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【第160回 芥川賞 候補作】古市憲寿「平成くん、さようなら」
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【第160回 芥川賞 候補作】古市憲寿「平成くん、さようなら」

2019-01-08 12:00
     彼から安楽死を考えていると打ち明けられたのは、私がアマゾンで女性用バイブレーターのカスタマーレビューを読んでいる時だった。デンマークブランドが開発した高級バイブレーターのページには、投稿者「吉高」さんによる「すべての初心者へ」と題された長文が掲載されていた。その文章を全て信じるのならば、「吉高」さんは処女であり、今まで自分で「指を1本しかいれたことがなかった」が、このバイブレーターで練習した結果、穏やかで快適な自慰行為ができるようになったという。「吉高」さんは、このバイブレーターのおかげで、彼氏を欲しいという気持ちが完全に消え、人生に自信が持てるようになったとも記している。私は処女でもなかったし、穏やかなバイブレーターが欲しいわけでもなかったが、それほど「吉高」さんに自信を与えた製品ならばカートに入れてもいいのではないかと思い始めていた。
     性行為を嫌う彼のせいで、私には定期的に女性用のセックストイを買う習慣がある。ベッドルームには、イロハ、スヴァコム、ストロングトルネードなど、数十のローターやバイブレーターが並べられていた。最近のお気に入りはウーマナイザーだ。振動だけではなく、吸引によっても女性をオーガズムに導くドイツ発の商品で、角度や強度も細かく調整することができる。バイブレーターやローターに慣れてしまったらウーマナイザー一択だと友人から勧められたのだが、期待以上の製品だった。しかしウーマナイザーにも飽き始めてしまった今、新しいセックストイを探していたのだ。
     彼との取り決めで、アダルトグッズに関する請求は全て彼に行くことになっている。私も彼もお金に困ることはない立場にあるが、それは私たちの妥協であり、結束の象徴でもあった。私たちのセックスに責任を持つのは私たちであるべきだ。その責任を果たせないならば、何らかの代償行為をする必要がある。その理解は私たち共通のものであることを形にしたのが、私から彼へのセックストイに関する請求だ。
     つまり、セックストイを選ぶという行為は、私の生活にとって、それなりに重要な意味を持つ。だから、彼がどんな顔をして、どんな覚悟を持って安楽死で死にたいと言ったのか、全く思い出すことができない。ただ彼によれば、私はまるで朝食のメニューを尋ねられた時のように「いいんじゃない」と応えたという。今から思えば、普段から彼の提案に異議を唱えることが少なかったため、反射的に同意の言葉を口にしてしまったのだろう。
     1989年1月8日生まれの彼は、今年で29歳になった。彼が社会から注目されるきっかけになったのは、今から7年前のことである。22歳の時に書いた大学の卒業論文が指導教官と編集者の目に留まり、単行本として出版されたのだ。博士論文や修士論文が出版されることはままあるが、学部生の書いた卒業論文が日の目を見ることは珍しい。そのようなことが起こったのは、もちろんその年が2011年だったからに他ならない。3月11日に起こった震災により、彼が通っていた大学では卒業式が中止され、代わりに指導教官が個人的な卒業パーティーを開いてくれたという。そのパーティーで祝辞を述べるため、指導教官は学生たちの卒業論文を読み直した。文芸評論の仕事で忙しい人物が通常であればそうした労を執ることはないはずなのだが、大学として卒業式を挙行できなかったという後ろめたさもあったのだろう。あるいは連載を持っていた媒体が一時的な休刊となり、ただ時間に余裕ができたというだけなのかも知れない。とにかく指導教官は、彼の卒業論文が震災後の時流と非常に適合していることに気が付いた。論文は、当時話題になっていた原子力発電所で働く若者たちに丹念な聞き取り調査を行い、原発の功罪を描き出したものだった。教授は初読の時、文章力は高いものの、地味なテーマだとしか思わなかったらしい。しかし、3月11日を境にして状況はまるで変わってしまった。当時、人々の知りたかったことが、その論文に詰まっていたのだ。しかも分量は十分にあり、多少のリライトを施せばすぐに書籍化できそうなレベルに達していた。すぐに懇意にしている講談社の編集者を彼に紹介し、論文はソフトカバーの単行本という形でその年の5月には出版される。
     本は出版後たちまち話題になり、メディアは震災の話題を扱うたびにこぞって彼を取り上げた。1、2年もしないうちに、この国はすっかり震災に対する興味を失ってしまったが、彼は得意とする分野を次々と変えていった。2050年の日本を舞台にした未来小説、日本社会の仕組みをビジュアルで解説した図鑑などを精力的に発表し、いつの間にかすっかりと文化人と呼ばれるカテゴリーに収まる人物になっていた。最近では映画やドラマの脚本までを手がける。彼が注目を浴びたのにはいくつかの理由があるが、最大のポイントは名前にあったと思う。
     彼はファーストネームを平成(ひとなり)という。この国が平成に改元された日に生まれたという安易な命名なのだが、結果的にその名前は彼の人生に大きく貢献することになった。彼は「平成(へいせい)くん」と呼ばれることで、まるで「平成」という時代を象徴する人物のようにメディアが扱い始めたのだ。しかも「平成人」と言われて納得のしやすい容貌をしていた。187センチという長身に、宇宙人のような逆三角形の輪郭の小さな顔。目元までを覆うような重たい前髪。細いながらも眼光の鋭い目。だけど唇だけは分厚くて、モデルといわれても、連続殺人犯といわれても、納得できてしまうような顔つきだ。


    ※1月16日(水)17時~生放送
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