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【第155回 直木賞 候補作】『天下人の茶』伊東潤
2016-07-11 11:59一
五更の天も明石潟。〳〵。須磨の浦風立ちまよふ。雲より落る布引の、滝の流れもはるかなる。芦屋の、灘も打過ぎて。難波入江のみをはやみ。芥川にそ着きにけり。〳〵
主君信長の仇を討つために道を急ぐ、あの時の己の気持ちが乗り移ったかのように、地謡の声が高まる。
『明知討』も終盤に差し掛かった。
―あの時のわしになるのだ。
シテとして自らを演じる秀吉は、かつての己になりきろうとしていた。
薄絹を隔てて見える後陽成帝は微動だにせず、こちらを見据えている。
強風が紫宸殿の前庭に吹き込み、能舞台の四方に焚かれた篝をさかんに煽る。
しばらく是にて諸卒を揃へ。敵の中へ切つて入り。彼の逆徒を討つて信長公の孝養に備へばやと存候。いかに誰かある。
左、右、左と三足後退しながら、両腕を横に広げた秀吉は、右手の扇を横からゆっくりと差し上げ、正面に向けて高く掲げた。
―上様、ただ今、参りますぞ。上様の仇を -
【第155回 直木賞 候補作】『海の見える理髪店』荻原浩
2016-07-11 11:59ここに店を移して十五年になります。
なぜこんなところに、とみなさんおっしゃいますが、私は気に入っておりまして。一人で切りもりできて、お客さまをお待たせしない店が理想でしたのでね。なによりほら、この鏡です。初めての方はたいてい喜んでくださいます。鏡を置く場所も大きさも、そりゃあもう、工夫しました。
その理髪店は海辺の小さな町にあった。駅からバスに乗り、山裾を縫って続く海岸通りのいくつめかの停留所で降りて、進行方向へ数分歩くと、予約を入れた時に教えられたとおり、右手の山側に赤、青、白、三色の円柱看板が見えてくる。
枕木が埋められた斜面を五、六段のぼったところが入り口だ。時代遅れの洋風造りだった。店の名を示すものは何もなく、上半分がガラスの木製ドアに、営業中という小さな札だけがさがっていた。
人が住まなくなった民家を店に改装したのだろう。花のない庭には、支柱も鎖も赤く錆びついたブランコ -
【第155回 直木賞 候補作】『家康、江戸を建てる』門井慶喜
2016-07-11 11:59天正十八年(一五九〇)夏、豊臣秀吉は、相州石垣山の山頂にのぼり、放尿をはじめた。
眼下に小田原城をながめつつ、秀吉自身を除けば日本一の大名である徳川家康へ、
「ご覧なされ」
上きげんで告げた。
「あの城は、まもなく落ちる。戦国の梟雄・伊勢新九郎(北条早雲)あらわれて以来五代一百年をかぞえる北条家が、あわれ、われらの軍門にくだるのじゃ。気味よし、気味よし」
家康は、横で放尿につきあいながら、
「気味よし、気味よし」
「されば家康殿、このたびの戦がすみしだい、貴殿には北条家の旧領である関東八か国をそっくりさしあげよう。相模、武蔵、上野、下野、上総、下総、安房、常陸、じつに合わせて二百四十万石。天下一の広大な土地じゃ。お受けなされい」
「格別のおぼしめし、かたじけなくお受け申します」
家康がそんなふうに快諾したことが、のちのち東国の児童の好んで囃すところとなる、
――関東の連れ小便。 -
【第155回 直木賞 候補作】『暗幕のゲルニカ』原田マハ
2016-07-11 11:59暗幕のゲルニカ
芸術は、飾りではない。敵に立ち向かうための武器なのだ。
――パブロ・ピカソ
目の前に、モノクロームの巨大な画面が、凍てついた海のように広がっている。
泣き叫ぶ女、死んだ子供、いななく馬、振り向く牡牛、力尽きて倒れる兵士。
それは、禍々しい力に満ちた、絶望の画面。
瑤子は、ひと目見ただけで、その絵の前から動けなくなった。真っ暗闇の中に、ひとり、取り残された気がして、急に怖くなった。
目をつぶりたいけれど、つぶってはいけない。見てはいけないものだけれど、見なくてはいけない――。
瑤子たち一家は、休日ごとに、マンハッタンにある美術館を訪ねて歩いていた。銀行員だった父の赴任に伴って、家族でニューヨークに移り住んだ年のことである。
父はあまり美術には興味がないようだったが、母が行きたいというのに付き合ってくれていた。母は印象派の作品が特別お気に入りで、ミュージアムショッ -
【第155回 直木賞 候補作】『ポイズンドーター・ホーリーマザー』湊かなえ
2016-07-11 11:59マイディアレスト
有紗のことを、ですか? 解りました。
有紗は六歳下の妹です。仲の良い姉妹だったかと問われると、どう返していいのかよく解りません。もう少し歳が近ければ、一緒に遊んだり、逆に、ケンカをしたりしていたのでしょうが、六歳差では、学校が重なることもなく、母も専業主婦ですから、面倒をみろとか一緒に遊んでやれ、などとやっかい事を押しつけられることもなかったので、良い、悪い以前に、同じ家に住んでいながらもあまり深く接した憶えがないのです。
ただ、うらやましい存在ではありました。
一番目、二番目、という違いもあるのでしょうが、母の接し方は私と妹ではまるで違っていました。二十代で産んだ子、三十代で産んだ子、という違いの方が大きな要因かもしれません。私は物心ついた頃から常に、母から厳しくしつけられていました。しかし、妹に声を荒げる母の姿は一度も見たことがありません。
とはいえ、そうい -
【第155回 直木賞 候補作】『真実の10メートル手前』米澤穂信
2016-07-11 11:591
いつになく早い雪が日本の東半分をまだらに覆った朝が明けて、わたしは名古屋駅にいた。
八時の「しなの」で塩尻に向かうことにしていた。いくつかの路線でダイヤが乱れているけれど、予定の電車は定刻通りに出るそうだ。
駅のホームで人と合流する手はずだったが、車輛がホームに入ってきてもまだ現れない。腕時計を見て、携帯電話を取り出す。相手の電話番号を表示したところで、背後から息切れ気味の声をかけられた。
「すみません、遅くなりました」
携帯電話を戻して振り返る。
「間に合ってよかった」
待ち合わせの相手、藤沢吉成が息を切らしていた。ダウンジャケットはジッパーが閉められておらず、シャツはボタンが一つずれている。髪は逆立って僅かに脂気があり、髭の剃り残しもある。目は赤く、その下には濃い隈が浮き出ていた。
藤沢は、しきりに頭を掻いた。
「いや、ほんとすいません」
「気にしないで。昨日遅か
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