ディナー時間の生活支配力はただならぬ物があり、生活時間が一向に夜型に戻らない。「大恐慌のラジオデイズ」の収録だけが0時からでないと気が乗らないので、0時から早朝にかけてやっているが、コレもその内21時ぐらいから始めるような気がする。
ここ最近はメールボックスに届くファンメールが増えている。2000年代のファンメールを数えてみたら、年間3通とかいう年さえあり、それはこのブロマガを始めても変わらなかったのだが、「拾ったCDをかけっぱなしにして質問に答える」の影響もあってか、今年に入ってから急増している。
そのほとんどが長文である。人々は長文に飢えているのだろうか。そしてその多くが、ライブの感想とかではなく、人生相談に近い。時代の推移を感じる。「スペインの宇宙食」を出したばかりの頃(もうそろそろ刊行20周年である)は、長文しか来なかった。過日「10年ひと昔」という言葉があったが、やはりコロナ禍の影響か、「ひと昔」は20年になったのだろうか。
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菊地さん、セクシーです。いろんなお客様がいらっしゃることが、それをそのまま示しているのだろうなあと思ったりします。そして、それを思い浮かべるとそのまま菊地さんの作品だなあとか、そんなことも連想されます。笑
>>26
音楽が鳴らされる場では、ステージ上もセクシーだし、観客席もセクシーだし、PAのエンジニアも、照明の技師もセクシーであると思います(「としか思えません」が最適切ですが)。また、僕の作品の愛好家の方々からの反応には、焼きプリンの謎、葬儀を伴ったミサや謝肉祭のレポート、女性差別コードアウトのワイルド&ナスティさ、楽曲分析についての質問者、他にも数多、様々な方々がいらっしゃいます。僕はそうした方々に審級を付けられません(「付け方がわかりません」が最適切ですが)。全てが僕の活動の理解者であると思っています。そういう意味で僕は、乱行的、混血的、包括的な創作者かもしれないと思っており、これは自慢したり卑下することではなく、顔つきや身長体重などに近いものだと思っています。
菊地さん、こんにちは。
とてもアカデミックなコメント欄ですね。
眠っていたわたしの学究的な心がムクムクと起き上がってきます。
ありがとうございます。
>>27
追記ですが、僕が乱行的、混血的、包括的な創作者だとして、フロイドの作法に則るならば、僕がそうした状態にトラウマがあるから。ということになります。僕は、幼稚園、小学校、中学校、高校(実質上、卒業していませんが笑)、メーザーハウス(専門学校)、職場、と、全ての場で、共学だったこと、さらに言えば、「家庭」という原初の場が、「家族と客」という一種の混血状態である「場」だったから。と自己分析していますが、全ての自己分析は分析家からの分析よりも劣らざるを得ないことはいうまでもありません。
>>28
ikubasaさん(以下、生徒なので安心して書きますが笑)、学究心大変結構です、ついでに息子もムクムクと起き上がらせましょう笑
>>29
菊地さん。
とても丁寧にお話ししてくださって、ありがとうございます。本当にうれしいです。
最初からメチャクチャ面白かったんですけど、「質問が無いことに気付いた」くだりで面白すぎてひっくり返りそうになりました笑
最近はどうしてもコメント欄が色々と熱を帯びがちだったと思うんですが、こういうちょっと気が抜けた一種のWBO?みたいな話を読むと、とても和みます笑
>>32
そうなんですよ笑、あのパンチライン素晴らしいですよね笑、ここのコメ欄がどうのこうのでは全くなく、和みは必要ですよね笑
丁寧なご返信ありがとうございます。嬉しく思います。
家人がカトリック教徒ですが、私どもは、ゾンビカトリシズムでもない、ミイラカトリシズムだと思っております。
(ミイラカトリシズムは、バザンとエル・サントの両方から頂いております。)
勿論、正統派からは誕生時より脱しており、なにせマリアも褐色(Morena)です。
偽物であること、から生じる真実性、を再構築している、と感じるのです。
逆説的ではありますが、リベラの「Sueño de una tarde dominical en la Alameda Central」を見ていたとき、
デートコースを思い返したことがあります。時代と生死、リズムを超えて同じ場に複数いる。一日中眺めても飽きません。
DC/PRGがいなくなった後の世界がどうなるのか、何とか生き延びて見届けたいと思います。
>>34
大きな誤読がなかったようでよかったです笑。「カトリコ・エル・ノミア(というもでしょうか?)」という記述は、恥ずかしながらアンドレ・バザンの「映画とは何か?」の全巻と、オーソンウエルズの研究書を翻訳で読み、膨大なエルサント映画から、わずか数作だけを見てはいるのですが、記憶しておりませんでした笑。
褐色のマリア像は、「キューバップ」という映画で、冒頭から出てきます。クバの人々は、マリア像にラムをかけるのですね。ご指摘の通り、「Sueño de una tarde dominical en la Alameda Central」は(も)、ぺぺとルメントアスカラールだけではなく、僕の音楽を底通するイメジネーションを与えてくれ続けています。あれがメヒコの1920年代ですよね。少々後の、北米でのニューディールによる公共施設壁面のオーバーオール絵画から結果ポロックが生まれ、ヒップホップのグラフィティが生まれたことを、愛憎入り乱れる北米に対する、異形の一つであり、それがメヒコから生まれていることを、僕は忘れません。
DC/PRGは解散しますが、僕が音楽をやめるわけではありませんし、今後のニューアメリカに対するアクションは続けてまいります。「なんとか生き延びて」というのは拙国に於いてはクリシェとなっていますが、貴国におけるその発言には、退っ引きならないリアリティを感じ図にはいられません。どうかお命を大切に育んでください。