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石原莞爾と東條英機:その63(1,862字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 2日前
二・二六事件は1936年に起こっている。つまり太平洋戦争開戦の9年前だ。ここからの9年間が、激動なのである。戦争中を抜かせば、日本の最も脂っこい時代だ。石原莞爾は1889年生まれなので、47歳から56歳までがその激動の時代ということになる。そのため石原自身も、まさに脂が乗り切っていた時期だが、それが逆に石原に...
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石原莞爾と東條英機:その62(1,818字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 1週間前
二・二六事件が起こったとき、石原莞爾は参謀本部作戦課長という肩書きだったが、早くから反乱部隊の鎮圧組織に身を置き、その要として活躍した。二・二六事件は繊細に推移する。最初は荒木貞夫や真崎甚三郎を中心にこれを容認する雰囲気が広がったが、そこから石原莞爾らの働きで徐々に鎮圧するという考えが広がってい...
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石原莞爾と東條英機:その61(1,883字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 2週間前
相沢事件は1935年8月12日、夏の暑い盛りに起こった。それから半年、皇道派は追い詰められた。永田鉄山の復讐に燃える統制派の画策によって、その主要なメンバーが満州へと派兵されることになったのだ。つまりかなり強硬な敵対工作、弱体工作を講じてきたのである。すると皇道派は、窮鼠猫を噛むで、究極の手段に訴える。...
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石原莞爾と東條英機:その60(1,924字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 3週間前
永田鉄山が相沢三郎に殺された。その報に接したとき、石原莞爾は「なんだ、殺されたじゃないか」と言ったとされる。そして相沢に対しては、「妻子もある40代の男が、命をかけて何かをするということは、陸軍にはまだ見込みがある」と言ったとされる。つまり、永田鉄山の側ではなく、むしろ相沢三郎の側についたのだった...
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石原莞爾と東條英機:その59(1,847字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 4週間前
化物と化した戦前の陸軍。その中で石原莞爾はどのような存在だったのか?彼は陸軍内で、誰からも文字通り一目も二目も置かれていた。いろいろな理由はあるが、やはりその独特の個性に因るところが大きい。誰に対しても一歩も引けを取らない。しかも満州事変を主導したという実績もある。満州事変は陸軍の「心の拠り所」...
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石原莞爾と東條英機:その58(1,885字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 1ヶ月前
皇道派は荒木貞夫と真崎甚三郎を旗頭としていた。荒木も、元々は一夕会の領袖を務めるなど、統制派の永田鉄山とは非常に近しい関係にあった。永田鉄山が荒木を引き立て陸軍大臣に仕立て上げたという経緯さえあった。ところが荒木は、陸軍大臣になってからは、腐敗した閣僚や経済人を一掃し、陸軍が中心となる国家を作ろ...
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石原莞爾と東條英機:その57(1,698字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 1ヶ月前
永田鉄山を殺したのは相沢三郎という陸軍将校だった。つまり永田の後輩であり部下だ。陸軍士官学校出身で当時46歳の中佐だった。この事件は、犯人の名を取って「相沢事件」と呼ばれている。相沢三郎は1889年に仙台で生まれる。実家は旧仙台藩士だった。そして石原莞爾も同じ1889年の生まれで、同じ東北(山形)の旧武家...
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石原莞爾と東條英機:その56(1,737字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 1ヶ月前
東條英機は久留米で電報を受け取った。そこに永田鉄山の訃報が載っていた。ただちに東京へのキップを取り、鉄道で一昼夜をかけて上京した。そうして永田邸を訪れ、その亡骸と対面した。東條英機にとって永田鉄山とは何だったのか?それは「全て」といっていい。永田鉄山こそ東條英機の生きる理由のようなものだった。師...
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石原莞爾と東條英機:その55(1,769字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 1ヶ月前
こうして永田鉄山は殺されてしまった。東條英機はそれを左遷先の久留米で聞いた。この頃、東條英機は久留米で苦しみながらもなんとか部下を掌握していた。当時の若手将校は、その多くが皇道派だった。しかも久留米は、真崎甚三郎が自分の子飼いを赴任させ、固めていた。そのため東條英機にとっては完全にアウェーだった...
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石原莞爾と東條英機:その54(1,854字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 2ヶ月前
真崎甚三郎は陸軍大臣になれず、代わりになったのは林銑十郎だった。これによって今度は真崎と林が対立するようになり、真崎は林の追い落とし工作をあれこれと計るが、逆に林の怒りを買って、今度は林が真崎に教育総監の地位も辞職するよう求める。真崎はこれに頑として抵抗したが、ついにその地位を剥奪されてしまう。...
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石原莞爾と東條英機:その53(2,039字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 2ヶ月前
気のいいオッサンの荒木貞夫は1931年、満州事変の真っ只中で、永田鉄山らの後押しもあって陸相に就任する。しかし1932年から若手将校たちが荒木の元に参集するようになり、やがて「皇道派」を形成する。いい気になった荒木は盟友真崎甚三郎とともに自らを利する独裁的な人事を行う。しかしこれが皇道派以外の反感を買い...
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石原莞爾と東條英機:その52(1,800字)
コメ2 ハックルベリーに会いに行く 2ヶ月前
荒木貞夫は陸軍を「天皇の軍」という意味で「皇軍」と呼び、その在り方=「道」を道徳に説いていた。だから、荒木の元に参集した若手将校たちは「皇道派」と呼ばれた。その皇道派の行動理念は昭和恐慌、あるいは世界恐慌を機に始まった経済の混乱に対する「義憤」にある。彼らは猛烈に怒っていた。何に怒っていたかとい...
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石原莞爾と東條英機:その51(1,543字)
コメ3 ハックルベリーに会いに行く 3ヶ月前
東條英機は1934年8月1日に久留米に赴任する。ちょうど50歳のときだから、これは完全に左遷だった。出世街道なら、いよいよ中央の主要なポストも伺おうかという年齢だ。これで東條は消えた、と多くの人に思われた。しかし一方、東條は消えた、と思わない人も多かった。なんといってもあの永田鉄山の懐刀で、その永田自身...
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石原莞爾と東條英機:その50(1,817字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 5ヶ月前
「国体」とは何か? それは「日本」という美しい国のことである。この我々が愛してやまない美しい日の本の国――自然ももちろん美しいが、何よりそこに住う人々が美しい。この日本の美しさこそが「国体」である。我々日本人の祖先が、古来より連綿と命懸けで守ってきたものだ。この考えをナチュラルに持っている日本人は...
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石原莞爾と東條英機:その49(1,857字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 6ヶ月前
皇道派の荒木貞夫は「気のいいおっさん」だった。気のいいおっさんで若者好きだったのだが、こういう人物はときどきいる。そしてここからが少し複雑なのだが、荒木貞夫はやはり頭が少し悪かった。陸大を主席で卒業しながら「頭が悪い」とはどういうことか? それは「言われたことは苦もなくできるが自分の頭で考えるの...
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石原莞爾と東條英機:その48(1,581字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 6ヶ月前
一夕会は宇垣一成や宇垣閥を牽制するために荒木貞夫、真崎甚三郎、林銑十郎を盛り上げた。実際、東條英機は荒木貞夫に相当な尊敬の念を抱いていた。荒木貞夫はどのような人物か?1877年生まれで旧一橋家の出身である。つまりバリバリの徳川だ。1897年に陸軍士官学校を卒業し、1907年には陸大を首席で卒業する。そうして...
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石原莞爾と東條英機:その47(1,652字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 6ヶ月前
ここで陸軍の「派閥史」を概観してみたい。1873年に陸軍省が創設され、ここから山縣閥が始まる。山縣は1938年の生まれなので、スタート時はまだ35歳の若さであった。1889年に、ドイツに留学した東條英機の父、英教が山縣に長州閥の弊害を直談判する。それが山縣の恨みを買って、英教は出世街道から脱落する。英教は34歳...
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石原莞爾と東條英機:その46(1,696字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 7ヶ月前
1929年に歩兵連隊長になった東條英機は、部下の歩兵たちにとっては理想に近い上司だった。常に下々のことを気にかけてくれ、偉ぶったところが少しもなかった。東條は、部下たち全員の顔や氏素性を覚え、何くれとなく声をかけたり、また気にかけてくれたりした。陸大を受ける将校がいたら、受験勉強に励めるよう、仕事の...
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石原莞爾と東條英機:その45(1,708字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 7ヶ月前
満州事変で石原莞爾が激動の中心にいた頃、東條英機は何をしていたのか?彼は東京にいた。歩兵第一連隊長として、出世街道のほぼど真ん中を順調に歩んでいた。一方で、東條は一夕会でもど真ん中を歩いている。一夕会のトップは押しも押されもしない永田鉄山だったが、東條はその直下のナンバーツーだった。そして、忙し...
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石原莞爾と東條英機:その44(2,107字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 7ヶ月前
石原莞爾はスイスから帰国した直後、仙台の歩兵第四連隊長に着任する。これは、心身の疲れから引退を申し出た石原を引きとどめるため、陸軍上層部が用意したポストだった。石原の故郷である山形に近い地で、石原の好きな歩兵たちとの仕事だ。そこで心身の疲れを癒してほしいという狙いがあった。ここから分かるのは、こ...
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石原莞爾と東條英機:その43(1,568字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 7ヶ月前
石原莞爾は事変がなった後、満州での参謀の職を解かれ、日本に戻される。このとき、事変において上司に無断で自らが兵を動かした責任を取り、陸軍の除隊を申し入れる。が、慰留された上に大佐に昇進までさせられて、踏みとどまった。このことで分かるのは、石原は満州事変がなった瞬間から、それに必ずしも満足してはい...
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石原莞爾と東條英機:その42(1,952字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 8ヶ月前
「満州」は、中国大陸のうち朝鮮半島と接している東端の部分だ。そこを北へ行くと、ロシア(ソ連)とも国境を接している。満州の北側は北海道よりも緯度が高く、冬は非常に寒い。鉄道が通るまでは、ほとんど未開の土地であった。それが、20世紀に入ってからの鉄道の拡大で、一気に開発されていく。そして日本は、そこに...
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石原莞爾と東條英機:その41(1,897字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 8ヶ月前
関東軍は、満州事変の成り行きを見ながら、満州国の建国と、そこにおける溥儀の皇帝擁立を決めた。つまり満州は、日本に組み込むのではなく、またその統治下とするのでもなく、独立国として存在させ、その権威づけに溥儀を利用しようとしたのだ。溥儀とは誰か?愛新覚羅溥儀は、清の最後の皇帝である。いわゆるラストエ...
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石原莞爾と東條英機:その40(1,693字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 8ヶ月前
石原莞爾は満州事変を計画し、現場で指揮した。ただし、石原には権限がないので、あとは上の者が乗っかってくるかどうかが勝負だった。上の者とは天皇までをも含む。石原は、満州事変で日本そのものを動かそうとしたのだ。しかしもちろん、石原が単独で計画したのではなく、そこには板垣征四郎のバックアップがあり、さ...
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石原莞爾と東條英機:その39(1,824字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 8ヶ月前
当時の陸軍将校には有り体にいって「バカ」と「ずる賢いやつ」しかいなかった。ちなみにここでいう「バカ」とは、勉強はできるが考える力がない者のことだ。バカは皇道派になり、ずる賢いやつは統制派になった。そして、バカとずる賢いやつは相性が悪い。文字通り犬猿の仲である。ぼくもずる賢い人間だが、バカがこの世...
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石原莞爾と東條英機:その38(1,909字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 8ヶ月前
満州事変の直前まで、張学良は中国軍と手を結んで、満州鉄道の隣に新たな鉄道を建設し、これの実質無効化を計画していた。これが一つのきっかけとなって、日本軍はとうとう陰謀に打って出る。指揮をしたのは板垣征四郎で、作戦を立案したのは石原莞爾であった。ただこのとき、板垣と石原は、いかに蜜月の中であろうと、...
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石原莞爾と東條英機:その37(1,931字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 9ヶ月前
満州は中国(漢)の一部ではあったが、モンゴル人や朝鮮人も数多く入植し、異国の文化もかなり混入していた。そうして満州独自の文化というものを形作っていた。さらにそこへ北方から侵略を窺うロシアの文化も流入され、実に混沌とした状況だった。中国、モンゴル、朝鮮、ロシア、そして日本が、元からいた現地民と入り...
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石原莞爾と東條英機:その36(1,686字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 9ヶ月前
張作霖爆殺事件の後、日本陸軍の陰謀だったことが、やがて張作霖陣営はもちろん、満州の一般人にさえ知られるようになった。しかし陸軍及び日本政府は、その事実を最後まで否定した。その一方で、陰謀の首謀者であった河本大作を左遷し、またその責任を取って田中義一内閣が総辞職するなど、ちぐはぐな事後処理となった...
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石原莞爾と東條英機:その35(2,481字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 9ヶ月前
満州事変は、実に不思議な「歴史の綾」の中で、ほとんど偶発的に起こった。まるでジャズのアドリブのように、先が見えないまま目の前のできごとに、ほとんどの者が条件反射で動いた果て、奇跡的に成立したのだ。しかし一方で、「こちらに行きたい」という意思と方向性は確実にあった。特に石原莞爾にそれがあり、しかも...
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石原莞爾と東條英機:その34(1,711字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 9ヶ月前
1929年に板垣征四郎は満州にある関東軍参謀に配属される。そうして、前から満州に赴任していた石原莞爾と再開する。ここで、一つのエピソードが起こる。関東軍参謀の将校たちが、満州の北側を視察旅行していたときのことだ。旅先のホテルで、石原莞爾が将校たちを相手に「戦争史大観」という演目で講演をした。当時、二...
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石原莞爾と東條英機:その33(1,853字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 10ヶ月前
ここで石原莞爾と板垣征四郎の関係を年代順に見てみたい。ただ、陸軍の人事はかなり頻繁にまた縦横無尽に行われるので、なかなか追いにくいところがある。そのため、主だったところだけを挙げている。1885年、板垣征四郎、岩手県盛岡市に生まれる。1889年、石原莞爾、山形県鶴岡市に生まれる。1899年、板垣、仙台陸軍幼...
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石原莞爾と東條英機:その32(2,063字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 10ヶ月前
石原莞爾は1920年、31歳のときに中国に赴任する。その直前には陸軍大学の教官をしていたが、そこはあまり性に合わなかった。石原は、エリート――特に陸大生クラスの人間が苦手だった。突出して頭が良いか、それとも自分の頭の弱さを知っている謙虚な人間でないと、上手く関係を持てなかった。後年、石原は自分の部隊を持...
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石原莞爾と東條英機:その31(1,747字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 10ヶ月前
板垣征四郎は、陸軍士官学校を16期生として1904年10月に卒業し、すぐ日露戦争に参加する。日露戦争は、1904年2月に始まり1905年8月に終わる。だから、当時はちょうど中盤だった。この年度の陸軍士官学校生は、日露戦争のために卒業を半年早めた。そういう非常時の中での卒業だった。明けて1905年3月、満州・奉天で行われ...
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石原莞爾と東條英機:その30(1,657字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 10ヶ月前
石原莞爾は1920年に中国に渡る。そこで作戦課に配属される。いわゆる諜報部だ。ただし、この頃の中国はまだ平和だったので、石原の日々も平穏だった。このとき、石原は板垣征四郎と出会っている。板垣が石原の直属の上司だったのだ。板垣征四郎は陸軍士官学校の16期で、同期にはあの永田鉄山がいた。陸軍大学には少し遅...