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石原莞爾と東條英機:その78(1,676字)
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ハックルベリーに会いに行く 2日前
「出る杭は打たれる」という言葉が昔からある。意味は、日本人は能力の高い人間をよってたかって潰そうとする村社会、という意味だ。従ってイノベーションが生まれにくい。しかし同時に「出過ぎる杭は打たれない」という言葉がいつの頃からかあった。最近ではイチローがこの言葉を使っていたが、日本人というのは不思議...
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石原莞爾と東條英機:その77(1,923字)
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ハックルベリーに会いに行く 1週間前
石原莞爾は満州の関東軍に転属になって以来、満州国の自主独立を目指して、あるいは始まってしまった日中戦争を早期に終わらせようと、あれこれ働きかけていた。しかしそれを東條英機がことごとく阻止した。東條の立場(意見)は石原と正反対だった。満州は日本が支配しなければならないし、中国との戦争は継続(拡大)...
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石原莞爾と東條英機:その76(1,869字)
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ハックルベリーに会いに行く 2週間前
石原莞爾はかねてから日本の中国への侵攻に反対していたため、陸軍の中央部から煙たがられた。それで、1937年の10月に東京の参謀本部長から満州の副長官に転属になった。これは、中央から移されたという意味では左遷でもあったが、しかしそれでも満州は日本の要衝だったので、必ずしも悲観するような人事ではなかった。...
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石原莞爾と東條英機:その75(1,752字)
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ハックルベリーに会いに行く 3週間前
チャハル作戦は1937年8月9日に始まった。これは関東軍の参謀長である東條自らが指揮して大きな成果を上げた。ところがその直後、東條と、そして石原莞爾の運命を大きく変えるあるできごとが起こる。それは人事である。中央の参謀本部第一部長だった石原莞爾が、異動でなんと関東軍の参謀副長へと配置換えになるのである...
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石原莞爾と東條英機:その74(1,882字)
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ハックルベリーに会いに行く 4週間前
チャハル作戦は1937年8月9日に始まった。盧溝橋事件が7月7日なので、およそ1ヶ月後である。日中戦争が始まると、満州に駐屯していた関東軍はすぐにチャハル省の占領作戦を日本の参謀本部に打診した。参謀本部はこれをのらりくらりとかわしていたが、やがて陸軍内部における対中戦への意欲の高まりを抑えきれなくなる。特...
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石原莞爾と東條英機:その73(1,774字)
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ハックルベリーに会いに行く 1ヶ月前
1937年7月6日の夜に、盧溝橋事件が起こる。中国に駐屯する日本軍が、盧溝橋の近くでいささか挑発的な演習を行っていた。そのとき、数発の銃声が聞こえた。それで隊長が慌てて点呼を取ってみると、兵隊が一人足りなかった。そのことから「中国軍の襲撃を受けて殺された」と考え、取りあえず反撃した後、牟田口廉也連隊長...
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石原莞爾と東條英機:その72(1,685字)
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ハックルベリーに会いに行く 1ヶ月前
東條英機は、1936年12月1日に中将に昇進する。それからちょうど4ヶ月後の1937年3月1日、板垣征四郎の後任として関東軍参謀長に就任する。ちなみに板垣は広島方面に展開する第五師団の師団長となる。さらに1年後の1938年6月3日、陸軍大臣に就任するのであった。東條は、奇しくもこの板垣のスリップストリームに入るような...
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石原莞爾と東條英機:その71(1,715字)
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ハックルベリーに会いに行く 1ヶ月前
ここで東條英機の当時の動きを、もう一度時系列で整理してみたい。1935年7月15日、永田鉄山が殺される。直後の9月21日に久留米から満州へと転任(栄転)になり、関東憲兵隊司令官・関東局警務部長に就任する。このとき、東條と憲兵とのつながりが生まれる。東條は「憲兵のリーダー」として抜群の才を有していた。釘を打...
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石原莞爾と東條英機:その70(1,782字)
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ハックルベリーに会いに行く 1ヶ月前
相沢事件で永田鉄山が殺されて以来、東條英機には何かが「ノ」っかった。何かといえばそれは永田鉄山だ。それ以降の東條英機は永田鉄山の代行者、代理人となったのだ。それは永田の弔い合戦でもあった。だから人々は、東條自身に永田の影を見ないわけにはいかなかった。そもそも永田と東條は全く異なるタイプの人間だが...
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石原莞爾と東條英機:その69(1,825字)
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ハックルベリーに会いに行く 2ヶ月前
東條英機は1935年まで久留米に左遷されクビ寸前だった。そこからほんの6年で首相の座にまで上り詰めるのである。1935年の時点で東條の首相就任を予見した者は、本人も含め皆無だろう。東條は良くも悪くも事務方の人間である。そのためリーダーにとっては頼もしい部下だったし、東條もそれを自認していた。けっしてリーダ...
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石原莞爾と東條英機:その68(2,034字)
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ハックルベリーに会いに行く 2ヶ月前
ここで少し時系列を整理したい。1936年2月、二・二六事件が起きる。1936年11月、満州に駐屯する関東軍の北支分離工作が激しくなる。北支分離工作とは、華北(中国の北の地方)を満州同様に中国から独立させ、中国の弱体化をはかる工作だ。1936年12月、当時中央の作戦課長だった石原莞爾は、わざわざ満州まで赴き、分離工...
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石原莞爾と東條英機:その67(1,723字)
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ハックルベリーに会いに行く 2ヶ月前
石原莞爾は宇垣一成の首相就任を阻止した。しかし石原は後にこれを後悔することになる。なぜならもし宇垣が首相だったら軍縮を実現させ、それによって中国との戦争を食い止められたかもしれないからだ。石原は中国との戦争を絶対にやめたかった。なぜなら、中国を味方に引き入れないと、来るべきアメリカとの戦争に勝て...
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2024年を振り返り、2025年を展望する(2/5)(1,850字)
コメ0
ハックルベリーに会いに行く 3ヶ月前
これから世界は右傾化していくだろう。右傾化というと警戒する人も多いが、人間社会で一番怖いのは「左傾化」である。なぜなら、左傾化の行き着く先に待っているものこそ、最大の恐怖である「全体主義」だからだ。これは多くの人が知らないことだが、戦前戦中の日本は、陸軍による左翼国家(右翼ではない)になり、最後...
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【わかる中東ニュース(11)】 「シリアの混乱はCIAが植え付けた】 「『犯罪組織→英雄→戦争犯罪人』ーCIAに翻弄された世界
コメ0 山口敬之メルマガ 3ヶ月前
【わかる中東ニュース(11)】「シリアの混乱はCIAが植え付けた】「『犯罪組織→英雄→戦争犯罪人』ーCIAに翻弄された世界中の政治家」「求められる東條英機元首相の名誉回復」🟥紛争激化の切り札は「CIAによって作られた英雄」 トランプ次期政権が解体しようとしているディープステイト=DSにはいろいろな定義があります。...
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石原莞爾と東條英機:その66(1,738字)
コメ0
ハックルベリーに会いに行く 3ヶ月前
石原莞爾は武藤章ら対中国強硬派の満州組からは敬遠されるようになっていたが、二・二六事件での活躍もあって、中央部ではまだ高い影響力を保持していた。そんなとき、広田内閣が瓦解し、新しい総理大臣として元陸軍の宇垣一成が天皇から指名された。これに対して、石原が妨害工作へと動くのである。後に石原は、この妨...
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石原莞爾と東條英機:その65(1,934字)
コメ2
ハックルベリーに会いに行く 3ヶ月前
1936年12月、石原莞爾のはしごが武藤章によって密かに下ろされ始める。そうしてこれ以降の数年間が、石原にとって一つの「受難の時代」となっていく。その石原の受難を見る前に、まず当時の内閣の動きから確認したい。石原と武藤の一件から3ヶ月後の1937年2月、時の広田内閣が総辞職した。広田内閣は、二・二六事件の責...
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石原莞爾と東條英機:その64(1,872字)
コメ0
ハックルベリーに会いに行く 4ヶ月前
1936年の2月に、石原莞爾は武藤章と協力して二・二六事件を鎮圧した。このとき、中心的な働きをしたのが石原と武藤だった。そうして一度は協力関係を築いた二人だが、すぐに袂を分かつことになる。二・二六事件の後、武藤は関東軍――つまり満州へと異動になる。赴任後、内蒙古(モンゴル)の分離独立工作を担当することに...
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石原莞爾と東條英機:その63(1,862字)
コメ0
ハックルベリーに会いに行く 4ヶ月前
二・二六事件は1936年に起こっている。つまり太平洋戦争開戦の9年前だ。ここからの9年間が、激動なのである。戦争中を抜かせば、日本の最も脂っこい時代だ。石原莞爾は1889年生まれなので、47歳から56歳までがその激動の時代ということになる。そのため石原自身も、まさに脂が乗り切っていた時期だが、それが逆に石原に...
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石原莞爾と東條英機:その62(1,818字)
コメ0
ハックルベリーに会いに行く 4ヶ月前
二・二六事件が起こったとき、石原莞爾は参謀本部作戦課長という肩書きだったが、早くから反乱部隊の鎮圧組織に身を置き、その要として活躍した。二・二六事件は繊細に推移する。最初は荒木貞夫や真崎甚三郎を中心にこれを容認する雰囲気が広がったが、そこから石原莞爾らの働きで徐々に鎮圧するという考えが広がってい...
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石原莞爾と東條英機:その61(1,883字)
コメ0
ハックルベリーに会いに行く 4ヶ月前
相沢事件は1935年8月12日、夏の暑い盛りに起こった。それから半年、皇道派は追い詰められた。永田鉄山の復讐に燃える統制派の画策によって、その主要なメンバーが満州へと派兵されることになったのだ。つまりかなり強硬な敵対工作、弱体工作を講じてきたのである。すると皇道派は、窮鼠猫を噛むで、究極の手段に訴える。...
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石原莞爾と東條英機:その60(1,924字)
コメ0
ハックルベリーに会いに行く 4ヶ月前
永田鉄山が相沢三郎に殺された。その報に接したとき、石原莞爾は「なんだ、殺されたじゃないか」と言ったとされる。そして相沢に対しては、「妻子もある40代の男が、命をかけて何かをするということは、陸軍にはまだ見込みがある」と言ったとされる。つまり、永田鉄山の側ではなく、むしろ相沢三郎の側についたのだった...
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石原莞爾と東條英機:その59(1,847字)
コメ0
ハックルベリーに会いに行く 5ヶ月前
化物と化した戦前の陸軍。その中で石原莞爾はどのような存在だったのか?彼は陸軍内で、誰からも文字通り一目も二目も置かれていた。いろいろな理由はあるが、やはりその独特の個性に因るところが大きい。誰に対しても一歩も引けを取らない。しかも満州事変を主導したという実績もある。満州事変は陸軍の「心の拠り所」...
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石原莞爾と東條英機:その58(1,885字)
コメ0
ハックルベリーに会いに行く 5ヶ月前
皇道派は荒木貞夫と真崎甚三郎を旗頭としていた。荒木も、元々は一夕会の領袖を務めるなど、統制派の永田鉄山とは非常に近しい関係にあった。永田鉄山が荒木を引き立て陸軍大臣に仕立て上げたという経緯さえあった。ところが荒木は、陸軍大臣になってからは、腐敗した閣僚や経済人を一掃し、陸軍が中心となる国家を作ろ...
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石原莞爾と東條英機:その57(1,698字)
コメ0
ハックルベリーに会いに行く 5ヶ月前
永田鉄山を殺したのは相沢三郎という陸軍将校だった。つまり永田の後輩であり部下だ。陸軍士官学校出身で当時46歳の中佐だった。この事件は、犯人の名を取って「相沢事件」と呼ばれている。相沢三郎は1889年に仙台で生まれる。実家は旧仙台藩士だった。そして石原莞爾も同じ1889年の生まれで、同じ東北(山形)の旧武家...
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石原莞爾と東條英機:その56(1,737字)
コメ0
ハックルベリーに会いに行く 5ヶ月前
東條英機は久留米で電報を受け取った。そこに永田鉄山の訃報が載っていた。ただちに東京へのキップを取り、鉄道で一昼夜をかけて上京した。そうして永田邸を訪れ、その亡骸と対面した。東條英機にとって永田鉄山とは何だったのか?それは「全て」といっていい。永田鉄山こそ東條英機の生きる理由のようなものだった。師...
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石原莞爾と東條英機:その55(1,769字)
コメ0
ハックルベリーに会いに行く 6ヶ月前
こうして永田鉄山は殺されてしまった。東條英機はそれを左遷先の久留米で聞いた。この頃、東條英機は久留米で苦しみながらもなんとか部下を掌握していた。当時の若手将校は、その多くが皇道派だった。しかも久留米は、真崎甚三郎が自分の子飼いを赴任させ、固めていた。そのため東條英機にとっては完全にアウェーだった...
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石原莞爾と東條英機:その54(1,854字)
コメ0
ハックルベリーに会いに行く 6ヶ月前
真崎甚三郎は陸軍大臣になれず、代わりになったのは林銑十郎だった。これによって今度は真崎と林が対立するようになり、真崎は林の追い落とし工作をあれこれと計るが、逆に林の怒りを買って、今度は林が真崎に教育総監の地位も辞職するよう求める。真崎はこれに頑として抵抗したが、ついにその地位を剥奪されてしまう。...
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ドラッカー学会糸島大会が終わった(1,142字)
コメ0
ハックルベリーに会いに行く 6ヶ月前
今回は『石原莞爾と東條英機』の回だが、お休みして土曜日に行われたドラッカー学会糸島大会について書きたい。まずは終わってホッとしている。大過はなかった。会場のインターネット回線が使えなくて配信がピンチに陥ったが、原田さんという実行委員の人が持っていたWi-Fiを貸してくれて事なきを得た。これがなかったら...
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石原莞爾と東條英機:その53(2,039字)
コメ0
ハックルベリーに会いに行く 6ヶ月前
気のいいオッサンの荒木貞夫は1931年、満州事変の真っ只中で、永田鉄山らの後押しもあって陸相に就任する。しかし1932年から若手将校たちが荒木の元に参集するようになり、やがて「皇道派」を形成する。いい気になった荒木は盟友真崎甚三郎とともに自らを利する独裁的な人事を行う。しかしこれが皇道派以外の反感を買い...
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石原莞爾と東條英機:その52(1,800字)
コメ2
ハックルベリーに会いに行く 7ヶ月前
荒木貞夫は陸軍を「天皇の軍」という意味で「皇軍」と呼び、その在り方=「道」を道徳に説いていた。だから、荒木の元に参集した若手将校たちは「皇道派」と呼ばれた。その皇道派の行動理念は昭和恐慌、あるいは世界恐慌を機に始まった経済の混乱に対する「義憤」にある。彼らは猛烈に怒っていた。何に怒っていたかとい...
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石原莞爾と東條英機:その51(1,543字)
コメ3
ハックルベリーに会いに行く 7ヶ月前
東條英機は1934年8月1日に久留米に赴任する。ちょうど50歳のときだから、これは完全に左遷だった。出世街道なら、いよいよ中央の主要なポストも伺おうかという年齢だ。これで東條は消えた、と多くの人に思われた。しかし一方、東條は消えた、と思わない人も多かった。なんといってもあの永田鉄山の懐刀で、その永田自身...
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石原莞爾と東條英機:その50(1,817字)
コメ0
ハックルベリーに会いに行く 10ヶ月前
「国体」とは何か? それは「日本」という美しい国のことである。この我々が愛してやまない美しい日の本の国――自然ももちろん美しいが、何よりそこに住う人々が美しい。この日本の美しさこそが「国体」である。我々日本人の祖先が、古来より連綿と命懸けで守ってきたものだ。この考えをナチュラルに持っている日本人は...
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石原莞爾と東條英機:その49(1,857字)
コメ0
ハックルベリーに会いに行く 10ヶ月前
皇道派の荒木貞夫は「気のいいおっさん」だった。気のいいおっさんで若者好きだったのだが、こういう人物はときどきいる。そしてここからが少し複雑なのだが、荒木貞夫はやはり頭が少し悪かった。陸大を主席で卒業しながら「頭が悪い」とはどういうことか? それは「言われたことは苦もなくできるが自分の頭で考えるの...