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庭について:その50(1,687字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 13ヶ月前
厳島神社の2番目の大きな特徴は「8割しか管理しない」ということである。それは、厳島神社の象徴である大鳥居を、あえて海の中に浮かべているということだ。いや、より正確に言うと湾内の砂浜の上に「置いている」ということである。そうして、その砂浜には潮の満ち引きがある。だから、潮が引いているときには下の土台...
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庭について:その49(1,876字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 13ヶ月前
日本庭園の神髄は、「放置」と「管理」の間にある。そのバランスを図ることだ。放置と管理の境界を、ぎりぎりまで突き詰めることである。ただし、そのバランスは5:5ではない。ウェイトとしては8:2で管理の方に寄っている。ぎりぎりまで管理しつつ、残りの2割を手放して放置するのである。日本庭園の代表といえば京都の...
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庭について:その48(1,668字)
コメ1 ハックルベリーに会いに行く 13ヶ月前
「水」とは何か?取り分け庭、あるいは日本庭園にとっての水とは何か?まず、日本は水が「豊富」である。それは、日本列島に雲がよくぶつかり、そこで雨が発生するからだ。発生した雨は山を下り落ち、谷に沿って川を形成する。ところどころのくぼみには池ができ、やがて全ては海に流れ落ちる。日本は四方を海で囲われて...
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庭について:その47(1,706字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 14ヶ月前
日本庭園の特徴の一つは、それが「ミニチュア」であるということだ。何のミニチュアかというと、自然である。日本庭園は、石や植栽そして池などの各要素を、山や木そして海などの自然に見立てる。そうして「見立て」という言葉が生まれるほど、その概念が重視されているのだ。その見立ての中でも、特に重要なのは「水」...
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庭について:その46(1,503字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 14ヶ月前
日本にとって庭というのは実はかなり重要な存在なのではないだろうか。というのも、日本最大の観光地といえばなんといっても京都だが、では京都で何を観光するかというと「建築」と「庭」なのだ。そして日本の「建築」は、たいていの場合脇役で、主役は「庭」となっている。だからある意味、全ての観光客は京都まで「庭...
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庭について:その45(1,685字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 14ヶ月前
トーマス・チャーチは、1948年にダネル邸庭園を設計する。その最大の特徴は「空豆型の湾曲した外縁を持つプール」だ。今日、湾曲した外縁を持つプールは決して珍しくない。特にカリフォルニアの豪邸には採用されるケースも多いが、その最初のものがダネル邸庭園で、それをデザインしたのがチャーチなのである。ところで...
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庭について:その44(1,950字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 14ヶ月前
トーマス・チャーチは、最初は「ボザール様式」の薫陶を受け、伝統的なヨーロッパ風の幾何学的な庭を志向した。「ボザール」とはフランスの国立美術学校のことで、そこで学んだことを誇ったアメリカ人芸術家たちが、自らのスタイルを「ボザール様式」と呼んだことから生まれた意匠だ。ボザール様式は、なにしろフランス...
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庭について:その43(2,061字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 14ヶ月前
トーマス・チャーチは、ランドスケープデザイナー(作庭家兼建築家)として1930年代に独立した。独立直後は、ヨーロッパの伝統的な(あるいは最新の)コンセプトやデザインに則って、庭をデザインしていた。するとやがて、その伝統的な庭のデザインと新しく勃興してきた近代建築(住宅)のデザインとの間に、拭いがたい...
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庭について:その42(1,922字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 15ヶ月前
19世紀から20世紀の変わり目に、まず社会が、次いで建築が大きく変化する。いわゆる「近代化」が熟成する中で、科学が急速に発展し、人々の生活も大きく変わった。そこで人々は、新しい社会に適合するような新しい「建築」を求めるようになった。それは、ここまで1000年も続いてきた伝統を覆すような、きわめて大きな変...
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庭について:その41(2,014字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 15ヶ月前
ここでシシングハースト・カースル・ガーデン(以下シシングハースト)についても触れておきたい。シシングハーストは、ロンドンの南西、ケント州にあるマナー(農園の中の邸宅)に付随する庭園である。元々は1530年代に建てられた城であったため、カースル(Castle・キャッスル)と呼ばれている。1930年、詩人で作家で...
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庭について:その40(1,972字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 16ヶ月前
ヒドコート・マナー・ガーデンの生け垣の最大の特徴は、やはりそれが「幾何学的」ということだろう。プロの造園家ではなかった所有者で元の設計者でもあるローレンス・ジョンストンは、良くも悪くもイギリス庭園の「伝統」を無視することができた。そのため、これまで歴代の造園家が何度となく否定し、頑なに取り除いて...
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庭について:その39(2,005字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 16ヶ月前
ヒドコート・マナー・ガーデンは、イギリスの中部、バーミンガムの南に位置するコッツウォルズ地方の北の外れにある庭園だ。ここは、アメリカ出身の富豪の子息、ローレンス・ジョンストンが作った。ジョンストンは、国籍こそアメリカだったが、生まれたのは母が滞在するパリで、1971年のことだった。そして1900年、29歳...
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庭について:その38(1,718字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 16ヶ月前
ハロルド・ペートゥは1899年、45歳のときにアイフォード・マナー・ガーデンを購入する。それから78歳で死ぬまでの34年間、ここに住み、庭を作り続けた。その設計思想のベースには、アーツ・アンド・クラフツ運動がある。つまり醜い工業製品ではなく、美しい工芸作品を用いようというものだ。あるいは、名もなき職人の作...
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庭について:その37(2,117字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 16ヶ月前
20世紀に入ると、庭を巡る状況は混沌としてくる。都市が進化、また巨大化することで、中産階級が再び庭を持てなくなったのだ。まず建築技法の進化によって、都市部では高層建築による集合住宅が一般化し、人口が過密化した。そうなると、庭を持たないことの方が再び一般的になった。さらに都市は巨大化し、農村からたく...
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庭について:その36(1,878字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 17ヶ月前
ガートルード・ジーキルの庭造りはどのようなものだったのか?ここでジーキルの生い立ちを簡単に見てみたい。19世紀半ばの1843年、ロンドンに生まれる。ちょうどロンドンの公害が深刻さを増す一方、植物園が人気を博す頃だった。5歳のとき、ロンドン南西に位置するサリー州に移動する。当時のサリー州は、ロンドンの隣と...
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庭について:その35(1,670字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 17ヶ月前
19世紀には支配的だった「風景式庭園」は、やがて貴族の衰退とブルジョワの台頭と共に廃れていく。なぜならブルジョワは、貴族ほどの広大な庭園を所有することはできなかったからだ。そのため、風景式庭園を造ることは非現実的だった。それよりも、自分たちの邸宅の適度な広さの庭にマッチした新しい様式が必要だった。...
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庭について:その34(1,845字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 17ヶ月前
ガートルード・ジーキルは1843年、イギリスのロンドンに名家の令嬢として生まれる。しかし5歳のとき(1848年)、ロンドンから南西に50キロほど行ったところのサリー州ギルドフォード郊外に家族で移り住む。以降、1932年に89歳で亡くなるまで、ずっとここで暮らした。ジーキルは、19世紀後半から20世紀を駆け抜けたガーデ...
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庭について:その33(1,719字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 17ヶ月前
ウィリアム・ロビンソンは植物園的な「異様に手のかかった庭」に異を唱え、「手間がかからず、自然なままでも美しい庭」を推奨した。彼はそれを『ワイルド・ガーデン」と名づけ、そのままのタイトルで1870年に本も出した。するとこれが大ヒットし、イギリス中でワイルドガーデンブーム、あるいは手間を掛けない庭造り=...
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庭について:その32(1,757字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 18ヶ月前
18世紀半ば、植物園の「テーマパーク化」を受けて、庭はどんどんと装飾的になっていった。すると、それに反発する勢力が現れる。一番手はウィリアム・ロビンソンだ。ロビンソンは、1938年にアイルランドで生まれる。首都ダブリンで庭師としての修行を積むと、23歳のときにイギリス・ロンドンに渡り、そこであらためて非...
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庭について:その31(1,852字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 18ヶ月前
造園家でありながら評論家としての仕事が主となっていったジョン・ラウドンは、時代が進むに連れて「映える庭」に価値を感じるようになり、ハンフリー・レプトンを再評価した。また自らは、世界中の珍しい花々を収集し、それをいかに庭に飾って映えさせるかということに腐心した。それが「ガーデネスク」というわけであ...
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庭について:その30(1,803字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 18ヶ月前
ジョン・ラウドンは、1783年スコットランドのグラスゴー近郊に、農家の子として生まれる。出自は必ずしも良くなかったが、幼い頃から植物への高い関心とセンスとがあった。11歳のとき、エジンバラの種苗店の徒弟となる。さらに、働きながらエジンバラ大学で植物学や農学を聴講する。つまり苦学生であった。それからおよ...
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庭について:その29(1,539字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 18ヶ月前
リチャード・ペイン・ナイトは1751年生まれの貴族だ。莫大な遺産を継いで国会議員なども務めたが、ほとんど名誉職のような感じだった。それよりも、彼は貴族の出らしく「文化人」として生きた。莫大な領地を所有したことから造園に興味を抱き、たまたま隣人だったユーヴドール・プライスとともにランスロット・ブラウン...
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庭について:その28(2,033字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 18ヶ月前
プライスにおけるピクチャレスクの3つの要素は「粗さ」「急激な変化」「不規則性」である。そして面白いことに、そんなプライスがピクチャレスクの代表として掲げているのが「廃墟」なのだ。廃墟には、粗さと急激な変化と不規則性の3つがあるという。その意味では、原初のブラウンが創始したイギリス式庭園に戻ったとも...
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庭について:その27(1,940字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 19ヶ月前
18世紀のイギリスで、庭の進化がピクチャレスクという概念を生み、そこで発展したピクチャレスクという概念が、また庭にフィードバックするという現象が起こった。そうして18世紀の終盤になると、ピクチャレスクという概念が沸騰し、これをめぐってさまざまな議論が取り交わされた。その結果、庭とピクチャレスクは共に...
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庭について:その26(1,653字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 19ヶ月前
18世紀末――1790年頃から庭園における「ピクチャレスク」の概念についての再定義、再解釈が行われる。この議論を先導した人物は3人いて、ウィリアム・ギルピン、ユヴテイル・プライス、リチャード・ペイン・ナイトだ。このうち、まずはギルピンから見ていく。ギルピンは造園家ではなく、評論家兼文筆家であった。彼の代表...
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庭について:その25(1,606字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 19ヶ月前
19世紀に入ると、評論家であったウィリアム・ギルピンの影響などによって、ブラウンの庭は批判の対象とされていく。それは、ブラウンの庭があまりにも「分かりやすい」ものだったからだ。「映え」が過ぎている……というわけだ。18世紀初頭、イギリス式庭園はローマ廃墟への憧れから始まった。ローマの廃墟に「萌え」たの...
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庭について:その24(1,776字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 19ヶ月前
大ヒットしたトマス・ウェストの『湖水地方案内』に代表されるように、18世紀後半、「ピクチャレスクな景色」を紹介するガイド本がいくつも出版された。これは、当時イギリスの中産階級の間で、旅行が流行し始めていたからだ。そこで「ピクチャレスクな自然」が人気スポットとして脚光を浴びるようになった。このとき、...
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庭について:その23(1,703字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 20ヶ月前
トマス・ウェストという人が1778年に『湖水地方案内』という本を書いている。この本では、「ピクチャレスク」の概念が詳細に述べられている。ピクチャレスクを味わうために、「湖水地方に旅行へ行こう」という主旨だ。ここに端的に見られるように、18世紀も後半になるとピクチャレスクという概念はイギリス市井の人々に...
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[Q&A]現代において結婚をする意味は?(2,158字)
コメ1 ハックルベリーに会いに行く 20ヶ月前
[質問]今、庭についての連載をされていますが、ハックルさん自身が好きな庭、理想とする庭はありますか?[回答]ぼく自身、実は庭というものについて考え始めてからまだ日が浅いので、そこまでの深い見識というのはありません。そうした中でも好きなものといえば、やはりイングリッシュ・ガーデン、あるいは北欧風の庭と...
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庭について:その22(1,862字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 20ヶ月前
ストウ庭園は、ロンドンの中心部から北西に約100キロ行ったところにある。日本でいうと、東京の中心部に対する群馬県高崎市くらいの位置だ。このストウ庭園は、まずブリッジマンが下地を作って、そこにケントがさまざまな意匠を凝らした。そうして最後に、ランスロット・ブラウンが参加して仕上げることとなった。このブ...
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庭について:その21(1,717字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 20ヶ月前
ブリッジマンがストウ庭園の配置・構成を徐々に非科学的、自然的に整えていったところに、ケント・ウィリアムスが庭師として参加する。そこで彼は、これまでの経験を活かしてストウ庭園を「ピクチャレスク」に仕上げていくのだ。ケントの考える「ピクチャレスク」とは、ローマで見たルネサンス期における古典主義絵画の...
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庭について:その20(1,625字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 21ヶ月前
チャールズ・ブリッジマンという造園家がいる。1690年の生まれで1738年に亡くなった。彼は、これまで見てきたウィリアム・ケントやランスロット・ブラウンよりも先に、非幾何学的な庭を志向し、造った。その意味では、ケントやブラウンの先駆的存在だ。しかも、彼らと一緒に仕事もしたので、ある意味師匠的な存在ともい...
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庭について:その19(1,886字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 21ヶ月前
「イギリス式庭園史」を大まかとらえると、まず3代目バーリントン伯爵がウィリアム・ケントと組んで、18世紀前半にローマで見た廃墟の絵のような「庭」を志した。その「廃墟の絵」は、ニコラ・プッサンとクロード・ロランが描いたものだ。彼らは当時より100年くらい前、17世紀の画家であった。ニコラ・プッサンは、1594...
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庭について:その18(1,644字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 21ヶ月前
「ピクチャレスク」とは何か?それは、直訳すると「絵のような」という意味であるが、元々庭園について用いられた概念だ。18世紀に「イギリス式庭園」というものの価値や概念が確立され、その過程で「求められるべき庭の理想の一つ」としてピクチャレスクが定められたのである。ピクチャレスクは、美術書にはこのように...