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【第154回 直木賞 候補作】『孤狼の血』柚月 裕子
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【第154回 直木賞 候補作】『孤狼の血』柚月 裕子

2016-01-12 15:59
    プロローグ
     呉原東署の会議室は、殺気立っていた。
     ドアの外には呉原市暴力団抗争事件対策本部、と書かれた紙が貼られている。
     部屋には七十名近い捜査員が集結していた。所轄の東署副署長をはじめとする幹部、暴力団係の係員と各部署から掻き集められた署員、県警捜査四課暴力団担当の捜査員ならびに管区機動隊員だ。みな、闘技開始を前にした闘犬のような面構えで、部屋の前方を見つめている。
     副署長の訓示が終わり、捜査の指揮をとる捜査二課長が立ち上がった。
     課長は睨むように目を細め、椅子に座る捜査員たちを見やった。
    「いま、副署長からの訓示にもあったように、東署管内では組織暴力犯罪が多発している。拳銃不法所持、大麻、覚せい剤の使用および売買、違法賭博などが日常的に行われ、暴力団同士の抗争事件が頻発している状態だ。やつらのせいで治安は乱れ、善良な市民の安全が脅かされている。実際、二週間ほど前に、一般市民が発砲事件に巻き込まれ、尊い命を落とした。悲劇を未然に防げなかった我々の責任は重い。しかし――」
     語気を強め、言葉を区切る。
    「やつらの暴挙も、今日で、終いじゃ」
     捜査員たちの表情が、さらに引き締まる。なかには、緊張のためか唾を飲み込んでいる者もいる。
     呉原東署に置かれた呉原市暴力団抗争事件対策本部は、暴力団関連事務所の一斉捜索を計画していた。いま行われている会議は、最終の打ち合わせだ。
     課長は家宅捜索の手筈を念入りに説明すると、目の前にある長机に両手をつき、身を乗り出した。
    「これだけ大掛かりな捕り物じゃ。相手が大人しゅうしとるはずがない。万が一のこともある。念のため各自、防弾チョッキを装着するように」
     防弾チョッキ、という言葉に部屋の空気が一気にきな臭くなる。課長は捜査員たちをねめつけた。
    「ええか。組員をひとりでも多く引致しろ。公務執行妨害、銃刀法違反、麻薬所持、賭博場開張図利、なんでもええ。今回のガサ入れでできるだけ多くの引きネタを掴むんじゃ。やつらを片っ端から刑務所へぶち込んだれ!」
     課長は腕時計で時間を確認した。朝の六時五十分。七時に署を出発する計画になっている。
     課長は長机に両の手を強く叩きつけると、捜査員たちを激励した。
    「この一斉捜査には、警察の面子がかかっとる。腹ァ括ってやっちゃれい!」
     課長の怒声にも似た号令を合図に、捜査員たちは一斉に立ち上がった。部屋の隅に置かれている段ボールから、防弾チョッキを掴み会議室を出ていく。
     捜査員たちが慌ただしく動くなか、ひとりだけ身じろぎしない男がいた。部屋の後方で、椅子の背にもたれている。
     若い刑事が、悠長に構えている男に駆け寄った。
    「班長、どうぞ」
     差し出した刑事の右手には、防弾チョッキがあった。左手には自分用のチョッキを持っている。
     班長と呼ばれた男は、ジッポーのライターを手で転がしながら、余裕の笑みを浮かべている。
    「そう急くな。慌てる乞食は貰いが少ない言うじゃろうが」
    「いや、しかし……うちの班の者はみな、もう駐車場で待機しています」
     出遅れて、他の班に手柄をとられることを危惧しているのだろう。かといって、上司に苦言を呈することもできず、若い刑事は口ごもった。
     男は、部下の心内を察しているらしく、諭すように言った。
    「組長の本宅や組の事務所は、他のもんに任せちょったらええ。どっちも所詮、城でいうたら二の丸、三の丸じゃ。わしらが狙うんは本丸よ」
    「本丸、ですか」
     部下は怪訝な表情を浮かべた。本丸がなにを意味するのかわからない、といった顔だ。
     男はジッポーのライターの蓋を、開けては閉め、閉めては開けた。辺りに、カチカチという小気味良い音が響く。ジッポーには、狼の絵柄が彫り込まれていた。
     男は蓋を閉じると、彫り込まれた狼の絵柄を、愛おしげに手で擦り、つぶやくように言う。
    「いまどき本宅や事務所に、道具なんか置いとりゃあせん。殴り込みに備えて身につけちょるかもしれんが、さて、それもどうかのう」
    「どういうことでしょう」
     男は声を潜めた。
    「今日の手入れがむこうに……」
     男は言いかけてやめ、「まあ、そりゃあ、ええ」と苦虫を噛み潰したかのように、唇を歪めた。
     部下は目を見開くと、眉根を寄せて囁いた。
    「漏れちょる……いう、ことですか」
     うーん――男は呻きながら曖昧に首を振り、語気を強めた。
    「どのみち、道具は組の武器庫に置いちょる。秘密の隠し場所っちゅうやつよ」
     部下は興奮した様子で、身を乗り出した。
    「その場所を、班長は御存じなんですか」
     男はライターから部下に目を移すと、片手でジッポーの蓋を開いた。
    「まあ、の」
     部下の顔が見る間に紅潮する。
     男はライターの蓋を勢いよく閉じると、ズボンのポケットに入れて立ち上がった。
    「行くぞ」
     部下が手にしている防弾チョッキには目もくれず、男はまっすぐ出口へ向かった。
    一 章
    ――日誌
     昭和六十三年六月十三日。呉原東署捜査二課配属初日。
     午後一時半より、大上巡査部長と管区パトロール。
     午後一時四十分。赤石通りパチンコ店『日の丸』。
     午後六時半。尾谷組事務所を訪ねる。尾谷組若頭、一之瀬守孝から、加古村組系金融会社社員失踪事件について情報収集。
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     午後八時。栄通り「小料理や 志乃」。
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    (一)
     昼下がりのアーケード街は、蒸すような熱気に包まれていた。
     道の脇に違法駐輪されている自転車を避けながら、日岡秀一は尻ポケットからハンカチを取り出し額の汗を拭った。
     広島県内は、五日前に梅雨入りしたばかりだ。しかし、一向に雨が落ちてくる気配はない。むしろ、照りつける日差しは、すでに梅雨明けのような強さを放っている。
     港に面している波恵地区は、沖から吹いてくる海風のおかげで少しは暑さが和らぐが、アーケード街は駅を挟んで北側の鉾田地区にある。このあたりは海から離れていることに加え、建ち並ぶ商業ビルのせいで風通しが悪く、暑さが外へ逃げていかない。さらに、アーケード街は天井をビニールで覆われているため、さながらビニールハウスのようだ。
     日岡はハンカチをポケットに戻すと、胸ポケットから一枚のメモを出した。手帳を破った小さな紙には、呉原東署から待ち合わせに指定された店までの地図が描かれていた。二課の課長、斎宮正成が書いてくれたものだ。が、線を適当に引いただけで、とても地図とは呼べない代物だった。ところどころに書かれている商店名だけを頼りに、目的地へ向かっていた。
     日岡は今日、呉原東署へ赴任してきたばかりだ。所属は捜査二課。東署の二課は暴力団係と知能犯係に分かれている。日岡は暴力団係に配属された。刑事になって初めての配属先が二課の暴力団係、それも抗争事件が頻発する呉原市管内というのは、かなり異例の人事だ。刑事がひとり急に依願退職し、人員に穴が開いたからだと、上司から聞かされた。
     ――遣り甲斐はある。手柄を立てれば、出世の道も開けるぞ。
     本部の幹部は、そう言って日岡の肩を叩いた。
     出世はともかく、遣り甲斐があるのは嬉しかった。これまで務めた機動隊員の日々の仕事は訓練が主で、たまの応援出動くらいしか、現場に出る機会はなかった。その分、刑事になるための勉強はできたが、遣り甲斐こそが、日頃から日岡の求めて止まないものだ。
     呉原市を訪れるのは二度目だった。小学生のころ、臨海学校で呉原湾の小島で遊んだことがあるだけだ。
     日岡は広島市の出身だ。大学も広島だし、警察官拝命後の交番勤務も広島市内だった。他の街に住んだことはない。食い物が美味く、娯楽や買い物にも不便を感じたことがない街に、日岡は満足していた。呉原市は広島市から在来線で三十分の距離だが、自分が住んでいる街より小さな街へ、わざわざ足を運ぶことはなかった。この辺りに土地鑑はない。
     メモに書かれた距離と実際の道のりがまったくかみ合わない地図を頼りに、店を探す。通行人に声をかけようかと思ったが、警官が道を訊ねるのも憚られた。
     自力で待ち合わせ場所の喫茶店コスモスを探し当てたのは、約束の一時を十五分も過ぎたころだった。
     地図には四角いマークの横にコスモスとだけ書いてあるので、頭から一戸建ての店だと思いこんでいたが、実際には雑居ビルの一階のテナントだった。それならそうと、ビル名を書いてくれればよかったのに、と心で毒づく。
     コスモスは古い店だった。入り口の横にあるウィンドウには、メニューの写真が飾られているが、開店当初のままかひどく色褪せている。空いているスペースに置かれている舶来品の雑貨も、アンティークと呼ぶには中途半端で、単にそこに放置されている古びた生活用品、という感じだ。
     色褪せた木製のドアを開けて、なかに入る。ドアの上に取り付けられているベルの音とともに、冷房の効いた空気が全身を包んだ。
     カウンターのなかにいた初老の男がゆっくりと顔をあげ、丸眼鏡の奥から日岡を見た。
    「いらっしゃい」
     言葉では歓迎しているが、声にはまったく愛想がない。
     店内は薄暗くて狭かった。カウンター席が五つと、四人掛けのテーブルがふたつしかない。店主の趣味なのか、店の至る所に観葉植物が置かれていた。ただでさえ狭い店内がさらに窮屈に感じられる。
     日岡は観葉植物のあいだから店内を見渡した。
     客はひとりしかいない。中年の男性客だ。男はステンドグラスが嵌められた小窓の傍のテーブルについている。広げた新聞に隠れて顔はよく見えないが、年恰好といい、この人物が待ち合わせの相手に間違いない。
     日岡は男が座っているテーブルに近づくと、新聞越しに声をかけた。
    「失礼ですが、大上さんでしょうか」
     声をかけられた男は、ゆっくりと新聞を下ろした。目が日岡を捉える。粘るような視線は、値踏みをする質屋の店主のようだ。が、目つきは違った。相手を真正面からひたと見据える鋭い眼光は、明らかに刑事のそれだった。
     男が自分の新しい上司であることを直感する。日岡は姿勢を正した。
    「時間に遅れて申し訳ありません。自分は今日から呉原東署に赴任してきた――」
     名乗ろうとしたとき、男はいきなり椅子から立ち上がり、無言で日岡のワイシャツの胸ぐらを掴んだ。そのまま引き摺り下ろし、自分の向かいの席へ乱暴に座らせる。椅子に倒れ込んだ日岡は、驚いて男を見上げた。男はテーブルに身を乗り出し、上から日岡を睨んだ。
    「極道みてえに、べらべら口上たれてんじゃねえ」
     凄みの利いたかすれ声に、思わず怯む。男は日岡を極道呼ばわりしたが、身なりを見る限り、男の方がよほど極道に近かった。襟の開いた黒シャツを着て、少しダブついた白いズボンをはいている。頭には、ベージュのパナマ帽を被っていた。腕に嵌めているごつい腕時計と、ベルトのバックルが薄暗い店内で銀色に光っている。
     男は椅子にゆっくりと尻を戻すと、苦々しげな顔で舌打ちをした。
    「わしが誰かもわからんうちに、身元を明かす馬鹿がおるかい。人違いじゃないけ良かったもんの、わしがもし手配中の被疑者じゃったら、どうするんなら。相手がシャブ中の極道じゃったら、刺されとるかもしれんのど、おう」
     どうやら人違いではなさそうだ。
    「申し訳ありません」
     日岡は椅子に座り直すと、今日から自分の直属の上司となる男に、挨拶と詫びを兼ねて頭を下げた。
     男の名前は大上章吾。呉原東署捜査二課主任、暴力団係の班長だ。今年で四十四歳になると聞いている。今朝、呉原東署へ出勤し課員に挨拶をしたが、直属の上司となる大上の姿はなかった。課長の斎宮に欠勤かと訊ねると、大上が出勤するのはいつも昼近くで朝から机にいることは滅多にない、との答えが返ってきた。
     日常ならいざしらず、赴任初日の部下と顔合わせしないのはあまりに常識がない、と思ったのだろう。斎宮は卓上の警電から大上のもとへ電話をかけ、何時に出勤するかを訊ねた。大上の返事は、午後一時に赤石通りにある「コスモス」へ来るように新米刑事に伝えてくれ、というものだった。
     大上は県警内部で、凄腕のマル暴刑事として有名な人物だった。暴力団絡みの事件を多数解決し、警察庁長官賞をはじめとする警察表彰を何度も受けている。百回にも及ぶ受賞歴は、広島県警では現役トップだと聞いている。
     が、輝かしい経歴の反面、誉められない処分歴も数多く持っていた。受賞歴もトップだが、訓戒処分も現役ワーストとの噂だ。
     大上は任官してからの大半を、暴力団を手掛ける二課で過ごしてきたが、一度、別な部署へ飛ばされている。刑事の任用試験に合格し、広島北署捜査二課へ配属となった十年後、いまから十三年前に県警警備部の機動隊に平隊員として左遷されたのだ。きっかけは、第三次広島抗争事件だった。当時、北署で暴力団抗争事件捜査の先鋒となっていた大上に、警察内部の情報を暴力団関係者へ流したのではないか、という疑惑が浮かんだのだ。
     公安やマル暴が、エスと呼ばれる内通者を飼っている事実は、捜査関係者なら誰もが知っている。使えるエスをどのくらい持っているかで、刑事としての腕が決まると言っても過言ではない。公安やマル暴の刑事は、エスを上手く使い、犯罪組織と上手に渡り合って事案の解決に結びつける。
     しかし、犯罪組織と警察組織という関係のバランスを崩してしまうと、事件を解決する上で必要な捜査とはいえ、世間やマスコミからは、暴力団との癒着、という言葉で非難を浴びる。北署は大上に降りかかった疑惑がマスコミへ漏れることを回避するため、先手を打って大上を機動隊へ飛ばした。
     機動隊に所属してから三年後、大上は再び広島北署へ戻った。が、四年後に現在所属している呉原東署の二課へ異動させられる。同じ二課への異動だが、県庁所在地の所轄から地方の所轄へ移ることは事実上の左遷と言えた。
     飛ばされた理由は、人権派で知られる弁護士とのトラブルだった。弁護士は、同居する内縁の妻に刺し傷を負わせた暴力団組員を、人権を盾に擁護した。暴力団員も人の子であり、当然、守られるべき人権がある、というのが弁護士のスタンスだった。それに対して大上が、ヤクザに人権はない、と噛みついたのだ。女を刺すような外道を擁護するやつも外道と同類だ、とまで言い切った。頭に血が上った弁護士は、行き過ぎた暴力的取り調べがあったとして、大上を特別公務員暴行陵虐罪で訴える、と息巻いた。大上と弁護士の衝突はマスコミの知るところとなり、北署は弁護士の顔を立て、事を収めるために大上を地方に左遷した。
     大上の噂は、日岡が県警に採用されたころから耳にしていた。聞こえてくる話はすべて物騒なもので、暴力団員から二度襲撃を受け、相手を半殺しにしたとか、自らも重傷を負って入院した、との噂もあった。新米警官にとってはとにかく遠い存在で、刑事任用試験に受かったときにはまさか、県警にその名が轟く噂のマル暴刑事の下で働くなどとは、思ってもみなかった。
     大上はシャツの胸ポケットからショートピースを取り出した。慣れた手つきで口にくわえる。
     日岡は煙草を吸わない。両手を膝の上に揃えて、大上が口火を切るのを待った。
     と、いきなり頭を叩かれた。
    「なに、ぼさっとしとるんじゃ! 上が煙草を出したら、すぐ火つけるんが礼儀っちゅうもんじゃろうが!」
     日岡は仰天した。キャバレーのホステスや極道じゃあるまいし、なぜ自分が上司の煙草に火をつけなければいけないのか。納得できないながらも、テーブルにあった店のマッチで煙草に火をつける。
     大上は煙を深く吸いこみ、食べ終わったナポリタンの皿をどけて椅子にふんぞり返った。
    「先輩が煙草をくわえたら、すぐに火をつける。灰皿を用意する。二課の刑事のイロハのイじゃ」
     刑事のイロハが先輩の煙草に火をつけることだなど、聞いたことがない。
     釈然としないまま小さく頭を下げると、大上は涼しい顔で持論をぶった。
    「ええか、二課のけじめはヤクザと同じよ。平たく言やあ、体育会の上下関係と一緒じゃ。理屈に合わん先輩のしごきや説教にも、黙って耐えんといけん。これにはのう、まっとうな理由があるんで。ヤクザっちゅうもんはよ、日頃から理不尽な世界で生きとる。上がシロじゃ言やあ、クロい烏もシロよ。そいつら相手に闘うんじゃ。わしらも理不尽な世界に身を置かにゃあ……のう、極道の考えもわからんじゃろが」
     配属が決まってから、日岡は呉原市内の暴力団の組織図や幹部の顔写真付き前歴カードを頭に叩き込んだ。ヤクザの情報は徹底的に身につけるつもりでいたが、二課の刑事は果たして、その流儀にまで従わなければいけないのか。甚だ疑問に思う。が、上司の考えに反論することもできず、日岡は自分の考えを呑み込んだ。
     大上は大きく紫煙を吐きだすと、日岡に訊ねた。
    「お前、名前は」
     自分の部下になる人間の名前を記憶していないことに驚く。日岡は冷静を装い答えた。
    「日岡です。日岡秀一です」
    「しゅういち?」
     大上がわずかに眉根を寄せた。
    「どがな字を書くんなら」
    「秀でるに数字の一、です」
     大上は顎を撫でると、口角をあげた。
    「ほうか。ええ名前じゃのう」
     日岡は自分の名前が好きではなかった。どこにでもある平凡な名前だ。他人から褒められた記憶はない。にもかかわらず、大上はいい名前だと言う。意外だった。
     曖昧な追従笑いを浮かべる日岡を無視して、大上は質問を続けた。
    「歳は」
    「二十五です」
    「呉原東署へ来る前はどこにおったんない」
    「交番勤務を一年、機動隊を二年務めました」
     ということは、とつぶやき大上は天井を見上げた。
    「大卒採用か。刑事に成り立て、二課もはじめて、ちゅうことじゃの」
     日岡が、はい、と答えると、大上ははじめて笑顔を見せた。笑ったといっても楽しくて漏らした笑みではない。なにかを企んでいるかのような笑いだ。
    「ほうか、ションベン臭い生娘か。なら、なーんも知らんでも、しゃあないのう」
     口にする言葉ひとつひとつに、品がない。
     大上は煙草を灰皿で揉み消すと、氷がすっかり溶けたアイスコーヒーを飲み干し腰を上げた。日岡も慌てて立ち上がる。
    「マスター、わしのコーヒーチケットまだあったよのう。今日の分、それで切っといてくれや」
     カウンターの隅に座っていたマスターは、はいよ、と愛想のない声で答えると、壁に立てかけているコルクボードから、コーヒーチケットを二枚はぎ取った。一枚いくらなんだろう。四百円として二枚で八百円。ナポリタンセットとしては妥当な額か。
     大上はパナマ帽を阿弥陀に被りなおすと、日岡の肩に手を回して引き寄せた。
    「まあ、わしの下についたんもなにかの縁じゃ。わしが二課の掟を、みっちり教えちゃる」
     やることなすこと、刑事とは思えない。これから自分はこの男のもとで、どのような捜査をしていくことになるのか。不安を抱きながら、日岡は大上に続いてコスモスを出た。


    ※冒頭部分を抜粋。続きは以下書籍にてご覧ください。


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