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記事 6件
  • 『ユーリ!!! on ICE』は「愛」を拡張するBLである。

    2016-12-08 05:40  
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     どもです。ここ数日、ぼくはオープンワールドという名の沼にはまっていました。『スカイリム』面白いです。『ドラゴンエイジ:インクイジション』面白いです。『ファイナルファンタジー15』面白いです。
     ていうか、最近のゲーム、マジすごい。『ウィッチャー3』は根性なしにも投げ出してしまったぼくだけれど、でも現代コンピューターゲームのすごさはわかる。つくづくエンターテインメントは進歩したよなあ。中毒性高い。
     というような話はすべてただの仕事をサボっていたいい訳で、これから本題に入ります。アニメ『ユーリ!!! on ICE』の話。こんな記事を読みました。

    ご存知大人気アニメ、ユーリ!!! on ICE。私も毎週楽しく見ている。
    言うまでもないことかもしれないが、スケートという珍しい題材や美しい映像表現に加え、腐女子をニヤッとさせる(どころでは済まないが)BLチックな表現がこのアニメの特色として挙げられる。
     
    特に作中にまんべんなく含まれる、主人公の勝生勇利とコーチのヴィクトル・ニキフォロフのスキンシップは毎週多くの視聴者を墓地送りにしてきた。そして最新第7話ではさらに決定的な表現を盛り込んできたのである。
     
    キスした。
     
    え?!マ?!?!
     
    やりよったな!!!!
    (中略)
    このキスシーンが指し示す可能性に、私はとても希望を抱いている。それは
     
    「BLの脱BL作品(占有)化」
     
    である。
    これはBLがBL作品と腐女子の妄想の占有下から脱する一つの兆しではないだろうか。男女恋愛と同じくらいのハードルの低さでBLがBLをメインとしないような作品に登場する日もそう遠くないのではないかという希望が(こんな大仰な狙いは制作側からはなかったにしても)今回のユーリ!!! on ICEからもたらされたように思う。
    http://illumination1710.hatenablog.com/entry/2016/11/18/113920

     はいはいはいはい。なるほどなるほど。実はこの記事を書いている時点でぼくは『ユーリ』を最新話まで見ていないのですが、いいたいことはわかる(と思う)。
     いや、ほんとは最新話まで見てからこの記事を書くべきなのだろうけれど、鉄は熱いうちに打ちたいので書いてしまいます。でも、これから必ず最新話まで見ます。ごめんなさい。
     さて、ここで書かれていることは非常に興味深いと思います。「BLの脱BL作品(占有)化」という言葉は一見すると意味が取りづらいかもしれませんが、つまり「BLの表現及び思想の脱ジャンルBL作品(占有)化」ということでしょう。
     ようするに、いままではほぼBL作品のみで描かれてきた「男性同士の愛(広く愛という名で呼ばれる関係)」がジャンルBL作品以外でも見られるようになることを指しているのだと思います。
     これはただ「ジャンルBL作品以外でも男同士がイチャイチャする描写が認められるようになる」ことに留まりません。BL以外でも「男性同士の愛」が「パッケージングされないままで描かれる」可能性を示しているのです。
     どういうことか。ここでべつの記事を引用しましょう。

    『ユーリ!!! on ICE』は「『愛』の再定義」を試みるアニメなのだとわたしは思う。
    これは、要は「辞典内容の改訂」である。昨今、国語辞典における恋愛絡みの言葉の説明に「男女の〜」という表現を用いるのをやめようという動きがある。これはとてもよいことだが、辞典に書かれた定義が変わっても、人々の認識が変わらなければ、世界は変わらない。
    『ユーリ』は世界を変えようとするアニメだ。
    (中略)
    「友愛」と「恋愛」を区別するのは一体なんだろう。
    ひとりだけに特別な思いを向けるのが「恋愛」? じゃあそのひとりを特別に思ったら、そのひとと結婚しなくてはならないの? 誰かを特別に大切に思う気持ちに、婚姻関係や肉体関係への欲求が必ずしも付随するの?
    よくよく考えれば、これはとても奇妙な話ではないだろうか。
    人間の感情って、もっと自由なんじゃないだろうか。その自由な感情を、そのまま語れる言葉があってもいいんじゃないだろうか。
    その人を好きだと思ったら「だいすき」と言えばいいし、その人を特別だと感じたのなら「愛してる」と言えばいいし、その人にキスしたいと感じて、相手がそれを受け容れてくれるのなら、キスをすればいいはずだ。
    そのコミュニケーションは、本来ならば個人と個人の間のものであるはずだが、そこに当然のように社会的慣習が介入することが多いのが現状である。
    もちろん、ステレオタイプを悪だとするわけではない。ただ、ステレオタイプから一歩外れると、驚く程の不寛容が待っていることがあるのは事実だろう。
    http://mortal-morgue.hatenablog.com/entry/2016/11/17/205149

     そうですね。『ユーリ』がどこまで意図して「愛の再定義」を描こうとしているかはわかりませんが、結果としてこの物語がそういうものを表現していることはたしかだと思います。
     しかし、その前に、まず、前提として、ある関係は「本来ならば個人と個人の間のもの」であるにもかかわらず、そこに「社会的慣習が介入する」とはどういうことでしょう。
     それはつまり、本来なら無限に等しい多様性をもっているはずの人と人の間の関係の形が「社会的慣習」に沿ってある「様式」にパッケージングされるということです。
     たとえば、妙齢の男女の間の親密な関係は、多くの場合、「恋愛」と呼ばれるでしょう。
     そのどこが問題なのかと思われるかもしれません。しかし、ほんとうはある人とある人の間にある関係性はひとつひとつ違っているはずで、それは「恋愛」などというわかりやすい言葉でパッケージングできないものであるはずなのです。
     言葉による「名づけ」は暴力です。名づけられることによって、そこにある多様性はひとつの形に収れんする(ように見える)。つまり、本来なら自然で自由であるはずの関係が、「恋愛」と名づけられることによって、ある種の「様式」に定型化するということです。
     その「様式」とは、たとえば恋愛しているならキスしたり、セックスしたりするのがあたりまえだし、デートもしなければならないし、浮気などありえないし、またゆくゆくは結婚も――というようなものです。
     ほんとうはキスしたくて相手が受け入れてくれるならすればいいし、そうでないならしなければいいというだけのシンプルな話であるはずなのですが、そこに「恋愛」という言葉による「名づけ(パッケージング)」が関与することによって、「お前たちの関係は恋愛と呼ばれるものであり、したがってこれこれこういう行動を取るのが自然であり、また当然である」というような暴力的な押しつけが行われることになってしまうわけです。
     上記ブログでも書かれているように、これはほんとうはおかしなことです。しかし、ぼくたちの社会ではそれがあたりまえになっている。
     たとえば男女ふたりで旅行に行ったりしたら、そのふたりは恋愛関係にあるものと見られるわけです。ほんとうはそうとは限らないはずなのですが、なぜかそういうことになってしまう。
     これが「関係性の名づけによる収れん」という現象です。しかし、ぼくたちの社会は、この「収れん」を疑問視し、本来の多様な関係性を多様なままで受け止めるということができるところまでもう一歩のところに来ている。それが『ユーリ』のような作品に表れているのではないかと思います。
     ぼくは上記ふたつの記事を読んで、以前に見たツイートを思い出しました。

    多様性ってのは足し算で考えなきゃダメなんだよ。イスラム教徒が吉野家で牛丼食ってるなら、隣の席で豚丼食える世界が多様性なんだよ。ムスリムに配慮して豚丼の提供は止めますってのは多様性とは逆方向なんだよ。勘違いするな。その勘違いを正しいと思い込んだ結果が今の欧州だ。
    https://twitter.com/threemission1/status/803668266698706944

     多様性は足し算でなければならない。この原則は「関係の表現の多様性」についてもあてはまります。
     「BL」、あるいは「百合」という関係性の表現は、べつに既存の「恋愛」を脅かすものではありません。ただ、そこにべつの可能性を「足し算」するだけのものです。
     ぼくはべつに「広い心をもって同性愛も寛容に受け入れましょう」的なことをいいたいわけではありません。いや、もちろん同性愛が異性愛と同じくらい社会に認められるようになることを願ってはいるけれど、今回いいたいのはそういうことではない。
     「同性同士の間にある関係」も、あえて名づけてパッケージングしてその内実をある「様式」に収れんさせることなく受け入れられてもいい、ということなのです。
     愛が多様であるとは、ある人とある人の間にある関係性が安易にパッケージングされないということです。
     漫画『Q.E.D.』のなかで、自分と主人公との関係を問われたヒロインの少女が、「(その関係には)まだ名前がついていない」と語るシーンがあります。
     これはつまり、その関係がまだ「年ごろの男女の間の親密な関係なのだから恋愛である」というような決めつけと「名づけ」によってパッケージングされていないということだといえます。
     このような「名前のつけられない関係」は男性同士、女性同士の間にあってもいいし、それを描いた作品があってもいい。いまのところ、BLや百合というジャンルはその表現に挑戦しているように思えます。
     たしかに、それらは単に「同性愛」と名づけられた同性間の関係を描いているだけに見えるかもしれません。しかし、たとえば『BL進化論』といった本を読めばあきらかなように、最新の作品においてはBL(や百合)はそれにとどまる表現ではなくなっています。
     それらは、「同性同士の恋愛(と名づけられる関係)が広く認められる、現代より先進的な社会」を描くに至っているのです。
     まあ、それは横道なのでくわしくは解説しませんが、それは同性同士の「恋愛」的な関係が特別視されない現実の社会より理想に近い社会を描くことによって、「愛を再定義」しようとしているといえるでしょう。それが現代のBLという表現なのです。
     したがって、「BL(と呼ばれる表現)の脱ジャンルBL化」の果てにある作品とは、「男女も、男性同士も、女性同士も、自由に好む関係を築くことができて、なおかつそれが他者によって安易に名づけられない(パッケージングされない)環境を描いた作品」なのではないでしょうか。
     ここでは仮にそれを「ジャンルX」と呼びたいと思います。ジャンルXはある意味では「BL」でもなければ「百合」でもありません。
     なぜなら、現状においてBLは「男性同士の愛のみ」、百合は「女性同士の愛のみ」を描いているのに対し、ジャンルXではそれらも含めたさらに広い愛が描かれるからです。
     また、それは「ぼくたちが住んでいる現実」を描いた作品でもありません。なぜなら、「ぼくたちが住んでいる現実」とは「愛が容易にパッケージングされる社会」だから。
     つまり、ジャンルXとはぼくたちがまだ到達していないより自由で多様性に満ちた社会を描いた作品なのです。もちろん、それをラブストーリーと呼んでもいいし、BLと呼んでもいいし、あるいは百合と呼んでもいいでしょう。
     しかし、それらはやはり「愛」がそうであるように、既に手垢のついた言葉です。また、「男性同士」、「女性同士」という性差に依存した言葉であることも否定できない。
     いくら「BLというのは男同士の恋愛だけではなく、「パッケージングされていない愛」を描いた作品全般を指すのですよ」といってみたところで、世間的なイメージというものがあります。たとえそれが偏見に過ぎないにせよ、いまからそのイメージを覆すことは大変でしょう。
     だから、とりあえずぼくは「愛が名づけられない(パッケージングされない)物語」をあえて名づけることはしません。ただ仮名としてジャンルXとだけ呼んでおきたいと思います。
     それはいまの段階ではほとんど見られない作品なのではないかと思うのですが、いつかは現れてくるのではないかとも考えています。『ユーリ』はそのきっかけであるということができるでしょう。それは素晴らしいことかもしれません。 
  • オススメのBLと百合を紹介するよ!

    2016-07-12 16:41  
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     文乃ゆき『ひだまりが聴こえる』を読みました。
     『さらば、佳き日』の作家によるボーイズ・ラブ漫画です。
     最近、BL漫画と百合漫画ばかり読んでいるような気がするなー。
     べつに腐男子というわけでもないけれど、未発見の秀作を探していると自然とそのジャンルになるんですよね。
     で、この作品、難聴の青年を主人公にした物語となっています。
     さすが『さらば、佳き日』の作家だけあってかなりよく描けているのですが、この作品の場合、BL要素がむしろ枷になっているような気も。
     Amazonの感想を見ても、きわめて高評価ではあるものの、「BLらしくない」とか「BL要素が薄い」といった意見が散見されます。
     作者自身、あとがきで「終盤になってボーイズがラブする要素がないことに気づいてあわてた」という意味のことを書いているくらいで、男の子同士の友情の物語として終わらせてもなんの違和感もない話です。
     まあ
  • なぜ一部の男性たちはボーイズ・ラブを嫌悪し非難するのか。

    2016-06-30 13:01  
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     溝口彰子『BL進化論 ボーイズラブが社会を動かす』を読んだ。非常に面白い一冊だ。
     ぼくにボーイズラブ作品一般の知識がないために完全に理解したとはいい切れないが、それにしてもセンス・オブ・ワンダーを感じさせるような素晴らしい読書体験だった。
     この本はBL(ボーイズ・ラブ)小説ないし漫画の「進化」を語っている。
     そう、BLはいま「進化」しているのである。
     それはBLのヘテロノーマティヴ(異性愛規範的)で、ホモフォビック(同性愛嫌悪的)で、ミソジナス(女性嫌悪的)な一面の超克である。
     BLに対して、それらの作品はミソジナスでありホモフォビックであると、あるいはもっと直接に女性差別であり同性愛者差別であるのだという批判がある。
     その種の批判はどの程度的確なものだろうか。
     個人的には「一理はある」と認めないわけではない。
     ミソジナスだったりホモフォビックだったりするBL作品は過去に存在したし、いまも存在するだろう。
     『BL進化論』はBL作品における以下のような「ノンケ宣言」を引用する。

    「オレは男色やないっ、好きになったんがたまたま男の人だっただけや‼」
    「(……)あいつは冗談でも、オカマやゲイと遊ぶような男じゃないから」/(……)/「あいつ、ノンケなのよ。一度なんか迫ってきたゲイボーイ、蹴り殺しそうになっちゃってさ」
    「オレあ基本的にノーマルなんだよ」

     これらの「ノンケ宣言」は、素直に読む限りやはりホモフォビックな言説といわざるを得ないだろう。
     したがって、少なくないBL作品にホモフォビアを見て取ることは誤ってはいない。
     しかし、ここで注意するべきは、同時にそれはBLそのものの可能性がミソジニーやホモフォビアによって閉ざされていることを意味しているわけではないということである。
     ミソジナスではないBL、ホモフォビックではないBLは理論上は存在しえるし、現実に増えて来てもいる。それが『BL進化論』で語られている事実だ。
     つまり、ホモフォビックなBLやミソジナスなBLは単体として個別に批判されるべきなのであって、BL全体がホモフォビックでありミソジナスな表象であるという批判は成り立たないのである。
     それならば、なぜこうも「BLは同性愛者差別だ」という批判がくり返しくり返し語られるのだろうか。
     そこにはやはり批判者たちの「BLフォボア」ともいうべき心理が介在していると考えるしかない。
     ようするに 
  • 映画『同級生』はキラキラ系青春ボーイズ・ラブ。男子も見てみるといいよ!

    2016-06-04 16:00  
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     アニメ『同級生』をレンタルして見ました。
     ボーイズ・ラブ漫画の名作として名高い『同級生』の劇場映画版です。
     原作も読みましたが、いやー、このアニメ版は素晴らしい出来。
     それはもう胸キュンものの作品となっております。
     BL好きの女子はもちろん、男子もバイアス抜きで見てみるといいんじゃないかな。
     とにかく一本のアニメとしての出来がずば抜けているので、アニメファンなら見ておいて損はないはずです。
     それにしても、いってしまえば「知る人ぞ知る」作品の企画でこの出来。つくづく時代はいいほうに変わったんだなあと思いますね。
     原作ファンもきっと満足していることでしょう。ちなみにこの映画の公開時、てれびんは『ずっと前から好きでした。~告白実行委員会』と間違えて男ひとりで見に行ったそうです。
     「あれ? こんな話だったかな?」と思って見ていたらそのうち男同士のラブシーンになって唖然としたの
  • 萌えは別腹。

    2016-05-07 22:50  
    51pt
     どもです。
     きょうは朝から晩まで倒れたように寝ていました。
     いま、風呂に入ってきてようやくすっきりしたところ。
     ふう、東京から帰ってきてから集中して作品を消費し、記事を書いていたので、知らず知らずのうちに疲れが溜まっていたようです。
     やっぱりこのペースは無理があるのかも。
     あるいは、やるとすればもう少し疲労を蓄積しない工夫が必要になるのでしょうね。
     マッサージを受けるとか。お風呂に入りに行くとか。考えておきたいところです。
     さて、いいかげん本題に入りましょう。
     きょうは「性的フィクションと現実世界における性的傾向の関係性」という話をしたいと思います。というか、あまり関係はないよね、と。
     現代の常識では、一般に、ひとは固有の性的志向を持っているとされています。
     異性愛だとか同性愛だとか、あるいは両性愛だとかですね。そしてまた、そのいずれにも含まれないと認識している人もい
  • 志村貴子の初ボーイズ・ラブ本の印象やいかに?

    2016-04-21 02:52  
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     「あの」志村貴子さんがボーイズ・ラブ漫画を描いた、という話を聞いて好奇心で買ってしまった一冊。
     ついに禁断のとびらを開いてしまったわ。どきどき。というほどうぶではありませんが、BL雑誌連載の漫画を買うことはめったにないので、貴重な体験とはいえるでしょう。
     ちなみに志村さんがBL雑誌に描くのは2002年以来のことで、BLの単行本は初めてということです。
     いままでもBLっぽい内容の作品はあったけれど、正式なBL(?)はこれが最初ということになるのでしょうか。
     『青い花』という、おそらく日本最高水準の百合漫画を描いた人が、BLを描くとどうなるのか。そこにぼくの興味は集中していました。
     で、結論から書くと