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記事 4件
  • 六代目山口組・高山清司若頭「京都恐喝事件」結審 《通信時報 Vol.1-3》

    2013-01-27 23:35  
    110pt
    求刑十年、どうする山口組 六代目山口組・高山清司若頭「京都恐喝事件」結審 〜恐喝事件の矛盾を暴く!〜
    ※システムの制約上使用できない文字があります。
     六代目山口組の高山清司若頭(二代目弘道会会長)(※高は上の口がはしご。以下同じ)の裁判の行方が注目を集めている。  高山若頭は平成二十二年十一月十八日、京都の建設業者U氏から計四千万円を脅し取ったとして、恐喝容疑で逮捕され、同年十二月八日に起訴された。この時期、警察当局は、司忍六代目の出所・現場復帰(二十三年四月)を前に、山口組に対する頂上作戦、そして司六代目の出身母体で、高山若頭が会長として率い、山口組の中核組織である二代目弘道会に対する〈壊滅作戦〉を展開しており、高山若頭の逮捕は「国策」であった。  十一月十二日には検察が異例の懲役十年を求刑、十一月十九日には最終弁論が京都地裁で行われた。
     この恐喝事件は、高山若頭が、二代目弘道会舎弟頭補佐から平成二十一年に山口組直参に昇格した高山誠賢・淡海一家総長、同一家の西田幸市幹部、企業舎弟とされるH氏らと共謀し、U氏から三回にわたり、みかじめ料として計四千万円を脅し取ったとされる。
     起訴状などによる、事件のあらましは次のとおりである。
     
  • 山口組・渡辺芳則五代目逝く 《通信時報 Vol.1-1》

    2013-01-27 23:31  
    〜超巨大組織へと導いた勇将の旅立ち〜
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    山口組五代目襲名式にのぞむ渡辺芳則組長

     十二月一日、突然の訃報が流れた。十六年にわたり巨大組織・山口組の五代目として組織を牽引した渡辺芳則元組長が逝去したのだ。「数こそ力」と二代目山健組組長時代、そして五代目山口組を継承してからも数多くの組織・人材を糾合してきた強力な求心力は如何にして構築されたのか、その足跡を追ってみたい。
     昭和三十六年、二十歳の若さで山健組初代の山本健一組長の盃をもらい若い衆となった渡辺五代目。
     昭和三十八年に起きた打越会と山村組との〈広島代理戦争(打越会に山口組、山村組に当時山口組と勢力を二分していた本多会が支援)〉に山健組応援部隊のひとりとして広島に送り込まれるなど活躍。昭和四十四年には二十八歳の若さで山健組若頭に抜擢された。昭和四十六年九月に山本組長が山口組若頭に就任してからは本家の業務で多忙な山本組長に代わり
  • 頂上作戦直撃! 《通信時報 Vol.1-2》

    2013-01-27 23:29  
    六代目山口組・橋本弘文統括委員長逮捕!
     大阪府警は十一月三十日、詐欺容疑で山口組ナンバー4の橋本弘文統括委員長を逮捕した。昨年三月、ヤクザの利用を禁止しているゴルフ場で、身分を隠してプレーしたという疑いだ。
     暴排条例が全国で整備される頃から、この「ゴルフ場詐欺事件」での逮捕者が相次いでいる。だが、プレー代はきちんと支払われており、他人に迷惑をかけるなど、ゴルフ場への「被害」はない。利用約款に暴力団排除条項を記載しているにもかかわらず、「身分を隠した」というのだが、利用者がこれを示されることはほとんどなく、身分、職業を尋ねられることもない。
    逮捕された六代目山口組統括委員長・橋本弘文極心連合会会長

     このため、その大半が不起訴となっており、二代目弘道会の竹内照明若頭も一審で、カード詐欺では有罪とされたが、ゴルフ場詐欺は無罪となった(控訴)。これまで有罪判決を受けたのは、清水武・二代目岸
  • 【サンプル記事】通信時報 《山口組検証》田岡一雄三代目と司忍六代目「徹底比較」

    2013-01-27 18:22  
    山口組検証
    田岡一雄三代目と司忍六代目「徹底比較」
     二○一一年四月九日に現場復帰した司忍六代目は、神戸入りしたその足で、自らが信奉してやまず、現在の山口組の「原点」と位置付ける田岡一雄三代目の墓参を行なった。司六代目はその墓前で何を誓ったのか。田岡三代目と司六代目との比較を通じ、今後の構造改革を占う。
    ●カリスマ性と統率力
    六代目山口組組長司忍

     田岡三代目は、昭和四十年に心筋梗塞で倒れ、以後、昭和五十六年に亡くなるまで、闘病生活を余儀なくされた。山口組の「全国進攻作戦」が一段落する一方、当局の頂上作戦が開始された時期で、田岡三代目が倒れたことでそれは本格化し、山口組は解散の危機に陥った。
     だが、田岡三代目はその強靭な意志と統率力によって、この危機を乗り切り、さらに強固な山口組を築いた。
     田岡三代目は病に倒れる前の昭和三十八年、現在の執行部体制の原型となる「七人衆」制度を設けていた