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【第160回 直木賞 候補作】森見登美彦「熱帯」
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【第160回 直木賞 候補作】森見登美彦「熱帯」

2019-01-08 12:00
    第一章 沈黙読書会

     汝にかかわりなきことを語るなかれ
     しからずんば汝は好まざることを聞くならん

          ○

     この夏、私は奈良の自宅でそこそこ懊悩していた。
     次にどんな小説を書くべきか分からなかったのである。
     奈良における私の平均的な一日はじつに淡々としている。朝七時半に起きて、ベランダから奈良盆地を見まわして朝日に挨拶、ベーコンエッグを食べ、午前九時から机に向かう。午後一時に執筆を切り上げ、昼食を取って少し休憩、夕方からふたたび机に向かって執筆以外の雑用や読書。午後七時になったら妻といっしょに夕食を取る。そして日記を書き、風呂に入り、グータラして寝る。執筆がうまくいっているなら何も言うことはない。
     しかし書けないときには社会的に「無」に等しい。路傍の石ころ未満である。
     あまりにも書けない日々が続くので、しばしば私はロビンソン・クルーソーの身の上に思いを馳せた。あたかも難破して流れついた無人島で、通りかかる船を空しく待っているかのようであった。あをによし奈良の四季がうつろうにつれて、貴重な人生の時間は空費されていく。手をこまねいていたらアッという間におじいさんである。確実におばあさん化しているであろう妻と縁側で日なたぼっこである。それならそれで悪くない。
     そろそろ白旗を上げようかと私は思っていた。
     このような小説家的停滞期にあっては、クソマジメに「小説」なんて読む気になれないものである。重厚な社会的テーマとか、奥行きのある人間ドラマとか、とてもついていけない。机に向かうのもイヤになった私は万年床に寝転がって、『古典落語』を読んだり、『聊斎志異』を読んだり、『奇談異聞辞典』を読んで暮らした。それらもあらかた読み終わって、最後に取りかかった巨大な作品群が『千一夜物語』であった。
     しかし人生、何が起こるか分からない。
     その出会いが私を不思議な冒険へ連れだしたのである。

          ○

    『千一夜物語』は次のように始まる。
     その昔、ペルシアにシャハリヤール王という王様がいた。あるきっかけで妻の不貞を知った王様はエゲツナイ女性不信に陥り、夜ごとひとりの処女を連れてこさせては純潔を奪い、翌朝にはその首を刎ねるようになった。そんな怖ろしい所業を見かねて立ち上がったのが大臣の娘シャハラザードである。彼女は父親の反対を押し切ってみずから王のもとに侍り、不思議な物語を語り始める。しかし夜が明けるとシャハラザードは物語を途中で止めてしまうので、その続きが知りたいシャハリヤール王は彼女の首を刎ねることができない。このようにしてシャハラザードは夜ごとの命をつなぎ、我が身と国民を救おうというのである。
     これがいわゆる「枠物語」というもので、『千一夜物語』に収められた膨大な物語のほとんどは、シャハラザードがシャハリヤール王に語ったものとして語られる。シャハラザードの語る物語の中に登場する人物がさらに物語を語ったりするため、いわば物語のマトリョーシカみたいな状況が次々と発生していく。物語そのものも奇想天外で面白いが、この複雑怪奇な構成も『千一夜物語』の醍醐味といえるだろう。
     岩波書店のハードカバー版『完訳 千一夜物語』全十三巻。
     その第一巻のはじまり、ともにシャハリヤール王のもとに侍ることになった妹のドニアザードが、あらかじめ打ち合わせていたとおり、姉に「寝物語」をせがむ。
     するとシャハラザードは次のように言う。
    「当然のお務めとして喜んで、お話をいたしましょう。ただし、このいとも立派な、いとも都雅(みやび)な、王様のお許しがありますれば!」
     ちょうど不眠に悩んでいたこともあって、シャハリヤール王は悦んでシャハラザードに物語ることを許すのである。かくしてシャハラザードは第一夜の物語を語りだす。
     挿絵に飾られた扉頁には次のように記されている。

    「千一夜 ここに始まる」

     まるで巨大な門の開く音が聞こえてくるかのようだ。
     この夏に私が読んでいたのは、ジョゼフ・シャルル・ヴィクトル・マルドリュスという人物がアラビア語からフランス語に翻訳したものを日本語へ重訳したものである。
     この「マルドリュス版」は原典の姿を正しく伝えているかという点では疑問符がつくらしい。しかし読み物としてはやっぱり面白い。
     そもそも『千一夜物語』は、東洋と西洋にまたがって偽写本や恣意的な翻訳が入り乱れる、まるでそれ自体が物語であるかのような、奇々怪々の成立史を持つ。その胡散臭さも『千一夜物語』の魅力である。詳しく知りたい読者は信頼のおける参考書を紐解いていただきたい。ようするに、この物語の本当の姿を知る者はひとりもいないのだ。
    『千一夜物語』は謎の本なのである。

          ○

     七月末の昼下がり、私は書斎を出て万年床にバタンと倒れ伏した。
     あいかわらず次作の構想は暗礁に乗り上げ、にっちもさっちもいかなかった。いっそのこと、この暗礁に居心地の良い家を建てて暮らそうと私は思い始めた。小さな庭に林檎の木を植え、かわいい柴犬を飼って「小梅」と名づけよう。そして妻を讃える歌を歌いながら、『千一夜物語』を読み返して余生を過ごすとしよう。
     そんなふうに隠居生活の設計に余念のない私のかたわらでは、妻が賛美歌を歌いながらちくちくと洗濯物を畳んでいた。枕元に投げだした『千一夜物語』はようやく五百夜を過ぎたところであった。読んでも読んでも終わらないのである。
     やがて私は天井を見ながら呟いた。
    「どうやら私は小説家として終わったようだ」
    「終わりましたか?」と妻が言った。
    「終わった。もう駄目だ!」
    「急いで決めなくてもいいと思いますけど」
    「たしかにわざわざ宣言するほどのことでもない。書かない小説家のことなんて、世間の人々は自然に忘れていくであろう。そして世間の人々もまた同じように忘れられていくし、近代文明は暴走の挙げ句に壊滅するし、いずれ人類は宇宙の藻屑と消える。だとすれば目先の締切に何の意味がある?」
     悲観的になると私は宇宙的立脚点から締切の存在意義を否定しがちである。
    「そんなに悲観しなくても……。果報は寝て待てというでしょう?」
     私は妻の意見を重んじる男だ。「それも一理ある」と思ってごろごろしながら果報を待っていると、洗濯物を畳み終えた妻が『千一夜物語』を指さして言った。
    「それはようするにどんなお話?」
     じつにむずかしい質問であった。
    「美女がたくさん出てくる」
    「おやまあ、美女が? それはステキ」
    「もちろん美女だけではなくて魔神も出てくる。王様や王子様や大臣や奴隷や意地悪な婆さんも……。次から次へと読んでいると些細なことなんてどうでもよくなって、脳味噌を洗濯したような気分になるんだよ。それにしてもシャハラザードはすごい。よくこんなにえんえんと語れるもんだ」
    「よっぽど賢い女性だったんでしょうね」
    「それにしても不思議な本だなあ、これは。謎の本だ」
     しばらくすると妻は洗濯物を抱えて立ち上がった。
    「いったん休んでごはんでも食べたらどうでしょう?」
     台所へ行ってみると、昨夜の残りのポトフがあった。甘い小さなカブやソーセージ、ニンジンの切れ端が見えるが、残りはほとんどジャガイモであった。
    「これではポトフではなくてポテトフだな」
     私の住まいは奈良某所高台のマンションにあって、ベランダに面したガラス戸からは奈良盆地を見渡すことができる。私はポテトフを食べながら夏の奈良盆地をぼんやり眺めた。こってりとしたクリームのような入道雲が青い空に浮かび、遠方の山々は未知の大陸のように霞んでいる。眼下の街に散らばる濃緑の森や丘は、南洋に浮かぶ島々のようだった。
     こんな風景を他の場所で見たような気がすると私は思った。ぼんやりしているといろいろなイメージが浮かんできた。それは少年時代に家族で出かけたキャンプの思い出だったり、デフォーの『ロビンソン・クルーソー』だったり、スティーヴンソンの『宝島』だったり、ジュール・ヴェルヌの『神秘の島』だったりした。しかし何か肝心なことがひとつ思いだせない。それは先ほどの妻との会話に関係しているような気がする。
     私は台所で林檎を剝いている妻に声をかけた。
    「さっき何の話をしていたっけ?」
    「引退の話?」
    「そうじゃなくて……」
    「千一夜物語? シャハラザード? 謎の本?」
     私はスプーンの手を止めて考えこんだ。
     謎の本、という言葉が私の脳味噌をちくちく刺した。
     私が「熱帯」と呟くと、妻が怪訝そうな顔をした。
    「熱帯?」
    「そうだよ、『熱帯』だ。思いだした」
     それは私が京都に暮らしていた学生時代、たまたま岡崎近くの古書店で見つけた一冊の小説であった。一九八二年の出版、作者は佐山尚一という人物だった。『千一夜物語』が謎の本であるとすれば、『熱帯』もまた謎の本なのである。


    ※1月16日(水)17時~生放送
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