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記事 3件
  • プレイヤー全員が「自分以外はバカ」と信じるゲームの滑稽さ。

    2015-08-31 01:29  
    51pt

     平坂読の代表作『僕は友達が少ない』、通称『はがない』の最終巻を読み終わりました。
     面白かった! ライトノベルの一時代を画した作品として迎えるべき終幕を迎えたように思います。ありがとう、ありがとう。
     シリーズ通して素晴らしく面白かったです。
     それにしても、Amazonレビューのあの酷評の山はなんなのだろうな。
     読んでいるとげんなりしてくるので途中で読むのをやめてしまったけれど、あれはさすがに不当な評価が多いのではないかと思う。
     いつも思うことだけれど、ネットでレビューを書く読者層ってほんとうに保守的。
     ほとんど冒険も実験も許さないように見える。
     もちろん、個々の意見としては素晴らしいものもいくらでもあるのだろうけれど、総体として見ると、やたらに保守的だなあという意見になりますね。
     まあ、一般の読者はこんなものなのかな……。
     平坂読さんは世間に認められづらい作風で実に可哀想です。
     だれにでも書けそうに見えるんだろうなあ。じっさいにはものすごい才能と修練の結晶なのだろうけれど。
     この「「このくらい自分にだって書ける」と思わせる小説がベストセラーになる」という事実は何十年か前に中島梓が『ベストセラーの構造』で指摘していまして、けだし慧眼だったな、といまにして思います。
     まあ、このレビュー群だけではなく、最近、ネットでひとの意見を読みつづけることに神経が耐えられなくなって来ているぼくがいるのですけれど。
     あるいは退歩なのかもしれませんが、読めば読むほどにげんなりしてしまうのですね。
     なんだか何もかもどうでもいいように思えて来てしまう。
     だれもが自分だけは正しいと考えて、他人の非を鳴らしてばかりいる。そんなふうに見える。
     いや、べつだんぼくひとり高みに立つつもりはなくて、ぼく自身が何かひとことでも言葉を口にした途端に、そのどうでもいい正当性の競争に巻き込まれているのです。
     うんざり。
     それではどうすればいいのかというと、結局、沈黙するしか方法はないのかもしれない。
     無言の者だけが賢者でありえる。何であれ口にした瞬間に、その言葉の成否を巡っていさかいが始まる。
     どうでもいいといえばどうでもいいが、どうにも疲労させられる話です。
     ほんとうに自由でありたいのなら、黙るしかないということ。
     うーん、憂鬱な結論だね。
     もちろん、そうだからといってぼくなどは黙り込むわけにもいかないので、自分の責任のとれる範囲内で発言していくつもりであります。
     しかし、自分のいっていることがすべてではないということはどうにか自覚しておきたい。
     これがじっさい、むずかしい。
     世の中には、たしかに間違いなく正しいと思えることがあって、そういうことですら意見は四分五裂する。
     そしてまた、どうしようもなく間違えていると思えていることもあるけれど、そういうことさえ正しいと主張する人がいる。
     1000人いれば、1000通りの意見があるのが現実。
     しかし、ぼくも含め、ひとはそれを単色に塗りなおさなければ気が済まない性質があるようです。
     ひとが何か間違えたこと(と、自分には思えること)を主張するのが気に食わない。
     原発を停止しつづけるべきなのは(あるいは、再稼働させるべきなのは)あきらかなのに、それがわからない人物の愚かさが気に入らない。
     それが有名人だったりするとなおさらいやになる。だから、その意見を否定して、世界を正常に戻してやらなければならない。
     そういうふうに信じて、どれだけの人が泥沼の論争にひき込まれていったことでしょう。
     何がいいたいかというと、もうネットで自分の意見の正当性を巡っていい争うのはやめようということなんですけれどね。
     自分は正しい、正しい、正しい、お前は間違えている、間違えている、間違えている。
     そんなことを繰り返しいいあって何になるというのか? 
  • 議論をすればするほど意見はダメになる。

    2015-08-16 04:44  
    51pt
     どもです。またか、と思われることと思いますが、ブログの名前を変えました。
     「いまどきエンタメ解剖講座」というタイトルで、いまどきのエンタメを解剖していきたいと思います。
     結局、「ハッピーエンド評論家」としてはなんら活動をしないで終わってしまったことになるわけで、これは失敗だったな、と思いますね。失敗だらけなのですけれど。
     もうひとつ、新しいパソコンはどうやら20日あたりに届くようです。
     3年保証込みで70000円程度の安いノートパソコンですが、それでもいま使っている機体と比べると格段に性能が良いはずなんですよね。
     ちなみにぶっ壊れたパソコンは4年前の3月11日、そう、東日本大震災の当日に購入したマシンだったりします。
     だからどうだというわけではありませんが、時が経ったなあ、と思わせられます。
     震災の傷はもとより消え去るはずもないにせよ、ひとつの機械が寿命を終えるだけの時間が流れたのだ、と。感傷ではありますが……。
     さて、きょうは「議論」の話をしたいと思います。「正義」の話といってもいい。
     インターネットを眺めていると、広く一般に、何か主張をする人が議論を避けることは悪いことだ、というコンセンサスがあるように思います。
     自分に正義があることをわかっているなら堂々と議論をすることができるはずだ、ということでしょう。
     なるほど、それは一理あると思います。理屈の上では。
     しかし、現実に目を向けてみると、議論をすることによって事態が改善したという例はほとんど見つけることができない気がするのです。
     議論をすればするほど何が正しいのかあきらかとなり、すべての真実がつまびらかとなって、現状の問題はことごとく解決する、というのはどうやら幻想に過ぎないのであって、ほとんどの議論はただ対立を深める役にしか立たないというのが事実ではないでしょうか。
     なぜそうなのか。
     それは、およそ議論と呼ばれるものはほとんど、自分の「正しさ」ばかりを主張して相手の「正しさ」を否定することに終始するからではないでしょうか。
     少なくともインターネットのレベルでは、議論と呼ばれているものは、いかに相手の主張に耳を傾けず、ひたすら自分の主張をくり返しつづけるか、その勝負という次元に留まっているように思います。
     結果として、議論をした論者は互いに自分の主張の正しさをさらに確信し、より強固な信念を抱くに至る。そしてその主張はより先鋭化することになるのです。
     これがぼくが「議論をすればするほど意見はダメになる」という理由です。
     そもそもその種の議論とは、ひたすらに「自分は正しい、正しいんだ」と主張しあうだけの言語的決闘であって、いささかならず品を欠くことは否めない。
     その種の決闘は、どうしたって一種の権力闘争の趣きを帯びます。
     したがって、初めは純然たるロジックで公正に「正しさ」を見極めるはずだった議論は、そのうち単なる口汚いののしりあいへと堕ちていくことになるのです。
     じっさい、ネットですばらしく白熱しながらなおかつ公正なまま進んでいく議論を見たことがあるという人は少ないでしょう。
     それくらい、議論はうまくいかないものなのです。
     もちろん、 
  • 「正しさ」はどこまで正しいか。ぼくが議論より対話を求める理由。

    2015-05-15 00:41  
    51pt
     需要のなさそうな記事シリーズ最新版である。
     さて、この世にはいろいろな主張があり、意見がある。
     そのなかにはほぼだれでも正しさを認めると思えるものもあれば、かなり突拍子もないものもある。
     ここで問題にしたいのは、前者の、大方の人に対してそれなりに説得力があると思われる「正しさ」のことだ。
     たとえば「ひとを差別してはいけない」といった主張は、どこからどう見ても正しいように見える。
     正しさ指数100%で、どんなに拡大していってもどこまでも無条件に正しさが続く。そんな気がする。
     少なくともこの現代社会に生きている人で「人間を差別するべし!」とする人はほとんどいないはずである(そのわりに差別自体はなくならないわけだが)。
     しかし、ほんとうに「差別反対」は純度100%の「どこまでも正しい」主張なのだろうか? ぼくにはそうは思えないのだ。
     「差別反対」が絶対的に正しいとすれば、この世にはいかなる差別もあるべきではないことになる。
     ぼくは人間にそんな社会が構築可能だとは思わない。
     やはりひとには好き嫌いがあるし、どこかで完全に公正ではいられないところもある。
     完璧に差別が撤廃された社会などとてもできるものではないだろう。
     仮にそういう社会が成立したとしても、相当に息苦しい社会であることも考えられる。
     やはり「ひとを差別してはならない」という「正しさ」も程度の問題だと思うわけだ。
     もちろん、だから「差別反対」と唱えることに意味がないことにはならない。
     「差別反対」はおおむねは正しい理屈なのだから、可能な限り大きな声で唱えるべきだろう。
     しかし、それには限界があることをわきまえておくべきではないか。
     それがどこにあるかはひとによって意見が違うところだろうが、「とりあえずあることはどこかにある」、「完全に無条件の正しさではありえない」と考えておくほうが、その逆の考え方をするより、ずっと安全だと思う。
     ほかにもたとえば「戦争をしてはいけない」とか、「子供をしいたげてはいけない」というのも、いかにも「どこまでも正しい」主張であるように見える。
     だが、人類史上すべての戦いはすべて絶対悪そのものであり、また、今後未来永劫すべての戦いは絶対悪でありつづける、となると、「ほんとうにそうか?」と思えて来る。
     また、「子供をしいたげてはいけない」のは当然だが、ほんの少し叱ってみせることも決して赦されないとなったら、害悪のほうが大きくなってくるかもしれない。
     これらのわりあいに「どこまでも正しい」ように思われる主張も結局は程度問題に過ぎない。
     何がいいたいのか。
     ようするに、「どんなに拡張していっても正しいままの正しさというものはないのではないか」、「どんな正しさもどこかに限界を抱えているのではないか」と問いたいのだ。
     「無条件の正しさ」は存在しないということ。
     いわゆる価値相対主義か、と思われる読者もおられるかもしれないが、必ずしもそうではない。
     たとえば、3歳の子供が親に殴り殺されたといった場合、それは99.9%、その親が悪いに決まっている。
     「親に責任があるとも子供に責任があるともいい切れない」などという玉虫色のいい草はいかにも胡散臭い。そんなわけがないだろう、とぼくも思う。
     しかし、だ。