今、日本の大学では、専門性を重視する。一般教養は即戦力がないとして遠ざけられる。
しかし、現代は極めてめまぐるしく変化している。ある時期の「即戦力」は数年で消える可能性がある。必要なのは、人間、人間社会の理解である。この分野の理解があって、今の社会に何が不足かが問われ、変化をする。その意味では、どの時代よりも一般教養を重視すべき時であろう。
この中、ザゴリアが『リベラル教育を擁護する(In Defense of a Liberal Education)』本を出版し、ハフィントン・ポスト紙が「ザガリアが、我々はいつの時代よりもリベラルアート(一般教育)を必要とすると主張(We Need The Liberal Arts More Than Ever In Today's Digital World, Fareed Zakaria Says)』の論評を出した。
主要論点次の通り。
コメント
コメントを書く最近の孫崎さんのこのブログの傾向を見ていると、自分の目耳で考えることを求めておられるのを強く感じます。
我々世代から見ると、知識情報が多面化、多様化している現状、また、企業が即戦力となる専門的人材を求める外的変化を無視できない。若い人は大変な時代に遭遇していると思わざるを得ません。
企業では幹部候補生でなければ、単なる労働力は専門バカでよく、人格を高める教養は特に必要としないだけでなく、返って有害と見る企業もあるのではないか。一番重要なのは、成り行きに任せてはいれるところに入社するのでなく、自分が何をやりたいか、どのような生活を望むかが重要な気がします。ただ、言葉で言えば簡単であるが、本当の自己を「これだ」と体感するためには、孫崎さんのお話のように、一般教養も大切であるが、無駄なようでも、スマホの時間を切り詰め、人生をじっくり話し合える仲間との時間が大切な気がします。
STEM重視は米国のような国に好都合なんでしょう。
米国を少し細かく観ますと金融資本の絶対支配の国だということが分かります。その支配体制を所有管理しているのはWASPとそれに列せられた一部のエリート種族です。米国住民で膨大な数を占めるカラードと呼ばれるアフリカ系米人、オリエンタル、ラテイーノ等は支配管理される階級です。こういう管理社会ではSTEM以外は有害です。
こういう米国はこの教育が米国社会に都合がよいと確かめた後、北米中南米で応用実践し、世界に水平展開しようと奮闘これ努めているのです。
変な国、日本はともかくとして、伝統と誇りを持った西ヨーロッパの人々、アフリカ大陸の人々、中国大陸の人々、朝鮮の人々、モスリムの人々、にはSTEM重視だけでは国、社会、集団が成立しないと思います。
産業と学問
社会には日本版カーストが構築されています。
人間哲学を持たない持てない人が多いのは悲しい事ですし、社会を弱体化させているように思います。
リーダーには、とりわけ普遍的な人間理解が求められ、多様な見聞からしか学び取れない性質のものです。
私は、小泉内閣時代会計士受験を長くしてまいりました。
会計基準はだれが、どんな目的で改定するのか、国際会計基準はなぜ、日本の会計基準があるのに実務で選択適用してよいのか。CPAの会計は企業経理の会計より扱いが異なる。CPAは、経済の医者のような仕事だと思いチャレンジを続けてきました。世のCPAのうち、人間愛を持って会計士をする人はいないと思います。ヒューマニズムは、実務では邪魔なんです。哲学に裏打ちされた専門でありたいと思うのは今も変わらず教師をしております。
法に沿った士業では,情より法が優先されるのは当然。ただ,「グレー」ゾーンがある場合は,人間性が問われることもあるのではないか。更に,「法」を作る立法の世界では倫理が優先してしかるべき。
STENM領域では,科学技術の上に倫理(技術者倫理+一人間としての品格)が問われるのは,STENMに携わる人と変わりない。そうでないと,人間の能力を退化させ,今の情報化社会のように,混乱を招き,軍事技術のように「死の商人」化する。 それは,個人にとっての生きがい喪失,ストレス,情報機密==>民主主義の逆行,格差,・・・弊害を生み出す。
STENMが先行して,人間がそれに振り回されるのではなく,社会国家のあるべき姿を実現するために,STENMがあるというのが私の考え。工学屋は,「何の役に立つ?」と聞きたくなる癖があるように思えるが,「何の役?」の定義が短絡的ではいけない。
わたしの息子がかつて米国に留学しておりました。
そして米国人の無教養、とりわけ外国にたいする基本的知識
の信じられないほどの欠如を嘆いていました。
ブラジルにも黒人はいるか、とブッシュが側近にたずねた
エピソードは有名ですね。
かれは日本では嗤われバカにされました。
当然ですね。日本でなら。
息子によれば米国ではそうでもなかったそうです。
訊かれたライスははたして知っていただろうか、と息子は
いいます。
知らなくてもちっとも驚きはないと。
米国人のデブとバカは日本人とはスケールがちがうといつも
言っていたので(米国ってチャイコフスキーを知らないやつを
見つけるのに苦労はいらないよ、おれはコミュニストのことなど
知らんてさハハハ)
一般人はそれでよくともエリートはだめでしょう。
日本でもバカっぷりをさらけ出した無教養の元首相がいますが、
マスコミや有権者国民はなぜかそれにたいしてあたたかいですね。
総理大臣がバカでよければ、子供は勉強せよといわれなくてよい
はずです。
それなのに自民党はゆとり教育敵視とは。
知識は今では簡単にパソコンやスマホで手に入ります。専門的知識はそれほど簡単に手に入るわけではりませんが、すぐに陳腐化してしまいます。総じて知識自体の価値は低下しつつあります。
現代社会において、もっとも必要なのは、思考力(すなわち、問題を見つけ、問題を設定し、問題を解決する一連のプロセスを遂行する能力)であることは、孫崎さんがたびたび指摘される通りです。権力を有する人々がもっとも恐れるのは思考力をもった人間です。
しかし思考力の養成はとても困難なので、思考力のないいわゆるB層に属する人びとが現代社会の多数派を占めることになります。自民党の強さはこの多数派に焦点を合わせているからですね。無知・無学な政治家ほど、米国の覚えもめでたく、権力を握り続けることができることになります(鳩山さんは例外的に思考する政治家でしたが、日米の支配層が動いて、すぐに失脚させてしまいました)。
一般教養の重視は大賛成です。とくに、政治家たらんとする人にはまずもって、一般教養としての基礎学力を有する人であって欲しいです。
その意味で、かねてからの私の持論です。
国会議員たらんとする人には、大学入試のセンター試験(たとえば、「政治経済」)のような試験を立候補の際に課し、その点数を選挙公報に記載させるようにする。選挙民は、投票の際、それも考慮すべき一要素として意中の人を選んで一票を投ずる。
もちろん、政治家としての良し悪しは学力だけで判断されるべきものではないから、点数の悪かった人でも立候補できるし、人物や考え方のしっかりした人であれば、十分当選できる可能性がある。
でも、たとえば「漢字が読めない」ことが理由の一つになって、短期間で首相の座を下りざるを得なかった政治家がいたことを考えれば、この提案あながち荒唐無稽な思いつきでもないのではないでしょうか? 皆さんはどう思われますか。
工学系(技術系)は、想像力が必要ない職種だ、などと思っている
のでしたら、それってとんでもない偏見だし、勘違いですよ。
それこそ、毎日毎日が、問題解決と創意工夫の連続です。
私のIT現役時代には、飯を喰っている間も、トイレに行ってる時も、
「何か良い解決策はないか」とそんなことばっかり考えてました。
ITだけでなく、製造業もしかり。
製造業と聞くと、時々馬鹿にした態度をとるような知識人の方々が
いらっしゃいますが、私の親父は高卒ですが、某大手メーカー勤務
の現役時代には、200件近い特許を出願しています。
それから、「専門バカ」を「バカに」してはいけません(笑)
大手の基幹業務システムや、自動車メーカー等の制御系システムを、
障害で一度でも停止させてしまうと、それこそ、何千万円、何億円、
というとてつもない損害額が発生することがあります。
この場合は当然、責任の所在を明確にしなければなりません。
アプリケーションの欠陥(つまり我々の責任)なのか、それともOSの
不具合か、ミドルウェアの問題か、ハードウェア(コンピューター)の
故障なのか。素人ではまったく判断がつかないことがある。
こういった時、システム障害の原因を、確実な証拠(エビデンス)を
示して、的確に立証できる人材というのは「超貴重」なのです。
こういった仕事は、「専門バカ」をさらに「専門バカ」にしたような
人材でなければ解決不可能なケースというのがあるわけです。
評論家の方々は、多少間違ったことを発言しても責任は一切求め
なれませんが、現場の技術者達はそうはいきません。
あと、ITの世界は特に、技術の陳腐化が早いですからね。
プログラム言語や開発環境などは、10年も経てば使い物に
ならなくなるケースも多々あります。
しかし、コンピューターの基礎技術(原理)や、設計方法論、
問題解決手法、マネジメント手法といったものは普遍的です。
しっかりとの基礎技術や工学理論を勉強しないといけない。
というか、私からすれば、政治家や評論家達は、もっと
論理的思考力を身につけて欲しいと思っています。
まるっきり支離滅裂で無計画、国が駄目になるのは当然です。