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第7回インターバルレクリエーション…東京国立博物館・フィラデルフィア美術館交流企画特別展「マルセル・デュシャンと日本美術」
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第7回インターバルレクリエーション…東京国立博物館・フィラデルフィア美術館交流企画特別展「マルセル・デュシャンと日本美術」

2018-10-14 19:00
     
     第7回インターバルレクリエーションは、東京国立博物館・フィラデルフィア美術館交流企画特別展「マルセル・デュシャンと日本美術」です。
    開催概要はこちらへ。http://www.duchamp2018.jp/

     筆者の発案で開催となりました今回、同行した皆さんの感想は概ね「難しかった」「よく分からなかった」とのこと。実はこの「モヤモヤしてスッキリしない」感こそが、デュシャンをはじめとする「コンセプチュアル・アート」の特徴であり、大きな魅力の一つなのです。しかし展覧会上、来場者にとって「デュシャン以前/以後」をつなぐ情報が不足していた感も否めません。そこで本レポート後半では、筆者の目線から少しだけ補助線を引いてみたいと思います。筆者はアートの専門家ではありませんので、間違いや誤解があればぜひ忌憚のないツッコミを入れてください。

     まずは展覧会について。作品群は見どころが多く、しかもほとんどの作品がなんと撮影自由! 大変満足できました(撮影自由はレディメイドっぽい価値観を感じますね)。冒頭の「車輪」に続き、初期の風景画や水彩画(fig.01)は技巧的に美しく、印象派革命を起こしたマネ(この方もめちゃくちゃ絵が巧い)と同じく「守破離の道は確実な基礎と技巧の上に成り立つ」ことをあらためて感じます。その後のキュビスム傾倒時期の作品群(fig.02)についても、物理的に破綻のない、理知的なアプローチが小気味良い印象でした。

    -fig.01-ピアノを弾くマグドレーヌ 1900年 水彩、鉛筆、紙-
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    -fig.02-キュビスム期の作品群-
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     そしてお待ちかねの大ガラス(fig.03)、そして"便器"をはじめとしたレディメイドたちがお出迎えです(fig.04)。

    -fig.03-彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも(大ガラス)東京版 1980年(複製/オリジナル1915–23年)-
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    -fig.04-レディメイド作品群-
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     ここから後半に移りましょう(展覧会後半ブースの日本美術については言及を割愛します)。

     「芸術作品って何ですか?」と問われたら、皆さんはどう答えるでしょうか。「絵画や彫刻、音楽やお芝居、小説や映画」あるいは「形態を問わず、作者の思いを表現したもの」と答える方もいるでしょう。または「美しいもの、感動するもの、歴史を伝えるもの」と仰る方もいるかも知れません。

     もちろん、いずれも正解です。では、マルセル・デュシャンならどう答えるでしょうか。

     デュシャンは「レディメイド」の発見によって、上記のように我々が無意識的に常識としている「芸術作品の定義」に対し、「本当にそうなの? 本当にそれだけなの?」ということを真正面から(あるいは軽やかに)問いかけ、世の中に送り出した初めての(有名になった)人、と言えるのではないかと思います。

     ここで2枚の写真を見てください。1枚目(fig.05)はコップの写真ですね。だから何、というただの写真です。2枚目(fig.06)はどうでしょうか。「筆者がフザけて加工したんだな」と思われたかも知れません。でも「実はこれ、2枚セットでR.J ファンデルートさんのれっきとした美術作品なんだよね。ファンデルート? あぁ、フランスで19世紀に活躍した彫刻家なんだよ」と言われたらどうでしょう。

    -fig.05-
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    -fig.06-透明を憧れる肉体、さえも R.J ファンデルート 1893年-
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     デュシャンは既製品「=レディメイド」である便器(しかもよりによって便器!)に、「泉」という作品名を与え、さらに偽の作者名で署名を付すことで、他のアーティストにも観客にも、要は世の中に対し「芸術作品の定義」を強烈に問いかけ、揺るがせたのです。ポジティブに言い換えれば、「誰かが思いを表現したものではない、身の回りにある既製品でも美しいものは美しいのだ。みんな気付こうよ!」という問いかけであり、シニカルな側面を強調して言い換えれば、「本当は美しくも何ともないものを、君たちは芸術家の署名だけ見て"美しい"と勘違いしていないか?」という問いかけなのです。

     デュシャン以降、芸術作品、ひいてはアートというものは、それ以前のような「作者の思いを表現した絵画や彫刻を美術館(に類する場)に陳列し、観客という役割を自認する訪問者が相対(あいたい)し、味わう」世界観から、それだけではなく「作品が与え得る価値がそもそもいかなるものなのか、観客側に多角的な自問自答を強いる」ような世界観にも拡大した、と言うことができるでしょう。つまり、作品が持つ直接的な美的価値、技巧的価値を評価することよりも、作品が持つ立体的な"意図"=コンセプトに相対することがアートの主戦場になっていきます。

     従って我々は現代アートに接すると、どうしても「難しい」「よく分からない」 「スッキリしない」 感に陥る機会が増えてしまい、そしてそれこそが「コンセプチュアル・アート」の楽しみ方でもあるのです。ちなみに「大ガラス」は筆者にもサッパリ意味が分かりません(笑)。でも、それでいいのです。そのモヤモヤ感を家に持ち帰り考え続けること。それも価値のひとつなのですから。そう、アートとは「価値に関するもの」 なのです(筆者が若かりし頃、某教授に「アートって何ですか?」という雑な質問をした時の回答) 。

     2018年、覆面芸術家のバンクシーは、自身の作品がオークションで落札された瞬間、予め額縁に仕込んであったシュレッダーによって破壊されるという驚くべきパフォーマンスを行いました。これは単なる悪ふざけなのか、デュシャンを起源とする「コンセプチュアル・アート」の歴史に刻まれ後世に語り継がれる一幕となるのか、あるいは「全く新しい何か」なのか。答えは誰にも分かりません。

     デュシャンが拡げた波打つ大いなる風呂敷に揺られ、考え、悩む。そんな風に現代アートを楽しんで行こうではありませんか。(記:A.W)

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