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【第158回 芥川賞 候補作】『愛が挟み撃ち』前田司郎
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【第158回 芥川賞 候補作】『愛が挟み撃ち』前田司郎

2018-01-10 17:30
    1.

     4みたいに京子は、右足一本で立っている。
     肩まで届かない髪を無理に縛って顔が少し突っ張っているから、もともと切れ長の軽く垂れた目が多少釣りあがって見える。整った美しい顔立ちは、どことなく不幸そうに見え、いつも不機嫌だと思われる。今も上機嫌だったが、そうは見えない。
     ペーパーフィルターに量を計ってコーヒー豆を入れる。
     時々左右の足を入れ替える。床が氷のように冷たい。スリッパは薄汚れたから捨てた。最近のことのように思うけど、あれは結婚してすぐだからもう5年経っている。いや、もう十二月だから6年か?
    「いまいち判んないんだけどさ」と俊介は京子の方を振り返って言う。「子供って出来た方が良いわけでしょ? 生物的には」と続けた。
    「出来た方が良いって?」
     ちょっとだけ首を振り、苔緑色のどっしりとしたソファに寝間着のまま胡坐をかいている俊介にそう訊いたけど、言わんとしていることは何となく判った。コーヒーを淹れるのに集中しているから、喋りたくなかっただけ。
    「いや、だから、子孫を残すのが必要なんだったらさ、確実に妊娠するように出来てたほうが良いだろう? なんで神さまはそういう風に作らなかったのかな」
     神さまなど二人とも信じていない。
    「そんなの私にわかるわけないじゃん」
     そう言われてみると不思議だな、と京子は考える。
     人間が年中、発情していることと関係があるのかしら。
     猿などと違って人は常に発情していると、何かの本で読んだことがあった。京子も俊介も年中発情しているわけではない。猿に言わせるとそうなのかも知れないけど。例えば今は発情していない、少なくとも私は。
     暖めるために入れておいたカップのお湯を捨て、代わりにコーヒーを注ぐ。京子は学生の頃、喫茶店でバイトしていた。俊介の方には安い蜂蜜を入れ、自分のには何も入れない。
     ソファの前のテーブルにカップを二つ置く。
     俊介が腰をずらして京子の座る場所を作る。細長い顔、目元は中年らしく張りを失ってきた。もともと痩せているからか、こうして座っていると、お腹のでっぱりが目立つ。風呂上りなどに「あなたが先に妊娠しちゃったんじゃない?」とからかうと、腹を叩いてみせるが、砂袋を床に落としたような鈍い音がして京子は心配になる。
     二人で座るには少し狭いソファにお尻を押し込め、背もたれに残った俊介のぬくもりと、触れ合った体の温かさが心地よく、せっかく淹れたコーヒーを飲むために、後ろに預けた身体をもう一度起こさないとカップに手が届かないのが面倒で、京子はそのまま窓の外を見た。
     光で真っ白。
     すぐに目が馴れる。空に雲が融けた薄い灰色が広がって、そこに太陽の光が僅かなコントラストをつけている。その前をアメーバみたいのが浮遊する。視線を動かすとつられて動く。これは目の中に入り込んだカビだそうだ。
     俊介の膝の上に右手を置く、俊介が手を重ねる。指を反らせて俊介の指に絡めてふざけあう。俊介が京子の手を二回、強く握って終わらせると、体を起こしコーヒーを一口飲んだ戻り際、ついでみたいに京子のうなじにキスをする。
     吐息がかかる。
     コーヒーの臭いは好きだけど、息と混ざるとなんか嫌だ。
    「よいしょ」
     今度は京子が勢いをつけて身体を起こし、コーヒーカップを手に取った。
     俊介が微笑んで、ソファの肘掛けの上の携帯電話を手に取る。
     コーヒーのカップを口に運ぶと、思ったより冷めていない。一口飲んで、しばらく包むように持って手を温める。またテーブルに置いた。
    「あなたも一緒に行ったほうが良いって」
     俊介がすぐに、理解できないことは判っていて、わざと情報足らずな言い方をする。
    「え? どこに?」
    「お医者さん」
    「え?」
     俊介は携帯を太ももの上に伏せ、京子の方を向いた。心配そうな表情を作っている。
    「今行ってる産科の先生が、そういう、不妊専門のお医者さんのところに行った方が良いって、なんか紹介してもらったんだけど行ってみる?」
    「そんなのがあるの?」
    「あるんだって」
    「へえ」と、携帯の画面に目を戻す。
    「そういう治療をはじめるにしても、いろいろと説明したり、夫の許可が要るんだって」
     許可という言葉に違和を感じたけど、認可じゃなくて、承認じゃ硬すぎるし、もっとぴったりな言葉がある気がするんだけど。
    「やっぱ治療が必要なの? だってまだ若いじゃん」
     俊介は未だに事態を正確に把握出来ていない。何回か説明したのに。
     京子は三十六だ。十代二十代とは違う。
     医師の言うには、卵細胞は老いるのだそうだ。三十五を越えての初産は高齢出産にあたると言う。
     冷蔵庫の卵が消費期限を迎えるようなイメージじゃないことは判っている。卵は消費期限を過ぎても全然食べれるし、ゆで卵にするときなんかは逆に古い卵の方が良いのにな。などと、どうでも良いことを考えながら京子は言う。
    「まあ、そんなやばい状況じゃないと思うけど、これまでだってちゃんと避妊してないのに、子供出来なかったでしょ? だからちょっと、もしかすると、少し出来辛い環境なのかも知れないんだって。一年くらい避妊しなかったら普通80%くらいの確率で子供出来るらしいよ」
    「そんなに?」
    「70%だったかな? 忘れちゃったけど」
     俊介は、それを聞いて少し考え、コーヒーを一口飲むと、渋い顔でいかにも重そうなことを言い出しそうで、京子は身構える。
    「え、それってさ、そんな深いところまで話したの? その、避妊してないとか」
     拍子抜けして京子は答える。
    「だってしょうがないでしょ、そういう話をする所なんだから」
    「まあ、そうだけど、なんか嫌だな」
    「私の方が嫌だよ」
    「まあ、そうだけど」
     と言って、俊介は左手を京子の肩に回しつつ、ソファに深く腰をうずめ、天井を仰ぐ。
    「え、治療って具体的に何すんの?」
    「知らないけど、検査して、妊娠しやすい日とか教えてくれたり、なんかそういう肥料みたいなのをくれるんじゃない?」
    「肥料?」
    「わかんないけど、こう、畑の状態を良くする薬みたいな」
     京子がそう言ってお腹の辺りをモヤモヤ指差すと、俊介は馬鹿にしたように笑う。
    「肥料は実が生ってからだろ」
     そんなこと無いだろ、と思ったが、黙っていた。
     子供を作ろうと言い出したのは俊介の方で、京子はそろそろ潮時かと思っただけで、夫ほど積極的ではなかったはずなのに、行動するのは自分ばかりでなんだか損した気がする。


    ※1月16日(火)18時~生放送
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