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記事 4件
  • 『四月は君の嘘』の作家、新作はふたたびの女子サッカー漫画だ!

    2016-05-03 15:13  
    51pt
     『四月は君の嘘』の新川直司さんの新連載『さよなら私のクラマー』を雑誌で読みました。
     『四月は君の嘘』はなかなかの秀作でしたが、新作も順調に面白いです。
     「クラマー」というなぞの単語は、「日本サッカーの父」として知られるサッカー指導者で故人のデットマール・クラマーさんのことらしく、そう、今回はサッカーものです。それも女子サッカー。
     凡庸なチームのなかで、ひとり突出した才能を持つ少女周防すみれが、勝利できないままに中学時代を終え、高校に進学するところから始まります。
     あまりにも抜きんでた才能のため、チームメイトとうまくいかなかったすみれは、高校で始めて最良のチームメイトを得るものの、そのサッカー部は弱小で、しかも監督もやる気がなく――と、スポーツ漫画の王道ともいえる展開になっています。
     いや、さすがに面白いですね。
     一時期、『月マガ』もいまいちになってきたかな、と思っていたので
  • ぼくが『月マガ』を買う気になれない理由。

    2015-08-06 02:10  
    51pt


     先ほど、LINEで『月刊少年マガジン』は面白いけれど特に買う気がしないよねという話をしました。
     そうそう、そうなんですよね、「週刊」のほうの『マガジン』はまだ毎週買っているけれど(電子書籍で)、「月刊」の『マガジン』は特に購入インセンティヴを喚起されないのです。
     一作一作のクオリティは相当に高いと思うんだけれど、なぜだろう。
     ――いやまあ、考えてみるべくもなく理由はあきらかで、雑誌の雰囲気が古いんですよね。
     ひとつひとつの作品を見て行くと面白いんだけれど、一時代前の感性で描かれている作品が多い気がするんですよ。
     それでも『四月は君の嘘』が連載されていた頃はそれ目あてで読んだりしていたけれど、いまは雑誌として相当に古びてしまっている印象です。
     やっぱり「いま」の時代とシンクロしている作品を読みたいです。
     何が「いま」を表現しえているかという話はもちろん微妙なんですけれど、少なくとも何十年も前に始まった連載が「いま」を表しているということは少ないでしょう。
     まあ、これも一概にいえないのは、むかしむかしに始まった連載が表現のアップデートをくり返して立派に「いま」に通用する作品に仕上がっている例があること。
     とはいえ、『鉄拳チンミ』とか苦しいところではありますよね。頑張っているし、面白いんですけれどね。さすがに古い。
     ただ、その時代とシンクロしていることだけが唯一の価値かといえば当然そんなことはないわけで、普遍的に面白い作品というものもある。
     それでも、雑誌全体が時代と切り離されてしまうと、これは苦しいですね。
     やっぱり「いま最先端の、押さえておかないといけない漫画はこれだ!」といったものが一本でも載っているとそれだけで違う。
     『3月のライオン』のためだけに『ヤングアニマル』を買っているぼくがいうのだから間違いない。
     「いま」の時代の問題とシンクロしている漫画は、やっぱり「いま」読みたくなるわけで、雑誌の切り札となりえる。
     べつだん、『月刊少年マガジン』の悪口をいうつもりはないんだけれど、『月マガ』は特に「いま」、読まないといけないと思わせる作品は載っていないと思うんだよなあ。
     くり返しますが、一作一作のクオリティは悪くないんですけれどね。
     でも、『なんと孫六』の読み切りを読むために雑誌を買わないよなあ、と。
     まあ、やがては 
  • 百億光年の真空をこえて。『四月は君の嘘』最終回が本気で泣ける。

    2015-03-25 20:08  
    51pt


     物語の初めには仄かな予感がただよう。
     その作品が何を伝え、何を訴え、何をとどけようとしているのか、すべてが春風のようにさわやかに匂う。
     『四月は君の嘘』。
     不思議と印象的なタイトルのその作品の場合、初めから既に見事な完成を示していた。
     A boy meets a girl――使い古されたあたりまえの王道を、衒いなくなぞった冒頭には、そこから始まる展開を期待させて余りあるものがあった。
     そしていま、アニメ『四月は君の嘘』は完結を迎えた。
     何もかもが生き生きとした色彩に満ちて輝くその終幕を見ながら、ぼくはこの作品に出逢えた幸福を思った。
     じっさいのところ、最終回において絶頂を迎えるテレビアニメはほとんどない。
     しかし、この物語はその希少な例外のひとつとして長く記憶されることになるだろう。
     無限にひろがっていくかに見える世界の、そのあまりの美しさに、自然と涙がこぼれ落ちそうになる、これはそんなアニメーションだ。
     世界のすべてに生命が宿っている――そう信じられることの幸せ。
     ぼくはいったい何を目撃したのだろう。
     ステージのすべてを青空が覆い、はるかな遠くまで音が響いてゆく。その奇跡の演奏の目撃者となることで、ぼくは「至福」を目にしたのだと思う。
     想いがとどくという至福。
     ほんらい一方通行でしかありえないはずの感情が相互に伝わりあい、限りなく響きあってステージを満たすという、演奏家だけがしる至福。
     その瞬間、ピアノはただ楽器であることをやめ、ヴァイオリンは単に道具であることを超えて、かれと彼女の想いで空間を満たす。
     秀抜な才気と膨大な修練に裏付けられた演奏は、そのとき、時を超え空間を超えて、はるか高空にまで響きわたってゆく――シンフォニー。
     もう怯えはしない。
     もう座り込んでひとり悩み苦しみはしない。
     なぜなら、かれはもう、ひとりではないのだから。かれは出逢ってしまったのだから。その、運命の少女と。
     ――ほんとうに素晴らしいものを見せてもらった。恐ろしく力が入った最終回であった。
     未見の方にはこの最終回だけでもぜひ見てほしい。アニメーション表現の粋を尽くした出色の一話がここにある。
     漫画『四月は君の嘘』がアニメ化されると目にしたとき、正直、そこまで期待してはいなかった。
     音楽もののアニメにするためにはそれなりの障害がある。なぜなら、漫画でただ「素晴らしい演奏」として描けば済むものを、じっさいに聴かせてみせなければならないからだ。
     無音の漫画で表現可能なものを、自由に音を表現しうるはずのアニメーションでは表現できないという矛盾がそこにある。
     ある意味でアニメーションは漫画より不自由な一面があるということかもしれない。
     しかし、この感涙の最終回を見るとき、ぼくはどうやら自分がアニメーションをあなどっていたらしいことに気づく。
     アニメーションは音と映像の芸術。線と音でもって世界のすべてを表現しうるのである。
     この演奏シーンの美しさは多くのひとを感動させることだろう。それはこの世界そのものがもつ底しれない美であり、空間をわたって伝わりゆくひとの想いの美だ。
     この世界はなんて豊かにカラフルなのだろう。人間とは、なんと素晴らしく美しい存在なのだろうか。
     その神に選ばれた指先をなめらかにピアノへ滑らせながら、主人公はくり返す。
     届け。
     届け。
     届け――この想いよ、あの人のところまでに届け、と。
     そして、 
  • 紙が音楽を奏でるとき。『四月は君の嘘』のリズミカルな漫画表現が圧巻だ。(1937文字)

    2013-06-24 11:27  
    53pt




     紙は音を奏でない。むしろそれを吸い取るばかり。だから音楽を漫画で表現しようとすることは、それじたいひとつの冒険であり、挑戦だ。
     いま、その偉業に挑んでいる作品として、たとえば新川直司『四月は君の嘘』がある。
     主人公は天才ピアニストの少年。長いあいだピアノにふれない生活を送っていたかれは、あるひとりの少女との出逢いをきっかけに、ふたたび音楽の世界に足を踏みいれる。
     それは世界がカラフルに息づく体験。ひとつの想い、ひとつの恋が、世界すべてをあざやかに染め上げていく。その描写のなんという清新さだろう。
     新川が描きだす物語世界は、その隅々にいたる一々が瑞々しく、生気に充ちている。そしてまたこの漫画のコマの構成は 実にリズミカルとしかいいようがない。
     ひとつひとつの絵が、コマが、セリフが、それこそ音楽のように連なって流れてゆく快感。この圧巻のリズム感は、もちろん後天的な努力もあるには違いないが、やはり作家の天性としか思われない。
     『四月は君の嘘』。印象的なタイトルの物語だ。そしてその内容はタイトル以上にインパクトがある。女子サッカー漫画『さよならフットボール』に続くオリジナル長編第二作にして、新川は自分の世界を生み出すことに成功している。
     なんて独創。なんて斬新。あたかもサイレントミュージック、新川が紡ぎだす無音の音は、たしかに読む者の耳にとどき、心をふるわせる。紙は音を奏でないにもかかわらず、ここには紛れもなくミューズの祝福があるのだ。
     しかし、読むほどに唸らされるこれほどのスキルとオリジナリティにもかかわらず、『四月は君の嘘』にはどこか物足りないところがある。
     どこがどう悪いというわけではない。むしろこれほど優れた漫画は少ないと思われるのに、何かもうひとつ、欠けているものがあると感じさせられるのだ。
     いったいそれは何だろう? ぼくの単なるないものねだり、作品があまりに綺麗すぎるがための錯覚だろうか? そうかもしれないが、そうではないかもしれない。
     ぼくはこの作品を読んでいるとどうしても羽海野チカ『3月のライオン』と比べてしまう。そしてやはり『3月のライオン』は凄いなあ、と思うのだ。