで出て交番で訊ねたあげくのことだった。風呂敷包みを小脇にかかえたおのぼりさんの応対にあたった警官は、そのホテルはほら、そこだよ、と彼の背後を指さしてみせた。
  東京駅に降り立つまで彼が漠然と思い描いていたのは、指定の時刻よりそこに二十分も早く到着し、ぽつねんと、だが平生の脈拍を保ちつつ、待ち合わせのカフェでコーヒーでも飲んでいる自身の姿だった。白髪まじりの男が、会社の創立記念パーティーなど特別な日のための、取っておきの背広を普段着のように着こなして、ゆったり腕時計に目をやっている。先方はそのような自分を目にするだろう。彼の思惑は完全にはずれた。
  ホテル二階、丸の内南口を左手に見おろせる吹き抜けの回廊を、電話で聞かされていたカフェの立看板の手前まで来たとき、腕時計はぴったり十一時を差していた。
  こちらで指定した時刻が十一時。
  店の案内の人に待ち合わせだと断って中に入れてもらうと、すぐに、先を越されているのがわかった。
  彼女たちはとっくに対面の席を確保していた。店内右手、奥まった場所に設けられた予約席に、壁を背に一組の母娘が隣り合わせにすわっている。彼女たちの向かいの椅子は、ふたつとも空席。
  はずむ息を整える暇もなかった。母親と目が合ったのをきっかけに、彼は空席のひとつへと歩み寄った。
  母親が、娘の肩にそっと手を触れたあと、立って会釈する。
  直前までスマホに顔を伏せていた娘は、脚を組んだまま、現れた男を見上げた。
  どんな目つきで見上げているのかしっかりと見返したい衝動を堪え、彼は母親の正面の席についた。娘の視線は今度は左前方から執拗に迫って来て、彼のそちら側の顔面にねっとりと貼りついたようだった。別に時間に遅れたわけでもないし非難されるいわれなどないのに、彼は挑発の意図を感じ取った。持参した荷物の扱いに迷い、隣の空席に目を向けて、三角くんは?  と問いかけるつもりでいると、三角さんは、とちょうど母親が言う。
  「今朝はどうしてもはずせない会議があるそうなので。先にあたしたちだけで」
  「来ないんですか」
  「いいえ、そうではなくて。はっきりそうおっしゃったわけではありませんが」
  母親は娘を気にする素振りで、あとを喋った。
  「会社を抜け出すといっても、簡単にはいかないのではないでしょうか。ふだんからお忙しくされている方ですし、それに、急なお話でしたから」
  母親の隣で娘が、うん、そのとおり、と言わんばかりに顎の先を二度、喉もとに引きつけてみせる。小さな女の子だ。ランドセルを背負ってちゃんと学校まで歩けるのか? そう心配したくなるほど小柄な小学生だ。
  店の女性がやってきて注文を訊いた。
  彼は三角がすわる予定の椅子に荷物を置いた。
  平たく、角張った荷物だった。祝い事の引き出物に使われる淡いピンクの風呂敷で包んである。結び目を上にしてシートに寝かせると、メニューをひらくまでもなく、
  「コーヒーを」と店員に伝えた。
  するとその声にかぶせるように娘が口をはさんだ。どら焼きが美味しいんだよ、と聞き取れた。
  「煎茶とどら焼きのセットにすればいいのに」
  娘はすまして意見し、彼の視線を捉えた。
  「どら焼き、嫌いじゃないもんね。あたし、見たことあるし、食べてるとこ。一緒に食べたことがあるね、家族三人で」
  店員をふくめ、大人たちが息を吞む間があった。
  握っていたスマホを娘がテーブルのはしに置いた。店内に流れているBGMが初めて彼の耳に入ってきた。煎茶とどら焼きのセットを出す店にしては、斬新な選曲だと彼には思えた。
  その直後、現実に流れた時間よりも何倍も長く、娘のいまの発言の意味を吟味していたかのように、
  「……あっ、えっと」母親が我に返り、うろたえた声をあげた。
  「コーヒーを」彼は店員に注文を伝え直した。
  「ちゃんとした紹介もまだなのに、申し訳ありません。この子、るりです、娘の」
  聞いていたとおり、そして想像していたとおり、利発そうな顔をした娘だ。モダンジャズのBGMに耳を留めながら、彼はそんなふうに思った。七歳の小学生にしては、椅子で脚を組んで上体が前のめりになったその姿勢は大人の女じみているが、顔つきはどこにでもいる子供、声変わりもすんでいない子供だ。好奇心を満々に湛えた、はしこい目の表情をしている。そのふたつの瞳で、臆することなく彼を見据える。
  「るり、小山内さんにご挨拶を」と母親がせかす。
  「こんにちは」ませた小学生が言った。「今日はお会いできて嬉しいです、小山内さん」
  小山内堅、それが彼のフルネームである。娘の形良く角度をつけて組まれた両脚、ワンピースの裾から覗いたふたつの膝小僧をテーブル越しに見下ろして、彼は黙っていた。
  「来てくれてありがとう。ほんとに、心から嬉しいです、あたしとしては」
  そう言ったあと脚を組み替えたので、小山内は視線を泳がせた。
  相手がくすくす笑い始めた。
  「小山内さん、こっちをよく見て。あなたが混乱しているのは、それは、あたしだってわかってるんだよ。でも、今日東京まで出て来てくれたのは、あたしに会うためでしょう? いろんなことを考えた結果、自分で決めたことなんでしょう? なんでいまさら、びくびくするの?」
  「るり」母親が娘をたしなめて、小山内を見た。「ほんとにごめんなさい、生意気な口をきいて」
  そこへ白シャツに黒いエプロン掛けの店員がふたたび現れた。
  小山内の注文したコーヒーは、木製のランチョンマット、つまり身も蓋もなく言えば四角い板の上に供された。テーブル各席にその板が配置してある。母親と娘の前にもある。いま小山内の板上に並んだのは、コーヒーの満たされた陶器のカップと揃いの受け皿、ビニールの袋入りの紙おしぼり、お冷やのグラス、それから、硝子の小ぶりな容器に四分目ほどのミルク。
  「コーヒーはブラックで」すかさず娘が言う。
  店員にためらいが見えたので、小山内は笑顔を向け、首を振ってみせた。店員は母親の横顔を一瞥したのち、退がった。
  小山内は焦らなかった。
  二個の角砂糖とともに、ミルク入れから半分の量をカップの中に垂らしてかきまぜると、一口、そして二口、できうるかぎり悠然とした態度で飲んだ。
  そうした態度をとれたことに自分でも満足がいった。このような事態に直面する可能性は、ゆうべ寝床でも、今朝はやぶさの車中でも、じゅうぶん予測がついていた。どら焼きの発言にしろ、このコーヒーの一件にしろ、たかが知れている。
  「そういうことかあ」小柄な少女があっけらかんと言う。「年取って好みが変わっちゃったんだ? ね、小山内さん、六十過ぎまで長生きすると、人の好みって変わるもの?」
  「るり、大人の人にそんな失礼な言い方、やめなさい」
  「いいんです」小山内は母親に向かって喋った。「お嬢さんの言うとおり、確かに昔、コーヒーはブラックで飲んでいたんですよ。十五年ほど前には、確かに」
  「ほらね」少女は舌を出してみせる。
  「それで、どうします」小山内はかまわず母親に訊ねた。「三角くんが来る前に、とりあえず用件を片づけてしまってもかまいませんか」
  用件、の一言で意味は通じていたが、小山内はかたわらの風呂敷包みに手を添えた。
  母親が娘のほうを向き、無言で首を傾ける。
  そのとき、いっぺんに子供の瞳に生気が漲るのを見たように小山内は思った。単純に好奇心と呼べる代物ではなかった。大人の女性の分別が同時に顔を覗かせ、むきだしの執着心を抑えようとしていた。およそ年齢とは不釣り合いの、思慮深い目。そのようにも感じ取れたが、しかしそれはほんの一瞬で、目の前の娘はじきに無邪気な子供の顔に戻っていた。気の迷いだ、彼はできればそう思いたかった。
  娘は組んでいた脚をはずして、小山内のほうへ、利き手のほうの腕をいっぱいに伸ばしてきた。小山内は迷った。だが結局、その小さなてのひらを無視して、遠く八戸から持ち運んできた荷物をそばに引き寄せると、みずからの手で風呂敷の結び目をほどきにかかった。
  「あたしのだよ」すかさず不満が洩れる。
  これっぽっちも悪びれたところのない声で、見知らぬ少女が平然と所有権を主張する。
  この期におよんで挑発に乗るべきではないだろう。ほんの僅かでもむきになってしまえば、初対面の少女のペースに吞み込まれ自分を見失うだけだ、そうとわかってはいても、この瞬間、黙っていることは難しかった。
  まずいと思ったときにはもう、言葉が小山内の口をついて出ていた。
  「違うよ、お嬢ちゃん」
  「えっ?」左手を差し出したまま少女が驚いた。「違うって?」
  「きみのものじゃない。これは、僕の娘のものだ」
  「だから、はじめっからそう言ってるじゃん。ぜんぶ聞いたでしょ、ママから?」
  ママと呼ばれた女のほうへ小山内は視線を振った。母親は申し訳なさそうに、微かにうなずいただけで、発言は控えた。
  「知ってるんだよ、あたしは」代わりに娘が言った。「それが誰のものなのか、そんなことは知ってるし、昔あったことも、たいてい知ってるの。小山内さんよりもよっぽどあたしのほうが知ってる。だって、あたしは」
  その先にどんな言葉が続くか小山内には予測できたし、娘の口からじかに聞きたくもなかった。
  「確かに昔、コーヒーはブラックだった」と彼は言った。
  「そうだよ。だから?」
  「だからじゃなくて、でも、だ」
  「なによ、でもって」
  「でも、どら焼きのはったりはきかない」
  「はったり?」
  「お嬢ちゃん、僕は、きみの見てる前でどら焼きを食べたことなどない。そんな記憶はない。そう言ってるんだ」
  「ああ、その話。そんなことない、あるよ、忘れちゃった?」
  「忘れてなんかいない」
  「自分の家族のことだよ。三人で食べたんだよ」
  「そうだよ、自分の家族のことなんだ。お嬢ちゃん、僕が自分の家族のことを忘れるわけがないだろう?」
  「あ、ほんとは忘れてるんだ」
  「忘れてないと言ってるだろう」小山内はむきになった。
  「絶対忘れてる。でなきゃ、噓ついてる。そっちのほうこそ、はったりかましてる。そんな手にあたしは引っかからないから。どら焼き、絶対食べたもん」
  「そんなもの、食べた憶えはない」
  「もう。なんで噓を言い張るの」
  「噓じゃない」
  「絶対?」
  「ああ」
  「ほんとに絶対? 小山内さん、年取ってモーロクしてるくせに、言い切れる?」
  るりという名の娘に睨みつけるように挑まれて、小山内は返す言葉をなくした。
  いったい、これはなんだ。家族三人でどら焼きを食べたことを忘れていようと、たとえいまも憶えていようとそれがどうしたというのか。どら焼きを誰といつ食べたか、そんな日常の些細な一コマを人は憶えているのか。だったら家族で囲んだ鍋のこと、その一夜の光景を人はいつまでも憶えていられるか。喉に刺さった魚の小骨のことや、芝海老の搔き揚げで舌が傷ついたこと、ミートソースの跳ね染みで服を汚したこと、それがいついつの出来事だったと人は記念日のようにずっと忘れずにいられるのか。
  ふたりの口論に、母親は脇で聞き入っていた。背筋をしゃんと伸ばして、興味のつきない目で彼らを見守っていた。
  その母親の姿勢の良さに小山内は気づいた。
  気づいてみると、彼女の真面目くさった顔も、彼女の背中の描く美しい曲線も疎ましかった。小山内の口からため息が洩れた。


※7月19日(水)18時~生放送
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mmm
44ヶ月前
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