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【第157回 芥川賞 候補作】『真ん中の子どもたち』温又柔
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【第157回 芥川賞 候補作】『真ん中の子どもたち』温又柔

2017-07-10 11:00



    他者への深い尊敬の念は自尊心から始まる(トリン・T・ミンハ)





     出発前夜


     

     四歳の私は、世界には二つのことばがあると思っていた。ひとつは、おうちの中だけで喋ることば。もうひとつが、おうちの外でも通じることば。ところが、外でつかうほうのことばが、母はあんまりじょうずではない。

     ──だからママが困っていたらきみが助けてあげるんだぞ。

     幼稚園で仲良しだったユウちゃんのお母さんが「琴子ちゃんのお母さんは日本語がじょうずね」と褒めたとき「おばちゃんのほうがずっとじょうずよ」と応えて私は大人たちを可笑しがらせた。「まあ、それはどうもありがとう!」ユウちゃんのお母さんが頭を撫でてくれる。私はユウちゃんのお母さんが日本人だとは思いもしなかった。あの頃の私は、だれにとっても父親は日本人で母親は台湾人なのだと思っていた。両親のどちらかが日本人ではないことのほうが、この国では少々めずらしいのだとは知らなかったのだ。

     十五年後の今、母は、私や父と同じパスポートを持っている。写真のある頁をめくり、眺める。国籍欄には「JAPAN」。発行年月日は「22  MAY  1992」だ。指を折ってかぞえてみる。母が日本に帰化してからもう八年が経っていた。十九歳の私には充分長く感じられる月日なのだけれど、

    「まだ八年? カナ、チョ・グー(もっと前みたいなのに)」

     母自身はそんなふうに驚く。

    「ママって、顔が全然変わらないね」

     母のパスポートに見入っていたら、ほらパパもうすぐ帰る、とうながされる。私は自分のものだけを残して、母と父の分のパスポートは預金通帳や印鑑の入っている金庫の中に仕舞う。

     早めに荷造りを終えられれば、ギョーザの具を皮に包みたかった。荷造りの最後の仕上げとして自分のパスポートを両親の金庫から取り出す頃には、家族分のギョーザが母の手によって完璧に包みあがっている。

     水餃(shui jiao)でいいの? と母に訊かれて、ギョーザがいいの、と私は言う。我支持我女兒的提議(ぼくも賛成だよ)、と父が私に味方する。母のギョーザは、私たちの大好物なのだ。特別なものではない。鶏の挽き肉を細かく刻んだキャベツと混ぜあわせて、皮でくるむ。食べたい数が包みあがったら、お湯を沸かして茹でるだけ。

     今夜も私と父は、たっぷりと盛られた母の水餃の前で揃って頬を緩める。ゴマ油を醤油にたらしながら父は、自分が初めて日本から出たのは二十一歳のときだった、となつかしそうに話す。最初に台湾を離れたときのあたしは二十五歳になってた、と母も中国語で応じる。

    「その点、ぼくらの娘は三歳のときから飛行機に乗ってたね」

     私はひとつめのギョーザをのみこんでから、父にほほ笑み返す。

    「そう。慣れっこだから心配しないで」

     明日、私は上海へ旅立つ。

     ──中国語を勉強する? それなら、台湾に来ればいいのに。二十五年前の天原(Tian yuan)みたいにさ!

     そう言ったのは、私が舅舅(jiu jiu)と呼ぶ伯父だ。

     台湾の親戚たちは父のことを、てぃえんゆぇん、と呼ぶ。小さかった頃の私は、てぃえんゆぇん、と父が呼ばれるときのその響きを、義兄さん、とでもいったような意味のことばなのだと解釈していた。

     父のための響きだと思っていたので、いざ自分がそう呼ばれるようになると、はじめのうちはこそばゆかった。私が通う中国語の専門学校・漢語学院では、学生同士がお互いの姓を中国語で呼び合う。

     ──そのほうが、自分のほんとうの名前を呼ばれている感じがしてうれしい。

     そう言っていたのは、同級生のひとりである呉嘉玲(ごかれい)だ。

     ──あなたと似たような境遇の女の子がもうひとり入ってくるのよ。かのじょのほうは、お父さまが台湾の方だったわ。

     鄭先生──中国語風に言うなら鄭老師(zheng laoshi)──が教えてくれたのは入試に合格後、手続きのために漢語学院をおとずれたときだ。

     ──わたしの母は台湾人です。そのため、中国語を身近に感じてきました。子どもの頃からずっと、母のことばを学んでみたいと思っていました。

     副学院長の鄭老師は、入学試験のときの面接官だった。

    (お父さんが台湾人?)

     春休みのあいだじゅう、もうすぐ知り合える自分と似た境遇のかのじょについて私はよく考えた。まるで、離ればなれになっていた双子の姉妹を夢みる調子で。

     入学式でもらった新入生名簿を見て、ひとめでわかった。この子だ。母の国を感じさせる姓名の持ち主は、一人しかいなかった。

     ──ほら、見て。

     その呉嘉玲が、私にだけそれを見せてくれたのだった。深緑色の表紙に「中華民國 REPUBLIC OF CHINA」という文字が刻まれている。

     ──あたしはみんなとちがう。特別なのよ。

     私たちが生まれた頃の日本は、日本人の父親を持つ赤ん坊にしか日本国籍を与えなかった。呉嘉玲のパスポートの色が私は懐かしい。母が八年前まで持っていたものと同じだったから。台湾人のパスポートは深緑色なのだ。

    (ずっと、母のことばを学んでみたいと思っていました)。ねむる前にもう一度、私は自分のパスポートの写真がある頁をめくって、生年月日が記された欄を見つめる。

    「30 JUL 1980」

     二十歳を迎えた日の私はきっと、いまよりもずっと中国語がじょうずになっている。



    ※7月19日(水)18時~生放送
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