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そこに、いない
その日も、いつもとなんら変わらない日だった。学校は、相変わらず残酷なところだ。
さっきまで受けていた生物学の授業では、また、ジョンという線の細い、透明の影を持った白人の男の子が突然泣き出して、テーブルの下に隠れた。それで床に倒れるようにして寝転がり、仰向けの体勢で、駄々をこねる赤ん坊みたいに泣き叫びながら床をばんばん叩いていた。前にもそんなことがあった。ジョンは突然、泣き出す子だった。彼の感受性は、普通の人よりもうんと高いのだ。だからその時は、教科書に載っていたウサギの解剖図でも見てしまって傷付いたのかもしれない。もしかしたらジョンは、世界一優しい子なのかもしれなかった。
だけど学校ってのは本当に残酷なところだ。いや、学校というよりは、この世界なのだと思うけど、授業はこの世界と同じように止まることなく進んだ。まるで、ジョンなんて存在していないように。
あれほど泣き叫んでいるのに、誰の耳にも届いていなかった。うちの学校に勉強熱心な生徒はいないはずだが、その時は皆して、教科書に嚙み付くような姿勢だった。でも、興味を持って見ている訳じゃないのは丸分かりだったのだから、本当に異様な光景だった。まるで今朝、そうやって寝違えてしまったんだ、とでもいうような顔をしていた│その時、教室にいた全員が、だ。
ジョンがそういう子だってのは、学校中の人間が知っていた。だけど、それでもジョンと必ず同じテーブルに座ってしまう子たちがいた。そういう子たちは、ジョンが泣き叫んだ時に気が付いた│「そこに、いたのね」と。
授業が始まるより先に同じテーブルに座っていたのに、まるでジョンがテレポートでも使って、突然そこに現れたんだ、とでも言い出しそうな感じだった。
もの凄く嫌な目をしていた。感染率が非常に高い細菌でも見るような目だ。それに触れたら、触れた所の指が腫れて痒くなって、その日一日はとてもじゃないけどいい気分じゃ過ごせないだろうねって、どの目もそう言っていた。それでも別に席を移動する訳じゃない。移動してもしなくても、もう同じことだった。教室中が感染したような雰囲気だったからだ。
不思議なんだ。教室にはせいぜい二〇人程度しかいないはずなのに、私もジョンが泣き出して初めてそこにジョンがいたんだって気付く時がある。ジョンは泣いていない間は世界一、いや、宇宙一上手に姿を消すことが出来た。隠れんぼなんてやらせたら、毎回優勝するどころか、ジョンがまだ何処かに隠れていることも忘れて皆は先に家に帰るのだろうな。次の日になったって、気付く人間がいるとは思えない。
学校のほとんどの人間は、廊下を歩いているジョンを見たことがないと言った。私もこの学校に転校してきて一年半経つけど、ジョンが教室以外にいるところを見かけたことはない。教室に入って来るジョンの姿だって見たことがない。ジョンは気が付くと、どこかの椅子に透明の影を落としていた。
唯一先生だけは、何度かジョンのことを見た。あれだけ泣き叫んでいるのだから、一度も目をやらない方がもちろん可笑しな話なのだけど。でも、一度もジョンに視線を送らない生徒だっていた。特に、男の子たちはそうだった。見るだけで病気がうつるとでも思っているのかもしれない。
とにかくだ。先生は何度かジョンを見た。私はその時の先生の顔を、たまたま見てしまった。本当に、最悪な気分になった。まるでシーツに棲み付いた忌々しいダニでも見るような目だった。それで、自分の息子じゃなくて良かった、と言わんばかりに外方を向いて、他の生徒たちと同じように、ジョンがその教室にいないことにした。
そうして授業は進んだ。ジョンはより一層、声を上げて泣いた。その時、世界は失笑した。ジョンは、もっと泣き叫んだ。反対側の州で、ブッシュ大統領がより多くの軍をイラクへ送った。ジョンはもっともっと泣き叫んだ。同時期、私の英雄マイケル・ジャクソンが、性的虐待の容疑で逮捕された。ジョンは悲鳴をあげて地面を割るように叩いた。それでも変わらず、フンコロガシは糞を転がし続けた。本当に、この世界は素晴らしい所だよ。
ジョンは暴れに暴れ、地響きを立て、いつかそこには地球の割れ目が出来てしまうのではないかと思った。だけど、ジョンはそんな偉業を成し遂げることなく、一〇分ほど経つとすっかり泣き止んだ。無視された事実をかき消すように、まるで最初から泣いていなかったような素振りで、ぱらぱらと教科書をめくった。ジョンは最後にもう一度だけ、ウサギの解剖図を眺めた。もう泣きはしなかった。私は、同情した。ジョンから視線を逸らして、退屈な時間が早く過ぎてしまうように時計を眺めた。
※7月19日18時~生放送