閉じる
閉じる
×
私たちがいま住む世界についての理解はもともと不完全であり、
完全な社会などは達成不可能なのだ。
ならば、私たちは次善のもので良しとせねばならない。
それは不完全な社会であるが、
それでも限りなく改善していくことはできる社会である ――ジョージ・ソロス
第一章 骨肉
1
少年は蟻を見ていた。
暑い夏の午後、しばしば飽くこともなく足元の蟻の行列を見続けていた。
しかし、そんな少年の様子に興味を示す者は、家中には誰一人としていない。
生まれた時から、異常に癇の強い乳児だった。
ひとたび何か気に入らぬとなれば、声を限りに泣き叫ぶ。周囲の空気を切り裂かんばかりであったという。泣き方にも乳児に見られる可憐さや愛嬌などは欠片もなく、ひたすらに周囲を戸惑わせ、苛立たせるだけだった。自然、奥向きの侍女はむろん、実母からも疎まれた。
ある時、この乳児がまたも疳の虫に襲われ、吸っていた乳母の乳首を噛み切った。乳母は激痛と衝撃に堪えかね、乳児を取り落とした。板の間に頭を打ち付けた乳児は、さらに火がついたように泣き喚いた。
不幸なことに、現場をたまたま乳児の父親が見ていた。父親は激昂し、不始末をしでかした乳母を斬り捨てた。血塗れの床の上で、乳児はなおも泣き叫んでいた。
父の名を、織田信秀(のぶひで)という。尾張国守護である斯波(しば)氏の陪臣である。下四郡を支配していた清洲(きよす)織田氏(織田大和守(やまとのかみ))の分家にして、清洲三奉行の一つを務める弾正忠(だんじょうのちゅう)家の惣領であった。
乳児の名は吉法師(きっぽうし)――のちの織田信長である。長じても、癇性の質は変わることはなかった。
二年後、吉法師の母である土田御前(どたごぜん)に、再び男児が生まれた。勘十郎(かんじゅうろう)と名付けられた。この正腹の次子は、尾張東部にある末森城で母とともに育てられた。
対して嫡男として生まれた吉法師は、平手政秀(ひらてまさひで)という次席家老の守役が付けられ、尾張西部に位置する勝幡(しょばた)城で幼少期を過ごした。
時おり、母と弟に顔を見せに末森城まで赴く。守役の平手にそう諭されてのことだが、吉法師はいつも気乗りがしなかった。
勝幡城から末森城までは遠い。城を取り巻く様相も、勝幡城は周囲を川と田んぼに囲まれた低い湿地帯にあり、末森城は丘陵地の東端の上にある。同じ兄弟が住む城でも、印象が全く違う。兄である自分と弟の勘十郎とでは、家中の評価はさらに違う。
曰く、吉法師は気性が激しく乱暴者で、物学びもろくに出来ず、身なりはさらにだらしなく、顔つきにも言動にも可愛げというものが一切ない。
対して、勘十郎は穏やかな性格で礼儀正しく、学問も出来、見目涼やかで、周囲の言いつけを素直に守る。
当然、弟は家臣からひどく人気がある。特に、奥向きの侍女どもからの評判は圧倒的だ。反面、吉法師は蛇蝎のように恐れられ、嫌われている。母の土田御前ですら、自分を疎んでいる。
かと言って、その現実が吉法師の心を憂鬱にさせ、会いに行く足取りを重くさせるということはない。そんな臆する気持ちは、もう数年前にどこかに置き忘れてきた。代わりに生まれたのは、満たされぬ怒りだ。十一歳の今は、鬱屈した憤懣が常に燻っている。
ふん――。
嫌いたければ存分に嫌えばいい。可愛げのある勘十郎のほうが好みなら、後生大事に雛壇にでも飾っておけばいい。どうせ会わなければいけないのなら、さっさと済ませるに限る。
末森城に着くと、家中の案内も請わずにずかずかと廊下を進み、奥向きの部屋に声もかけずに飛び込んだ。
吉法師の突如の出現により、それまで笑っていたらしき侍女たちの笑みが一瞬にして固まった。土田御前も眉を寄せ、百足でも見遣るような目つきで顔をしかめている。
昔からそうだった。この女が自分に向かって優しい笑顔を見せたことなど、一度でもあったか。いっそ他人であったほうが、まだましだ。
母親の脇には、九歳になる勘十郎が取り澄ました表情で座っている。侍女どもお気に入りの雛人形だ。吉法師の姿を見たその顔が、不意に笑った。兄の珍妙な恰好がおかしかったのかもしれない。
途端、吉法師の中で何かが弾けた。
この、なんの気苦労もない極楽蜻蛉がっ――。
堪え性がないのも、吉法師の欠陥の一つだ。
「勘十郎っ」 足を踏み鳴らし、一気に弟の前へと飛び込む。「兄が、会いに来てやったぞ」
言うと同時に手のひらで弟の頭をはたいた。侍女たちの悲鳴が上がり、母親の叱責が飛ぶ。
「これっ、なにをしやるっ」
「挨拶でござる」
答えた時には、弟を足蹴にしていた。ひどくではない。その肩口を、足の裏でやんわりと押しただけだ。しかし、大人の前での演技がうまい勘十郎は、さも強く蹴られたかのように畳の上に裏返った。侍女たちはさらに喚き散らした。
ごっ、と額に激しい衝撃を感じた。足元を見ると、茶壺が一つ転がっている。弾正忠家の世継ぎに向かってこんなことをする者は、この場には一人しかいない。吉法師は母親を見た。相手は険しい顔つきで吉法師を睨み、右の袖が大きく乱れている。
一瞬、悲しみが心を横切り、憤怒に、そして軽蔑に変わる。
感情を制御できないのは、この母親も同じだ。いわば、似た者同士だ。
「へっ」
何故か、喉の奥からそんな嘲りの声が出た。織田家中はどこもかしこも愚人どもの集まりだ。特に、ここはそうだ。馬鹿馬鹿しい。
気づいた時には、足元の茶壺を思い切り蹴り上げていた。逃げ惑う女どもの頭上を飛んでいき、柱に当たって粉々に砕けた。
「吉法師っ、われはなにをしに来たのじゃ」
まるで二度と来るなと言わんばかりの口調だった。母の声に滲む剥き出しの憎悪に、吉法師は物も言わずに部屋を飛び出た。いつものことながら、今回もまた散々な訪問に終わった。
夕刻、吉法師は勝幡城の楼門の上に一人でいた。
茶壺が当たった額が、ずきずきと痛む。足の甲もそうだ。思い切り茶壺を蹴り上げたせいで、青黒く腫れ上がっている。けれど、城内に戻ろうとは思わない。戻れば、また守役の平手政秀からの叱責が待っている。台所から盗ってきた握り飯を三つ、懐から取り出す。すぐに齧り付く。
先刻、末森城から早馬が来た。母の土田御前が先ほどの顛末を報せに、わざわざ使者を遣わしたのだ。まったく余計なことをするものだ。我が母親ながら、本当にいけ好かない女だ。
果たして守役の平手政秀が騒ぎ始めた。逃げ出そうとする吉法師の袖を掴み、苦情を連発した。
「弟君をいきなり打擲(ちょうちゃく)なさるなど、いかなる御料簡でござる」
「先だっても小姓を殴打されましたな。人に優しく振る舞われるのが将たる者の心得でありまするぞっ」
「そもそも、どうしてこうも面倒ばかりを起こされるのか」
その小言が鬱陶しくて、滅多に人の寄り付かぬ楼門の上まで逃げてきた。
平手は和歌、連歌、茶道に通じた文化人であり、朝廷や隣国との対外交渉も務めるほどの実務家でもある。が、それだけに既成の価値観の信奉者であり、何事にも先例や有識故実を重んじ、その行動様式や手順を丁重に、だが徹底して執拗に、幼い頃から吉法師に刷り込もうとした。
しかし吉法師には、その教えられる世の通念が、言葉としてはそれなりに理解できても、肌感覚としてはどうしても馴染めなかった。
世間がこうだから、自分もこうしなくてはならないのは何故か。
そもそも、その世間の物差しというものは本当に正しいのか……。
幼少の頃は明確に言語化は出来なかったにしても、絶えずそんな疑念が心中では渦巻いていた。
確かに平手は自分のことを心配してくれてはいる。その気持ちに嘘はないだろう。けれど、しきたりや世間の常識を頭から信じて疑わぬという点では、家中では有能であると評判のこの守役も、他の家臣と同じだ。自分の存在、考え方を疑わぬ人間ほど、始末に負えないものはない。
片膝を突いたまま、二つ目の握り飯を頬張りながらも、ふと疑問に思う。
……それとも、このおれがおかしいのか。
少なくとも家中での評判はそうだ。
――吉法師さまは宜しからず。先々は、勘十郎さまこそお見込みあり。
そんなことを、林や佐久間、柴田といった家老たちはよく囁いているらしい。見込みとは、織田弾正忠家の次代の、ということだ。
蹄の音が遠くから響いてきた。よく通る野太い声も風を渡ってくる。父の信秀だ。那古野(なごや)城から帰って来たのだ。
吉法師が生まれる二年前、父の信秀は那古野城を攻略した。攻略といえば聞こえは尋常だが、当時の城主・今川氏豊(いまがわうじとよ)を騙して城を乗っ取った。連歌の好きな氏豊と連歌仲間として昵懇になり、城に招待された機を逃さず、夜陰に乗じて自兵を呼び込み、寝込みの今川方を撫で斬りにした。ひどい騙し方だった。ただし、今川氏豊は殺さずに落ち延びさせた。
那古野城は尾張のほぼ中心に位置する。国内のどこに出向くにも便利な立地にあり、以降、父は、ここを居城とした。この城をより堅牢なものにするための改築・補強に力を入れ、さらには那古野城を拠点として、国内に自家の勢力を扶植することに努めた。
先日、父から久しぶりに呼び出しを受けた。
信秀はいかにも精力漢らしく側室も多数おり、男子十二人、女子十五人という子沢山だった。吉法師はその男子のうちの三番目の生まれであるが、正室・土田御前の長男であるために、生まれた時から嫡男として認知され保育された。
しかし吉法師は、父親から格別な愛情や関心を示されたという記憶がほとんどない。
ひとつには、あまりにも子供が多かったこともあり、吉法師一人だけに親としての関心を向けるわけにはいかなかったのだろう。
だが、長じてから吉法師は思った。どうやら父は好色ではあっても、そもそも人への関心や愛憎には存外に淡泊だったのではないか、と。
那古野城の乗っ取りに見られるように、自分の目的のためには懇意にした相手も平然と裏切ることが出来るのも、落ち度があった家臣をすぐに手討ちに出来るのも、情の薄さの表れなら、今川氏豊を殺さずに落ち延びさせたのも、人間関係への淡泊さ、あるいは恬淡さの典型ではあるまいか。
女に対しても、日頃から飯でも食うようにして無造作に抱く。魚の翌日は肉を食い、肉の次の日は菜を食うようにして、順繰りに側室を訪れ、特定の誰かを寵愛するということはない。だから、正室の土田御前が率いる奥向きでも閨の争いによる波風が立たない。
家臣に対しても同様で、相手によって多少の気持ちの親疎はあるにしても、その主従の情に溺れるということがない。有能な配下はごく自然に優遇し、無能な者は次第に遠ざける。
そういう意味で家中がよく整っているからこそ、弾正忠家は、国内に数多ある織田一族の中でも頭一つ抜けた実力を持つことが出来たのだ。
ともかくもひと月ほど前、吉法師はその信秀に呼び出された。
普段は行儀という観念のない吉法師も、さすがにこの父の前では膝を崩さない。親子とはいえ普段は住んでいる城も違うし、顔を合わせることも滅多にない。対面すると、いつもやや緊張する。
そんな息子を見て、父親は少し笑った。
「佐久間や林、柴田の話とは、違うの」
「は?」
「わしの前では、ずいぶんと殊勝ではないか」
返事に困り、吉法師はただうなずいた。
「まあ、それは良い。今日はそちに伝えることがある」言いつつ、手に持った扇子を軽く鳴らした。「この秋から、わしは古渡(ふるわたり)城に移る。そちは、この勝幡城とともに那古野城も治めよ」
意外な言葉だった。同時に、やはりそうなっていくのかとも感じた。
家中のほとんどの人間が難色を示しているのにもかかわらず、父は依然として自分を惣領の位置に据え続けている。勝幡城で育てたのも、その惣領教育の一環だろう。湿地帯にある田舎臭い城とはいえ、その勢力圏には国内随一の商都である津島の湊を抱えている。弾正忠家の最大の財源である矢銭が、常に途切れることもなく入ってくる。
父親らしい訓戒や説教をほとんど垂れたことのない信秀だが、過去に一度だけ、吉法師に真面目な顔をして諭したことがある。
訪ねてくる商人を懇ろに扱え、むしろ家臣より大事に遇せよ、と。そしてこう付け足した。
「武士など代わりはいくらでもいる。が、金を生む才覚を持つ商人は、なかなか得難いものだ」
その言葉が、幼い吉法師には意外だった。吉法師はつい反問した。
「武士が、一番偉いのではないのですか」
「べつに偉くはない。特に端武者などは、戦場に出る勇気さえあれば誰にでも務まる」
この答えにはますます驚いた。
「武士は何も作らぬ。百姓や商人が年貢や銭をもたらさねば、ただの人殺しと同じじゃ。我らを恐れつつも、裏では密かに極道稼業と噂している。この一事を、肝に銘じよ」
そう言われてから、吉法師は城出入りの商人に会えば、努めて声をかけるようにした。むろん、そこは子供ゆえ、
「やあ、われは吉法師じゃ。父御がいつも世話になっておる」
というぐらいの雑な挨拶しか出来なかったが、それでも頭は下げた。自然、大橋、岡本、恒川などの津島の大商人は、この信秀の息子に好意を持った。
時に誘われ、津島の商家を訪れる。湊も見る。豪商たちの日常を垣間見て、物資が動き集積され、売買されることによって莫大な富が得られることを、幼い頃の吉法師は実感として知った。
お父(でい)の言う通りだ。この世を動かしているのは商人なのだ。武士ではない……。
思うに、父親はその頃から自分に惣領への道を歩ませていた。津島の商人と懇意にし、この富をもたらす湊を押さえている限り、戦費はいくらでも調達できる。そして戦費が調達できる限り、どんなに苦しい戦いでも最後には勝つ。
そしてこの度、吉法師は勝幡城から那古野城に移ることになる。尾張中の銭を吸い上げ続ける勝幡城との関係を良好に保ちながらも、濃尾平野の中心部に位置する那古野城をも預かることにより、吉法師の先々での基盤は、父親の手の中で着実に築かれつつある。
父親の一行が楼門の下をくぐっていくと、吉法師は三つ目の握り飯を急いで嚥下した。
予感があった。
先ほど、平手に勘十郎の件で怒られたばかりだ。そこへ、父親が帰って来た。
すぐに楼門を下り、本丸へと戻る。城の裏手に回り、大きな柿の木に登って、その大ぶりな枝から居館の屋根に飛び移る。軒下の羽目板を外し、天井裏に侵入した。屋根裏を歩いていることを階下の人間に気づかれぬよう、根太の上をそろりそろりと進んでいく。
去年までは、よくこの屋根裏に来て一人で時を過ごしていた。
冬の寒い時は暖かいし、ここでは誰も自分に小言を言わない。家臣の白々とした視線を感じることもない。しかも、階下の使用人たちの立ち働いている気配も手に取るように分かる。後で階下に行けば、誰が働き者で、誰が怠け者かも一目瞭然だ。ひそひそと話している声も聞こえる。たまにはその噂話の中に、自分の話題が出ることもある。もっとも、そのほとんどが、ろくでもない評判ばかりだったが……。
ある場所まで来て止まった。天井板一枚を隔てた真下には、父の信秀がいつも家臣の報告を受ける奥の間がある。
根太の上に座り込み、しばらく耳を澄ます。
やがて父らしき足音が聞こえてきた。大股で床板を踏み鳴らして進んでくるから、すぐにそれと分かる。それを追いかけてきたもう一つの足音は、微かに擦過音がする。おそらくは平手だ。
「御屋形さま、吉法師君のことでござります」
果たして平手の声が聞こえてきた。
「なんじゃ、またあやつの話か」信秀は突き放すように答える。「くだらぬ小言なら無用とせい。育て方はそちに一任しておる」
「いえ。さすがに此度は、そのようなわけには参りませぬ」
「何故だ」
「先ほど末森の奥方様から、早馬が参りまして――」
その後、平手が末森城での顛末を信秀に話した。しかし、事実通りを伝えながらも、吉法師のことを微妙に庇うような口ぶりで説明していた。
そこに、吉法師はこの守役の自分に対する一貫した愛情を感じる。
一通り聞いたあと、信秀の軽い笑い声が響いた。
「相変わらずの荒れ馬じゃな。吉法師には誰も手綱が付けられぬ」
対する平手の返答は、束の間遅れた。声も心もち低くなった。
「それがしの立場から申し上げるのは穏当ではありませぬが、今後も吉法師君を、このまま嫡男の座にとどめられるご意向でありましょうか」
「なんじゃ。そちまで勘十郎に跡目を継がせよと申すか」
「いえ……拙者にとって吉法師君は、恐れながら我が子も同然。むろん惣領として立っていただきたいと切に願っております。ですが家中の不満は高く、勘十郎殿を推す声は日に日に高まっております。弾正忠家の先々を想えば、万一の場合は致し方のないことかと覚悟は決めておりまする」
ふむ、と信秀のため息が聞こえた。「おぬしの目から見ても、勘十郎のほうが惣領としてふさわしき者に思えるのか」
平手はしばし無言だった。
「勘十郎は、ふさわしくない」
信秀は断言した。
「あれは、案山子と同じだ。神輿の上の、よく出来た人形だ」
「は?」
「じっとしておれと言われれば、いつまでもじっとしておる。扱いやすい。大人どもの言うなりだから好かれている。それだけだ」
「しかしながら、家臣から好かれることも将たる者の心得かと存じますが」
「違うな」信秀の、からりと乾いた笑い声が響く。「わしの見立てでは違う」
「はて……」
「周囲を見よ。美濃にはあの油屋の息子が、近江では浅井が勃興している。矢作(やはぎ)川より東の今川義元(よしもと)も侮れぬ。みな、この尾張の沃野を狙っている。そんな時に、神輿を担ぐ家臣たちに右往左往させられるような人形が惣領では、我が織田家はどうにもならぬ」
吉法師は、と信秀はさらに言葉をつづけた。「人の思わぬようなことをする。それを強情に貫き通す。誰の意見にも左右されぬ。だから家臣との摩擦も生まれる。一時もじっとしておらぬ。一見奇矯に見えることにも懸命に汗をかく。心が渇いておる。その渇きの正体が何なのかは、わしにも分からぬ。分からぬが、人に言われねば動かぬ人形より、はるかにましだ」
その静かな口調に、吉法師の中に見ている何事かへの期待が滲んでいた。
信秀はその日常において、自分に対して親らしい意見はおろか、言葉をかけたこともほとんどない。しかし、時おり黙って自分を見遣る視線の中に、静かな微熱のようなものがこもっていることを、吉法師は肌感覚として掴んでいた。
しばらくして、父と平手は部屋を出て行った。
吉法師は束の間じっとしていた。やがてごそごそと外へ這い出て、屋根の上から高々と放尿した。
2
二年後、吉法師は十三歳にして元服し、信長と名乗ることとなった。
翌々年の十五歳、美濃の実質的な国主・斎藤道三(どうざん)の愛娘である帰蝶(きちょう)を娶る。守役、平手の奔走による政略結婚だった。信秀と斎藤道三との緩い軍事同盟とも言える。
平手がこの縁組みを必死にまとめあげたのには、彼なりの切実な理由があった。
信秀も道三も旭日(きょくじつ)の勢力とはいえ、そこは新興だけに、両国には古くから存続する正統な血筋の国主や守護代も残っている。そのために彼らの地位は、常に不安定であった。
特に信秀の場合は、正統な国主である斯波氏から見れば、尾張の上四郡を支配する岩倉織田家(織田伊勢守(いせのかみ))と下四郡を有する清洲織田家(織田大和守)という二つの守護代の家柄でもなく、清洲織田家の三奉行の一つを務める織田弾正忠家という、木っ端の陪臣もいいところだった。
が、その陪臣にすぎぬ信秀が無類の戦上手で、主人の織田信友(のぶとも)を巻き込んで清洲織田家を大いに盛り上げた。だからこそもう一方の守護代である岩倉織田家は、清洲織田家を警戒し、その核である信秀の勢力を削ぐような様々な工作を仕掛けていた。
清洲三奉行の残りの二つ、織田因幡守(いなばのかみ)家と織田藤左衛門(とうざえもん)家をそそのかし、
「信秀の弾正忠家は、やがては本家の清洲織田家を乗っ取るであろう」
と、清洲織田家の当主・信友にさりげなく吹き込ませていた。
織田信友も家臣である信秀の財力・武力には多少の危惧を感じていたので、弾正忠家の結束を弱めるような言動に出る。それは弾正忠家の現状を見れば容易いことだった。具体的には、林秀貞(ひでさだ)や柴田勝家(かついえ)といった信秀の家老らに対して、
「弾正忠家の跡目に信勝を推す時には、力になろう」
と、囁くだけでよかった。信勝(のぶかつ)とは、信長の弟・勘十郎の元服後の名乗りである。
織田信友にしてみれば、たとえ弾正忠家の力を削げずとも、何をしでかすか分からぬ悍馬(かんば)同然の信秀の嫡男よりも、何事にも従順そうな二男が後嗣になるほうが、先々を思えば都合がよかった。おとなしそうな信勝ならば、万が一にも主君に反旗を翻すようなことはあるまいと踏んでいた。
筆頭家老の林秀貞、林通具(みちとも)や柴田勝家はもとより信勝擁立派であったから、全く異存はない。これはまた、実母の土田御前の強い希望でもあった。
こうして、信秀の存命中から、家中の家老・重臣たちの間では、信長派と信勝派という二つの擁立派が次第に対立する結果となった。しかし、対立とは言っても、信長擁立派に回っている家老や重臣は、信長付きの平手政秀ほか数名を除けば、ほとんどいない。
そこで平手は一計を案じ、信秀に上申して、美濃の斎藤道三の娘との政略結婚をまとめたのだ。
この休戦協定は、信長が弾正忠家の跡目に座っている限り、美濃との国境紛争は起きない、ということを意味していた。そして美濃の軍事力を背景にすることにより、信長の家督相続を出来るだけ有利に運んでやろうという平手政秀の親心でもあった。
が、肝心の信長は、元服後もその言動は改まらず、相変わらず吉法師の頃のままだった。
少なくとも傍目にはそうだ。
しかし、見る者が注意深く見れば、信長はこの十五、六歳の時期から、武将の嗣子としては明らかに異質な動き方をしていた。自分の馬廻りとなる兵を、土豪や地侍、家臣の二男三男以下から、盛んに徴募し始めていた。そして彼らを二手に分け、暇さえあれば合戦の真似事をやった。模擬戦とはいえ、しばしば双方血塗れになるまで行わせていた。
この時期の信長はまだ家督を継いでいないので、自らの裁量で使える資金が豊富にあるわけではない。徴募に応じた者たちも、それぞれの家の二男以下だったから、相続する土地も資産もなく、もとより懐は空っけつであった。必然、身なりも武器もみすぼらしく、その模擬戦の様相は一見、まるで乞胸か浮浪同士の抗争のように品下がるものであった。
「まるで狂犬の噛み合いじゃ」
そう言って嘲笑う者もいた。
彼らの中には前田犬千代(まえだいぬちよ)や丹羽万千代(にわまんちよ)という、後に高名になる武将も多数いたが、家中の重臣たちは、信長がしばしば行うこの見苦しい集団戦の狂態に、ますます心を冷やした。
この時期に織田家中では、二つの興味深い鞍替え現象、あるいは逆転構造と言うべきものが起きつつあった。
織田家の次席家老である平手政秀は、信長にとかく文句を言いつつもせっせと世話を焼いてはいるが、実は、信長付きの家老としても二番家老であった。
信長付きの一番家老は林秀貞で、この男が本来の後見役であった。そして信長が嫡男に据えられている以上、弾正忠家の全体から見ても、筆頭家老の地位にある。
しかし、林秀貞は昔から信長の奇矯な言動にはほとほと手を焼き、信長が元服後もその素行を改めないのを見るにおよび、ついに愛想を尽かしつつあった。
別に意地の悪い男ではない。有能でもある。ただ、信長付きの一番家老としては信長の先々を憂慮もするが、反面、筆頭家老としては弾正忠家の行く末も危惧せざるを得ない立場にあった。結果、諸手を挙げてというわけでもないが、家臣団の全体の意向も鑑み、次第に信勝擁立派に回った。
この秀貞の信勝擁立の件は、自然の成り行きと言えば、そうだったのかも知れない。
一方、信長の弟・信勝付きの一番家老に、佐久間盛重(もりしげ)という人物がいる。
通称は、佐久間大学介(だいがくのすけ)。
弾正忠家全体で見れば、平手政秀と同様の、林秀貞に次ぐ次席家老である。
大学介はその立場からして当然、信勝擁立派で然るべきだったが、いつの頃からか信長の言動に興味を抱くようになった。
というのも、守役として信勝を幼少時から注意深く見てきたが、穏やかな人柄ではあるものの、さりとてそれ以上の人物ではないと密かに見切り始めていたからだ。その思考や行動の類型が、一定の型に嵌り過ぎている。
泰平の世ならばそれでもいい、と大学は思う。大将が凡庸でも、神輿を担ぐ者が優秀ならば国は回っていく。しかし、今の尾張では国境を接している隣国はすべて脅威になっているし、国内でも織田同族内で血で血を洗う勢力争いが頻発している内憂外患の状態だ。人当たりが良いだけでは今後の弾正忠家を守り立ててはいけまいと危惧を抱いていた。
だからと言って信長のほうが良いと思っているわけでもない。が、この奇妙な振る舞いばかりをする嫡男に少しずつ興味が向いた。
ある日、末森城から信秀に会いに来た帰りに、古渡城の郊外で信長の合戦ごっこを見かけた。
噂には聞いていたが、自分の目で見るのは初めてのことだった。
なるほど、大将の信長もその馬廻りの兵も、確かに凄まじいばかりの襤褸姿だ。
大学は、岩の上で指揮を執る信長の許に、何故か吸い込まれるように近づいて行った。
「なんじゃ、大学か」
夏のことだ。悪趣味な小袖を片肌脱ぎにしたままの信長は笑った。
「珍しいこともある」
大学は、この若者にろくに考えもせずに近づいたことを早くも後悔した。そして不愉快になる。
相変わらずだった。言葉の省略が激しいから一瞬こちらが戸惑うのだが、どうやら、
(信勝付き家老の大学が、自分に進んで近づいてくるのはいかにも珍しい)
ということを言いたいらしい。その内容も多少の皮肉を含んだものなら、いくら主君の嫡男とはいえ、仮にも織田弾正忠家の次席家老で、しかもはるかに大人の自分に向かい、岩の上から見下ろすようにして言葉を発するのも無礼極まりない。
道理で、このうつけ殿が家臣から嫌われるわけだ。
が、自ら近づいて行ったのは自分だ。大学は仕方なく口を開く。
「お盛んでござるな」
「何がだ」
「兵の鍛練でござる」
ふむ、と信長は唸った。そして手に持った竹鞭を一度だけ鳴らした。
「わしにはの、家中に味方が少ない。信勝と違って、嫌われてもおる」
思わぬ返答に、大学は言葉を失う。ややあって口を開いた。
「そうお思いなら、何故我ら家老と和を図ろうとなさらぬのです」怒り狂うかも知れない。そう思いつつも、慎重に言葉を継いだ。「さすれば、このように三百足らずの兵を訓練するより、はるかに大きな味方になりまするぞ」
事実そうだ。弾正忠家の財力と織田同族内への威武を考えれば、目の前の十倍ほどの兵はすぐにでも動かせる。
しかし、信長は首を傾げた。
「大学は、蟻の動きを見たことがあるか」
「は?」
「だから、蟻じゃ」苛立たしそうに信長は繰り返す。「地を這っている蟻じゃ。巣穴に食い物を運んでいる動きを、見たことがあるか」
「ありまする」あまりにも愚劣な問いかけに、憮然として大学も答える。「当然ではございませぬか。この時期など、そこらじゅうの草むらにおりまする」
信長は苦笑した。
「じゃが、その動きをしかと見届けたことはなさそうであるな」
当たり前だ、と大学は思う。誰が蟻など気にするものか。どうでもいい話ではないか。
それでも信長は話を続ける。
「わしはな、子供の頃から話の合う者がおらなんだ。よく一人で遊んでおった」
だから仕方なく、蟻でも見つめて暇をつぶしていたとでもいうのか。さらに脈絡のない信長の話に、大学は呆れる。
「見よ。あの者どもを」
信長が竹鞭で前方を指した。野原では信長と同じ年頃の若者たちが飽きもせず、大小の棒で盛んに叩き合いをやっている。
「みな遊びでも必死じゃ。何故か分かるか」
それは、と大学は言葉を選ばずに答えた。「若のことが怖いからでありましょう」
「それもある」信長はうなずいた。「わしは、常に見張っておる。遊びとはいえ懈怠(けたい)は許さぬ」
この苛烈な若者ならさもあろうと感じる。
ただし、と信長は言う。「それだけではない。今日よき働きをした者は、明日には組頭にする。今日組頭だった者も、動きが悪ければ組下に戻す。何度もこのようなことをやる。みな同じ年頃の知り合いじゃ。降格されれば恥だと感じる」
なるほど、と大学は妙に感心する。凄まじいまでの人の差配だ。
「よくそれで、あの者どもが逃げ出さぬものでありまするな」
すると信長は笑い出した。
「逃げ出す場所など、あるものか」
「は?」
「だから、あの者どもに逃げ出す場所などない。戻る場所がない。だからわしのわずかな捨扶持でも我慢して付いてくる」
言われてみれば、確かにそうだ。侍の二男以下など、将来は長男の郎党になるしかない。良くて生家の家老になれるか、悪ければ一生部屋住みとして飼い殺しだ。
「ですが、本当の戦場ともなれば、我ら譜代の衆も必死で働きまするぞ」
「大学はそうであろう。柴田や林らもじゃ」あっさりと信長は認めた。「が、そうでない者もおる」
「左様なことは――」
言いかけた大学の前で、信長は竹鞭をもう一度鳴らした。
「それが、あるのじゃ」この織田家の問題児は、不思議と確信に満ちた口調で断言した。「元服のあと、わしも戦場には幾度か出た。この目で見た。その前から、平手や内藤らがさも賢しらそうに陣立て、攻め時や引き際のことなどを教えてくれた。が、これがあのもったいぶって言っていた戦のありようかと思うと、とんだ笑い種であったわ」
あまりの暴言に、大学はまたしても言葉を失う。直後にはさすがに腹を立てた。自分たちが命懸けで出ている戦場での動きを笑い物にするなど、いくら主筋でも言っていいことと悪いことがある。
「どこが、どのように笑い種なのでござる」
堪忍袋の緒が切れそうになった。震える声で言い返した。
「怒るな。そちのことを言ったのではない」
信長は珍しくのんびりとした口調で言う。
ふと気づく。この若者は今日に限って何故か機嫌が良い。多弁でもある。
「わしはの、戦場での兵の動きをひたすら見ていた。敵味方とも、常に小気味良い動きをしている者は、十人に二人くらいなものだ」
「そのようなことはありませぬ」語気を強くして大学は言い返した。「みな、必死で槍を振るってござる」
「確かにみな必死だろう」信長はうなずく。「だが、その懸命さの根っこが違う。自ら進んで槍働きをしている者が十に二つ。残る六は、それに引き摺られて我も負けじと武器を振るう者。さらに余った二は恐怖に及び腰になりながら、やたらと腕を動かしておるだけだ。無駄が多い。全体の動きが手ぬるい」
一瞬、絶句する。
それは、そうなのかも知れない。けれど、それが人間というものではないか。いくら武士の家に生まれても、槍働きに向く人間と向かない人間がいる。それでも侍として世を渡る以上、戦場に出なければどうしようもない。そういった様々な人間を一つの集団としてうまく機能させていくのが、大将というものではないか。その旨のことを信長に伝えた。
「かも知れぬ。それでも尾張兵は、三河や美濃の兵に比べて弱すぎる」
再び言葉に詰まる。事実その通りだからだ。
「尾張では侍も百姓も、怠けていてもそれなりに食える。沃野が人を弱腰にする」信長はいきなり結論を言った。「だが、そういう尾張にも、食い扶持にはぐれた者どもがいる。あやつらだ」
そう言い、今も棒を振るい続けている若者たちを顎先で指し示した。
「あいつらには、後がない。いったんわしの家来として参じた以上、おめおめと実家に戻ることもままならぬ。性根からして必死さが違う。戦場でだけ懸命になり、平時はのんべんだらりと構えているそこらあたりのなまくら武士とは、覚悟が違う。その可憐な者どもを、さらに徹底して鍛え上げる。さすれば─」
「さすれば、どうなるのでござりまするか」
「決まっておる。合戦では三百が三百とも小気味よく動くであろう。今の三百でも、千の敵には勝てるはずじゃ」
はて、と大学は疑問に思った。「何故そのようになるのでござる」
すると信長は得意げに破顔した。
「大学、考えてもみよ。千人の敵とて本当に恐るるは二百のみぞ。数ではこちらの三百で、十分に蹴散らせる。さすれば残る八百は烏合の衆。うち六百は日和見で、勝ちに乗じればせっせと働くが、不利と分かればすぐに浮足立つ。あとの二百は最初から逃げ腰でいる。自然、勝ちが転がり込んでくるという寸法よ」
……なるほど。確かに机上の算術ではそうなるだろう。
しかし、戦とはそんな理屈どおりにはいかぬものだとも、長年の体感として知っている。
この若者は素人だ、と感じる。戦に関する限り、ど素人に近い発想をする。
が、だからこそ経験則に陥ることがなく、こんな突飛な発想をするのだろう。
そこに、この奇妙な若者の可能性を、ぼんやりと感じ取ることが出来た。
不意に思い出した。主君の信秀の言葉だ。自分の息子たちに対して滅多に寸評を加えぬ信秀であるが、ある時、信長についてさらりと口にした言葉がある。
「あやつは、人に気を遣わぬ。思いついたことには、家老たちの思惑も考えずに躍起になる。余計なことを考えぬ。だから、良い」
周囲の思惑や目の前の現実に即して対応を考えている限り、根本からの飛躍は出来ぬ、と。
少なくとも自分が面倒を見ている信勝は、こんな突飛な考え方はしない。絶えず大人たちの顔色を窺いながら無難な物言いをし、そつのない振る舞いに努める。
そこに、大学はいつも多少の物足りなさを感じていた。
信勝では、その場その場の小さな問題ならそれなりに処理することは出来ても、乱世の圧倒的な高波が押し寄せて来た時には、対応できぬのではないか……。
信長の許を去り、末森城に向かってしばらく進むうちに思い当たった。
あの若者が、どうして今日に限り、自分に向かって不機嫌でなく、やたらと多弁だったのか。
それは、信長の中にある何かに、自分が興味を持って接していたからだ。興味を持つ、とはすなわちその人物の中に、見るに足る何かを感じているということだ。
敏感な信長はそれを察知した。だから多弁にもなり、機嫌も良かった。
他の家老は、信長のやることなすことに、頭から「あのうつけ殿が」という目線で入っていく。当然、あの厄介な性格を持つ若者は反発し、怒り狂う。
必死になって面倒を見ている平手政秀にしてもそうだ。その苦労は認めるが、あの老人も信長を理解しようとはしていない。赤ん坊の時から面倒を見てきて、親子に似た親しみの情だけがある。
だから信長は、平手を好みつつも鬱陶しがっている。
信長が欲しているのは、理解だ。愛情や忠誠の押し売りではない。
その後、大学は機会があるたびに自ら信長に接していった。
やはりだった。こちらが信長の言動を理解しようとして話しかけている限り、この家中の問題児が怒り出すことはなかった。常に上機嫌で、饒舌ですらあった。
一年後、信長が鉄砲を大量に購入した時もそうだ。
他の重臣は、鉄砲などという外道の武器を頭から馬鹿にしていた。曰く、
「飛び道具は卑怯である」
「歴(れっき)とした武士の持つ物ではない。下郎の持つ武器である」
などという意見がほとんどだった。
そのことを信長に伝え、それについてどう思うかと問いかけると、
「卑怯でも、下郎の持つ武器でも、それで勝てれば良いではないか」と笑った。「槍は、せいぜい二間か三間先の相手に届くかどうかだ。鉄砲なら、四十間先の相手も倒せる」
なるほど。相変わらずその思考は直截に過ぎる。この男には武士の品格もへったくれもない。とにかく勝てれば良いというその一点張りで、戦を捉えている。
しかし、はなから観念主義に陥っている家中の人間より、はるかに力強い。
大学の出自である佐久間氏は、古くから地付きの土豪だったこともあり、尾張国内に数多くの一族が栄えている。そのうちの一人に、佐久間信盛(のぶもり)がいる。大学の従兄弟である。当時、信長付きの重臣になっていた。大学は信勝付きであり、立場が違う。
が、同族としては佐久間氏の今後の繁栄を考える者同士でもある。
その信盛を密かに呼び出し、大学は聞いた。
「おぬしは、信長殿をどう思っておる」
はて、と信盛は首をひねった。「賢愚は定かではありませぬが、少なくとも傍で見ていて退屈はいたしませぬ」
思わぬ意見に、大学は笑った。
「ではさらに聞く。わしが傅(めのと)を務めている信勝殿を、どう思うか」
「利口なお人柄でござる」
「他には」
この答えはしばし遅れた。
「憚りながら、何か問いかけたとして、返ってくるお答えには、おおよその見当がつきまする」
「つまり、退屈だ、と」
信盛はやや迷い、それでもうなずいた。
「失礼ながら、そうも申せまするな」
その反応で大学は結論を下した。
信勝は、いてもいなくてもよい大将なのだ。なるほど信長は恐るべき劇薬かも知れない。しかし、劇薬ならではの効果を、今後の織田弾正忠家にもたらす可能性がある。
このあたり、大学にはやや苦いものがあった。自分が懸命に傅育してきた信勝は、見る者が見れば、やはり物足りないのだ。傳の情としては信勝を立てたい。が、人情に引き摺られていては、弾正忠家に付き従っている佐久間一族も、やがては道を踏み誤る。
「どうやら信長殿は、わしが思っていた以上の人物であるらしい」
ため息とともに、そう漏らした。
「それがしには分かりませぬ」信盛は返した。「分かりませぬが、我らが主は、あの弾正忠様でござる。人を見る目が曇っているお方とは到底思えませぬ。信長殿を嫡男に据え続けておられるのは、それなりの思惑があってのことでございましょう」
「ふむ……」
その後、大学は重大な決断を下した。
「今後のことだ。万が一、信長殿と信勝殿との間で家督争いが起こった場合、わしは信長殿に付く。かと言って立場上、信勝殿を裏切るような真似も出来ぬが、ともかくもそうした事態が出来(しゅったい)したら、信長殿にお味方する。陰に陽に支えていく。それを佐久間一族の総意にしたいと思うが、どうか」
しばし考えて、信盛もうなずいた。
「それがしに、異存はありませぬ」
大学もすかさずうなずき返した。
「では今日より、一族の説得にかかろう」
佐久間一族は、織田家中では随一の人数を誇る血族集団である。この大学の決断により、これまで父親と平手政秀以外ほぼすべての人間から疎まれ、孤立無援の状態であった信長に、大きな勢力が加わることとなった。
3
くそ─。十日ほど前、父の信秀が末森城で死んだ。
天文二十一(一五五二)年の春、時に信長が十九歳のことである。
平手に聞いた話では、前の晩に頭が痛いと言い出し、朝には寝具の中で冷たくなっていたという。享年四十二。
時に相手を騙して城を乗っ取り、時に朝廷に四千貫もの銭を献上するという施しを行い、毀誉褒貶(きよほうへん)相半ばした男の人生は、尾張一国の旗頭になりつつあった最盛期に、唐突に終わった。
信長も衝撃を受けた。いかにも精力漢に見えた父親が、まさか畳の上であっけなく死ぬとは思ってもいなかった。直後から家中は灰神楽が立ったような騒ぎになった。特に那古野城にいた信長付きの家老である林秀貞や平手政秀は城中を駆け巡り、気が触れたように喚き散らした。
「この先、弾正忠家はどうなるのか」
「下手をすれば破滅でござる」
信長はその時から暗い怒りを燻らせていた。暗に、跡継ぎの自分などまったく頼りにならぬと言わんばかりの言動ではないか。
そんな家老たちが最初にとりかかったことはと言えば、盛大な葬儀の準備だった。
林は武将というより、元々は行政官としての資質を信秀から買われて家中の一長(いちのおとな)になった者だし、次席家老の平手は平手で、何よりも形式を重んじるから、まるで家中の一大事であるかのように、いそいそと葬礼の手配りに勤しんだ。むしろその手配りに、亡き信秀への最後の忠義とばかりに、喜びとやり甲斐さえ感じているように見受けられる。
愚劣なやつらだ、と信長はさらに激しい怒りを覚えた。
むろん葬儀は大事だろう。だが、それも時と場合による。
東からは今川義元の勢力が絶えず尾張の国境を脅かし、ともすれば矢作川を越えてしばしば戦を仕掛けてくる。北の美濃とは休戦状態を保っているが、此度の父の死により、それもどうなるか分からない。国内では織田同族同士で勢力争いが頻発している。しかも相手は、そもそも弾正忠家と同等か、格上の家柄ばかりだ。余計に始末が悪い。常に付け入る隙を狙われている。
弾正忠家の行く末を心底危惧するのであれば、まずはそれらへの手立てを講じ、迎え撃つ手配りが整うまでは父親の喪を伏せておくというのが、最もやるべきことなのではないか。
けれど、それを言葉には出さない。
自分には惣領としての信望が皆無なことも知っているし、言っても聞く老人たちではない。葬儀を取り止めるなど罰当たりな、と苦言を呈されるのが関の山だ。
だから不貞腐れ、冷たい目で家中の動きを眺めていた。
五日前のことだ。葬儀の打ち合わせのために、末森城から佐久間大学がやって来た。その評定の前に、別室で一人で寝転がっていた信長の許に姿を現した。
大学は、信長の恰好を一目見るなり、苦笑した。
「弾正忠様が儚くおなりあそばされたと申しまするのに、相変わらずのご様子でござりまするな」
が、言葉とは裏腹に、その声音には信長を非難するような棘が一片もない。
数年前からこの大学は、不思議と自分に好意的だ。それに呼応するかのように、信長付きの重臣の一人である佐久間信盛も、なにかにつけ信長を庇うような言動をするようになった。
何故かは分からない。分からないが、この佐久間一族がそれとなく自分に接近してきている様子は、肌感覚としてある。
「馬鹿どもの、念仏踊りだ」
信長は一言、吐き捨てた。
「は?」
大学が微笑みを湛えたまま、小首をかしげる。
「この葬儀が、だ。どいつもこいつも悲しみの押し売りをしてくる。『殿も、さぞ悲しゅうございましょう……』とな。その悲しみを神輿に担ぎ上げ、今日も明日もと本番の祭りに向けて、わしが頼みもせんのに、せっせと踊り狂う。愚か者どもの祭典だ。地虫ほどの脳味噌もない」
何故か信長は、こういう人を罵倒するような言葉なら、いつ何時もすらすらと出てくる。
「はて……信長さまは、悲しくはないのでございまするか」
「むろん、悲しい」信長は断言した。「父上は、唯一わしを理解してくれていた。悲しいどころか、尻の穴から臓腑が抜け落ちそうな辛さだ。痛みだ。だからこそ、泣いてなどおられぬ」
そして、この数日思っていた織田弾正忠家を取り巻く危惧や疑念を大学にぶつけ、
「そうではないか、大学」
と、逆に問いかけてみた。そして束の間迷ったが、今まで一度も舌に乗せたことのない重大な一言を、薄氷を踏むような思いで口にした。
「むろんその血の争いは、この家中でも無縁ではない」
言った後も、信長の心は激しく揺れ動いた。いくら多少の好意を示してくれているとはいえ、相手は信勝付きの一番家老なのだ。
大学はしばらく黙って考え込んでいたが、やがて厳かに言った。
「弾正忠様は、真にご英傑と呼ばれるにふさわしいお方でございました。大きな声では申せませぬ。申せませぬが、拙者はその御遺志を、力の及ぶ限り奉じさせていただく所存でござりまする」
そこまでを一気に言い切り、信長の顔をじっと見つめてきた。
信長は、その言外の意味を悟った。
大学は今、その立場から言えばとんでもないことを口にしている。暗に、いざという時は自分が傅育してきた信勝を捨て、信長の側に付くと宣言している。
そして、その決断に至るまでの大学の苦悩を慮った。大学の苦しみは、やがて来るべき事態を最悪の形として予期すれば、信長の中にも厳然として存在するものだ。
「大学よ」
「はっ」
「かたじけない」
嘘ではない。その一言に、今感じているすべての思いを込めた。
大学は目元で少し笑った。そして深々と頭を下げると、信長の前から立ち去った。
萬松寺(ばんしょうじ)は、那古野城の南郊にある。
信長は今、その寺に向かって馬を進めている。後列には自分の馬廻衆四百人がずらりと続いている。この葬儀の当日も、彼はいつもの恰好だった。長柄の大刀、脇差を三五縄(みごなわ)で巻き、髪は茶筅に巻き立て、袴も穿かずに寺へと向かっている。その心中も、相変わらず穏やかではない。
くそ─。
馬鹿げている。まったく馬鹿げている。
この時に感じていた怒りには、また別のわけがある。
信長が六、七歳の頃、父が織田家代々の菩提を弔うために建立した寺がある。萬松寺である。
対して、わずか数年前に信勝や信勝付きの家臣が末森村二本松に建てた、桃巌寺(とうがんじ)という寺がある。
この二つの寺のいずれで葬儀を執り行うかで、家老や重臣たちの間で激しい応酬があった。
柴田勝家は桃巌寺を強力に推し、それに筆頭家老の林秀貞やその弟・通具らが和した。林一族もまた、佐久間一族と並んで織田家の中では一大勢力である。自然、他の主だった重臣たちの半数は、桃巌寺案を推した。それに平手が抵抗した。必死になって異を唱えた。平手に味方した重臣は、佐久間信盛くらいなものであった。残る他の重臣たちには定見というものがない。下手にどちらかに味方をして、不用意な火傷を負いたくもない。自然、日和見を決め込んだ。
何よりも信長が気に食わなかったのは、本来は自分の一番家老である林秀貞までもが、今回は信勝の味方にはっきりと回ったことだ。
話し合いは紛糾した。林秀貞は柴田案に和したものの、さりとて一長としての立場もある。この混乱をなんとか取りまとめねばならない。
挙句、それまで黙っていた佐久間大学に話を振ったらしい。
「大学よ、おぬしはどう思う」
信長は、その場の秀貞に成り代わって心情を推し測る。秀貞にしてみれば、信勝の一番家老である大学は、むろん桃巌寺を推すものと予想していたのだろう。
が、大学は意外なことを口にした。
「萬松寺は、亡き弾正忠様が織田一族のための菩提寺としてお建てになられたものでござる。そして、そこまでなされたからには、その代々の菩提に自らもお加わりになられたかったはず」そこで一呼吸を置き、「葬礼は、何よりも故人のご意向に沿うことが肝要で、我らが決めることではござらぬ。さすれば萬松寺にて執り行うことこそ、穏当かと存ずる」
そう、ゆるゆると意見を述べた。この道理には、桃巌寺案を推してきた者たちもさすがに黙り込み、残る日和見だった重臣たちも思わず膝を打った。そしてこの発言で、佐久間一族全体の旗幟も一気に鮮明になった。衆議は急転直下、萬松寺案にて決した。
この結末自体には、信長も満足だった。
が、その後、平手が信長に言ったぐちぐちとした文句には、また腹を立てた。
「かように衆議が紛糾したのも、殿が日頃から家中の人心をお掴みになっておられぬからですぞ」
「馬廻衆の調練も結構でござるが、まずは私ども譜代の家老や重臣たちをうまくお使いあそばされることこそ、将たる者の然るべき心得でござる」
信長は年を追うごとに、直属の馬廻衆を増やし続けている。いくら土豪たちの二男三男に与える捨扶持とはいえ、現在では四百人に膨らんだ直属軍を常時養っていく経費は、馬鹿にならない。
勝幡城の収入を管理し、その中から直属軍の経費を捻出し続けている平手は、常にそのことで文句を言ってきた。
平手だけではない。家中からも、我ら譜代衆の存在を軽んじる行為だと不満が噴出している。
そのうえで、この信長の傅育係はこう言いたい。
財務上からも、大勢の直属軍を養っておくより、まずは家中で信望を得て、父の代から仕えてきた譜代の有力家臣や連枝衆、近隣の土豪や地侍たちを戦力としてうまく使うほうが─自前の知行地を持っている者たちだから、雇っておく扶持を出さずに済むし─はるかに安上がりではないか。しかも陣触れすれば、譜代衆の数は三千人ほどはたちどころに集まる。馬廻衆の四百とは比較にならない人数でもある、と。
ふん─。
信長は馬上で鼻を鳴らす。確かに数の上ではそうだろう。金もかからないだろう。
が、おれの考えは違う。
信長には元服以降、合戦をその目で見て、気づいた点がいくつかある。
一つは、いつも必死に戦っている者は、せいぜいが全体の二割くらいだということ。
そして合戦はほぼ、春と秋を除いた季節に行われるということだ。農繁期を避けるのだ。陣触れに馳せ参じてくる数多の土豪や地侍は、郎党として作男を連れてくる。当然、その間は知行地の田畑に手を入れられない。春と秋に戦をすれば晩秋の収穫が激減する。土豪たちはそれを気にする。当然、士気も上がらない。冬は寒いし食い物もない。雪も降る。
だから、合戦は夏に集中する。
さらに一つ。
今までの戦のやり方では、実際に軍を集結させるまでに、おそろしく時がかかる。まずは戦の回状を廻し、知行地に住む郎党たちが三々五々駆けつけてくるまで我慢強く待つしかない。戦支度に手間を取られ、その間に敵方に動きを察知される。打ちかかる前に相手の迎え撃つ軍容も整う。
しかし、徹底的に鍛え上げた常備軍を持つことが出来れば、これらすべての問題は解決するのだ。たとえ少数でも、全軍が奮戦してくれれば数倍する敵を打ち破ることも、おそらくは可能だ。一年を通じて敵が最も嫌がる農繁期に攻撃をかけることも出来る。油断し切っている相手を電光石火の如く急襲する。敵の士気と軍容が整わないうちに、木っ端微塵に打ち砕くのだ。
信長は苛立つ。何故、こんな単純なことに誰も気づかぬのか。
みな、そもそも戦とは何のために行うものかを、まともに考えたことはあるのか─。
今までのような手ぬるい戦をしておれば、決定的な勝ち負けは永久につかない。勝ち負けがつかなければ、また同じ諍いが起こる。領地も利権も増えないまま、お互いが長期の消耗戦に縺れ込む。結果として、戦費も兵士たちの死も無駄になる。
現に、死んだお父がそうだ。あれだけの知勇を備えながら、結局は美濃の一部を切り取ることはおろか、織田同族で鬩ぎ合っている尾張一国を統べることも出来なかった。
戦とは、合戦をやること自体が目的ではない。勝って、領地や利権や富を、我が物にすることが目的なのだ。戦はそのための手段に過ぎない。そして手段であれば、目的をしっかりと見据えたやり方を取ることが必須なのではないか。
信長は改めて思う。馴れ合いの戦はもう終わりだ。やるとなったら徹底して相手を潰し、根絶やしにしなければ、合戦の果実は永遠にもぎ取れない。少なくとも自分の今後は、それで行く。
が、不幸なことに自分には、それらの思考を順序立てて説明する習慣が身に付いていない。その先天的な能力にも欠けている。だから、自分の発想をなりふり構わず行動に移し、実際に常備軍を作ることによって、自らの考えを周囲に知らしめようとした。
けれど、家中の者に自分の意図は伝わらなかった。佐久間大学一人のみは何事かを感じている様子だったが、他の家臣たちは信長の狂態がひどくなったと見て、ますます興醒めしただけだ。
信長はずっと、身悶えするようにして怒っている。
何故おれのまわりは、こんなにも馬鹿しか揃っていないのか。どうして家中の重臣たちは、鈍牛のような脳味噌を偉そうに振り回している奴らばかりなのか。
そしてその怒りは、特に平手という老人に向かう。
あいつは、おれが子供の頃からの傅育係だった。おれの考えを一番よく分かっていなくてはならないはずだ。
なのに何故、あんなにも押し付けがましく無理解でいられるのか……。
最近ではその苛立ちと怒りが、むしろ軽い憎しみへと変わりつつある。だから今日の葬儀も、平手政秀からくどいほどに刻限、ふさわしい衣装などを事前に言われていたのにもかかわらず、半ば当てつけのようにしていつもの『たわけ殿』の恰好で、しかも遅れて向かっている。
萬松寺の近くまで来ると、既に葬儀は始まっているのか、坊主どもの読経が聞こえてきた。
聞けば、式を壮大なものにするために、三百人もの僧侶を集めたという。まったく胸糞の悪い話だ。彼らへの謝礼だけでも莫大な額に上る。その金があれば、信長は少なくともあと三十人は馬廻衆を増やせるのだ。
信長は再び心中で毒づく。
坊主など、十人もいれば充分ではないか。
山門の前で馬を下り、馬廻衆の組頭を引き連れ、参道をずかずかと進んでいく。信長の珍妙な恰好に、参列者のあちらこちらからざわめきが上がる。中には、あからさまに顔をしかめている者も、小馬鹿にした笑みを浮かべている者もいる。
上座には、年増の女性がいた。土田御前だ。泣き腫らした目で、信長のことを睨み付けてきた。
馬鹿な女だ、と我が母親ながらうんざりとする。
涙さえ流していれば、すべてが解決するとでも思っているのか。だいたい織田家中が二派に分かれて互いにいがみ合うことになったのも、この母親が信勝ばかりを偏愛してきたことが発端ではないか。そんな自分の愚行にも気づかず、葬儀の場の感傷だけに引き摺られ、人前で平然と泣いているおめでたさ加減ときたら、どうだ。その頭の悪さには、心底愛想が尽きる。
その隣に、弟の勘十郎信勝の顔も見えた。弾正忠家連枝衆の筆頭席に座っている。
ぴしりと折り目の付いた黒の肩衣と袴を穿き、いかにも場にふさわしい恰好をしている。相変わらずの澄まし切った小利口ぶりだ。
信長は幼少の頃、自分をまったく構わなかった母親への当てつけに、この弟をいじめたこともあった。かといって信勝自身のことは、特に嫌いではない。それでも、大人どもから教えられた事に何の疑問も持たず、万事にそつなく振る舞うこの弟のことが、時にやりきれなくなる。
勘十郎、ぬしにはこの葬儀の陋劣さが分かっているのか。
そう、怒鳴りつけてやりたくなる。
織田一族の列席者には、父信秀の主人であった清洲織田家の織田信友もいる。信秀の同僚で、清洲三奉行の残りの二つ、織田因幡守家と織田藤左衛門家の惣領たちの顔もある。それら清洲織田家と対抗して、尾張の上四郡を治める岩倉織田家の名代もいる。
みな一応は神妙な顔をして列席しているものの、信秀の死を真に悼んでいる者など一人もいない。むしろこれを機に、いっそ弾正忠家を潰してやろうと手ぐすね引いて待ち構えている者ばかりだ。
そんな魑魅魍魎どもが一堂に会して権謀術数の臭気を放っているのが、この葬儀の正体だ。それなのに、肝心の弾正忠家はといえば、信長派と信勝派に分裂しているという情けない体たらくだ。
さらに苛立つのは、三百人もの僧が唱和する読経だ。信長は物心がついた頃から坊主が大嫌いだった。自分だけではない。父も、神仏の存在など頭から信用していなかっただろう。そんな父の鎮魂に、この陰気たらしい念仏がいったい何の役に立つというのか。
馬鹿たれが。
まったくとんだ葬式もあったものだ。虚礼の極みとは、まさしくこの事だ。
その場に居合わせていた家臣たちの制止も聞かず、本堂に草鞋のままずかずかと踏み込んだ。一瞬、呆気にとられた坊主たちの読経が止む。
位牌を見る。「萬松寺殿桃巌道見大禅定門」という御大層な法名が書かれている。詳しい意味は分からないし、知る気もないが、萬松寺と桃巌(寺)という文字が見える。それだけで、信長派と信勝派とが折衷案として考えだした戒名らしいという事は察せられる。
こんな生煮えの弔われ方では、到底お父も浮かばれまい。
「ふん─」
つい嘲笑うような吐息を漏らした。
ならわしが、この愚劣な戒名にふさわしい葬り方をしてやろう─。
気がついた時には大香炉の抹香を鷲掴みにし、位牌めがけて力の限り投げつけていた。
会場は騒然となった。しかし、振り向いた信長が本堂の中を睨め回すと、再び水を打ったようにしんとした。
ややあって、
「殿っ」
という声が飛んだ。平手が今にも泣き出しそうな顔でこちらに近づいて来ようとしている。
「来るなっ」
咄嗟に信長は吼えた。さらに、
今、口やかましく言われれば、この場にいる連中に何を口走るか分からんぞっ─。
と、心中で激しく罵っていた。
再び一族郎党を睥睨し、一気に本堂の外へと走り出た。参道を駆け戻り、馬に飛び乗って萬松寺を後にした。
※1月16日(水)17時~生放送