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【第153回 直木賞 候補作】『東京帝大叡古教授』門井 慶喜
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【第153回 直木賞 候補作】『東京帝大叡古教授』門井 慶喜

2015-07-02 13:54
     第一話 図書館の死体

     うとうととして目ざめると東京だった。長旅で体がこわばっている。私はばりばりと音を立てるようにして三等客車の固い椅子から身をひきはがし、車室を出て、新橋停車場(ステーション)のプラットホームに降り立った。ここから路面電車へ乗り継がなければならないことは、事前の調べでわかっている。
     が、いなか者のかなしさ、私はそれまで路面電車なんか見たこともなかった。
     どこへ行けば乗れるのかさえ見当もつかなかったから、改札場を出たところで勇気を出し、見知らぬ紳士に声をかけた。紳士は、
    「ああん?」
     露骨にいやな顔をしたあげく、何ひとつ教えてくれぬまま行ってしまった。私はもう一生ぶんの気疲れがして、内心、
     ――東京は、“おじい”ところじゃ。
     生まれ里のことばで嘆いたものだった。私はまだ十九歳だった。
     結局、路面電車には乗らなかった。
     乗るだけの気力がなかった。私はそれから故郷熊本でもっとも安価、かつ安心できる交通手段を使うことにした。二本の脚(あし)で歩きだしたのだ。
     こんなところへ来るんじゃなかったと思いながら、それでも首だけは上に向けて、
    「水明館(すいめいかん)」
     という看板をさがしもとめる。どういう建物かは知らない。ただ本郷森川町にある、比較的宿賃(やどちん)のやすい学生むけ下宿兼旅館だということを案内本で知っていたにすぎなかった。夏のさかりの、蒸し蒸しした、頭がぼうっとするくらい暑い夕暮れ時だった。
     水明館は、なかなか見つからなかった。
     こうなったらもう、
     ――どこでもいい。次に出くわした宿へとびこもう。
     とも幾度か思ったけれど、ようやく本郷とおぼしき街にたどり着き、宿を見つけて門をたたくと、下女ではなく、主人みずからが私をせまい座敷へ案内した。頭のまっ赤にはげあがった中年男だった。私は、たたみの上に突っ立ったまま、
    「急な話ですみませんが、暑中休暇のあいだ……そう、一か月ほど滞在したいんです」
    「かまいませんよ。内金(うちきん)をいただければ」
    「いくらですか」
    「五円」
     ――高い。
     と、私は感じた。私は出発前、母校の校長である桜井房記(ふさき)という人にいろいろと相談に乗ってもらった。校長はむかし、熊本へ赴任する前、六、七年ほど神田の高等師範学校の教授をしておられたため、東京の物価や、学生むけの下宿のよしあしなどという学生生活の諸事情にかなり明るかったのだ。
     ――値下げを申し入れようか。
     とも思ったが、しかしこれが現在の物価なのかと思いなおして、
    「わかりました。あとで払います」
     あるじはなお、さぐるような目で私を見て、
    「見たとこ……学生さん?」
    「はい。高等学校の」
    「一高(いっこう)じゃないね」
    「五高(ごこう)です。熊本の、第五高等学校」
     言いつつ、私はちょっと制帽のつばへ手をやった。制帽の徽章(きしょう)は橄欖(オリーブ)の葉と柏(かしわ)の葉を三枚ずつ、交互に、放射状に円を描くよう配した意匠のもので、東京の一高(第一高等学校)のそれとよく似ている。もっとも、こちらの徽章は、まんなかの丸枠内に「五高」の二文字がくっきり刻みこまれているから、即席の身分証明書になるはずだった。
     あるじは納得したらしい。ごく事務的な口調で、
    「熊本か」
     とつぶやいたあと、宿帳をさしだしながら、
    「それじゃあ、お名前と所番地(ところばんち)を」
     私はやはり立ったまま、筆をとり、さらさらと本名を書きつける。と、あるじはきゅうに顔を笑みくずし、
    「ああ、あんたでしたか。手紙をあずかってますよ」
    「え?」
    「きょうの朝、お使いの人がとどけて来てね。もってきます」
     くるりと背を向け、ぱたぱた部屋を出て行ってしまった。
     ――手紙?
     と私が首をかしげていると、彼はふたたび戻ってきて、私にそれを手わたした。私ははさみで封筒を切った。封筒のなかには、便箋が一枚、入っていた。文面は青の万年筆で書かれており、候(そうろう)文ではなく言文一致だった。

      明治三十八年八月三日、午前十時きっかりに東京帝国大学附属図書館にて貴君を待つ。当
     方はおそらく学生閲覧室の、いちばん奥から一つ手前の尖頭(せんとう)アーチの窓のたも
     との机にて読書に耽(ふけ)っているであろう。遠慮は成功の大敵である。ひるむことなく
     声をかけられたし。

                              東京帝国大学法科大学
                              教授 宇野辺叡古(うのべえいこ)

     しらずしらず、私は、
    「どういうことだ」
     とつぶやいていた。宿のあるじが、ふしぎそうに私の顔をのぞきこんで、
    「何かご不審でも?」
    「いや、叡古教授は、なぜ私が“ここに来ることをご存じだった”のでしょう?」
    「あんたが前もってお伝えしたんじゃないので、学生さん?」
    「とんでもない。まだ顔も見たことがないんです」
    「ははあ」
    「そもそも私は、ついさっきまでこの水明館に滞在するかどうか決めていなかった。あんまり歩くのに疲れたので、もういいや、どこでもいいから飛びこんでしまおうと。まあ結局はご厄介になることにしたわけですが、それを叡古教授はあたかも千里眼のごとく、この手紙を書いた時点で見通していた……」
    「ははあ。なるほど奇妙ですなあ」
     と、あるじは至極のんびりしている。関心がないのだろう。そのかわり、ふたたび手紙に目を落として、
    「それよりも、学生さん。今夜ははやく寝(やす)むほうがいい。夜遊びには出んように」
    「どうしてですか」
    「よく読みなさい」
     と、手紙の或(あ)る一点を指で突いた。待ち合わせの日どりを指定した、明治三十八年(一九〇五)八月三日という数字のところだった。私は、
    「あ」
     きょうは八月二日。すなわち、
    「……あしただ。それも午前中」
     強行軍というほかなかった。何しろ熊本を出てからここへ来るまで、まるまる三日かかっている。その行程はすべて三等客車。もちろん門司(もじ)・下関間(かん)の連絡船はのぞくけれども、汽車では昼の座席はおろか、夜の寝床さえあの固すぎる椅子の上に取らなければならなかったのだ。
     その上、新橋の停車場で降りてからは路面電車に乗ることもなく、ひたすらここまで歩いてきた。足が痛く、手が痛く、背中も腰もぎすぎすする。旅の疲れを取るために二日か三日はぜひこの宿でゆっくりしたいところだった。
     あるじは心配そうな顔になって、
    「学生さん、だいじょうぶですか?」
    「だいじょうぶです」
     私はうなずいた。とにもかくにも、私は、叡古教授に会うためにこそ東京の地をふんだのだ。あるじは、
    「大学へは、行ったことがおありなので?」
    「ありません。上京そのものがはじめてですし」
    「つくづく無理が重なりますな。よろしい、あしたは出がけに道を教えてさしあげましょう」
    「道を?」
    「そう」
    「ありがとうございます!」
     私は、思わず深いお辞儀をした。さっき新橋停車場(ステーション)で無惨にことわられたことを思い出したのだ。あるじはにこにこ笑いながら、
    「どういたしまして。お風呂はもう沸いてますよ。下女にお背中を流させましょう」
     宿帳を小脇にかかえ、部屋を出ていってしまう。私はその小さな背中を見おくりながら、内心、
     ――何という親切な人じゃ。
     思わず涙ぐんだ。内金に五円というのがやはり相場よりだいぶん高い額だと知ったのは、しばらく後のことだった。

            †

     翌日。
     宿のあるじに送り出されて「水明館」を出発したのは午前九時。
     大学構内へ入るには、まず有名な赤門をくぐる……ことはせず、もっと北にある粗末な仮(かり)正門を使うべしというのが彼の助言だった。私はそのとおりにした。なるほど、仮正門を入ってすぐに右ななめの道をたどれば図書館だ。わかりやすいし、すぐに着く。これは私にはありがたかった。
     図書館は、いわゆる洋風建築だった。
     あざやかな赤銅色(しゃくどういろ)の煉瓦(れんが)の壁にずらりと白縁(しろぶち)の窓がならんでいるのだが、それらの窓はことごとく巨大かつ縦長(たてなが)であり、上端がぴんと尖(とが)っている。ゴシック式の尖頭アーチというやつだろう。もっとも、屋根は日本伝統の桟(さん)“がわら”を葺(ふ)いた切妻であり、完全な洋館ではないのだが、この場合はかえって或(あ)る種の威厳をかもし出しているように私には思われた。
     玄関も、やはり尖頭アーチをそなえている。私はおずおず足をふみいれ、受付の事務官に、
    「あの……熊本の、第五高等学校から来た者ですが」
    「紹介状をお持ちですか」
    「はい。法科の、宇野辺叡古教授の」
     私は鞄(かばん)から手紙を取り出すと、相手に手わたした。ときどきあることなのだろう、相手はちらりと封筒の表書きを見ると、そのまま手もとの文箱(ふばこ)へしまいこんで、無感動な口調で、
    「お入りを」
     返してはくれないらしい。私はちょっと戸惑ったが、そんなものかと思いなおして、
    「ありがとうございます」
     あっさり知の殿堂のなかの人となった。かたわらの柱時計へ目をやれば、時刻は九時三十分。
     ――待ち合わせには三十分もある。まだ来ておられないだろう。
     私は、学生閲覧室へ足をふみいれた。
    「ああ」
     思わず声をあげてしまった。たかだかとした天井、ひろびろとした空間。左右にならぶ巨大な窓から黄金色(おうごんいろ)の太陽のひかりが洪水のごとく流れこみ、部屋をいっそう荘厳(しょうごん)する。柱はただの一本もなし。こんなところに朝から晩まで住むことがゆるされたら、わが勉強はどれほど進むだろう。私はどれほど賢くなれるだろう。私はうっとりと目を細めるしかできなかった。
     部屋のなかには、机もたくさん置かれていた。
     四人がけの机が……というより閲覧台が、縦に九つ、横に四つ、規矩正(きくただ)しく配列されている。いまは数名の学生がぱらぱら散っているだけだけれども、そのなかの、いちばん奥から一つ手前の机のほうへ目をやるや、
    「あ」
     私は、ごくりと“つば”を呑(の)みこんだ。そこには明らかに学生とちがう、中年の紳士がひとり腰かけていたのだった。
     ――叡古教授だ。
     私はそう確信した。あらかじめ聞いたところでは、叡古教授は四十歳前後。めがねをかけ、ひげを生やし、少し貫禄(かんろく)のある体格をしているということだったが、そこに腰かけている人の外見的特徴たるや、まさに私の想像と同寸同大だったのだ。
     しかも教授は、うつむいて本を読んでいる。
     手紙に書いてあったとおりだった。教授は私を待っているのだ。私は、おのれの心臓がどんどん鼓動を速めるのを感じたが、しかしあの手紙には「遠慮は成功の大敵である」という金言も記してあった。そうして私は、遺憾ながら、遠慮のかたまりのような人間なのだ。
     ――勇気を出せ。
     みずからを叱咤(しった)しつつ、一歩、一歩とゆっくり近づいた。机の横をまわり、大胆にも教授のとなりの空席に腰かけて、
    「あの」
     返事なし。
     教授はあたかも猫のように背をまるめ、本に目を落としたままだった。さすがに帝大教授の集中力はすごいものだと私はすっかり感激しながら、
    「あの……宇野辺叡古教授でいらっしゃいますね。わたくし熊本から来た学生です。教授と同郷の……」
     ささやきつつ、なお反応が見られないので、物理的に注意を喚起することにした。教授の背広の肩のあたりを指でつまみ、ぴんと手前にひっぱったのだ。
     と。
     教授は本を読む姿勢のまま、ゆらりと体がかたむいた。
     かたむく速度をはやめつつ、こちらへ横ざまにのしかかってくる。
    「あ、あの」
     教授の頭は、とうとう私の肩に乗ってしまった。
     私はこのとき、五高の制服を着ている。これもやはり一高のとそっくりの、黒地の詰め襟に金ボタンのものだが、その制服の肩から教授の頭はずるりと落ち、まるで石が坂をころがるように私の胸をころがり落ちた。
     そのさい頭が半回転して、鼻がちょうど私の制服の金ボタンに引っかかり、顔が上を向いたので、一瞬ながら目と目が合った。教授の目は、めがねの奥で、ゆで卵のような白目(しろめ)をむいていた。
     ぎょっとする間(ま)もなく、教授の頭はこちらの膝に落ち、ぽんと弾んで床(ゆか)に落ちた。床はもちろん石張りで、じゅうたんなどは敷いていない。ゴッという強烈な鈍い音が足先から立つのと、私が思わず椅子を引いて、
    「あああああああっ!」
     絶叫したのは、おそらく同時だったのではないか。まわりの勉強熱心な大学生たちは、ここでようやく異変に気づいた。
     めいめい椅子から立ちあがる。私のほうへ駆けてきて、
    「うるさいぞ」
     とか、
    「どうしたんだ」
     とか、
    「あっ。医者を呼べ」
     とか、くちぐちに言いはじめる。日本の最高学府にふさわしからぬ怒号と混乱がこの部屋をみたし、私を畏怖させた。私はただその場に突っ立ったまま教授を見おろすしかできなかった。教授は……というより教授だった肉体は、ぐんにゃりと上半身をねじるような恰好(かっこう)で床の上にあおむきになっている。塩をふられた蛞蝓(なめくじ)のように唇がちぢみ、血の色をうしなっているあたり、どうみても再生の可能性はうかがわれなかったが、このとき私の頭をかすめたのは、
     ――この人は、どうして片手だけ白い手袋をしているのだろう。
     ということだった。

    ※冒頭部分を抜粋。続きは以下書籍にてご覧ください。


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