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■久瀬太一/7月31日/19時20分
2014-07-31 19:20
母さんが死んだ年のクリスマスパーティが、たぶん最後だ。
それっきりオレは、あのパーティには行かなくなったはずだ。
あの夜、雪は降っていなかった。
外気はひりひりと肌に張りつくように冷たかった。反対にホテルのなかは、暖房がよく効いていて、頭がぼんやりとした。暇だったオレは、ホテルの中をあちこちをちょろちょろと走り回っていた。
パーティ会場の隣にある、重たい扉を開いたことに、理由はなかったように思う。なんであれ、閉じられている扉は開きたくなる子供だったのだ。
先は暗い部屋だった。光が少ないからだろうか、会場と同じように暖房が効いていたはずなのに、なんだか寒々しく感じた。その部屋のかたすみに、ドレスを着た女の子が座り込んでいた。みさきだった。
彼女は膝を抱え込んだまま、驚いた表情でこちらをみた。
「こんなところで何してんだよ?」
と、たぶんオレは言った。
あのときの、みさ -
■久瀬太一/7月31日/19時10分
2014-07-31 19:101
母さんが死んだのは、オレがまだ8歳だったころだ。
そのころオレは父親の赴任先にいて、母さんは東京の病院だった。
母さんが死ぬことは、わりと早い段階からわかっていたことなのだと、今思い返せばわかる。だからその2週間ほど前から、オレは東京の親戚の家にあずけけられた。
どうして母さんが死んだのか、オレは知らない。なにかずいぶん難しい名前の病気だった。幼いころに聞いたけれど、とても覚えられなかったし、それなりに成長してからも改めて聞く気にはなれなかった。
なんにせよ、オレが8歳のころ、母さんは死んだ。それがすべてで、重要なことは母さんとの、いくつかの思い出だけだ。
※
偉人の最期の言葉というのは、よく話題になる。
もっと光を、と言ったのはゲーテだ。向こうはとても美しい。これがエジソン。私の図形に近寄るな。アルキメデス。
谷崎潤一郎は、「これから小説を書かないとい -
■久瀬太一/7月31日/19時
2014-07-31 19:00
今日は一日、宮野さんのところでアルバイトをして過ごした。
こんなことをしている場合か、という思いもあったけれど、あのミュージックプレイヤーとスマートフォンを手に入れたい。とりあえず真面目に働いて、「スイマを調査する仲間」だと認めてもらうしかなさそうだ。
とはいえベートーヴェンには、スイマの記事しか載らないわけではない。今日、オレに割り当てられた仕事は、インタビューのテープ起こしだった。宮野さんがどこかの大学教授から、陰陽術について訊いてきたもののようだ。内容はあまりオカルト的ではなかった。どちらかといえば民俗学としての学術的な側面の方を強く感じた。意外なことに、そのテープ起こしは楽しい作業だったけれど、やはり気持ちは焦る。
宮野さんとスイマについての話ができたのは、夕食の時間になったときだった。
「おごってあげるわ」
といわれて、宮野さんと共につけ麺がうりのラーメン屋に入る
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