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  • あいされたい。

    2019-01-12 02:39  
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     電子書籍を出したいなあと思っています。『あいされたい。(仮)』というタイトルで、そうですね、6~8万文字の内容のものを一冊。
     このタイトルは変えたほうがいい気もしますが、まあ、それも含めて今後、検討したいところです。とりあえずは書いてみて、それからですね。
     で、どんな内容かというと、非モテの話をいちどきちんと書いておきたいなあと思っているのです。
     モテ/非モテはずーっと頭の片隅にわだかまっているテーマで、いつかは形にしたいなあと思いながら、10年、20年と過ぎ去ってしまいました。しかし、この際、まとまった形で出しておこうかな、と。
     で、今回はめずらしく本気で売ろうと思っています。そもそも電子書籍とは売れないものなのだけれど、どうにか宣伝して、話題にして、ちゃんと売りたいなあと。
     もちろん、中身がともなわなければ意味がないので、そこもちゃんとして――できるかな? いや、できるかど
  • 正義とは何か? そして物語とは? その魅力と危険。

    2017-08-25 05:37  
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     白倉伸一郎『ヒーローと正義』を読み上げました。
     著者は平成仮面ライダーシリーズのいくつかを手がけたプロデューサーで、ここでいう「ヒーロー」も仮面ライダーやウルトラマンを指しています。
     しかし、この本ではむしろ「ヒーロー」より「正義」のほうに重点が置かれているといって良いでしょう。これは著者による正義論であり、ある意味では「反」正義論でもあります。
     著者はこの本のなかで「特撮番組の視聴者である子供たちがウルトラマンや仮面ライダーを正義だと認識するのはなぜか」という問いを立てます。
     これは一見、あたりまえのことのように思えるかもしれません。物語のなかでそのように描写されているからだ、と。しかし、よくよく考えてみるとそうではない。
     ウルトラマンは人間でも怪獣でもない第三者的存在であり、本来であれば人間に味方するべき理由はないように思われます。また、仮面ライダーとショッカーのいずれに正義があるのかも真剣に考えてみれば微妙な問題でしょう。
     ですが、それにもかかわらず、子供たちはウルトラマンや仮面ライダーに正義があると信じてしまう。これはなぜなのか。つまり、かれらは物語を通してロジカルに主人公たちの正義を確認しているのではなく、ただ直感的に主人公の側を正義だと認識しているということになるのです。
     著者はここで色々と言葉を尽くしているのですが、ぼくなりにまとめてしまうと「それは視点の効果だ」ということになります。
     子供たちは――いや、ぼくたち大人も含めた人間は一般に、物語に触れるとき、視点人物に自分を重ね、その人物の行動を正当化するバイアスをかけながら見るものなのです。それが物語の力であり、危険さです。
     著者は書きます。

    「おれが正義だ」「おれたちが正しい」――世界中のだれもがそう言う。「おれ」「おれ以外」、「おれたち」「おれたち以外」の二項が、正義・不正義という、べつの二項に重ね合わされる。

     そうなのです。まさにこの二項対立の構図こそが「物語(ナラティヴ)」のもつ構造的な問題点だといえるでしょう。ペトロニウスさんがいうところの善悪二元論の問題ですね。
     人が物語を語るとき、それはまず二元論の形を取ります。なぜなら、物語とは「わたし」の視点からロゴス(言語)によって世界を秩序立てることであり、「わたし」を認識した瞬間に「わたし以外」という区分が生まれるからです。
     世界の神話の多くにおいて、世界の始まりは混沌であった、といわれています(この本では「渾沌」という表記が採られていますが)。ギリシャ神話ならカオスですね。その混沌を神が秩序立てることによって世界が誕生するわけです。
     たとえば、キリスト教神話においては神は七日間かけて光と闇を分け、海と陸を分け、女と男を分け、世界を体系化しました。混沌(カオス)のなかに秩序(コスモス)を生み出したわけですね。混沌とした世界をロゴスによって体系的に分類した、ということもできるでしょう。
     しかし、この分類は人間による差別の始まりでもあります。「わたしたち(善=仲間=中心=文明)」という認識は、即座に「あいつら(悪=敵=周縁=野蛮)」という認識を生みます。その行き着くところは戦争です。
     もし人間が一切の物語をもたず、分類に興味を示さなければ、世界はただ世界としてのみ存在し、差別も争いもなかったかもしれません。それが物語がもつ危険さであり、問題点です。
     現代思想ではキリスト教やマルクス主義のような世界を巻き込むほどの物語はしばしば「大きな物語(メタナラティヴ)」と呼ばれますが、そのような物語の危険性は、いまとなってはだれもが即座に理解するところでしょう。
     人間を、というか生きとし生けるすべての存在を無造作に「わたしたち」と「あいつら」を分け、「わたしたち」のみを正当化しつづけること、それが物語であり、また正義であり、その焦点となるのがヒーローなのです。
     白倉さんはこの観点から正義とヒーローの物語を受け取る問題点を述べていきます。

     わたしたちの心は、単純きわまるしろものである。
     怪人を両義的でらうがゆえに〈悪〉とみなす心性。
     ヒーローものという物語を、「正義と悪」の対立構造としてだけ受け取ろうとする心性。
     そうしたわたしたちの心性はすべて、ナチスにいいようにあやつられて、極端な迫害行為に走ってしまった、悲しいドイツ民衆となんら変わらない。

     一読、なるほど、と思います。ぼくも昔、かんでさんと対話するなかで似たようなことを書きました(http://d.hatena.ne.jp/kaien/20110727/p2)。話はかんでさんの『3月のライオン』批判から始まります。

     それと、もう一つ、誤解を恐れずに言うけど、この描写だと、いじめをした側がかわいそうだ。 
     担任に理解されていないのは、いじめをした側も同様なのに、それを誰にも指摘してもらえていない。 
     しかも、居心地の悪さを、どうにも出来ない立場に追い込まれつつある。 
     現実では、彼女たちも平等に扱われるべきである、と思っている。ただ、彼女たちの権利は「3月のライオン」という物語では現実よりも狭められたものとなる。 
     それは圧倒的に正しいことではあるが、事実である。 
     その辺に私は物語の限界を感じてしまう。 

     これに対し、ぼくはこのように異論を呈しました。

     たしかに『3月のライオン』は現実を「狭めて」描いているけれど、そもそも物語とはすべて現実を「狭めて」描くものだということがいえるわけです。そこに物語の限界を見ることは正しい。正しいけれど、それが物語の力の源泉でもある。なぜなら、ある人物をほかの人物から切り離し、フォーカスし、その人物の人生があたかも特別に重要なものであるかのように錯覚させることがすなわち物語の力だからです。だから作家が物語を語るとき、どこまで語るかという問題は常に付きまとう。あえていうなら、ひなたの担任の先生にだって、ああいう人格になるにいたったプロセスがあるに違いないんですよね。実は親から虐待されていたとか。でも、それは描かれない。作家はすべてを描くことはできないわけで、必ず恣意的選択をすることになる。それが物語の限界であり、力。あとはその点に対する想像力が確保されているかどうか、という問題かと思う。

     かんでさんはこの言葉(と、一夜にわたる対話)を経て、さらにこのように書きます(読みやすいよう引用の際にインデントを入れてあります)。

     凡人の私には、ひなの至っている境地、辛くて泣きながらでも自分の立ち位置を決して曲げない、という強い心は、それ以前にどうしようもない理不尽な状況によるなどして、己の価値観を曲げたうえで失敗した(と感じた)経験に裏打ちされる種類の境地ではないか、と感じるのです。 
     ひなたは天才でしょうか?それとも英雄でしょうか? 
     そういう描写はありません。 
     しかし、ひなたが決して己を曲げない理由は描かれません。 
     そして、彼女はその、己の正義を貫き通すことによって、立場の対立する「いじめっこ」や「担任教師」の正義を踏みにじってもいるわけです。 
     しかも、その自覚は描かれません。 
     その自覚は物語上必要ではないものだ、という指摘はあるでしょう。この漫画の主人公は桐山くんであり、ひなたの内面を中心に描く必要はない、と。 
     しかし、ならば、何故、ここまでひなたのいじめ問題を大きく取り上げたのか、という意図が理解できないのですよね。 
     桐山くんの価値観も基本的にゆらぎません。TOKAさんも触れている5巻での、ひなたを恩人だと定義するところで、桐山くんの成長の要因、という意義も既に大部分果たされているのではないでしょうか。 
     その上で、6巻の大部分を割いても決着しないほどのページを割いて、このいじめエピソードを扱うのであれば、ひなたの内面が軽視されるデメリットはメリットに対して遥かに大きいのじゃないでしょうか。 
     そこを描くことはエンターテインメントの物語としての質を下げるから忌避したのだと、あくまで主張するのであれば、それは認めざるを得ません。 
     しかし、同時に私は、それを描けないのであれば、物語なんてくそくらえだ、と思う。 
     そんな物語の質に、どれだけ尊い価値があるのか、と。 
     「ひと」と「ひとでなし」とを峻別し、自分は「ひと」であることを声高々に叫ぶことは正しい。しかし、「ひとでなし」は、ただ溜息をつくしかない。 

     そして、この意見を受けて、ぼくはある種の最終結論として、以下のようなことを書きました。

     つまり、ぼくはかんでさんが指摘する『3月のライオン』の問題点は、ひとつ『3月のライオン』だけの問題点ではなく、「物語」というものすべてに共通する問題点だといいたかったわけです。
     で、ここから三者会談(笑)に入るわけですが、話しあってみると、ぼくとLDさんはともに「物語」を好きで、擁護したいという立場に立っていることがわかりました。しかし、LDさんは同時に「物語」には「残酷さ」が伴うともいう。
     ぼくなりにLDさんの言葉を翻訳すると、それはある「視点」で世界を切り取る残酷さなのだと思います。つまり、「物語」とはある現実をただそのままに描くものではない。そうではなく、ひとつの「視点」を設定し、その「視点」から見える景色だけを描くものである、ということ。
     『3月のライオン』でいえば、主に主人公である桐山くんやひなたちゃんの「視点」から物語は描かれるわけです。そうしてぼくたちは、「視点人物」である桐山くんたちに「共感」してゆく。この「視点人物」への「共感」、そこからひきおこされる感動こそが、「物語」の力だといえます。
     しかし、そこには当然、その「視点」からは見えない景色というものが存在するはずです。たとえば、『3月のライオン』のばあいでは、ひなちゃんの正義がクローズアップされる一方で、ひなちゃんをいじめた側の正義、また彼女の話を頭からきこうとしない教師の正義は描写されない。
     これはようするにひとりひとりにそれぞれの正義が存在するという現実を歪め、あるひとつの正義(それは作者自身の正義なのかもしれない)をクローズアップしてそれが唯一の正義であるかのように錯覚させる、ある種のアジテーションであるに過ぎないのではないか。これがかんでさんの批判の本質だと思います。
     LDさんはその批判を受け止めたうえで、その「物語のもつ限界」を「物語の残酷さ」と表現しているわけです。つまり、「物語」とはどこまで行っても「歪んだレンズ」なのであって、世界の真実をそのままに描くものではない、ということはいえるでしょう。

     長い引用になってしまいましたが、ぼくも一応、「物語」が「歪んだレンズ」であり、差別を生み出すものであるということは理解していたわけです。
     かんでさんが「ひと」と「ひとでなし」を峻別することの問題を指摘していますが、それはまさに「わたしたち」と「あいつら」を分ける二元論的思考の根本的な危険性だといえるでしょう。
     物語はしばしば視点人物のまわりの「わたしたち」のみを「ひと」とみなし、それに敵対する「あいつら」を「ひとでなし」として描きます。しかし、それは差別です。
     「ひと」という名の物語に根差す差別。二元論によって世界を分けることとはどうしようもなくこういう差別を生み出してしまうわけなのです。
     そして、ここに付言しておくなら、主人公たちの心理が繊細に描写される一方で、敵対者の視点の描写が不足しているようにも見えることは、『3月のライオン』の物語としての欠点ではありません。
     『3月のライオン』はむしろ優れた物語作品であるからこそ、物語がもつ問題点をあらわに露出させることになったのだと思います。
     ぼくはこれと似たようなことを有川浩さんの作品にもよく感じます。有川さんの代表作のひとつ、『阪急電車』について書いたことを、またも長くなりますが、引用しましょう(http://ch.nicovideo.jp/cayenne3030/blomaga/ar502713)

     ぼくは有川さんの作品が好きでずっと読んでいるんだけれど、どうしてももうひとつハマり切れないところがある。その容赦ない「裁きの目」に、共感し切れないのだ。
     たとえば、この小説のヒロインのひとりは、その電車にウェディングドレスを思わせる白いドレスで乗り込んできた女性である。
     彼女は実は自分を裏切って自分の「友人」と結婚することにした元恋人の結婚式から帰ってきたばかりなのだ。あえて結婚式の常識的なドレスコードを破り、花嫁よりも美しい純白のドレスを来て式に出席することが、彼女の「討ち入り」なのだった。
     彼女は自分を捨てた男への怒りと憎しみと、そして軽蔑を込めてそういう「復讐」をやり遂げ、そしてむなしさとともに電車に乗って来たわけなのである。
     この女性の描写に違和感を抱く読者は少ないかもしれない。ぼくにしても実によく描けてはいると思う。でも、なあ。この発想はどこかねじ曲がっているとも考えるのである。
     何といっても、取ったの取られたの、裏切ったの裏切られたのとは云っても、本来、あくまで自由恋愛のなかでの出来事のはずだ。いま付き合っているからといって、だれも相手に絶対の所有権など主張できないわけである。
     自分を「捨て」て「裏切った」相手や、その男を「寝とった」友人をまるで倫理的な「悪」のように見ることはおかしくないだろうか?
     もちろん、理性ではそうとわかっていても、どうしても怨んでしまうということならわかる。ぼくが好きな村山由佳の『すべての雲は銀の…』には、最愛の恋人を、よりによって実の兄に寝とられてしまった青年が出て来る。
     かれは理屈では恋愛ごとにあたりまえの倫理は持ち込めないとわかっていても、どうしても割り切ることができない。その「瑕」を延々とひきずりつづけ、兄や元恋人を怨みつづけることになる。
     これならわかる。この心理は理解できるのだ。しかし、この女性はそうではない。彼女は、少なくとも自分の心理のなかではどこまでも「被害者」であり「犠牲者」である。
     元恋人の結婚式に白いドレスを来てゆくという自分の行動に対し後ろめたさがなくはないにしても、それはただやりかえしただけだと正当化されているように見える。
     少なくともこの物語のなかでは恋人を寝とった女はどこまでも悪役で、こずるく卑怯な女である。それはじっさいそうなのかもしれない。たしかにその女はひどい奴なのかもしれない。
     しかし、ここには、それでは、そもそも、そういう人間を選んで友達付き合いをしてきた自分はどうなんだ?という問題提起はない。
     自分だってその「友人」を、ほんとうの友達とは思っていなかったくせに、そして内心で「ウザい奴」として見下していたくせに、会社内での立場を考えて打算の付き合いを続けてきた身なのだ。
     ある意味では、この展開はそういう不誠実な人間関係の当然の結末とすら云えるかもしれないではないか。違うかな?
     もしかしたら彼女は、だれに対してもそうやって表面的な付き合いを続けてきたのかもしれない。だからこそ、恋人も彼女を「裏切る」ことになったのではないか?
     暴力や暴言でも振るわれたというならともかく、普通は恋愛ごとにおいて片方が一方的に悪いなどということはないと思うのだが……。しかし、彼女の描写を追っていっても、そういう考えは一切、出て来ない。
     つまり、ここでは「被害者」はどこまで行っても「被害者」で、「加害者」、あるいは「イヤな奴」は、ほんとうにただの「イヤな奴」のままで終わってしまうのだ。
     視点を変えてみればまたべつの真実が見えてくるかもしれない、という希望は提示されない。「あるいは自分の側にも責任があったのではないだろうか?」という反省も湧いてこない。どこまでも一方通行の「怒り」があるだけだ。
     この一作にかぎらず、ぼくが読んだ有川浩の作品は、ほとんどが「正義の怒り」とも云うべき、暴力やハラスメントへの怒りが主題に据えられていた。それが悪いとは思わない。だが、その視野は、やはり広くはないと思う。
     有川浩の小説においては、視点は物語の主役になった人物にフォーカスして、揺らがない。
     そこでは、「主人公のまわりの迷惑だったり非常識だったりする人物への怒り」はあからさまなのだが、あるいはその視点人物も見方を変えれば何か事情を抱えているかもしれないという方向には物語が進まない。
     『ガッチャマンクラウズ』のはじめちゃんがそこにいたら何と云うだろう、と思ってしまう。
     もちろん、だれかから「正義の怒り」をぶつけられた人間が、反省したりして心を入れ替えるという描写は時々出て来る(本作のなかにもある)。
     ただ、その場合も「正義の怒り」の正当性に疑いはさし挟まれない。どこまで行っても正義は正義なのである……。ここらへんがどうも有川作品を読んでいてひっかかるところなんだよなあ。
     実は宮部みゆきを読んでいても同じようなところでひっかかる。しかし、有川浩の「怒り」は宮部のそれよりはるかに苛烈で、だから、ずっと印象が強い。
     宮部作品においてはほのかな違和感で済むものが、有川作品においてはどうしても見過ごせない辛さになってしまうのだ。もちろん、どこまでも登場人物に共感して、その「正義の怒り」に同調できれば気分が良いのだろうけれど……。
     そこにあるものは「ひとを裁く視点」である。ぼくは思う。このひとはいつもこういう「裁きの目」でひとを眺めているひとなのだろうか、と。そこには、どうにも「赦しの視点」が欠けているように思う。
     ただ、これこそが「物語」の面白さであることもたしかなのだ。だからこそ、有川作品は人気がでる。ベストセラーになる。じっさい、ぼくも面白いと思うからこそ読んでいるわけだ。
     複雑な世界をひとつの視点にフォーカスして単純に描く「物語」の魅力と、そして残酷さを象徴するような作家であり、作品だと思う。

     『阪急電車』を読んでいて、主人公の女性の行動に違和感を抱く人はそう多くはないかもしれません。じっさい、この作品はミリオンセラーになっているわけで、それだけの人の共感を集めることができた優れた小説だといえます。
     しかし、いったん物語の視点を外してよくよく考えてみると、主人公の心情や行動は倫理的ないし審美的に正しいものであるとはいいきれないことに気づきます。それこそ、ウルトラマンや仮面ライダーが倫理的に完全に正しい行動を取っているとはいえないように。
     『阪急電車』はとても優れた物語です。だから、読んでいる間は視点人物である主人公の感情にのっかっていっしょに怒り、嘆くことができる。
     ですが、それは見方を変えるなら物語のマジックでそう見せられているだけであって、ほんとうに世界がこの女性の見ている通りのものなのか、どうか、その点は判断できないともいえるのです。
     これは白倉さんが指摘している通りの物語が抱える問題点でしょう。それは主観視点にもとづく世界の秩序化という物語がもつ「力」の負の面であり、この危険な力のために人類は幾度となく差別や迫害や戦争を巻き起こしてきたのです。
     つまり、二元論の物語とはそういうどこまでも危険な方法論だということです。それなら、どうすればいいか? ひとつには、二元論という単純すぎる構図を、三元論なり四元論なり五元論――つまり多元論に置き換えていくという行為が考えられるでしょう。
     しかし、そういうふうに複雑化していくと、世界はその分だけ見通しが悪くなり、秩序(コスモス)は再び混沌(カオス)へと近づきます。「世界の秩序化」という物語の力は、その分だけ弱くなると考えて良いでしょう。
     そういう物語は、あるいは世界の複雑さをそのままに捉えたものとして批評家には高く評価されるかもしれませんが、大衆的な人気を獲得するのはむずかしいと思います。
     それでも「混沌(渾沌)を混沌のままにしておく」ことが正しいのだ、と主張する人もいるかもしれません。そちらのほうが単純な二元論より高度な物語なのだと。じっさい、白倉さんは書いています。

     とするなら、わたしたちがすべきことは決まっている。
    「世界は自分を中心に回っているのではない」ことに、気づかなければならない。天動説から地動説へのコペルニクス的転回を、わたしたち一人ひとりが、自分の中でなしとげなければならない。
     渾沌そのものである世界や他者を、「わたし」という一元的原理によって秩序づけようとするのではなく、渾沌のまま受け入れ、理解し・許容し・評価する回路を、みずからの中につくりださなければならない。

     これは、一般論として、まずは正しい意見だといえるでしょう。他人に偏見をもってはいけない。複雑な存在である他者や世界にレッテルを貼って理解したつもりになるのではなく、そのとほうもない複雑さをそのままに受け入れるべきだ、と。
     しかし――ぼくはあえていいたいのですが、人間にそのようなことが可能でしょうか。もちろん、「ある程度までは」できるでしょう。ただ、その一方でやはり人は物語と、物語による秩序化なしには世界を理解できないのではないかとも思うのです。
     もちろん、21世紀のいまとなっては、いかにも単純に過ぎる二元論的な物語は勢いを失い、日本の少年漫画やハリウッド映画ですら複雑な群像劇を描くようにはなっています。
     ぼくやペトロニウスさんが「現代は神話的物語が受け入れられなくなった時代だ」と語るのはそういう文脈です。とはいえ、物語による世界の分類という方法論は人間の世界認識の根幹に関わるものであり、まったく失われてしまうはずはありません。
     人の脳は混沌を渾沌のまま認識することはできない。人はそのあまりにも膨大な情報量を処理するために秩序を求め、物語を作るのです。もちろん、そこで切り捨てられる情報もあるでしょう。「正義」の物語において「悪」として差別を受ける者もいるでしょう。
     けれど、それでもなお、物語は魅力的であり、物語なしに世界を眺めることはできない。一切の物語を失ったとき、おそらく人は何も行動を取れないと思います。それだけ、物語は人の思考の根幹に関わっているのです。
     白倉さんは「わたしたちが見たいのは、秩序ではなく渾沌なのである」とそれこそ単純に書いてしまっていますが、これはいいすぎであるように思えます。
     より正確には「わたしたちが見たいのは、完全な秩序でも完全な混沌でもなく、秩序が混沌を整理する過程であり、また混沌が秩序をかき乱す様子である」ということになるのではないでしょうか。
     だからこそ、名探偵が混沌とした状況を快刀乱麻の推理で秩序立てることにカタルシスを感じる一方、不条理そのものといった筋立てのホラー小説や映画に強く惹かれる。
     ぼくたちは、完全なコスモスにも完全なカオスにも耐えることができない。したがって、最上の物語は、その間のどこかに均衡点を見いだす。そしてたとえそれが差別や迫害や戦争につながるとしても、物語は限りなく魅力的で美しい。ぼくは、そういうふうに考える。
     そういうわけで、正義論として、ヒーロー論として、なかなか面白い本でしたが、結論は一面的に過ぎると考えます。ここら辺のことを踏まえていると、ぼくやペトロニウスさんやLDさんが何をいっているのかわかりやすくなるでしょう。
     でわでわ。また逢う日まで。 
  • 作家は面白い物語を生み出すため非情に徹しなければならない。

    2015-09-27 01:56  
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     前々回の記事「なぜ作家は衰えるのか。」の続きです。
     あの記事は、結局のところ、作家は歳とともに「窮屈さ」に耐えられなくなっていくから衰えるのだという話でしたが、それではその「窮屈さ」の正体とは何なのか話したいと思います。
     作家を縛る「窮屈さ」。それは結局、エモーション(感情)に対するロジック(論理)の束縛だとぼくは思います。
     つまり、作家は自分の内なるエモーションに従って作品を書こうとするけれど、良い作品を書くためには精緻なロジックに従う必要がある。
     そこで湧き上がるエモーションを管理しつづける作業は窮屈だといえます。
     その窮屈さがしだいに耐えられなくなっていくというのが「作家衰退」の真相なのではないかと。
     もちろん、エモーションそのものが枯れ果ててしまうこともありますが、そういう人は大抵が作家を辞めてしまうので「衰えた」という印象は与えない。
     やはり問題はエモーションの暴走をどう止めるか、というところにある。
     ここでむずかしいのは、作家本人にとってはエモーションが暴走している状態のほうが楽しいということです。
     あるいはロジックという窮屈な枷のなかで書いているより、面白いものを書けているという実感を持てるかもしれない。
     しかし、ぼくが岡目八目で見る限り、やはりエモーションを優先させすぎた作品はダメですね。
     なんというかこうキャラ愛あふれる同人誌みたいなものになりがちです。
     そう――ロジックによって管理しなければならないエモーションの第一が「愛情」なんですね。
     キャラクターに対する、あるいは物語に対する愛情を的確にコントロールできなければ、面白い物語(「読者にとって」面白い物語)は作れない。
     このあいだ、Twitterで話していて偶然、椎名高志『ゴーストスイーパー美神極楽大作戦‼』の「ルシオラ事件」の話になりました。
     いまとなっては「ルシオラ事件」について知っている方のほうが少ないかもしれませんが、ようはこの漫画の脇役のひとりであるルシオラというキャラクターが人気が出すぎてしまい、また作者が愛着を抱きすぎて物語が破綻しかけるところまで行ってしまったという「事件」です。
     最終的には一応、ルシオラは物語から退場して終わるのですが、かなり苦し紛れともいえる結末に多くの読者は不満を抱きました。
     これなどは物語空間に横溢するエモーションを冷徹なロジックによって管理し切れなかった典型的な一例だと思います。
     ルシオラなー。可愛いんだけれどなー。
     でも、そのおそらく作者にとっても可愛い、愛しいキャラクターを、作劇のための「駒」として割り切る視点がなければ面白い物語は書けないのです。
     シナリオメイキングとは 
  • 運命はいつも極限の二択を突きつけてくる。選べ。「立ち向かう」か「座り込む」か。

    2015-05-11 03:08  
    51pt

     いま、『3月のライオン』の連載が非常にタイムリーな話題を扱ってくれています。
     以下、ネタバレあり。
     さて、今週号の『ライオン』は主人公である桐山零くんのこのような独白で始まります。

     人生はいつも 
     「立ち向かう」か「座り込む」かの
     二択だ
     何もしないでいても救かるなら 僕だって そうした
     ――でも そんな訳無い事くらい 小学生にだって解った
     だから 自分が居てもいい場所を 必死に探した
     自分の脚で立たねばと思った
     一人でも
     生きていけるように
     誰も
     傷つけずに すむように

     ここで桐山くんはダメ人間の川本父と対峙しながらこう考えているわけです。
     一見して、非常にきびしい内容であることがわかります。
     つまり、人生における「立ち向かう」と「座り込む」の二択で、自分はいつも「立ち向かう」ことを選んで来た、それは自立してひとを傷つけないようにするためだった、ということだと思います。
     ここにはあきらかにその都度の選択肢で常に「座り込む」ことを選んで来た(ように見える)川本父に対する批判が見て取れます。
     ある意味で零くんはここで自分自身のシャドウと向き合っているといえる。
     川本父はもしかしたらそうだったかもしれないもうひとりの自分の姿なのです。
     しかし、それでもなお、零くんと川本父は決定的に違う。
     それはつまり人生の志の差なのだということは前回で語られました。
     零くんには長期的な視点があり、川本父には短期的なそれしかないのだ、と。
     これはじっさい、連載をここまで追いかけてきた読者にとっては説得力ある話です。
     なんといっても、読者は零くんがこれまでズタボロになりながら努力する姿をさんざん見て来ているわけですから。
     そのかれがいう「自分の脚で立たねば」という言葉からは非常に強い印象を受けます。
     しかし、同時にこれは「そういうふうにできない」人間を切り捨てる話にもなりかねないわけです。
     ネットでこういうことを意見にして書くとものすごく叩かれますよね。世の中にはそうできない人間もいるんだ、お前は弱者を切り捨てるのか、と。
     つまり、非常に微妙な問題を孕んだエピソードがここにあるということ。
     ぼくの意見をいわせてもらうなら、 
  • 『3月のライオン』で考える。人間関係の豊かさを決めるものは何か。

    2014-12-12 07:00  
    51pt


     「「3月のライオン meets BUMP OF CHICKEN」MUSIC VIDEO」。
    https://www.youtube.com/watch?v=CiCWbfjf8Tw
     うむ、かなり出来がいいですねー。どこが作ったんだろう? 気になる気になる。
     というわけで、きょうは『3月のライオン』の話。羽海野チカさんの『3月のライオン』は、将棋漫画でもありますが、むしろ棋士を務めるひとりの少年の成長物語といったほうが正しいでしょう。
     そこでは、勝負にすべてを賭ける棋士といえども、あたりまえの日常生活も送っている、というごく当然のことが自然に描かれています。
     主人公の桐山零は時に苦しみ、時に悩みながらも、一歩一歩着実に成長して行きます。そして、初め、将棋の天才以外は何ひとつ持っていないようにすら見えたかれのまわりにはあたたかい心を持つ人々が集まってくるのです。
     そしてその一方で、物語の各所では、自ら望んで自堕落な生活に堕ち、自分の可能性をつぶしていく人々の姿も、あたかも零の影のように描かれています。
     この描写を読んで、ぼくは怖いなあと思ったのですよね。これはつまり「自由」というものの本質的な怖さだな、と。
     現代社会において、ひとはかつてない自由を享受しています。どんなふうに生きることも自分の自由。自分で選択して決めていくことができる。
     しかし、それはどんな生き方をすることも自分の責任だということを意味しています。愚かな選択をしてもだれも止めてくれない。叱ってもくれない。それがこの社会で生きるということであり、堕ち始めたらどこまででも堕ちていくことができるわけなのです。
     そのなかで自ら努力し、自分を高め、より良い自分になっていこうとすることはなんとむずかしいことなのでしょうか。
     「自由」は恐ろしい。どんな自分になっていくことも自由であるということは、ほとんどの人にとって、ただ堕ちていくことの自由を意味しているだけなのではないでしょうか?
     ――というようなことを、いつだったかLINEで超暗黒生命体てれびんに話したのですが、そうしたらあっさりと「でも、零くんは自由だけれど、いろんな人に叱ってもらっていますよね?」といわれて、あれれ、と思いました。
     そ、そうっすね。たしかにその通り。うーん、何かぼくの理屈は間違えていたかしら?
     『3月のライオン』の物語中、零くんはひとりで暮らし、孤独なほどの自由を享受していますが、しかしその一方で、いろいろな人たちがお節介なまでにかれに関係して来ます。
     零の「心友」を自認する二階堂は、「もっと自分の将棋を大切にしろ」といい、かれの担任教師はひとりで弁当を食べるかれを心配します。
     そうなのです。零は自由ではありますが、ほんとうの意味では孤独ではないのです。かれのまわりにはかれが道を逸れそうになったら叱りつけてでも正そうとしてくれる人々が無数にいる。
     その結果、零自身とあつれきが生じるとしてもかまわずに、かれのことを第一に考えてくれる心優しい人々です。
     うーん、何なんですかね、これ。どうして零くんのまわりにはこんなに優しい人たちが集まってきて、かれに関わろうとするのでしょうか?
    (ここまで1321文字/ここから1682文字) 
  • 『3月のライオン』に見る「魂の格差」を生み出すもの。

    2014-10-01 12:56  
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     羽海野チカ『3月のライオン』初のファンブックとなる『3月のライオンおさらい読本初級編』が出ました。
     各地で第10巻と間違えて買ってしまうという被害が続出しているようですが、お前ら、帯に「初のオフィシャルファンブック 「3月のライオン」をたのしく、くわしく、おさらい」って書いてあるんだから、気付けよ! 気付こうよ!
     初級編ということは、このあと、中級編、上級編と出るのかな、という気もしますが、まあ、とにかく購入、ざっと読んでみました。
     初級編というわりにはなかなかディープな本ですね。作者インタビューはもちろん、三浦建太郎、森恒二、吠士隆の『アニマル』男性漫画家トリオによる鼎談なども収録されていて、実に盛りだくさん。
     この鼎談がまた面白いんだ。自身、最前線で疾走する漫画家たちによる羽海野チカがいかに怪物であるかという話は、実に興味深いものがあります。同じ漫画家の人から見てもやっぱりとんでもない存在なんだなあ、と。
     で、この座談会のなかで「ヒョードル」とか「フリーザ様」とか好き勝手にいわれている羽海野先生なのですが、まあ、ある種の天才だよな、どう見ても。
     もちろん、尋常ではない努力をしていることは発言の端々から伺われるんだけれど、それはもともと凄まじい才能を磨いているからこそ輝いている、という印象があります。
     特別な才能もなければ、生まれてからこの方、およそ努力といえることをしたことがないぼくとしては戦慄するばかりです。
     そういう文脈で考えると面白いのが「ニコ・ニコルソンのマンガ道場破り 羽海野チカ道場編」。そこでとんでもない名ゼリフが出てきていまして、つまり、「才能は物量で越えられる!!」と。
     一本の漫画を描き上げるための羽海野さんの作業量はそれはもう途方もないものがあるらしく、それはやはり「才能」のひと言では片付けられないものなのですね。
     しかも中学の頃から延々とネタ帳を溜めているのだとか。『ハチクロ』に出て来るようなポエムもそのなかに入っているらしいんですね。ああ、努力家の羽海野先生……!
     まあ、そこまでできるのもやはり「漫画が好きだから」ではあるのでしょう。でも、その「好き」が並大抵ではないんでしょうね。
     「努力を続けられることこそ才能」とはよくいいますが、大半の人は先が見えない努力を延々と続けることはできません。どこかで心折れて逃避してしまうことが普通。
     しかし、どの業界であれ、トップクラスの人間は延々と努力をしつづける。ひとが「あんな高みに立ってしまったんだから、もういいだろう」と思うような境地に立っても、「さらに、さらに上へ」とがんばりつづける。
     その「継続」の力は最後にはものすごい差を生み出してしまいます。そして、そう、『3月のライオン』では、「努力しようとしない人々」もまた端々で描かれています。
     羽海野チカは決して声高にかれらを責めるわけではありませんが、しかし、その人生がそれなりのものに落ち着いていくことを冷静に見つめています。
     その残酷さもまた、現実。そう、「どんなに弱い人、愚かな人でも救われるべき」と口先でいう人はいますが、じっさいには、自分の人生を自分でダメにしようとする人を救い出す手立てはないのだと思う。
     ただの逃避、単なる怠惰なら、「だれの心のなかにもあるあたりまえの心理」ということもできるでしょう。ですが、それが度重なり、「心のくせ」となり、またそのことを正当化しはじめると、転落は早いものです。
     「いや、そういう人だって同じ人間、救われなければならないのだ」とあくまでいう人もいますが、しょせん口先だけのことです。自分自身の意志で坂道を転がって行く時、だれも助けてくれないのが普通です。
     それが人生。正しいかどうかではなく、じっさいに世界はそういうふうになっているということなのです。
     以前、ぼくは『3月のライオン』を取り上げて、ここでは「魂の格差」が描かれている、といったことがあります。この社会では、どんなふうに生きることもその人の主体性に任されていて、だからこそ、意志の弱い人間は自ら転落していくものなのです。
     それを他者が救い出す手立ては、あるとしても、ものすごい犠牲を覚悟しなければならないものです。つまり、「救われない奴は救われない」のです。
     べつだん、自己責任だとかいいだすまでもなく、 
  • 『風立ちぬ』問題。あるいは『劇場版魔法少女まどか☆マギカ』は蛇足だったのか。

    2014-03-31 11:44  
    53pt


     昔、「『3月のライオン』の差別構造と物語の限界。」と題して、以下のような内容の記事を書きました。

     ああ、長い夜だった。というわけで、昨日の夜、かんでさんとLDさんで「物語」の問題について話しあったわけですよ。予想外に盛りあがり、また収穫のある内容となったので、この日記で報告しておきたいと思います。
     そもそもの発端はかんでさんの『3月のライオン』批判です。
    http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1754961239&owner_id=276715
     ぼくが考えるにその批判の要点は以下の二点、
    1.作中のいじめの描写が甘い。ひなたはいじめにあいながら「壊れて」いない。これはいじめの実相を表現しきれていないのではないか。
    2.作中では作劇の都合上、いじめっこ側の権利が狭められている。本来、いじめっこ側にも相応の権利があるはずなのだが、それが描写されていない。
     であったと思います。
     これに対して、ぼくは作品を擁護する立場から、以下のように反論しました。
    「たしかに『3月のライオン』は現実を「狭めて」描いているけれど、そもそも物語とはすべて現実を「狭めて」描くものだということがいえるわけです。そこに物語の限界を見ることは正しい。正しいけれど、それが物語の力の源泉でもある。なぜなら、ある人物をほかの人物から切り離し、フォーカスし、その人物の人生があたかも特別に重要なものであるかのように錯覚させることがすなわち物語の力だからです。だから作家が物語を語るとき、どこまで語るかという問題は常に付きまとう。」
     つまり、ぼくはかんでさんが指摘する『3月のライオン』の問題点は、ひとつ『3月のライオン』だけの問題点ではなく、「物語」というものすべてに共通する問題点だといいたかったわけです。
     で、ここから三者会談(笑)に入るわけですが、話しあってみると、ぼくとLDさんはともに「物語」を好きで、擁護したいという立場に立っていることがわかりました。しかし、LDさんは同時に「物語」には「残酷さ」が伴うともいう。
     ぼくなりにLDさんの言葉を翻訳すると、それはある「視点」で世界を切り取る残酷さなのだと思います。つまり、「物語」とはある現実をただそのままに描くものではない。そうではなく、ひとつの「視点」を設定し、その「視点」から見える景色だけを描くものである、ということ。
     『3月のライオン』でいえば、主に主人公である桐山くんやひなたちゃんの「視点」から物語は描かれるわけです。そうしてぼくたちは、「視点人物」である桐山くんたちに「共感」してゆく。この「視点人物」への「共感」、そこからひきおこされる感動こそが、「物語」の力だといえます。
     しかし、そこには当然、その「視点」からは見えない景色というものが存在するはずです。たとえば、『3月のライオン』のばあいでは、ひなちゃんの正義がクローズアップされる一方で、ひなちゃんをいじめた側の正義、また彼女の話を頭からきこうとしない教師の正義は描写されない。
     これはようするにひとりひとりにそれぞれの正義が存在するという現実を歪め、あるひとつの正義(それは作者自身の正義なのかもしれない)をクローズアップしてそれが唯一の正義であるかのように錯覚させる、ある種のアジテーションであるに過ぎないのではないか。これがかんでさんの批判の本質だと思います。
     LDさんはその批判を受け止めたうえで、その「物語のもつ限界」を「物語の残酷さ」と表現しているわけです。つまり、「物語」とはどこまで行っても「歪んだレンズ」なのであって、世界の真実をそのままに描くものではない、ということはいえるでしょう。
     とはいえ、「世界の真実を比較的そのままに描く物語」というものも存在しえるかもしれません。話のなかでは、それは「芸術」といわれていましたが、ここでは「リアリズム」と呼びたいと思います。
     つまり、俗に「物語」と呼ばれているもののなかには、「世界の真実を比較的歪めずそのままに描くもの=リアリズム」と、「世界の真実をある視点から歪めて読者の共感を誘うもの=物語(エンターテインメント)」が存在するということができます。
     そしてかんでさんは「リアリズム」寄りの立場から、ぼくとLDさんは「物語(エンターテインメント)」よりの立場から話をしました。しかし、もちろん両者とも完全にそれぞれの立場にわかれているわけではありません。ある程度たがいの立場を察し、理解しあうことはできるのです。
     そこで、ぼくは「物語」の「あやうさ」を指摘しました。われわれ日本人には、じっさいにある「物語」に先導され、挙国一致体制で「物語」に殉じた記憶があります。先の大戦がそれです。
     そのとき、「天皇は偉大だ」とか「日本人は優れた民族である」といった「日本人の視点」によって切り取られた「日本の物語」が日本一国を支配したのでした。その物語にともに熱狂しない人間は「非国民」とされ、排斥されました。これこそまさに「物語」がもつあやうさです。
     「物語」はひとを扇動し、熱狂させますが、だからこそひとを非理性的なところへ連れていってしまうのです。「物語」にはひとつの「正義」だけを唯一の正解のように見せてしまう「力」があるのです。
     歪んだレンズを通せば歪んだ世界が見える道理なのですが、その歪んだ世界を真実の世界と錯覚してしまうかもしれないところに「物語」のおそろしさはある。
     しかし、同時に、そうとわかってなお、ぼくやLDさんは「物語」が好きであるわけです。その「歪んだレンズ」に映しだされるふしぎな景色に、それが残酷であり危険であるとしりながらも驚嘆せずにはいられないのです。
     ここらへんは非常に微妙な話になるのですが、世界は「物語」の押し付け合いによってできているという側面があります。たとえばアメリカにはアメリカの「物語」があり、アラブ諸国にはアラブ諸国の「物語」があるように、複数の「視点」があれば複数の「物語」が存在しているものなのです。

     ぼくがここで云いたかったのは、物語、あるいは少なくともエンターテインメントとは人間の認知能力の限界を反映したものだということです。
     もしあらゆる事象をあらゆる側面から同時に知ることができる全知の存在がいるとすれば、かれは物語を必要としないでしょう。ひとは自分の視点からしか世界を見ることができないために、物語を必要とするのです。
     つまり、ひとは神ではなく、物語という娯楽にはその限界が濃厚に反映されているということです。物語とはある視点から世界を切り取り、その視点に感情移入させ、感情を高揚させる方法論です。
     これはあきらかにアジテーションの方法論であって、倫理的に考えるならあきらかに問題があります。
     じっさい、さまざまなエンターテインメントは過去、集団を動員するためのアジテーションとして利用されてきた。いまでもハリウッドや中国あたりの映画などは、右寄りにせよ左寄りにせよ、製作者の政治思想を主張するために利用されている一面があるでしょう。
     つまりは物語の性質上、「比較的中立」の作品はありえるかもしれないにせよ、「完全に中立」なものでは決してありえないのです。
     まして、エンターテインメントとは、いかにひとを熱狂的に一方向に駆動させるかで評価が分かれる表現です。
     あるエンターテインメント作品が「面白い」とは、ひとをより感情的にさせ、理性的判断を麻痺させているに等しい、と云ったら、乱暴な断言と云われるでしょうか。しかし、そういう一面はあるはず。ただインテリジェントなだけでは、十分に面白いエンターテインメントとは云えない。
     そのように考えていくと、LDさんの云う「エンターテインメントの残酷さ」の正体がわかって来ます。あえて云うなら、エンターテインメントとは、人類の倫理的欠陥を象徴するものなのです。
     人間は本質的には倫理的にできていない。エンターテインメントについて考えていくと、その事実が浮き彫りになる気がします。
     どういうことか。ここで思い返してもらいたいのは「差別」の問題です。究極的な倫理を考えるなら、一切のひとを差別することなく平等に扱うことが「倫理的に正しい」ことでしょう。
     しかし、それは人間にはできないのですね。自分の視点から見て、より親しいひとにはより共感を覚え、より遠いひとにはあいまいな感情しか感じない――それが人間の当然の実相です。
     たとえば、ぼくたちの多くは家族が亡くなったら哀しみを感じる。その一方で、遠いアフリカの地の子供たちの死には何の痛痒も感じない。これは差別ではないでしょうか? ぼくは差別だと思う。
     ぼくが「ひとが差別から無縁ではいられない」と云うのは、そういう意味です。もしぼくたちがアフリカの子供たちに自分の家族と同程度の共感を得られるなら、アフリカの問題は既に解決されているかもしれません。その問題とはぼくたちの差別心が表面化した問題と云えなくもないわけです。
     それがあまりにも極端な例だと思われるのなら、べつの例を挙げましょう。ぼくたち日本人は3月11日になると、東日本大震災の犠牲者たちについて思いを馳せます。
     もちろんひとによって程度は違うでしょうが、ある程度は何かしらのことを考えるというひとが大勢を占めるのではないでしょうか。
     もし、「東日本大震災の犠牲者? しょせん他人ごとだからおれは知らないよ」と云ったら、「なんてひどい奴だ!」とバッシングされることは間違いないでしょう。
     ですが、考えてみれば、世界中至るところで悲劇は常時起きているわけです。なぜ、東日本大震災の死者のことは悼むのに、スマトラ沖地震の犠牲者のことは悼まないのか? ニュージーランドの地震の死者はいいのか?
     こう考えていくと、結局、ぼくたちは「日本人」と「外国人」で線を引き、差別しているという事実に気づかざるをえない。
     かつてTHE YELLOW MONKEYは「乗客に日本人はいませんでした」というフレーズに非難のトーンを込めて歌いましたが、じっさい、大半の日本人にとって、「同じ日本人」の動向のほうが、遠い外国の悲劇より、ずっと興味をそそられるものであるに違いありません。
     逆に云えば、遠い外国で起こっている限り、どんな悲惨な、残酷な、悪夢のような事件も、「大変だねえ」と他人ごとのように云ってスルーできるということ。これが差別でなくて何でしょう。
     倫理的に考えればあきらかに正しくない態度です。しかし――そう、それでは、ひとが取りうる最も倫理的な態度とはどういうものかと云えば、常に、世界中のあらゆる死者のことを嘆いていかなければならない、ということになりますよね。
     「世界にひとりでも不幸なものがいるかぎり、自分も幸せではない」という、ある意味で仏教的とも云える態度ということになるでしょう。これは宮沢賢治や金子みすゞの態度です。
     かれらはその天才的とも云える共感能力によって、ありとあらゆる存在の苦悩を感じ取ることができました。それが人間はおろか、あらゆる生物や、無生物にすら及ぶことはご存知のとおり。
     しかし、それはひととして不可能な態度と云うしかない。じっさい、金子みすゞなどは26歳にして自殺して亡くなりました。
     そのように突き詰めて考えていくと、物語というかエンターテインメントそのものが、人間の非倫理性を反映した「倫理的に正しくない」ものなのではないかというところに行き着かざるを得ません。
     さらにその考え方を先鋭化させていくと、最終的には「人間否定」に行き着きます。人間の不完全さそのものが戦争や差別やあらゆる問題の根源である、というのですね。
     この境地に到達した作家として、ぼくが思い浮かぶのが山本弘です。かれの最高傑作とされる(自分でそう云っていた)『アイの物語』は、人間に対する絶望に満ちています。
     この物語で描かれるのは、人類の衰退と、マシン(自立型ロボット)との世代交代です。ここで山本さんは、人間の愛の不完全さ、その差別性を俎上に上げ、それを超越した「完全な愛」を持った存在としてマシンを登場させています。少なくともぼくはそう解釈しました。
     ひとは上記のような理由で差別的にしかだれかを愛することができませんが、マシンは非差別的に愛することができるということのです。
     その愛が具体的にどのようなものなのか、それは作中で描かれていないので、よくわからないのですが、とにかく山本さんは「そういう愛は、人間には不可能だが、理論的には存在しえる」という立場に立っているようです。ぼくは理論的にも不可能だと思うのだけれど……。
     ともかく、長年、生まじめに人間の愚かしさと向き合ってきた山本さんが、このような「人間否定」の境地にたどり着いたことはよくわかります。
     この物語の結末において、人類は衰退し、最終的には滅亡していくであろうことが示唆されています。ぼくは山本さんは「愚かしい人間より、機械のほうが優れている」と云っているのだと解釈するしかありませんでした。何という絶望でしょうか。
     『ヴィンランド・サガ』でも、覇王クヌートはひとの愛が差別でしかありえないことを嘆いていましたが、まさに同じ理由で、山本弘は人間存在を否定するのです。
     「アイの物語」というタイトルもそう考えるとなかなか趣深い。結局のところ、物語とは愛であり、愛とは物語なのではないでしょうか? 愛も物語も、ともに神ならぬ人間存在の限界を示す概念であり、そして「人間らしさ」そのものです。
     だから、「物語とはある視点から世界を限定的に切り取るものであり、人間の差別精神そのものである」ということが云えると思うわけです。
     それでは、どうすればいいのか。開きなおって「物語は初めからそういうものなのだから、一切、政治的な配力はしなくても良い」と云ってしまうのか。
     しかし、そこまで割り切れるひとはなかなかいない。そこで、作中にエクスキューズを仕込むという手が良く使われます。
     たとえば、アメリカの正義を訴える戦争映画のなかに、「戦争の悲惨さ」の描写を入れておく。そうすると、「ああ、この映画は戦争の悲惨さを訴える視点をちゃんと確保しているのだな。決して戦争を礼賛した映画ではないのだな」と視聴者は安心し、よりシンプルに映画に入り込むことができる。
     つまりは、作品に複数の視点を用意することによって、ひとつの視点からのみ描き込まれることのヤバさを軽減させているのです。
     そういうエクスキューズのある作品が物語として上等である、という考え方はあるでしょう。たとえば、戦争反対の思想を織り込んだ戦争映画は上等だが、「戦争最高! アメリカ万歳! ヒャッハー!」というだけの作品は下等である、と。
     ある意味では納得できる考え方です。物語をそのテーマ性によって判断しているわけですね。しかし、それってくだらなくないか?ともぼくは思うのです。
     そもそも、テーマによって映画の良し悪しが測られるなら、初めから映画など作る意味がない。そのテーマだけを語っていれば良い。少なくともエンターテインメントを志すならそういうことになります。
     どう云いつくろおうと、エンターテインメントの醍醐味は観客の感情を昂らせるところにあるのだから、その「エンターテインメントとしての強度」を無視してテーマ性だけを語ることは本末転倒であるように思える。
     これはたとえば「反原発の思想にもとづいているから良いメッセージソングだ」といった価値観にもひそむ矛盾です。どんなに正しい、偉い思想にもとづいていても、くだらない曲はくだらない。そうではありませんか?
     つまりは、ぼくは思想は思想、エンターテインメントとしての強度は強度で分けて考えるべきだと思うのです。もっとも、ここらへんはむずかしい。それなら、エンターテインメントとしての強度があれば、どんなに思想的に歪んだ作品でも受け容れられるかというと、たしかに悩んでしまう一面はあります。
     ぼくは受け容れられると思うのだけれど、無条件にそうか、と云われると必ずしもそうは云えないかもしれない。悩ましいところですね。
     最近の作品で、巧みなエクスキューズを用意したことで好評を得た作品と云うと、『魔法少女まどか☆マギカ』の劇場版が思い浮かびます。この映画は、テレビシリーズにおいては残されていたある倫理的問題にみごとにエクスキューズを付けました。
     即ち、「まどかの行為の暴力性に対し、製作者サイドは無自覚なのではないか?」という批判に対し、「ちゃんと自覚しているよ」と答えてみせたわけです。
     作中、暁美ほむらはある意味で非倫理的な、邪悪と云ってもいい行動に出ますが、それはあきらかな「悪」として描写されているため、視聴者は不安になりません。ここに倫理的問題は存在しない、悪は悪として描かれている、というふうに考えるのです。
     しかし、ある意味で、この映画そのものが単なるエクスキューズに過ぎなかった、蛇足である、という意見は成り立つでしょう(ペトロニウスさんあたりはこの立場に立つのかも)。
     なぜ、いちいち「倫理的いい訳」を用意しなければならないのか? 口うるさい視聴者から「より倫理的に正しい」と認めてもらうことがそんなに大切なのか? ぼくとしてはそう考えなくもない。
     近頃、その倫理的問題がクローズアップされた作品に、宮﨑駿監督の『風立ちぬ』があります。『風立ちぬ』は、 
  • ひとには「魂の格差」がある。

    2014-03-27 21:28  
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     羽海野チカ『3月のライオン』があい変わらず神がかって面白いです。中でも、第10巻に収録されることになるであろう主人公零くんの義母のエピソードは空恐ろしいような完成度でした。
     天才的な棋士であり、なおかつ常に努力を怠らない零くんの義理の母親になった女性の目を通して、「ひたすらに努力しつづけること」に憑かれた人間がいかに特別で、そうでない人間と違うものなのかが綴られています。
     その描写は、残酷です。そこで描かれているものは、「ひとは決して平等ではない」、「まったく同じ外的環境に置かれていてすら、志ある者とそうでない者の間では大きな差が生じてしまう」ということだからです。
     云ってしまえば、ひとには環境の格差以上の内面の格差、もっと云うなら「魂の格差」が存在しているということ。
     その非情な事実を正面から描いているという一点において、このエピソードは『3月のライオン』中の白眉というべき話になっていると思います。
     普段、この物語は、そういう「志ある者」たちだけに焦点を絞って描いているところがあるので、それはさほど特別なことのようには見えません。
     しかし、じっさいに「志なき者」を視野に入れ、かれらと比べてみると、零くんという少年は、ほとんどモンスターのように異質なのです。
     常に、耽溺するように努力しつづける少年と、現実から目をそらし、すべてを他人のせいにして、逃げまわる姉妹。その冷酷なまでの対比には、「魂の格差」というものがいかに大きく、しかも絶対的なものであるかが込められています。
     ひとには、そういうどうしようもない格差があらかじめ組み込まれているのだなあ、とため息をつかざるを得ません。それは環境の格差ではないことはもちろん、才能の格差ですらない。自分の存在そのもののクオリティの差なのです。
     どこまで真摯に自分を追い込み、不確定な可能性に賭けて人間の最大の資産である時間を蕩尽することができるか、というその能力の落差。
     もちろん、その格差も周辺環境に大きく依存するのだということはできる。「インセンティヴ・ディバイド」という言葉があるように、結局は優れた環境に置かれた者ほど高いモチベーションを持って努力することができるものなのであり、すべてが本人の責任ということはできないのだ、と。
     ですが、それなら、より酷烈な環境に置かれていたはずの零くんが逃げず、惑わず、ひたすら自分を鍛え上げ、自立していったことをどう説明するべきでしょう?
     かれよりよほど良い環境に置かれていたはずの義理の姉弟が、より安易な方向に逃れ、自分を偽って好きなように暮らしたことをどのようにいい訳すれば良いのでしょうか? 
     ひとはたしかに環境に影響され、外部要因に支配されるものです。ほんとうに酷烈な環境においては、十分に偉大な才能もついに芽を出すことはできないかもしれない。
     しかし、それでもなお、最後の最後には「すべて自分しだい」であることも事実なんですよね。すべてが「自己責任」であるはずはなくても、同時に何もかも「ほかのだれかが悪い」こともありえない。
     否――仮にそうだとしても、だからといって自分の人生を放棄してしまうわけには行かない。逃げれば、逃げたぶんだけ、ごまかせばごまかしたぶんだけ、「逃避の代償」や「怠惰の負債」が溜まってゆく。
     『3月のライオン』はそういうきびしい現実のなかで、それでも自分をきつく律し、信じがたいような「高み」を目指す人々を描いてゆきます。
     しかし、一方で、「そうでない人々」との「魂の格差」は実に巨大なものになっていくよりほかないのです。
     つくづく思うのは、おそらくはインターネットはそういう救われない人々の最期の救済の砦として機能するのだろうな、ということです。
     ネットでなら、 
  • 『3月のライオン』の零くんは絶対に見えないところでモテているはずだという仮説。

    2014-03-04 07:00  
    53pt
     ども。おひさ。海燕です。いきなりちょっと前の話になってしまいますが、いやー、先週号の『3月のライオン』は素晴らしかったですねえ。
     わずか1話にここまでの情報量を叩き込むことができるのか、と息を呑むような圧縮具合。往年の名作少女漫画を思わせるような圧倒的な密度で読ませてくれました。
     かれの義母の立場から零くんという少年の特異性を見事に浮かび上がらせています。将棋という修羅の道を歩むこの少年が、いかに一般人から隔絶した存在であるか。天才という業を背負った者の孤独と壮絶を、既に熟練と云える筆致で描写し切っていました。
     おそらく単行本10巻に収録される内容でしょう。未読の方は本が出た暁には読んでみてほしいものです。凄いから。
     それにしても、10巻に達してまだまだ終わる気配が見えないこの『3月のライオン』、どうやら前作『ハチミツとクローバー』以上に長い物語になりそうです。
     羽海野チカさん
  • とことん自分にガッカリしろ! 『3月のライオン』に見る万能感の地獄とその抜け出し方。(2855文字)

    2013-10-07 07:00  
    53pt




    【自分の大きさを知る】
     既に読まれた方はご存知でしょうが、『3月のライオン』最新刊に、臨時担任の教師が、そのクラスでいじめを先導した女子生徒に向かってこんなことを語る場面があります。

    「なあ高城… お前は多分今不安で不安でしょうがないんだな 何もやった事が無いからまだ自分の大きさすら解らねえ… ――不安の原因はソコだ お前が何にもがんばれないのは 自分の大きさを知って ガッカリするのがこわいからだ だが高城 ガッカリしても大丈夫だ 「自分の大きさ」が解ったら 「何をしたらいいか」がやっと解る 自分の事が解ってくれば 「やりたい事」もだんだんぼんやり見えてくる そうすれば… 今のその「ものすごい不安」からだけは 抜け出す事ができるよ 俺が保証する」

     この場面は印象深かったですね。
     ふだん物語がめちゃくちゃがんばっては壁にぶつかって「自分の大きさ」を思い知らされ、それでもまだ