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【第152回 直木賞 候補作】 『鬼はもとより』青山文平
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【第152回 直木賞 候補作】 『鬼はもとより』青山文平

2015-01-07 11:55
    「こう言っちゃ、なんでござんすが……」
     と、下っ引きは言った。
    「こんなもんが、ほんとうに商いになるんですかい」
     目は、広めの坪庭に並んだ万年青の鉢に注がれている。
    「俺は安く値付けしているからな」
     奥脇抄一郎は答えた。
    「客はけっこう付いている」
     時は宝暦八一七五八年、十月半ばのよく晴れた日の午近く。場処は聖天様に近い、浅草山川町の裏店である。元々、小塚原に移るまで刑場のあった土地で、界隈の街並みが、江戸のどん詰まりだった頃を覚えている。
     隅田川に貼り付く最寄りの今戸町には瓦を焼く達磨窯が寄せ集まって、東の風が吹けば、示し合わせたように黒い煙が襲ってくる。ほど近くの吉原へ通う客のあらかたが、目の前の日本堤を行かずに山谷堀の舟を使うのは、土手下に隠れた追ぎが珍しくもないからだ。
     そんな吹き溜まりのような土地だけあって、誰もそこを御府内とは思っちゃいない。けれど、土地の名にはしっかりと江戸の町名がつく。将軍様の御膝元ならではの町の縛りはきっちりと効いていて、得体の知れない浪人が暮らしているとなれば、すぐに御番所の手下の者が探りを入れに来る。
     それも、長屋を借りるときだけでなく、町役人の顔ぶれが替わったりするたびに、向こうの勝手でやって来るから始末がわるい。
    「安いってのは、いかほどで」
    「お前の目の前の鉢が、いちばん安くて二分だ」
    「二分?」
     驚いた目には、二分あれば蕎麦が二百杯喰えると書いてある。
    「高いか」
    「こいつがねえ」
     今日の下っ引きは、初めて見る顔だ。ひと通り、語らねばならんのだろうと、抄一郎は腹を据えた。朝、飯を炊きそびれ、聖天様の門前まで、朝午兼ねての茶飯でも喰いに出ようとしていたのだが、ま、仕方がない。
    「万年青は金成木だ。ほんとうなら安くて二両はする」
    「へえ!」
     そこいらの土手に生えている草のような万年青が、銭では買えない値が付くことが信じられないようだ。このあたりの住人は、小判はおろか、一分判や丁銀だって見たことがない。日々をいでいくなら、金はすべて銅銭で事足りる。
    「いまをること百六十年前の……」
     ふっ切れていない様子を認めた抄一郎はいつもの手を繰り出す。
    「天正十八一五九〇年、八月一日。東照神君様が初めてこの江戸に入府された折り、ふた鉢の万年青を携えてこられたのを存じておるか」
    「いえ、そうなんで」
     ゆっくりとだがしっかりと、目の色が変わっていく。手っ取り早く承知してもらうには、やはり、御威光というやつが効く。抄一郎のように曰く言いがたい御勤めを生業にしている者は、分かりやすさの大事さが骨身に染みている。
    「そのときの鉢と同じ万年青が、いまお前が見ている『永島』だ。ふつうは『永島』の贔屓が集まった『連』だけで囲い込んで育てているから滅法高い。門外不出というわけだ。俺はそいつが野山に流れた株を見つけて自分で育てる。で、安く分けられる」
    「さいですか」
     案の定、下っ引きは喰いついてきた。抄一郎が決まり文句を口にすると、たいていの者は、そういうことなら自分でもひとけできるかもしれないという顔になる。
    「で、旦那はどこでその株ってやつを探してこられるんで?」
     そう来れば、もう手の内に入ったようなものだ。
    「教えるわけがなかろう」
     ここぞとばかり、抄一郎は啖呵を切る。
    「そいつは俺の命綱だぞ。人に明かすはずがあるまい」
    「そりゃ、もっともだ」
     ばつがわるそうな顔つきを浮かべた下っ引きに、抄一郎はとどめを刺す。
    「ひと鉢、持っていくか」
    「よろしいんで」
     みるみる顔に喜色が差す。
    「荷物になるのが億劫じゃなきゃあ、持って帰ってくれ」
    「そんじゃ、ひとつ、お言葉に甘えさせていただいて」
     いつものとおり、今日の下っ引きも笑顔を浮かべて帰っていく。客筋をんでいなければ、そうは売れるものではないが、もしも近くに好事の大家でもいれば、抄一郎の言った値で捌くのは難しくなかろう。
     下っ引きの背中が裏店の中庭から消えるのを見届けた抄一郎は、ふーと息をつきながら、“万年青商いを分からせるのも大儀だが”と思った。“そうは言っても、傘貼りというわけにもゆくまい”。
     傘貼りで喰いいでいると言えば、話は通りやすい。その代わり、日がな一日、傘を貼り続けていないと、すぐにばれてしまう。
     金魚を育てている、なんて造り話にしてもそうだ。金魚を扱うとなると、仕掛けはたいそうなものになるし、付きっ切りで世話も焼かなければならない。
     下っ引きがやってくるたびに、もっと簡単に済む言い訳はないものかと思案するのだが、結局、万年青商いしかないという、いつもの結論に行き着く。
     万年青は元々、林の樹々の陰に葉を伸ばす。だから、裏店の坪庭に届く弱々しい光でも生きていくことができるし、金魚のように世話を求めることもない。適宜、水をやって、春秋の彼岸の年二回、株分けの真似事をすれば十分だ。
     一鉢の値が張る上に、客筋は高禄の武家か大店の好事家と決まっているから、繁く売り歩く必要がないのも具合がいい。そして、なによりも、江戸に出たての頃、抄一郎はほんとうに万年青商いで凌いでいた。
     それやこれやで、己の使う時間をたっぷり取るための言い訳を探そうとすると、やはり、万年青商いということになる。たしかに、ふたことみことで相手を得心させるのは難しいが、それでも、抄一郎のほんとうの生業を伝える苦労と比べれば楽なものだ。
     もしも、この裏店の住人たちに本業を説いたとしたら、一刻かけたって分かってはもらえまいと思いつつ、抄一郎は今度こそ茶飯屋へ向かおうとした。
     と、そのとき、裏店の入り口に深井藤兵衛が姿を現わした。家禄三百石のれっきとした旗本だが、無役の小普請で、縁あって、本業の仲介を頼んでいる。
     客からの注文は、いったん藤兵衛のところへ寄せられてから、抄一郎に持ち込まれる。
     抄一郎の本業は、浪人が直に請けるよりも、旗本にあいだに入ってもらったほうが、前へ進めやすい。
    「よっ、いい陽気だな」
     藤兵衛は笑顔で近づいてくる。抄一郎は、どういう風の吹き回しだろうと訝る。仲介役とはいえ、藤兵衛自ら山川町まで出張ってくることは滅多にない。いつもなら、ぎには遣いの者を寄越す。あるいは、吉原の午見世にでも繰り出すついでなのだろうか。なにしろ、藤兵衛は無類の女好きだ。
    「万年青の注文、伝えに来たぜ」
     女に限らず、藤兵衛は欲が深い。小普請の独り身で、時間があり余っているのをいいことに、武家でありながら諸々のけ話に絡んでいる。
     なのに、その笑いには邪気がない。齢はひと回りも上の四十四で、小柄な上に小肥りである。顔も本人が「唐茄子顔」と語るように、お世辞にも見栄えがするとは言えないが、なんとも人好きがする。どんな人の輪のなかに分け入っても、周りを身構えさせることがない。
     とはいえ、やはり、旗本は旗本だ。さすがに、江戸のどん詰まりの裏店に立てば、溶け込むというわけにはいかない。井戸端で洗い物をする女房たちの目が、一斉に藤兵衛に向いた。
    「茶飯でもいかがですか」
     抄一郎は慌てて進み出て藤兵衛を迎え、外へ連れ出そうとする。藤兵衛はどこの女だろうと見境がない。
    「おっ、いいねえ。ちょうど、ここまで歩いてきて、腹がいい具合になってきたところだ」
     藤兵衛はまた目尻に皺をつくる。凄腕の商売人でもあるこの旗本は、己の笑顔の効き目を知っている。
    「しかし、けっこう、いい女がいるもんだねえ」
     通りに出て、肩を並べて歩き出すと、藤兵衛は感に堪えかねたように唇を動かした。
    「なんのことですか」
    「いや、あの女房たちさ。浅草山川町の裏店を、みくびっちゃあいけねえな」
    「そうですか」
     案の定だ。
    「一度、是非、顔をいでもらいてえもんだ」
    「自分には無理です」
     あながち、座興とも思えない。
    「少なくとも三人は、奥脇に気があったぜ。あれは惚れてる顔だ。奥脇の言うことなら喜んで聞くさ」
    「そんな与太を、言いにいらしたわけじゃありませんよね」
    「そうだったな」
     ようやく藤兵衛は本題を切り出す。
    「また、引き合いが来たぜ。よくも、まあ、続くもんだ」
     周りに、すっと目を巡らせてから、続けた。
    「詳しいこたあ後で話すが、西国にある藩の江戸屋敷からの注文だ。そこそこの家筋だぜ。五日後の朝四つ午前十時に俺の屋敷で会いてえってことで、奥脇の段取りを見たら空いてたから、承知しといた。それで、いいな」
    「けっこうです」
    「当日、やって来るのは、江戸家老だってよ」
     御勤めを重ねるに連れて、相対する者の御役目が上がってきている。勘定掛から御金奉行へ、留守居役へ、そして、とうとう今回は江戸家老がお出ましになるらしい。
    「最初に奥脇から話を持ちかけられたときゃあ、そんなべらぼうな話がまっこと商いになるのか眉に唾だったが、こう度重なりゃあ、もう本物だって認めざるをえねえ。いや、てえしたもんだ。降参だわね」
     その横顔から笑みは消えているが、人好きのよさは変わらない。
    「でだ。こうなったからには、ただの取り次ぎじゃあ、俺もちっとおもしろかねえ。ひとつ本腰を入れて奥脇の御勤めに絡んで、けさせてもらおうと思ってな。それで、こうして出張ってきたってわけよ」
     け話となると、藤兵衛はよけいな回り道はしない。いつも、正面からすっと相手の懐に入る。そのけれんみのなさがまた心地よく、そういうことかと、抄一郎は思うことができた。
    「ついちゃあ、みっちり話をさせてもらわなきゃあなんねえ。そこいらの茶飯屋でってのもなんだから、これから吉原の引手茶屋にでも繰り出して、じっくりと話を詰めねえかい」
    「それは、話を終えた後で、お一人で行っていただければ」
     にべもなく、抄一郎は答える。
    「分かってるよお」
     藤兵衛は顔を崩して言った。
    「奥脇の女嫌いはな。言ってみただけさ。なぜか、奥脇の顔を見てると、分かってても言いたくなっちまうんだ」
     くっくと、藤兵衛は笑う。からかわれているのが分かっていても、相手が藤兵衛だと腹が立たない。
    「女嫌いだけじゃねえ。奥脇がただの金けでこんな御勤めをしてるわけじゃねえってことも分かってるさ。あの、どうにも安い指南料を見ればな」
    「けっして安くはありませんよ」
    「俺から見りゃあ、いけすかねえほど安いさ。善人ぶりゃあがってって、化けの皮をがしたくなるくれえだ。なにしろ、潰れかけた藩を救ってやるんだぜ。いまの百倍、千倍取ったっていい」
    「まだ救えたわけではありません」
     そのつもりで、御勤めに向き合ってはいる。成果も出てきた。けれど、まだ、痛んだ藩の内証を、大元から立て直すのに成功したわけではない。そうできるように努めているところだが、まだ燭光は見えず、霧中にいる。
    「奥脇ならできるさ」
     いかにも、どうということもないように、藤兵衛は言う。
    「藩の御主法替えといやあ、決まって儒者がしゃしゃり出てきて、小理屈を並べる。でも、奥脇はそうじゃねえ。どうしようもねえ藩の金蔵に、まともに目を向けて処方を書く」
     ふっと息をついてから続けた。
    「それも、なんと紙に刷る金で、内証を立て直すと見栄切った。儒者は掃いて捨てるほどいるが、藩札なんて途方もねえもんの万指南を生業とする者など、この宝暦の世にも奥脇のほかにはいねえ。それがどんなに得がたいことかは、引きも切らねえ諸国の客が証明している。奥脇ならできる。紙の金を使って、いろんな国の金蔵をいっぱいにして、俺にたっぷりと金けをさせてくれるさ」
     そうであればいいと、抄一郎は思う。
     そうでなければ、なんのために国を欠け落ちて、江戸へ出て来たのか分からない。
     それよりなにより、自分の生まれ育った国が、壊れた甲斐がなくなってしまう。
     国は藩札で息を吹き返しかけ、そして藩札で崩れ去った。
     なんで、崩壊を阻めなかったのか、どこをしくじらなければ心から強い国にできたのか、せめて、その答にり着かねば、国とて成仏できまい。
     八年前の寛延三一七五〇年の頃、奥脇抄一郎はまだ、どこにでもいるような、取るに足らない武家だった。
     慶長の世からは百五十年ほどが経って、抄一郎が禄を食む国も含めて、どの国の内証も急速に傾きかけていた。にもかかわらず、あらかたの藩士と同様に、その現実と向き合おうともせず、武家という磨り減った突っ支い棒にただ凭れかかっていた。
     当時の御役目は上級藩士の惣領が集まる御馬廻りで、御藩主を間近でお護りする最も大事な御勤めとはされているものの、もはや御藩主の命を狙う敵軍などあろうはずもない。実際にやることといえば、月に五、六日、御城へ上がり、控えの間でひたすら時をやり過ごすだけだ。二十四歳の抄一郎にとっては退屈この上なく、非番になると、籠った時間の埋め合わせをするかのように、競って女遊びに精を出した。抄一郎は女嫌いどころか、名うての女誑しだった。
     十二から始めた梶原派一刀流も、さほどの苦労をすることもなく取立免状まで進んで、いつしか中弛んでいた。免許皆伝よりはまだ二段手前の取立免状だが、一刀流系の段位は八段ある。下から数えれば六段目で、指南役に準じる。剣で身を立てようとでもしない限り、天井とも言え、敢えてその先に踏み入るかとなると、二の足を踏んだ。
     藩は武芸第一を繰り返していたが、それは内証が厳しい藩の常道で、武芸奨励には金がかからないからだ。おまけに、稽古で余計な力を使い果たせば、若さゆえの跳ね返りも防ぐことができる。誰もがそれを分かっているから、笛が吹かれても踊る者は稀で、けっして剣が嫌いではない抄一郎も、周りの空気と無縁ではいられなかった。
     それでも、その先への路を閉ざしたわけではなかったが、誘われて女へ目を向けてみれば、武芸の路などすぐに霞んだ。二十代の半ば近くまで、もっぱら稽古着に滲み込んだ汗の臭いにばかり馴染んできたは、いったん脂粉の匂いを知ると、もうひとたまりもなく溶けた。


    ※冒頭部分を抜粋。続きは以下書籍にてご覧ください。


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