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  • 星を見る少女と廃墟に立つ少年。『この世界の片隅に』と『風立ちぬ』に「世界」を見る。

    2016-11-16 04:17  
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     先日、映画『この世界の片隅に』を観て来ました。素晴らしかった。まだ未見の方はぜひ、何らかの手段を用いてこの世紀の傑作を見てほしいと思います。『シン・ゴジラ』、『君の名は。』を初めとして豊作だった今年を締めくくる一作といえるでしょう。
     そして、今年の数ある名作のなかでもベスト・オブ・ベストというべき素晴らしい出来。日本アニメの、というより日本映像文化史上の最高傑作のひとつと位置づけられるべき神がかった作品だと思います。
     原作既読のぼくは開始5分くらいで泣きそうになっていました。まあ、それは極端な例ですが、これはちょっと凄いです。
     原作も大傑作だけれど、その原作に匹敵し、あるいは上回る驚異のクオリティ。この一作を生み出したことを日本のマンガ/アニメカルチャーは永遠に誇ることができると思います。それほどの作品です。
     とまあ、賛辞を並べ立ててはみたのですが、じっさいのところ、この映画のよさを語ろうと思うとむずかしい。ぼくがこの映画から受けた感動をそのまま言葉にすることは、少なくともぼくの能力では不可能といい切ってもいいのではないかと思います。
     しかし、何も語らないこともどうかと思うので、力足らずの言葉足らずではありますが、一応、語っておきたいと思います。
     「この世界の片隅に」。印象的なタイトルのこの映画は、戦時下の広島市と呉市を舞台にしています。
     「ぼんやりした」少女・すずが幼い頃から物語が始まり、それから時代を下って、彼女の降嫁と結婚生活を描き出していくのです。
     そして、日本が経験した「戦争」が、すずの視点から描き出されます。原作でも物語がすずの視点から離れることは少ないのですが、映画はさらにすずに近く寄り添っているように思われます。
     したがって、大所高所から見た「世界」のマクロ的な構造はここではまったく描かれません。描かれるものは、巧まざるユーモアに満ちたすずの穏やかな日常、ただそれだけです。
     「穏やか」という表現は戦争中の日常に似合わないかもしれません。じっさい、すずの生活のなかにはしばしば戦争の猛威が忍び寄ります。
     しかし、それでもなお、彼女はどこまでも「普通」であろうとし、そしてじっさいに「普通」でありつづけるのです。クライマックスにおいて、決定的な悲劇が襲いかかってくるその時までは。
     これは、戦争という巨大な「暴力」を含む「世界」と、その「片隅」に生を受けた「ひとりの少女」の対決の物語です。
     見終わってすぐ、ぼくは宮崎駿監督の『風立ちぬ』を思い浮かべました。『この世界の片隅に』は『風立ちぬ』とちょうど対になっている映画だと感じたのです。
     というのも、ぼくには『風立ちぬ』は「暴力に満ちた世界の「中心」で、加害者の立場に立たされることになった男性(少年)の物語」であり、『この世界の片隅に』は「その世界の「片隅」で、被害者の立場に立たされることになった女性(少女)の物語」であるように思えたからです。
     迂遠ないい方になったかもしれませんが、ぼくは前者が「加害者の物語」であり、後者が「被害者の物語」であるとは完全にいい切れないとは思います。
     ただ、かれらがそれぞれ加害者として、被害者として見られることは事実でしょう。そして、政治的、あるいは批評的、思想的にはその差異が重要であるのかもしれません。
     しかし、ぼくはそこにあえて意味を見いだそうとは思いません。かれらはかれらなりにひとりの人間として「この世界」と対峙したのであり、その望みの通りに生きたのです。
     その生きざまが心を打つかどうか? それが映画のすべてであり、そしてぼくはいずれの作品にもつよく打たれました。その生き方が道義的に正しいかどうかということは二次的なことです。
     とはいえ、『風立ちぬ』の主人公・堀越二郎は主体的(アクティヴ)に行動し、自分の運命を決めていきます。かれが最後にたどり着いた「廃墟」は、かれ自身が選んだ人生の結果であるといえます。
     もちろん、だれしも完全に人生をコントロールすることはできない以上、かれもまた「世界」に満ちた暴力に巻き込まれたひとりであるということはできるでしょうが、そうはいってもかれは可能な限り「自己決定」したという意味で、「世界の中心」を生き抜いたということができると思います。
     対して、すずはどうか。彼女の生き方は、堀越二郎と比べるまでもなく、一貫して受動的(パッシヴ)に見えます。
     彼女は親が決めた人物と結婚し、その家でいくらか悪意のある行為を受けても抵抗せず、また、戦争という巨大な暴力に逆らおうともしません。
     それは、あの当時の多くの女性たちと同じ姿ではあるのでしょうが、そういう意味で、すずはまったく「普通」の女性です。
     あえていうなら絵を描く才能が秀でているということもできるでしょうが、それにしても「世界」を変えるような性質のものではありません。
     暴風のように「世界」のなかを荒れ狂う戦争という「暴力」に対し、彼女はどこまでも無力であるように見えます。この映画を、戦争によって多くのものを奪われた女性の悲劇として見ることも可能でしょう。
     ところが――ところが、そうではないのです。すずは「世界の片隅」で、「暴力」と戦い、そして、負けません。
     「世界」はさまざまな方法で彼女に襲いかかり、その圧倒的な力でもって「片隅」の少女を押しつぶそうとしたのですが、それでも彼女は屈しないのです。
     『この世界の片隅に』はすずの「戦い」の物語です。すずのまわりにある「過酷で残酷な世界」はすずの内面にある「完璧な世界」を打ち砕こうと幾度も幾度も押し寄せますが、決してそうすることはできません。
     それほどにすずは「強い」。そう、彼女は恐ろしく揺らぎません。彼女は外の世界で起こるあらゆることを受け止め、受け容れていきます。
     その意味ですずは、たとえば『コードギアス』のルルーシュのように「世界は間違えている」と叫んだり、『少女革命ウテナ』のウテナのように「世界を革命する力」を求めたりはしません。
     彼女はどこまでも世界に対し受動的なのです。彼女は作中、一度も世界を変えることを求めて「世界の中心」に躍り上がろうとはしません。
     彼女の居場所はどこまでも「世界の片隅」。そういう意味では、これはきわめて地味なドラマです。ですが、これがきわめて感動的なのですね。
     ぼくはすずの姿を見ていて、池澤夏樹『スティル・ライフ』の有名な冒頭を思い出します。

     この世界がきみのために存在すると思ってはいけない。世界はきみを入れる容器ではない。
     世界ときみは、二本の木が並んで立つように、どちらも寄りかかることなく、それぞれまっすぐに立っている。
     きみは自分のそばに世界という立派な木があることを知っている。それを喜んでいる。世界の方はあまりきみのことを考えていないかもしれない。
     でも、外に立つ世界とは別に、きみの中にも、一つの世界がある。きみは自分の内部の広大な薄明の世界を想像してみることができる。きみの意識は二つの世界の境界の上にいる。
     大事なのは、山脈や、人や、染色工場や、セミ時雨などからなる外の世界と、きみの中にある広い世界との間に連絡をつけること、一歩の距離をおいて並び立つ二つの世界の呼応と調和をはかることだ。
     たとえば、星を見るとかして。
     二つの世界の呼応と調和がうまくいっていると、毎日を過ごすのはずっと楽になる。心の力をよけいなことに使う必要がなくなる。
     水の味がわかり、人を怒らせることが少なくなる。
     星を正しく見るのはむずかしいが、上手になればそれだけの効果があがるだろう。
     星ではなく、せせらぎや、セミ時雨でもいいのだけれども。

     すずはまさに「呼応と調和がうまくいっている」人間です。つまり、先ほど述べたように、彼女の内面にある「広大な薄明の世界」は「完璧に調った状態」にあるといってもいいでしょう。
     彼女は「完璧な世界」を内側に持っていて、「(外の)世界との呼応と調和」を達成しているが故に、あえて「(外の)世界を革命する」必要がないのです。彼女にとって世界は完璧な場所なのですから。
     おそらく、ほかのどんな時代に生まれてもそうだったでしょう。しかし、彼女の内なる世界がどれほど完璧にできあがっていようと、外なる世界には嵐が吹き荒れている。
     したがって、 
  • 『君の名は。』ネタバレ感想。物語を形づくる三枚のカード。

    2016-08-29 04:53  
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     先ほどまで映画『君の名は。』のネタバレラジオを放送していたのですが、そこで話したことを記事の形でもまとめておきます。
     以下、『君の名は。』のネタバレを含みます。未見の方はなるべく読まないでください。オーケー?
     さて、『君の名は。』では、クライマックス、ふたりの主人公、瀧と三葉はすべての記憶を失って離ればなれになります。
     瀧は何かを失ってしまったという喪失感を抱えながら日々を過ごし、そして数年後、ふたりが運命的に再開するところで物語は終わります。
     感動的なハッピーエンド。しかし、ぼくはここでもう少し印象が弱いものを感じたのですね。いや、作品そのものは傑作で、クオリティ的には文句なしなのですが、いわば99点で、100点は付けられないようなところをどこかに感じたのです。
     それはどこなのかといえば、いまにして思えば、このハッピーエンドそのものに「嘘」を感じ取っていたのだと思う。
     つま
  • 『シン・ゴジラ』が単なる愛国ポルノではありえない理由を『風立ちぬ』を通して説明する。

    2016-08-16 03:48  
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     ふと思い立って、もういちど宮崎駿監督の『風立ちぬ』を見ています。『シン・ゴジラ』を見た後だと、この作品の歴史的意義がよくわかる気がしますね。この映画に関しては、ペトロニウスさんがこう書いています。

     これが、何を表しているかといえば、宮崎駿が、
     今の時代は少年を主人公にする物語が描けなくなった
     といっていたことです。ようは、良かれと思い善意溢れる努力を突き進むと、それがどうしてもマクロ的にコントロールできなくなり、世界を全体主義や戦争へ突入させて滅びに結びついてしまう。そうした構造が見えている中で、男の子的な少年の夢を成就させる、自己実現させる方法が宮崎駿には見いだせなくなったのだと思うのです。
     そうして、少女ばかりが主人公になっていくことになります。
     未来を夢見て生きる(=少年の夢)ではなく、現在の日常を楽しむ視線に変化したことを指しているのだろうと思います。このあたりは、
  • 「自分の人生」という物語を避けることはできない。

    2016-06-13 23:56  
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     本を読んでいます。
     村瀬学『宮崎駿再考』と城戸義明『科学とは何か 科学はどこへ行くのか』と出口治明『仕事に効く教養としての「世界史」』を並行して読み進めいるところです。
     こう書けば聞こえはいいですが、ようするに読んでは投げ出し、投げ出しては読んでいるわけ。
     一冊の本に集中し切れない注意力の散漫さはぼくの欠点だとも思うのですが、しかし一方では幾冊もの本の内容が絡みあい、補いあい、あたかも一冊の本であるかのように響きあう楽しさがあることもたしかなのです。
     妙なる調べ響きわたる活字の交響楽。まあ、それはぼく一人にしか聞こえず、感じ取れない孤独の音楽であるわけですが、このようにして本をよむとき、ぼくはとても幸せだったりします。
     以前にも書いたように、本という本は必ずほかの本への「ハイパーリンク」が張り巡らされたネットワーク的情報源です。
     だからこそ一冊の本を読めばべつの本への興
  • 『風立ちぬ』再考。堀越二郎はほんとうに冷血の天才なのか。

    2016-06-09 21:21  
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     瀬名秀明の『瀬名秀明ロボット学論集』と並行して、杉田俊作『宮崎駿論』を読んでいる。何度目かの再読である。
     宮崎駿の漫画や映画を題材にした批評書は何冊も出ているが、この本は際立って面白い。
     宮崎駿の過去の全作品を素材に、表現論、自然論、さらには宮崎駿その人の人物論に至るまで、縦横に語りつくしている。
     興味深いのが、宮崎監督の(いまのところの)最新/最終作である『風立ちぬ』への評価だ。この本にはこう記されている。

     ひたすら戦闘機を作っては失敗し、作っては墜ち、炎上した。そして夢の飛行機の制作にようやく成功しても、何の達成感も喜びもなかった。目の前には、あたり一面、夢の残骸と廃墟が広がっている。人生を賭した夢は、ついに誰をも生かさなかった。国民も、家族も、愛する人も、そして自分すらも。
     『風立ちぬ』は、そんな映画に思えた。
     
     (中略)
     堀越二郎の、あの、無表情な顔。あれ
  • 「1%の独創的な傑作」とはどういうものか知りたい人は映画『野のなななのか』を見よう!

    2016-04-11 00:00  
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     夜中に目が覚めたので『少年メイド』を見ながらこの記事を書いています。
     書き始めたはいいけれどまだなんの記事にしようか決めていないというていたらく。
     少年メイド可愛いな。可愛い男の子にメイドさんのコスプレをさせると可愛いよね♪というただそれだけの作品かもしれませんが、なかなかシビアな話で面白い。
     うん、それくらいしか書くことないな。
     さて、何を書こう。
     そうだ、大林宜彦監督の『野のなななのか』がソフト化したらしいのでそれについて書こう。
     一昨年あたりに見た映画なのですが、いや、これが恐ろしいほどの傑作です。
     天才の天才による天才的な最高傑作。
     「天才」なんて言葉はそう安売りするものではないとわかっているけれど、大林さんにはその栄冠があまりにふさわしい。
     どういう映画なのか。
     簡単にまとめるなら、ある老人の葬式に親類が集まっているところに、なぞの女性がひとりあらわれて、
  • スタジオジブリの宮崎アニメはなぜ面白くも辛いのか。

    2015-04-14 19:40  
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     川上量生『コンテンツの秘密 ぼくがジブリで考えたこと』読了。
     これが、もう、超面白かった。実に素晴らしい内容なので、皆さん、読んでください。いや、いいもの読んだ。得した得した。
     もっとも、「ぼくは」とても面白いと思ったけれど、ひとによってはあまりにあたりまえの内容だと思うかもしれず、また、まったく納得できないと感じる人もいるかもしれません。
     それくらい、賛否を呼ぶ内容だと思います。
     しかし、少なくともぼくにとっては非常に明快かつ爽涼に読める一冊でした。新書で安いので、ぜひ多くのひとに読んでもらいたいですね。
     この本は著者の川上量生さんが、スタジオジブリで「コンテンツ」について学んだことが書かれています。
     というか、この本一冊をかけて川上さんは「コンテンツとは何か」という問いに答えていこうとしています。
     それがみごと答えられているかどうかはぜひ自分で読んでたしかめてもらいたいところですが、ぼくはちょっと違う始点からこの本を「活用」してみようと思います。
     「面白い物語とは何か」という例のテーマを掘り下げるために、この本の内容を検証してみようと思うのです。
     この本には、「ストーリーか表現か」と題した一節が存在します。ちょっと引用してみましょう。

     映画をつくるとき、何をいちばん重視するかは人によって違います。鈴木敏夫プロデューサーは、よく会話のなかで「ストーリーか表現か」とひとりごとのように言うことがあります。
    「すべての大監督は最終的に表現に行った」というのは、鈴木さんがよく使う言い回しです。
     映画を見て、話のつじつまが合わないと文句を言う人がよくいるけれど、話のつじつまなんか合ってなくたっていいんだそうです。

     興味深い話です。
     なるほど、鈴木プロデューサーのいいたいことはよくわかる。
     ほんとうに「表現」として凄い映画を見たとき、観客は細かい粗なんて気にならない。
     観客が細かいことを気にしはじめるのは、ようするにその映画が気に入らなかったからだ、そういうことはできるでしょう。
     それなら、「ストーリーか表現か」といえば、大切なのは表現であって、ストーリーは二の次なのでしょうか。
     この本のなかでは明確な結論が出ていないませんが、少なくともクリエイターとは表現を重視する人々である、ということは書かれています。
     なぜか。これも本文中に記されています。

     ストーリーか表現かで、なぜクリエイターは表現にこだわるようになるのか、その理由は、ストーリーは表現に比べてパターン化されやすく、かつパターンの数が少ないからだとぼくは思います。
     たとえばウラジーミル・プロップというロシアの民俗学者は、『昔話の生態学』という本で、昔話の構造を三一の機能と七つの行動領域に分けて説明しています。ようするに、昔話はたくさんあるけれど、それらはどれも、主人公がいてその助っ人がいるとか、悪役がいるとか、なにかを探すたびに出るとか、少数のパターンの組み合わせとして分類できるということを明らかにしたわけです。
     ということは、たいていの物語はすでになんらかのパターンの繰り返しになっている可能性が高いのです。表面上は新しい物語のつもりでも、実は何度もくり返されている過去のパターンの焼き直しにすぎないということに、ストーリーはなりやすいのでしょう。
     一流のクリエイターにとって、いままでなかった新しいコンテンツをつくりたいという欲求は本能のようなものではないでしょうか。

     これも納得がいく話です。
     ストーリーはパターン化しやすく、しかもパターンが少ない。これは一定以上、小説や映画を体験している「物語読み」なら、理屈ではなく実感として納得がいくことでしょう。
     一般に、人間が共感しうる物語のパターンはきわめて少ない。
     少なくともマスに向けてエンターテインメント作品を提供しようと思ったら、ごく限られたパターンをくり返すしか方法がない。
     もちろん、あまりに定番のストーリーばかりでは飽きられてしまうから、表面上はあたかもまったく新しい展開であるかのように糊塗したりもするけれど、本質的にはわずかなパターンのリフレインであることを免れない。それは事実だと思います。
     そもそも究極的に突き詰めていくと、新しい物語なんて生まれようがないんですよ。
     たとえば、村上龍はすべての小説は「人間が穴に落ちる」「穴からはいあがる/穴の中で死ぬ」という類型でできている、と喝破しています。
     つまり、小説(や漫画や映画)のストーリーとは、登場人物を何らかの試練に合わせて、それを達成できるかどうかを見る、それだけのものだというのですね。
     ここまで単純化してしまうと、たしかにどんな物語もこの放送から逃れられないように思える。
     実験的な文学作品ならともかく、大衆向けのエンターテインメントなら殊にそうです。
     だから、「ストーリーか表現か」と自らに問うたとき、「すべての大監督は最終的に表現に行」く。これはよくわかる話です。
     表現が膨大な奥行きを持ち、いまなお新しい可能性を秘めているのに対し、ストーリーにはもはや探索するべき道はないともいえるのですから。
     そう、たとえばハリウッド映画を見ればわかるように、マスに向けたストーリーテリングとは決まりきったものであるに過ぎないのだ。ひとまず、そういうことはできそうです。
     しかし、ぼくはそれで納得することはできません。そうはいっても、やはり「面白い物語」と「そうでない物語」はあると思うのです。
     ストーリーメイキングが数少ないパターンのくり返しであることは間違いないところですが、それでも「面白い物語」を生み出すことは簡単ではない。
     大金をかけて良質なストーリーを研究しているはずのハリウッド映画ですら、あきらかに「出来のいいシナリオ」と「出来の悪いシナリオ」は存在するように見えます。
     そして、それは「つじつまが合っているか、どうか」という問題だけではない。「つじつまは合っていないが面白いストーリー」は存在する。
     つまり、作劇とは単なるつじつま合わせではない、ということです。
     それにしても、なぜ、面白い物語をつくることは簡単ではないのでしょうか?
     ひとつには当然、技術的問題が考えられます。少数のパターンの組み合わせとはいえ、それを緻密に行うことが簡単ではないことは当然といえば当然です。
     少しでも「組み方」がずれてしまったらストーリーは台無しになりかねないのですから、繊細な心配りが必要なのです。
     もうひとつ、たとえばスポンサーの意向などでストーリーは狂わせられやすい、ということもいえるかもしれません。
     ハリウッドにはそういう事情で駄作に成り下がった作品がたくさんありそうです。
     しかし、それらだけではない。現に、宮﨑駿個人の天才の表出と捉えられる一面が大きそうな宮崎アニメにしても、やはりストーリーが破綻した印象の作品は多い。
     この理由も本文中に書いてあるのですが、宮崎さんははっきりとした「終点」を構想することなく物語を描き始めてしまうのですね。
     小説家なら、それこそこれも本文中に例がある栗本薫のように、先を考えずに書き始めるというひとはいますが、プロの映画監督では類例がないんじゃないかな。
     おかげで宮﨑駿の映画は、最後の最後になると「バルス!」で突然にラピュタ城が崩壊して終わりになるようなことになりがちであるわけです。
     セキュリティという観点から見てあまりにひどい話だと思うわけですが。
     とはいえ、『天空の城ラピュタ』はやはり何度でも鑑賞に値する名作です。

     じっさい、くり返しテレビで放送されては好視聴率を記録している。多少つじつまが合っていないことなどだれも気にしない。
     それはつまり、ストーリーに対して表現が優位だということの証明でしょうか?
     結局のところ、宮﨑駿の手がける素晴らしいアニメーションさえあれば、観客はストーリーのことなど気にしないものなのでしょうか?
     実は、ぼくはそうは思わないのです。
     一本のシナリオとして見たら、『ラピュタ』の問題解決方法は、相当に乱暴です。
     いくらでもツッコミが入る余地があるし、伏線の処理にしてもエレガントとはいいがたい。
     しかし、それでも『ラピュタ』には胸躍るストーリーがある。ぼくはそう思います。
     つじつま合わせとはべつの時点で、『ラピュタ』は面白い物語なのだと。
     それに比べると、やはり宮﨑駿の最近作、『ハウル』や『ポニョ』はいくらか辛いものがある。

     もちろん、それらは表現のレベルでは素晴らしい傑作でしょう。『ハウル』の空中散歩、『ポニョ』の波乗り、それらはまさにまれに見る大天才作家の力量を直接に実感させられる映像美です。
     しかし、やはり全体として見ると、いくらなんでも「わけがわからない」ように感じられるのです。
     シナリオの「わかりやすさ」という次元で、やはり『ハウル』や『ポニョ』は『ナウシカ』や『ラピュタ』といった初期作品に一歩譲るのではないでしょうか。
     その証拠に『ハウル』や『ポニョ』のシナリオは非常に要約しづらい。
     それに比べると『ラピュタ』は「鉱夫の少年パズーが、空から落ちてきた少女シータと出逢い、彼女とともに冒険し、ついに天空の城ラピュタにたどり着いて、悪漢ムスカを倒す話」とでも要約できるでしょう。
     ぼくの言葉を使うなら、話の「コンセプト」がわかりやすいのです。
     コンセプト。
     ふたつ前の記事で出て来た概念ですね。憶えておられるでしょうか。
     ぼくはこう書いています。

     学術的、あるいは辞書的な定義がどうなっているのかはともかく、ぼくにとっては、物語とはあるコンセプトに則り、一連の出来事を語った話ということになります。
     この「コンセプト」というものが大切で、そう、物語を語るためにはそれだけの目的があるわけです。
     何か伝えたいテーマなりメッセージがあって、それを伝えるためにこそ物語という形式を採るということが一般的だと思います。
     このコンセプトは、まったく何でもかまいません。べつだん、偉いことや崇高なことに限らない。
     ただ「主人公を格好良く描きたい」でもいいし、「日本海軍の凄さを知らしめたい」でも「繊細な恋愛心理の妙を描きたい」でもかまわない。
     しかし、とにかく通常は何らかの「その物語を通して伝えたいこと」があって、初めてひとは物語を語ろうとするものだと思うのです。

     『ハウル』や『ポニョ』では、この「伝えたいテーマやメッセージ」がはっきりしない印象があります。
     平和は大切だといいたいのか? 子供は無邪気で素晴らしいといいたいのか? 釈然としないまま映画館を出た観客は少なくないでしょう。
     もちろん、そういう観客は宮﨑駿が真に表現したいことを受け取るだけの力量がないだけだ、とはいえるかもしれない。
     しかし、まさに川上さんが書いているように、マスに伝えるためには「わかりやすさ」が重要です。
     『ハウル』や『ポニョ』は、表現のレベルでどれほど高度であるとしても、一個のエンターテインメントとして、やはりあまりにも「わかりにくい」のではないでしょうか。
     「つじつま合わせ」の強引さという点では、『ナウシカ』や『ラピュタ』と『ハウル』や『ポニョ』の間に決定的な差はないかもしれません。
     ですが、それでもやはり後期作品は初期作品に比べて難解な印象を受けます。ペトロニウスさんの『風立ちぬ』評を引用してみましょう。

     実は本編を見ている最中に、さまざまなイメージが喚起されたのだが、大きなものは『ハウルの動く城』だ。当時、僕はこの作品を酷評している。
     その理由は、「意味が分からないから」だった。
     精確に言えば、どの文脈で宮崎駿が語りたいのかは、過去の作品の文脈を理解していれば、自ずとわかるのだが、そういう高踏的な作品読解は、アニメーションとしてだけではなく、物語として僕は好きではない。物語は「わかる」ように描いてほしい、というのが僕の好みだ。それが正しいとは言わないが、端的に「それ」を見て、少なくとも表面的にでも言いたいことがわからなければ、やっぱり物語としての整合性がないと思ってしまう。もう少し具体的に書けば、ハウルという青年は、戦争をとても嫌っているようなのだが、「なぜそういう意識を持つようになったのか?」と「それならば、あなたは何をするのか?(=どう行動に起こすのか?)」が全然描かれていないので、ハウルがただ単なる傍観者に見えてしまうのです。絨毯爆撃の凄まじい戦争シーンの悲惨さを描けば描くほど、ハウルという主人公視点が、それに対して、外から見ている受け身であることがわかってしまうし、立ちすくんで苦しんで、ただ動けなくなっているだけなのが伝わって、少なくとも映画という短い時間で起承転結なりドラマの展開が要求される媒体としては。で??ってしか思えなかった。
     もちろん整合性が取れる作品は小さくまとまってしまうので、『崖の上のポニョ』や『千と千尋の神隠し』のような、何が言いたいのかわからないイメージの奔流であっても、もちろん凄い強度は存在する。とはいえ、やっぱり「全体を通して主張したい明快なメッセージ」という言語化の部分とアニメーションならではのタンジブルなイメージが両立してほしいというのが、僕の好みだ。表面の動物の脊髄反射のレベル・・・・ああ、これは菜穂子との恋愛の美しい話ね、といった次元だけで見てしまう人も多々いると思う(信じられないが、それが現実のリテラシーのレベルなのだろう。背中の方で女性の2人組がそういう会話をしていた…良い純愛映画だったね、、、と)が、「そこ」から順々に複雑なものへ連れて行ってくれる構造をしているかが、エンターテイメントの価値だと僕は思う。http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20130802/p1

     とても慎重な書き方をしていることがわかりますが、ようするに『ハウル』は「意味がわからない」、もちろん過去作品のコンテクストを慎重に検討していくとわかるのだが、自分の好みではあまりにも「わかりやすさ」が足りないように感じられる、といっているのです。
     ぼくはこの見方にほぼ同意します。川上さんはこう書いています。

     実のところ、ぼくはストーリーが気になるのでジブリの作品にはいろいろ不満があったのです。『千と千尋の神隠し』や『ハウルの動く城』を映画館で見たときには、もちろんおもしろくはあったのだけれども、不満もいろいろありました。
     この二本をあらためて自宅で見てみたのです。そうすると不思議なことに、今度はなんの不満もないどころか大傑作だったのが分かりました。
     ようするに宮崎駿監督がどんな作品をつくろうとしたのか、正しい見方をわかっていなかったのでしょう。
     少なくとも宮崎作品については、やっぱりストーリーなんかどうでもいいのです。もし、宮崎作品の魅力がストーリーにあったとしたら、こんなに何度もお客さんに見てもらえるわけがありません。これだけテレビで再放送をやっているのですから、視聴率が下がらないわけがありません。ストーリーが目的だったら、分かってしまえばもう見る必要はないからです。

     そうでしょうか。ぼくはここで根本的な違和を感じます。
     はっきりいうなら「ストーリーが目的だったら、分かってしまえばもう見る必要はない」とはいえないと思うのです。
     この世には、わかっていても何度でも体験したくなるストーリーというものが存在する。ぼくはそう考えます。
     なるほど、宮崎駿は「表現の人」であり、「ストーリーの人」ではないかもしれない。
     だから、特別、つじつま合わせには拘らない。
     宮崎アニメを見て「つじつまが合っていないし、終わり方が強引だから駄作なのだ」ということは、非常につまらない見方ということはいえるでしょう。
     しかし、それにしても、一本の映画はストーリーと表現の双方から成り立っているわけであり、「ストーリーなんかどうでもいい」とまで悟れる観客はそう多くないのではないでしょうか。
     大半の観客は「面白いストーリーを最高の表現で体験したい」と思って劇場を訪れるはずです。
     そして、その場合の「面白いストーリー」とは「細かいところまで精密につじつまが合っているストーリー」という意味ではない。
     「ハラハラドキドキ、わくわくするような展開が連続し、幸福な、あるいは切ない気持ちで劇場をあとにできるストーリー」の意味だと考えられます。
     ふたつ前の記事で、ぼくはそういうストーリーを「落差」という概念で説明しようとしています。

     それでは、波乱万丈とは具体的にどういうことなのか。
     単純にいって、それは状況の「落差」で表現できます。善と悪、明と暗、天国と地獄――そういった状況のコントラストが激しいほどドラマティックな展開ということになる。
     これも『アルスラーン戦記』が非常に良いテキストになるでしょう。
     今回、パルス国の王子として何不自由ない身分にいたアルスラーンは、敗戦によって一気に流浪の身に叩き落とされます。
     一国の王侯から追われる身の旅人へ。この、普通の人の人生にはまずめったに起こらないような巨大な「落差」をもつ展開が、見るものにドラマティックな印象を与えるわけです。
     べつだん、戦記ものでなくても、どんな物語でもこのことはあてはまります。
    (中略)
     そう――ぼくやペトロニウスさんのような「物語読み」は、何よりもこの「落差」のコントラストを見たくて物語を見ているところがあります。
     最もひよわで幼げな王子がやがて大陸に覇を唱える大王になるとか、その反対に天才的なジェダイの素質をもつ少年が悪のダース・ベイダーにまで堕ちていくとか、そういう日常にはありえない落差が物語にとってとてもとても大切なのです。
     つまり、始点と終点のあいだでなるべく落差が大きくなるよう状況を変化させていく話が「面白い物語」であると、とりあえずはいうことができるでしょう。

     そう、大切なのは「ドラマティック」ということ。
     『ラピュタ』にはその「ドラマティックさ」があきらかにあった。
     鉱夫としての平凡で退屈できびしい日常――そこに空からゆっくりと降りてくるひとりの少女! 冒頭からしていきなりドラマティックな名場面から始まるわけです。
     それに対して、『ハウル』はどうか?
     比較するならやはり印象が弱いといわざるえないのではないでしょうか。
     なぜなら、『ハウル』では「善」と「悪」、「明」と「暗」といった対立概念が明確ではなく、そのコントラストがはっきりしないからです。
     『ラピュタ』のムスカを単純に悪人といい切ってしまうのは間違いなのかもしれませんが、少なくとも物語のなかでは悪役として描かれており、かれに対決するパズー少年とシータには正義があるように観客には感じられます。
     しかし、『ハウル』においては、もはや何が正しく、何が間違えているのか、いったい監督が何を伝えたいと思っているのか、一見したところでは判然としない。
     つまり、『ハウル』はあまりにも複雑混沌とした物語なのです。
     それでもなお、膨大な観客がこの映画を見に行くのはやはり宮﨑駿の天才的な表現力を見るためとしかいいようがありません。
     しかし、だからといって、そういう観客たちがみな「ストーリーなどどうでもいい。表現の素晴らしさだけが問題だ」とまで割りきれているかというと、ぼくは否定的にならざるを得ません。
     さて、この本のなかで、「表現の人」宮﨑駿に対立する「ストーリーの人」として受け取ってもいいのではないかと見える人物がひとりいます。
     手塚治虫です。

    「父は、自分は表現では勝てないことを分かっていたのでストーリーで勝負したんですよ」
     そう、ぼくに語ってくれたのは手塚眞さんです。父とはもちろん手塚治虫さんのことです。
    「父は東映アニメ、それこそ高畑さんや宮崎さんにはかないっこないから、アニメーションでは最初から勝負しなかったんです。でも、こっちはストーリーがおもしろいから、そこで勝負するんだって」
    (中略)
     どうせアニメーションの技術では勝てないので、制作費と製作時間を減らして、そのかわり手塚治虫原作のおもしろいストーリーで勝負することで、国産初のテレビアニメ放送を実現したのです。

     この箇所を読むと、手塚治虫には宮崎駿や高畑勲ほどの表現の天才はなく、ただ「おもしろいストーリー」で勝負するしかない人だった、というふうに読み取れます。これは一面の事実でしょう。
     しかし、逆にいえば、手塚治虫はストーリーという一点においては、アニメーションの申し子、線の魔術師たる宮﨑駿にすらアドバンテージを保つことができた、ということもできるわけです。
     そう、手塚こそは実に戦後漫画界最大にしておそらくは最高のストーリーテラーです。
     こと「おもしろいストーリー」を描くことにかけては、手塚は絶対の自負を持っていたと考えられます。
     それでは、その「おもしろいストーリー」とはどういうものなのか。パターンが少なく、あっというまに陳腐化してしまうはずのストーリーで、手塚はなぜ衆に抜きん出た存在であることができたのか。
     そのひとつの答えが、先の「コントラスト」ということです。
     手塚は巨大な「対照性」のあるストーリーを生み出す天才だったのです。
     その才能の稀有さ、貴重さは、実にアニメーションにおける宮﨑駿に匹敵するものとぼくは考えます。
     これだけでは抽象的に思えるかもしれないので、具体的な作品を見てみましょう。
     なるべく有名なエピソードが良いと思うので、『ブラック・ジャック』から「ふたりの黒い医者」を選びたいと思います。
     ブラック・ジャック永遠のライバル、ドクター・キリコ初登場の話です。
     とても有名な話なので、おそらくご存知かと思いますが、そうでない方は↓を読んでみてください。
    http://bkmr.booklive.jp/manga-sociology-01-euthanasia
     このラストシーン、ブラック・ジャックが絶望的な葛藤のなかで「それでも私は人をなおすんだっ 自分が生きるために!!」と叫ぶ場面は、伝説的な名場面としていまも語り草になっています。
     それでは、このシーンの何がそれほどひとの心を打つのか。いろいろあるでしょうが、そのひとつが「コントラスト」です。
     このシーンでは、ある階段の上段にいるキリコと、下段にいるブラック・ジャックが対象されて描かれています。
     この上下の差が、即ち、死と生、勝利と敗北、運命と人為といった対立項を読者に強く印象づけるのですね。
     ここで読者は一転して敗者の地位に立たされたブラック・ジャックに強く共感し、かれの感情に同調します。
     手塚が作劇の天才としかいいようがないのは、この最後のコマで、その前のコマで高らかに哄笑していたキリコがもはやブラック・ジャックになどなんの興味もないといわんばかりにしずかに去っていこうとしているところです。
     つまり、ここには「宣言」と「沈黙」という対立項もあるわけです。
     まとめるなら、「死を司り、運命を信じ、ついに勝利したキリコの沈黙」と「生を守ろうとし、人為の限りを尽くし、それでも敗北したブラック・ジャックの宣言」が対峙していることになる。
     これこそが、まさに手塚的な「おもしろいストーリー」を象徴するワンシーンといえるでしょう。
     いや、これは手塚の「表現」の次元の話ではないか、「ストーリー」の次元の魅力とはいえないのではないか、そう思われる方もいらっしゃるかもしれません。
     このワンシーンだけならそうといえるかもしれません。
     しかし、このシーンの前にここに続くストーリーがあり、そこではブラック・ジャックはキリコが殺そうとした患者の治療に成功した「勝者」であったのです。
     それなのに、一瞬でかれは「運命」の前に「人為」のむなしさを思い知らされる「敗者」の地位にまで突き落とされる。
     その「落差」にこそ読者は痺れるような快感を覚えているのであって、これはやはり「ストーリー」の次元で生み出された名場面といえるかと思います。
     冷静に考えてみれば、せっかく助けた親子が突然死んでしまうという展開は、伏線も何もない、シナリオ技法の点からはちょっと問題があるような展開です。
     しかし、それが巨大な「落差」ある展開を生み、強烈な「コントラスト」を感じさせる結末に至るとき、ひとはもはやそんなことを気にしないのです。
     むしろ、「一切伏線がないこと」こそがこのエピソードの真骨頂だといえるでしょう。
     物語を面白くしようと思ったら、「落差」や「コントラスト」はかくも大切だということ。
     波乱万丈の映画を「ジェットコースター」に喩えることがありますが、迫力あるジェットコースターとは緩急や高低に富んでいるものです。
     物語も同じ。「落差」がない展開は、どんなに巧みにつじつまが合っていても面白くないのです。
     なるほど、ストーリーは表現にくらべバリエーションに乏しく、パターン化して陳腐になりやすいことはたしかでしょう。
     しかし、同じパターンであっても、「落差の差」、「コントラストの差」というものは存在しえる。
     そして、その差は実に見過ごせないほど大きなものなのです。
     たしかに、ストーリー作りは表現ほど「自由」ではないかもしれない。
     それは「始点」と「終点」、そして「結晶点(クライマックス)」を意識して厳密に構成しなければならないものだからです。
     その意味で、ストーリーテリングとは表現とくらべて「窮屈」なものである、ということもできるでしょう。
     それはどこか数学の公式や音楽の作曲めいたところがあって、何かがちょっとでも狂うともう完璧とは見えないのです。
     そして、それにもかかわらず、一瞬で完璧なシナリオを作り出してしまう手塚のような天才もいるところも数学や音楽と似ています。
     モーツァルトは即興でみごとな曲を作ることができたといいますが、手塚はさしづめ「作劇技術のモーツァルト」ということができるかもしれません。
     この天才的な「劇的な落差を生み出すことの天才」があってこそ、手塚は宮崎駿といった「表現の天才たち」に勝負を挑むことができたのだ、と考えてみると面白いでしょう。
     戦後のエンターテインメントをざっと眺めてみると、ぼくにはもうひとり、「ストーリーの人」といいたい巨人がいます。
     黒澤明です。
     黒澤がシナリオを重視したことは有名で、「シナリオが一流なら、監督が仮に二流三流でもいい映画はできる。だけどシナリオが三流なら、一流の監督がいくら頑張ってもうまくいきませんよ」といった発言がいまに残されています。
     かれはじっさい、脚本づくりに膨大な時間と労力を費やしたといいます。
     『コンテンツの秘密』のなかでは、この黒澤も最後には表現を選んだということが書かれています。
     これはたしかにそうだろうとぼくも思います。晩年の作品を見ると、「黒澤も最後には表現に行った」ということはできそうに見えます。
     しかし、ぼくは思うのです。それは必ずしもマスに歓迎される変化だったのではないのではないか、と。
     もちろん、一個の芸術作品としては『乱』は素晴らしい。『夢』は美しい。そういうことはできる。
     しかし、より一般的な視聴者にとってやはり黒澤明といえば、『天国と地獄』であり、『椿三十郎』であり、『七人の侍』なのではないか。

     それは宮﨑駿といえば『ナウシカ』であり『ラピュタ』である、ということとどこか共通したものがあるのではないでしょうか。
     たしかに、大黒澤も最後には表現に行ったひとりではあるでしょう。
     しかし、それは「緻密な構成力」が衰えたために、そういう方向に進まざるをえなかったという一面もあるように感じられます。
     そう、ぼくには厳密な意味での物語の構成力とは歳を取るにしたがって衰えていく種類の知的能力であるように思えるのです。
     その証拠に、巨匠とされる人の晩年の作品を見ると、どれも長い。これは短く無駄なくタイトにまとめあげるスキルが衰えているということなのではないでしょうか。
     ぼくひとりがそう考えているわけではなく、たとえば『ファイブスター物語』の永野護などは、連作短編エピソードである「ザ・シバレース」を描いた理由を、こう述べています。

     「ザ・シバレース」を描いた理由のひとつとして「運命の3女神」での反省があった。
     「運命の3女神」はとにかく長くなりすぎた。当時、作家として、シナリオライターとして、自分にはものすごい恐怖感があって。昔から作家や脚本家に、40代くらいを境に物語をつくれなくなっている人が多いような気がしていて。実際に多くの作家や脚本を書く映画監督が、つくる話がどんどん破綻してしまっていくのを見ていたからね。まあ、小説でも映画でも実際にはつじつまを合わせる必要はないんだけど、それを飛び越えるくらいの勢いで破綻しているケースを見てきた。
     「アトロポス」を書き終えたころはもう30代半ばだったし、そういった不安から30代のうちに自分に足かせをつけて膨大な短編を残しておかないとって思ったんだ。
     若い作家と年齢を重ねた作家の違いを考えると、若い作家は勢いで膨大な短編を生み出しているんだよね。O・ヘンリーもそうだし、ジョン・アーヴィングもそうだし。近代作家もすごいいっぱい短編を書き残しているよね。そういったことを含めて、「ザ・シバレース」を描こうと思った。

     「40代くらいを境に物語をつくれなくなっている人が多い」。これは、ぼくの印象と重なります。
     たとえば、あれほど天才的な物語作家であった栗本薫にしても、40代ごろからその作品は冗長化の一途をたどった印象が強い。
     しかし、それも当然といえば当然のことです。物語づくりとは「窮屈」なもの、年を取り、巨匠と呼ばれるようにまでなって、そういう「窮屈さ」を引き受けようとするクリエイターはそう多くはないということなのでしょう。
     永野護にしても、短編をつくる作業を「足かせ」をつけると表現しています。
     これは「窮屈さ」をひき受けるということとほぼ同じ意味でしょう。
     ぼくはそういう永野をほんとうに偉いと思うのですが、それはまたべつの話。
     とにかく、ある程度の自由が許される「表現」にくらべて、「ストーリー」を作ることは「窮屈」であり、歳をとった作家はその「窮屈さ」に耐えられなくなっていくのではないか、という話です。
     しかし、やはり作家にとって「おもしろいストーリー」はひとつの強力な武器であるわけで、仮に表現がクリエイターの権利であるとすれば、ストーリーはクリエイターの義務。そういうふうにいえるかもしれません。
     さて、このようにストーリーの良し悪しには「つじつまの整合性」のほかにも「波乱万丈さ」という基準があるわけですが、そんなハラハラドキドキのストーリーにしても、川上さんのいうように「分かってしまえばもう見る必要はない」のでしょうか。
     実は、ぼくはこの点についてもそうは思わないのです。
     これはつまり、ひとは先の展開がわからないからそれが気になって画面を注視するわけ「ではない」ということです。
     いや、もちろんそういう側面は強いでしょうが、それがすべてかといえば、決してそうではない。
     むしろ、先の展開がわかっているからこそ、それを見たくて画面に集中してしまう。そういうことがありえるとぼくはいいたい。
     表現という一点を取るなら、スタジオジブリの作品でも後期の作品のほうが、やはりそれなりのお金をかけているぶん、川上さんがいうところの「情報量」が多く、魅力的であるはずです。
     初期の『ナウシカ』や『ラピュタ』、つまりスタジオジブリ以前の作品は、それにくらべれば情報量的にシンプルでしょう。
     となると、必然的に後期作品のほうが初期作品より「再視聴、再々視聴に耐える」ことになりそうです。
     しかし、じっさいには必ずしもそうなっていないのではないでしょうか? 表現としていまではそこまで情報量が多いように見えない初期作品も、後期作品以上に「再視聴、再々視聴に耐える」ものである。こういったとして、反論はそこまで大きくないのでは?
     それはなぜかといえば、「あるコンセプトに基づくストーリー」の力だと思うのです。
     「つじつま合わせ」という点でいえば特に優れているとも思えない宮崎アニメですが、それでも、少なくとも初期作品、あるいは前期作品には「おもしろいストーリー」があった、とぼくは思います。
     つまり、そこでは「落差」や「コントラスト」を生み出すドラマツルギーが、わかりやすくシンプルな形で作用していたと考えるわけです。
     たとえば、あの有名なパズーとシータが「バルス!」と叫び、ラピュタ城が崩壊してゆくシーン。
     あのシーンはいまではテレビ放映されるたびにTwitterでシェアされ、何十万もの人がともに「バルス!」と叫ぶことになっているわけですが、これは当然、その人たちが『ラピュタ』を既に見ていて、先の展開を知っていることを意味しています。
     かれらはすべての展開を知ってなお、「バルス!」の瞬間をわくわくと待ち望みながら『ラピュタ』を見ているわけです。
     なぜこんなことがありえるのでしょうか? それは、物語という「波」に乗ることが気持ちいいからだとぼくは思います。
     そう、川上さんがいう「脳に気持ちいい表現」があるように、「脳に気持ちいいストーリー」というものもまた存在するのです!
     ぼくはそれを「波」に喩えます。
     つまり、上がったり下がったりという「落差」のある展開を楽しみつづけることは、ある種の「波」に乗ることに近いものがあるように思うのです。
     この「波乗り」の快感が忘れられなくて、多くのひとはくり返し同じ映画を見るのではないでしょうか。
     世の中には、手塚や、ある時期までの黒澤のような物語作家(ストーリーテラー)と呼ぶべき作家たちがいます。
     「表現」より「ストーリー」により長けたクリエイターのことです。
     もちろん、手塚や黒澤は「表現」においても天才的な人物だったかもしれませんが、かれらがなぜ大衆の心を掴んだかといえば、魅力的な「波」を生み出す才能を持っていたからでしょう。
     たとえば田中芳樹。
     もっというなら奈須きのこ。
     田中は、表現力という点だけを取れば、おそらくそこまで優れた作家ではありません。
     それほど文章がうまいわけでもないし、あまり表現のセンスが良くないところがある。
     奈須きのこに至っては、文章力という一点だけを取るなら、はっきりと稚拙です。
     特に初期は読むのが辛いくらいなのですが、それでも、田中や奈須はベストセラー作家になりおおせました。
     なぜ、そんなことが可能だったのか。それは、かれらが物語作りに比類ない天稟を備えていたからです。
     かれらは魅力的なストーリーを生むことに特化した才能と技能をもつ物語作家なのです。
     西洋では、ロバート・A・ハインラインとか、スティーヴン・キングなどがそういう作家にあたるでしょう。
     物語作家は落差(高低差)の大きいストーリー(波)を生み出すことに長けています。
     ある場面、もっというならあるひと言にそれまでのすべての展開が「結晶」するように緻密にドラマを紡いでいく、そういう才能のもち主なのです。
     たとえば、『銀河英雄伝説』の「ラインハルトさま、宇宙を手にお入れください。それと、アンネローゼさまにお伝えください。ジークは昔の誓いを守ったと」といったセリフ。
     あるいは『Fate/stay night』の「いくぞ英雄王――――武器の貯蔵は充分か」というセリフ。
     これらは、そのひと言に向かってそれまでのすべての物語が収斂していく、そういう言葉です。
     LDさんの言葉を借りるなら、これらのひと言こそが、その物語の結晶点、クリスタライズ・ポイントであるわけなのです。
     こういう「波」の頂点ともいうべきセリフなり場面を生み出すことができ、しかもその前後の「波」がそこに自然につながっていくように計算して構築できる才能、それが物語作家の資質です。
     だから、奈須きのこの文章技術をいくらばかにしたところで意味がない。それはまったく筋違いの批判です。
     いい換えるなら、名ゼリフとか名場面というものは、それ単体で成り立つものではないということ。
     そこに向かって徐々に高まっていった物語のテンションがついに最高潮に達する、その瞬間をみごとに捉えたセリフや場面が名ゼリフと呼ばれ、名場面と呼ばれるだけのことなのです。
     その瞬間には実に堪え切れないカタルシスがある。しかし、それはそれ単体で成り立っているわけではない。
     物語とは「波」。
     山あり谷ありで初めて成り立つもの。
     だからこそひとは既に展開がわかっていて、しかも表現として特別に情報量が多いわけでもない同じ物語をくり返しくり返し楽しんだりするのだとぼくは考えます。
     ストーリーはたしかにパターン化しやすく、一見すると簡単に模倣できそうに見える。
     だから、物語作家はしばしば低く見られ、ストーリーの価値は軽く受け取られることもある。
     しかし、そうではない、優れた物語作家とは天才的な表現者と同じくらい貴重な存在なのだ。ぼくがいいたいのは、そういうことです。
     それでは、 
  • ヒューマニズムの臨界と自然世界のルール。

    2014-06-27 20:50  
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     ひとつ前の記事の続き。さて、しばらく前に映画『風立ちぬ』が販売開始されました。もういちど見返したいのですが、なかなかレンタルが空かないので観れません。
     購入して観ても良いのですが、そこは貧乏暮らしの身、安く済ませられるものなら済ませたいという思いがあります。
     で、同時期に、この『風立ちぬ』の制作現場を追ったドキュメンタリー『夢と狂気の王国』も発売されています。この2本を合わせて見ると非常に面白いので、オススメです。
     まあ、『夢と狂気の王国』のほうは比較的発見しづらいかもしれませんが、それでも観る価値あり!の傑作ですので、ぜひ探してみてください。
     前の記事の続きなのになぜ『風立ちぬ』の話かといえば、まあ、宮崎駿の作品が描くものが、現実の世界って、人間の作り出した色々な理屈はあまり通用しないよね、という話に繋がっていくからなんですけれども。
     どこから話をしようかな。昨日書いたように、そもそもこの世界は人間にとって非常に不都合なシステムで成り立っています。ひとは死ぬし、努力は報われないし、愛は通じないし、資源は不足するし、まあ、ろくなものではないといえるでしょう。
     その意味では正しくリアルはクソゲーなのです。この、非情な「自然世界のルール」のことをぼくは「グランド・ルール」と呼んだりします。
     グランド・ルールを変えることはひとにはできません。まあ、人間にとって都合の良いように部分的に改善(あくまで人間から見てそうだ、ということですよ)してゆくことがせいぜいです。
     そう、人間はそもそも「自然世界」のなかではほとんど生きていけません。あるいは少なくとも繁栄することはできません。だから、人間は「自然世界」のなかに「人間社会」を作り出そうとします。
     この「人間社会」のなかでは、比較的ひとは死ににくく、努力は報われやすく、愛は通じやすく、資源は管理されやすいということになります。
     「人間社会」は当然ながら人間にとって都合が良い場なのですね。人間が生み出した人間のルール、すなわちヒューマニズムが通用しやすい優しい場であるといってもいいでしょう。
     愛は素晴らしいとか、平和は尊いとか、ひとの命は重いといったヒューマニズムは、この「人間社会」のなかではそれなりに正しく、また気高い理念だといえますが、「自然世界」ではまったく通用しません。
     何度もいいますが、「自然世界」は本質的に人間に合わせて作られていないからです。よって「人間社会」の支配領域をどんどん拡大し、最終的には「自然世界」を支配してしまおう、あらゆるものを管理し尽くそう!というのが、つまりは「近代の夢」というものだったと思うのです。
     そして、近代主義者(モダニスト)である宮崎駿は、この「近代という名の壮大な夢」の魅力をこれでもかと描いていきます。それはあるときは『風の谷のナウシカ』の墓所となり、またあるときは『天空の城ラピュタ』のラピュタ城となるわけです。
     しかし、そうやって近代化を推し進めていってもなお、やっぱりほんとうは「人間社会のルール」は「自然世界のルール」に包摂されているんですよね。
     その証拠にどんなに高度に洗練された都市空間においても、やはりひとは死ぬし、偶然の死や破滅は避けられません。グランド・ルールはどこまで行っても絶対なのです。
     ひとが生きることはグランド・ルールを前にこうべを垂れることです。「この世界の偶然性」、つまりこの世界はほんとうは無意味で、偶然がすべてを支配していて、人間の努力や成長と結果との因果関係など存在しないということを受け入れる、あるいは少なくともそれと折り合いをつけることが、ひとの「成熟」というものだと思います。
     『グイン・サーガ』のアルド・ナリスは「なぜわたしはこのように生まれてきたのだ!」と悩み、世界に向けてその問いを突きつけましたが、最後には「自然世界のルール」を受け入れて死んでいきました。
     かれは死に際してついに人間として成熟したのです。ちなみにこれはまさに近代の悩みで、ナリスは『グイン・サーガ』でグインその人を除くと唯一の近代人だったのだと思う。
     また一方で、この近代と科学(サイエンス)を信奉する人々に、アーサー・C・クラークやJ・P・ホーガンなどのSF作家の系譜があります。
     現代でいえば、グレッグ・イーガンですね。イーガンは 
  • 放射能汚染された病の時代を描く名作「On You Mark」。

    2014-05-22 00:17  
    51pt


     ども。海燕です。ついに長かった『ソードアート・オンライン ホロウ・フラグメント』のエンディングを見ました。いやー、長かった。悪いゲームではない、いや、むしろ良作の部類に入る作品ではあるのだけれど、いろいろと操作が複雑で、疲れました……。
     もうしばらくRPGはいいかな、って思ってしまう。アクションかシミュレーションかアドベンチャーをやりたい。『チャイルド・オブ・ライト』をやろうかなあ。それとも積みゲー化している『シュタインズ・ゲート』をいいかげんクリアするか。それともそれとも『ゼルダ』なり『マリオ』なり『逆転裁判』をやってみるか――。
     ここ何年かほとんどゲームをしない生活を送って来たのだけれど、いざやってみるとやっぱりもっとやりたくなりますね。テレビゲームは人間を堕落させるための悪魔の贈り物なのかもしれないという気がします。芥川龍之介の『悪魔と煙草』みたい。
     そろそろプレイステーション4を買おうかなあとも考えているのですが、いかんせん、まだソフトがそろっていない印象ですね。もうちょっとラインナップが充実したら買いましょう。いま買いたいの『アサシンクリード4』くらいしかないもんね。
     ああ、そういえば、『アイドルマスター ワンフォーオール』なんかも出ていますね。うーん、やってみてもいいけれど……。
     それにしてもゲームを一本クリアしようとすると、時間をごっそり持って行かれます。最近のゲームはワンプレイ60時間くらいかかるのがあたりまえな感じなので、ほんとうに大作をプレイした感じがします。
     いやー、でももっとタイトにまとまった作品をやりたい気もあるんだけれどね。そうなると『rain』とかになるのかなあ。興味はあるんですけれど、『rain』。6月5日発売か。
     さて、話は変わりますが、ASKAが覚醒剤所持で捕まったおかげで、宮崎駿監督の11作品を収録した『宮崎駿監督作品集』の発売が延期されたそうです。
     同作品集には映像特典としてCHAGE&ASKAのプロモーションフィルム「On Your Mark」が収められていたため、これを削除するのだとか。思わず「えー」と云わずにはいられないアレな展開ですね。
     「On Your Mark」を収録していたDVD『ジブリがいっぱい SPECIAL ショートショート』の出荷も既に停止したそうで、まさかこの作品がこのまま封印されてしまうのではないかと思うと恐ろしいです。
     うーん、べつにドラッグの使用を正当化するつもりはないけれど、こんな形で音楽に罪を着せる必要はないと思うけれどなあ。薬物中毒のアーティストを追放したら音楽史がどれほど貧しくなることか。
     そもそも『On Your Mark』はプロモーションフィルムとはいっても、れっきとした一個の作品で、しかも歴史的な傑作。いちファンとしてこの事なかれ主義的な判断にはブーイングを起こしたいところです。
     まあ、「On Your Mark」は 
  • ナウシカの凝視、一の瀬はじめの多動、視線が物語るキャラクターの個性とは。(2314文字)

    2013-08-22 23:09  
    53pt




     きょうもきょうとて『ガッチャマンクラウズ』を布教しますよ!
     これ、時代を代表する一本になる可能性があると思うので、悪いことは云わないから押さえておくと吉。
     『まおゆう』がまさにそうであったように、文脈にそって物語を展開しながら、議論を一歩先へ進ませる革新的傑作と云えるかもしれません。
     くわしくは前の記事に書きましたが、ここまででまだ話は半分なんだよね。のこりの6話でどういう結論を下してくれるのか、楽しみすぎます。
     さて、作品のバックグラウンドのコンテクストについてはすでに書いたので、今回は萌え萌えなキャラクター語りでもしましょう。
     いまのところ、この作品には、実質的にふたりの主人公がいるように思えます。
     ひとりはガッチャマンの新人隊員にして女子高生の一の瀬はじめ。
     もうひとりは二億人の会員を持つソーシャルネットワークサービス「GALAX」を運営する天才少年、爾乃美家累。
     かれらはそれぞれヒーロー(個人)とクラウズ(群衆)を代表するキャラクターであるとも云えます。
     で、性格的にも正反対。どこまでもシリアスに思いつめる累に対して、はじめちゃんはおおらかでいいかげんです。
     いわば累がシリアスキャラクターだとしたら、はじめちゃんはコメディキャラクター。そういうふうに見える。
     しかもふたりとも文脈的に最先端を行っている。どちらが主人公かと云えばはじめちゃんなんでしょうが、役割的には彼女のひきたて役とも云える累にしてからが、異星人ベルク・カッツェから与えられた超能力「クラウズ」をなるべく使わないようにしているという賢さ。
     つまりは「チート能力では世界を救えない!」とわかっているわけです。
     仮にかれにデスノートやギアスを与えたとしてもそれを使わずに世界をアップデートしようとするでしょう。
     ここらへん、文脈的にゼロ年代の『DEATH NOTE』や『コードギアス』から確実に一歩進んでいます。
     でも、それすら「正解」ではない。ここらへんが『ガッチャマンクラウズ』の凄まじいところなんだけれど、すでにその気高い理想の限界まではっきりと認識されているんですね。
     ヒーローだけでは限界があるけれど、同様にクラウズ(群衆)による「アップデート」にも無理があるということ。
     ここは確実にテーマが先へ先へと進んでいることがわかって興味深いです。
     ところで、『ガッチャマンクラウズ』の感想を見ていたら某所ではじめちゃんが巨乳のアホの子呼ばわりされていて愕然。
     そうか、そういうふうに見えるのか……。いや、はじめちゃん、めちゃくちゃ頭いいと思うんですが。
     純粋な思考計算速度なら天才少年の累のほうが上なんだろうけれど、はじめちゃんは直感的に正解にたどり着ける別種の天才なんですよ。
     ただその思考のプロセスが他者には認識できないくらい速い上に言語化されないから、その場の思いつきで行動しているように見えるだけ。
     「非言語的思考直感タイプ」の天才ですね。
     しかもはじめちゃん、累とは対照的に、性格が全然真面目じゃない!
     あまり先のことは考えていない。しかし、その場その場で一瞬で「正解」にたどり着くだけのインテリジェンスを持っているからそれで問題ないのです。
     ある大事故に遭遇したとき、ほかのひとがケータイにつないで「答え」を求めようとしているなか、彼女だけが一瞬で行動に移っている場面は象徴的です。
     「精神の偉大さは苦悩の深さによって決まるのか? 『風の谷のナウシカ』に感じたささやかな疑問。」(http://ch.nicovideo.jp/cayenne3030/blomaga/ar314125)でも書きましたが、真面目人間には自ずから限界があります。
     もちろん真面目な性格にも良い所はあるんだけれど、欠点も付きまとうものなんですね。
     その上、きわだって頭が良いともう非常に苦しいことになる。
     累を見ていればわかるように、「いま、ここ」から遠い袋小路まで思考を重ねてたどり着いてかってに絶望してしまうのです。
     これが真面目人間の病理です。ほんとうにメンタルが強ければその限界すら突破できるだろうけれど、累きゅん、あんまり心が強くないみたいですよね……。
     一方、はじめちゃんはあまり先のことは考えず、常に「いま、ここ」に立ち戻ってアクションします。
     たぶん一般的な意味では累のほうが頭がいいんだろうけれど、はじめちゃんのほうが地に足がついている。だから彼女は常に正解にたどり着ける。
     この文脈ではいままでほとんど出てこなかったタイプのキャラクターですね。
     人間に過剰な期待を持たないから絶望もしない。そうかといって冷めているわけでもなく、やるべきことを淡々とこなしていく。非常にバランスがとれた主人公。
     でも不真面目(笑)。だからこそ素晴らしい。
     たとえばナウシカを初めとする宮崎駿キャラクターの、あの印象的な「まっすぐ前を見つめる視線」は、真面目キャラクターの特徴です。
     じっと相手を見つめる観察の視線! それに対し、はじめちゃんは常に興味の対象が変わりつづけているので、ほとんどまっすぐ相手を見ません。
     しょっちゅうきょろきょろとしているわけですね。でも、どっちの視野が広いかと云えば、これははじめちゃんのほうなんじゃないかと思うんですよ。