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記事 8件
  • 夏コミで本を出すよ! 買ってね!

    2019-06-27 05:50  
    51pt
     どもです。おひさしぶりです。しばらくブログも更新しないで何をしていたのかというと、ひたすら自分とサークルの同人誌の作業をやっていました。この一週間で本一冊分の原稿を書いたと思います(笑)。
     自分のほうの同人誌のタイトルは「栗本薫カレイドスコープ」になる予定です。これがね、自分で読む限りではめちゃくちゃ面白い。でも、はたして人が読んで面白いのかどうかは何ともいえない。
     普段のブログと比べて相当に気合いの入った(いい換えるなら堅苦しい)文章になっておりますので、栗本薫に興味のある方も、ない方も、ぜひご購入いただければと思います。面白いよ! と思うよ。ぼくはね……。
     まあ、この本の目標は第一に栗本薫作品の文学的価値を再評価することなのですが、第二は本単体として面白く読めるものにすることだったりします。で、その目標はたぶん達成できたんじゃないかと思うんですね。
     およそ120くらいのキーワ
  • 夏コミで『栗本薫ハンドブック』を出す(つもりで頑張る予定だ)よ!

    2019-06-16 23:27  
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     先ほど、夏コミで何か気楽な薄い本を出したいなー、でもエッチなマンガとか描ける才能はないしどうしよう、ということでLINEに巣くっている妖怪のてれびんに話しかけてみたところ、「栗本薫のハンドブックとか作ったらいいんじゃね?」といわれたので、「それは奥の手じゃろ」と思いつつ、ちょっと作ってみることにしようかと思いました。
     もちろん、ほんとの本気で究極の一冊を作ろうと思うと、たぶんとてもではないが夏コミには間に合わないと思うので、まあ、今回は「初心者向けの入門編」という位置づけの本を制作しようかと。
     つまり、栗本作品を一冊も読んでいないけれど興味はある、というような方に向けた内容です。ネタバレありきの分厚い批評本はいずれペトロニウスさんといっしょに作ったりするんじゃないでしょうか。たぶんね。
     まあ、そういうわけで、仮題『栗本薫ハンドブック(入門編)』を夏コミで売りたいなあと考えています。
  • 「海燕の実験小説講義」とか、聴きたい人います?

    2019-06-16 14:37  
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     まだ未決定&未発表ですが、今年の夏もペトロニウスさん、LDさんといっしょに〈アズキアライアカデミア〉のオフ会を開こうかと考えています。
     で、過去二回と同じく何か講演を行うことになると思うのですが、毎回、内容でLDさんに負けるのもくやしいので、今回はちょっと力を入れてやろうかと思っています。
     で、テーマは何にしたものかと思案したのですが、ぼくが好きな実験文学の話をしようかなと考えました。ほんとうはオタク系統の話をしたほうが良いのかもしれませんが、それはまあ、LDさんがやるだろうから、ぼくは「この世にはこんな奇妙な小説があるんだよ!」という話をしようかなと。
     ただ、あまり需要がないようだったらべつの話にしたほうが良いかもしれないとも思っています。どうでしょう? 以下のような小説について知りたいという方はいらっしゃるでしょうか?

    ・泡坂妻夫『生者と死者』(袋とじを開けるか閉じるかで内容が変わる)
    ・竹本健司『匣の中の失楽』(連続する作中作)
    ・黒田夏子『abさんご』(固有名詞のない小説)
    ・円上塔『文字禍』(るびの冒険)
    ・古川日出男『アラビアの夜の種族』(架空の物語が現実を侵犯する)
    ・ミロラド・パヴィチ『ハザール事典』(事典の形をした小説)
    ・スタニスワフ・レム『完全な真空』(架空の作品の書評集)
    ・イタロ・カルヴィーノ『見えない都市』(55の架空都市)
    ・レイモン・クノー『文体実験』(99通りの文体)
    ・レイナルド・アレナス『めくるめく世界』(一人称、二人称、三人称が混在)
    ・レオ・レオーニ『平行植物』(平行世界の植物図鑑)
    ・ウラジミール・ナボコフ『淡い焔』(999行の詩とその注釈)
    ・ルイス・キャロル『鏡の国のアリス』(子供のための実験文学)
    ・ロレンス・スターン『トリストラム・シャンディ』(遊びとしての小説)
    ・ジェイムズ・ジョイス『フィネガンズ・ウェイク』(文体実験の極北)
    ・ニコルソン・ベイカー『中二階』(ひきのばされる時間)
    ・バルガス=リョサ『フリアとシナリオライター』(もし作家が発狂したら?)
    ・ルネ・ドーマル『類推の山』(架空の山を目指す)
    ・ジェイムズ・エルロイ『ホワイト・ジャズ』(崩壊する文体)
    ・アラン・ライトマン『アインシュタインの夢』(さまざまな時間の流れ方)

     まあ、このすべてを紹介するのは時間的に無理でしょうけれど、だいたいこんな作品について話をしようかと思っているということです。
     たぶん、「袋とじを開けるか閉じるかで内容が変わる」とかいってもわけがわからないと思うんですけれど(笑)、ほんとうにそうとしかいえないんですよ。
     これはちょっと小説の形をしたびっくり箱というか、良くもまあこんな小説を考えてなおかつ実践したなあと驚かされる、翻訳不可能、日本人しか楽しめない一冊です。
     同じシリーズに『しあわせの書』というのもあって、こちらもとんでもない仕掛けがほどこされた作品なのですが、ネタバレが絡むので話ができません。
     あとまあ、『ハザール事典』とか、架空の民族、国家に関する事典なんですよね。何しろ事典なのでどこから読むのも自由という、もはや小説なのか何なのかよくわからない本です。
     「実験小説の帝王」カルヴィーノの本のなかからはいちばん好きな『見えない都市』を選びました。ひたすら架空の幻想的な都市が叙述されるという、物語も何もない小説です。
     物語も何もないのですが、そこら辺の凡庸な物語と比べたら遥かに美しい。ぼくにとって理想の小説のひとつですね。素晴らしすぎ。
     あと、ナボコフの『淡い焔』。これは最近出た新訳のほうですね。999行に及ぶ架空の詩人の詩と、その注釈という形式の作品です。実験にもほどがあるだろうって感じですね。普通の意味では小説とはいえないと思います。
     それからまあ、お約束の『フィネガンズ・ウェイク』とか。文体が完全に崩壊しているというか、言語を解体してしまった作品です。書くほうも書くほうですが、良くもまあ訳したものだと思います。いや、意味はわからないんですけれどね。
     ことほどさように文学とは「何でもあり」、自由な精神の発露に他ならないのです。ぼくはとても面白いと思うのだけれど、オタク文化とは限りなく乖離しているので、はたして聞きたいという需要があるものなのかどうかさっぱりわかりません。
     うーん。どうしよ。しばらく悩みたいと思います。 
  • もしサノスの主張が「正義」なら、そのとき、アベンジャーズはどうしたのか?

    2019-06-14 15:57  
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     先日、見に行った映画『プロメア』のことを考えています。この映画、『天元突破グレンラガン』のスタッフによって制作されているのですが、ある意味、『グレンラガン』から「一歩も先に進んでいない」といえるところがあって、そこら辺が賛否両論を生んでいるようです。
     具体的にどういうことかというと、この作品の悪役(ヴィラン)であり、「ラスボス」であるところのクレイ・フォーサイトの主張(「悪の理論」)に対し、主人公たちの主張(「正義の理論」)が弱いのではないか、という話があるのですね。
     作中、クレイは滅亡に瀕した人類を救うためという理由で自分が選んだわずかな人たちとともに地球を脱出しようとするのですが、そのために新人類バーニッシュを犠牲にします。これは、ある意味でわかりやすい「悪」ではあるといえるでしょう。
     ですが、もしもクレイがほんとうに正義からこのやり方を選んでいたとしたら? そして、また、このクレイのやり方以外に人類を救う方法がないとしたら? そのとき、主人公たちはクレイを純粋な「悪」として告発することができるでしょうか?
     実際には、クレイには私心から行動しているという瑕疵があり、また人類が滅亡に瀕しているという問題には未発見の解決策がある。だから、クレイを「悪」として告発することには意味がある。
     しかし、もしクレイにそのようなエゴがなく、また、解決策が存在しなかったらどうでしょうか? そのとき、クレイを告発する理由は存在しなくなってしまうでしょう。これがつまり、『物語の物語』のなかでぼくたちが延々と話している「天使」の問題です。
     「天使」とはつまり、「倫理的に隙のない絶対善としてのラスボス」のことなのです。
     倫理的に隙のないラスボスを正義の名のもとに告発することはできません。クレイのように私心(エゴイズム)から行動していたり、あるいは人類と世界を救う方法が他になる場合は、ある意味で主人公にとって都合が良いといえるでしょう。
     そのときは彼の「悪の理論」を高らかに論破し、「おまえのいうことは間違えている!」と叫んで殴り飛ばしてしまえばいい。それで主人公は正義のヒーローとしての立場を守ることができます。
     問題なのは、ラスボスが語る悪の行動を正当化する理論がほんとうに正当だった場合です。たとえば、ほんとうにバーニッシュを利用すること以外に人類を救う方法がないとしたら? そのとき、ヒーローは倫理的な窮地に追い込まれることになるでしょう。
     いくら「おまえは間違えている!」と叫んでみても、説得力がないことはなはだしい。あるいは「正義」はほんとうに相手にあるかもしれないのですから。
     実は同じことが『アベンジャーズ/エンドゲーム』に対してもいえます。『エンドゲーム』のラスボスであるサノスは、宇宙の人口問題を解決するため、宇宙全体の人口を半分にしてしまうという目的を持って行動しています。
     その際にアベンジャーズと対立するわけですが、はたしてかれの行動はほんとうに間違えているといえるのでしょうか? 作中では、その問題はあいまいに処理されてしまった感があります。
     もちろん、作中ではサノスの主張の根拠はあいまいで、また、サノスはエゴを払拭しきれていない。そして、最後の最後では「わかりやすい悪役」に堕ちてしまう。
     つまり、サノスは「天使=倫理的に隙のないラスボス」ではなく「ヴィラン=倫理的に隙のあるラスボス」であるに過ぎなかったことになる。だからこそ、キャプテン・アメリカやアイアンマンの「正義」は相対的に保証されることにもなる。
     ですが、もしサノスに一切のエゴイズムがなく、またサノスの計画以外に問題を解決する方策がないとしたら? そのとき、やはり「天使」の問題が浮上することになってしまうでしょう。つまり、アベンジャーズはサノスに対する相対的な正義を主張することができなくなってしまうわけです。
     『エンドゲーム』は『プロメア』と同じく、サノスを「ヴィラン」の次元に留めることによって、この問題をごまかし、回避したように思えます。
     ですが、べつだん、それによってサノスの掲げた問題が解決したわけではありません。もしかしたら、サノスによって救われた人もいたかもしれないし、サノスのやり方のほうが正しかったかもしれないのです。ぼくはやはりそこに物足りなさを感じてしまう。
     ただ、『エンドゲーム』の圧倒的な好評を見る限り、そのような問題について真剣に考える人は少ないのかもしれません。そこにどのようなごまかしがあるとしても、大半の人は「天使」以前の物語、主観的な「正義」が主観的な「悪」を暴力で倒しておしまいという物語で満足なのかも。
     しかし、ほんとうにそうなのでしょうか? そういう意味では、これから先の『アベンジャーズ』と、ハリウッド映画の展開が楽しみです。はたしてハリウッドに「天使」は降臨するのか? 皆さんもお楽しみになさってください。
     では。 
  • 幻想文学を読んでみよう。

    2019-06-08 09:44  
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     このあいだ偶然見つけたギョルゲ・ササルマン『方形の円 偽説・都市生成論』という本が気になっています。今月20日の発売なのだけれど、

    「いくつかの想像上の都市の短い叙述で本を一冊作るというアイデア。その中に5000年の都市史の偉大と悲劇を圧縮する」――ルーマニアの鬼才が描き出す、「憧憬市(アラパバード)」「学芸市(ムセーウム)」「憂愁市(シヌルビア)」ほか36の架空都市の創造と崩壊の歴史。カルヴィーノ『見えない都市』に比肩する超現実的幻想小説集。アーシュラ・K・ル=グィンによる英語版序文を併載。

     って、これ、絶対に面白いでしょ。カルヴィーノの『見えない都市』大好き! 幻想文学好きの血がたぎる。出たら読もうっと。
     「架空都市の創造と崩壊」といわれると山尾悠子が思い浮かぶところですが、そういえば昔、「架空幻想都市」というタイトルのアンソロジーがあったなあと思いだしたりもします。おお、旧き懐かしき日々よ。
     幻想文学というジャンルは、あるいは文学全体のなかでは傍流と見られるものかもしれませんが、ぼくは決してそんなことはないと思っています。むしろ、リアリズム文学のほうが文学全体から見れば小さな領域に過ぎないでしょう。
     まあ、何をして幻想文学と見るかにもよりますが、文学において「現実」とはひっきょう、そのように見える蜃気楼のひとつの形ということに過ぎません。そういうわけで、ぼくは幻想文学好きです。
     といいつつ、たくさんの本が積読になっているのですが。ジェフリー・フォードの短編集『言葉人形』とか、ミロラド・パヴィチ『ハザール事典』、あるいは倉数茂の『名もなき王国』、めちゃくちゃ面白そうと思いながら積んでいる本がいっぱい。
     SFでも、ミステリでも読んでいない本がたくさんあるからしかたないのですが、とりあえず名作が確定している本は読んでおかないといけないとは思っています。どうしても軽い小説から手を出してしまうのだけれど、この癖は何とかしなければ。
     もしかしたら文学というとただそれだけで陰気で堅苦しい作品を想像される方もいらっしゃるかもしれませんが、それは誤解です。その種の思い込みは、たぶん、日本の私小説のイメージから来ているのでしょう。世界文学はもっと自由で豊穣です。
     そう、自由! それこそが文学の本質だと思います。あたりまえの日常から敢然と離陸し、想像力の翅で言葉の空を翔びつづけること。その愉楽。
     あるいは怪奇な、あるいは耽美な小説世界に入り込み、ひたすら頁をめくり読み耽ることの悦楽はやはり何ものにも代えがたいものがあります。
     文学って基本的に「何でもあり」なんですよ。SFやミステリといったジャンルフィクションがある種の規格で自らを縛るところから始まっているのに対し、文学はほんとうに何をやってもいい、どんな荒唐無稽な実験、ばかばかしいスラップスティックも許される。そこが文学の良いところですね。
     そこにはたしかにそこには底なしの闇黒も、陰惨きわまりない邪悪もあるのだけれど、その一方でほんものの自由がある。
     あるいは文学を読みなれない人が前衛的な作品を読むと、「まったく意味がわからない」ということになるかもしれませんが、ほんとうは「意味」なんてどうでもいいんです。
     大切なのは、その作家のイマジネイションに感電すること。果てしなく続く言葉の森で陶然と迷うこと。よく迷宮に喩えられる小説がありますが、じっさい、小説を読んでいていちばん愉しいのはほんとうに果てしなくすら思える長大な作品で迷っているときです。
     いつまでも読み続けていたいと願いながら、一頁、また一頁とめくっていく歓びを知っている人は幸せでしょう。
     だいたい、小説にかぎらず、「意味」がなければないほど面白い。「意味」とはしばしばそこから何かしら利益を得ようとする貧しい心が生み出す価値に過ぎないからです。
     小説を何かしらのイデオロギーで測ろうとする人がいますが、ぼくはそういうの、嫌いですね。政治的に正しかろうが何だろうが、面白くないものは面白くないし、その反対もある。文学の歓びはそこにはない。
     そもそも、文学を社会に還元して役立てようなどと考える人、そのような文学にしか価値を見出さない人は、たいして小説を好きじゃないんですよ。そういう人はつまり、社会と現実がいちばん好きなわけだから。
     幻想の森で渉猟することそのものに価値を見いだす人間にとって、文学はそれじたいが価値なのです。
     ただ、おそらくそういう人たちは現実社会を生きる人間としてはなかば不適格であるかもしれません。社会における雑事が最も大切だという価値を信じ切れないところがあるからです。
     しかし、どちらが幸福かというと、それはわからないですよね。少なくとも、ぼくは自分は幸せだと思っています。
     うーむ、『方形の円』は未発売なので、とりあえず、『言葉人形』を読むかな。ふたたび、また、神秘の森へ。 
  • 安全保障のジレンマ。なぜ、外交だけで平和を維持することはできないのか?

    2019-06-08 04:16  
    51pt
     この頃、「無能な味方」問題について考えています。何かしら集団で運動しようとするとき、問題のある言動や行動を行う「無能な味方」にどう対処するかということです。
     個人的には、この「無能な味方」に対し、「そうはいっても味方だから」と甘い顔をすると運動は腐敗すると思う。
     フェミニズムがその典型ですよね。あからさまに問題があるツイフェミを放置したことによって、運動そのものが大きな反感を買うことになった。
     「敵か味方か」という党派性でしか物事の是非を判断できない人にとっては「問題行動を起こしていても味方は味方、その味方を批判する者は敵」ということになるのだろうけれど、「無能な味方」をかばいつづければその運動に自浄能力がないとみなされることは当然です。
     逆に「敵」に対するフェアネスも必要になると思っていて、たとえば安倍政権を打倒しようと思うなら、だれよりも安倍首相その人に対してフェアでなければならないのです。
     これはもちろん、甘い態度を取ることとは違う。批判するならするで、論理的に不正な批判は行わないということ。
     安倍政権だろうがトランプ政権だろうが、あいつは邪悪な「敵」だから手段を択ばず攻撃してやる、というのでは、しょせん多数派の支持は得られません。
     F35の問題などもそうですが、だれかを批判する目的で客観的なファクトをねじ曲げ始めるとその思想や運動はどこまでも堕落する。
     「安倍がギャンブル運営で年金15兆円を溶かした」などと非常に週刊誌的で煽情的な表現を使って安倍批判をあおる人もいますが、これはまったく事実と異なるし、そういうことをいっている人はどこまでも内輪の支持で終わります。
     そういう意味では、世の中、意外とまともなものなんですよね。このままではTwitterで感情的に吹き上がって「安倍政権を打倒できないのは日本人がバカだからだ」などといっている人たちはいつまで経っても政権を打倒できないでしょう。
     本気で批判するつもりなら、どこまでもフェアに批判しなければならないし、また、その余地は十分にあるのに、現実を見ず、脊髄反射的に情緒を爆発させる人たちは非常に残念です。
     政治は、田中芳樹の『アルスラーン戦記』にあったように、「理想の火を掲げて現実の道を行く」ものでなければならないと思います。
     理想主義はけっこうですが、現実を無視することは許されない。逆にリアリズムの名のもと、理想を無視し始めても退廃する。そこら辺のバランスはむずかしいなあと思います。
     たとえば、日本は軍事力を使わず外交で平和を勝ち取るべきだ、という人たちがいます。ぼくももちろん、それができれば最善だと思います。
     しかし、リアリズムの観点に立つと外交努力だけで平和を維持することは、不可能ではないにしろ、限りなくむずかしい。「話せばわかる」というわけにはいかないのです。
     ローマの軍事理論家であるヴェゲティウスの「汝平和を欲さば、戦への備えをせよ」という言葉がいまに伝わっていますが、現実にはバランス・オブ・パワーが崩れるとき、平和もまた崩壊する場合が多い。平和のためにこそ軍事力が必要とされる一面があるわけです。
     ただ、それならどんどん防衛予算を増やしていけばそれだけで平和が維持できるかというと、当然、そういうわけにもいかない。防衛のための戦力は侵略にも使えるわけで、あまり軍事力を増強させつづけると周辺諸国の不信感をおあることになります。
     現代日本に周辺諸国への侵略の意図はないとは思いますが、諸外国から見てどう見えるかということはまたべつで、安全保障を求めて軍事力を増せばますほど、緊張は高まっていくかもしれないわけです。
     安全を求めれば求めるほど平和が遠ざかっていくという矛盾。この問題は平和学や政治学の世界では「安全保障のジレンマ」と呼ばれています。
     具体的な例としては、よく第一次世界大戦が挙げられるようです。第一次世界大戦は、当時、関係国のどこひとつとして戦争を望んでいなかったにもかかわらず、相互の不信が不信を呼んだ挙句、一本のマッチが大爆発をひき起こして開戦につながってしまった戦争だと見られているからです。
     このように、べつだん、国家やその指導者が血に飢えた狼ではないとしても、戦争は起こってしまうことがある。
     人類が戦争を克服できないのは、アニメでよくいわれるように人間がどうしようもなく愚かな生きものだからではなく、国どうしが互いに互いを信用できないからなんですね。
     ちなみに、この相互不信の問題は個人と個人のあいだにもあります。だから、国家が個々人の上に立って安全を保障する必要がある。そうでなければ、ホッブズが描いたように「万人の万人のための闘争」が起こるでしょう。
     しかし、現状で国家より上に立つ機関は存在しませんから、いまのところは国際平和はバランス・オブ・パワーに頼るしかない。SFでよくある「地球連邦」などが成立したらまたべつかもしれませんが……。
     ただ、それなら、このジレンマの克服は不可能なのかといえば、完全な克服はおそらくむずかしいものの、理論的には一定の緩和は可能だと考えられていますし、実際に緩和されているように見える例も存在します。
     互いに一切の軍備を放棄して完全な平和を実現することは困難だとしても、隣国間の緊張関係を解くことはできるということです。
     たとえば、ヨーロッパ諸国どうしとか、アメリカとカナダとか、あるいは日米は現状で互いに戦争を想定しなければならないような緊張関係にはありませんよね?
     同じ隣国どうしであっても、韓国と北朝鮮とか、インドとパキスタンといった例とはまったく違う。これはどこが違うかというと、互いに「まさか戦争を起こしたりしないだろう」と相手を信じることができるということ、つまり相互に信頼が存在している点が異なっているわけです。
     安全保障のジレンマとは相手を信じられないから軍備を強化するしかないという問題ですから、理屈のうえでは信頼関係を醸成すれば克服できる。
     そのためにこそソフトパワー(文化や政策の力)は必要になる。ただ、それだけではなかなか平和構築はむずかしいということも理解していてしかるべきだと思うし、じっさいに大半の人は理解していると思うのです。
     Twitterを見ると「軍事力なんていらない」みたいな極論をいう人も多いんですけれどね。それは声が大きい人が目立つだけだと思っています。
     声の大きい人たちはよく極論で対立をあおるけれど、そういう、エクスクラメーションマークを付けないと話ができないような人たちこそが戦争をひき起こすとぼくは思っています。
     自分の思いこみにもとづいて好き勝手に他者にレッテルを貼り、情緒的な正義感を暴走させ、敵か味方かといった対立構造でしかものを見ない。そういう人たちは、自分では平和を求めていると主張しますが、あきらかに好戦的です。
     ほんとうに平和を求めるなら感情的になってはいけないのです。「不正に対する正義の怒り」はたとえばフランス革命の原動力になったかもしれませんが、その革命で200万人が死亡しました。
     「もっと怒れ」などと感情をあおる人には注意が必要です。「正義の怒り」はたしかに人を行動的にさせるかもしれませんが、一方で盲目にしてしまうこともたしかです。
     先ほどの「戦闘機の爆買い」や「年金財政崩壊」に憤激する人たちもそうですが、自分では社会正義のために怒っているつもりで、いつのまにか視野が狭くなっていることは往々にしてある。
     社会の維持のために正義は必要ですが、感情的に暴走しさえすればうまくいくというほど世界は甘くないのです。
     あるいはなぜ感情的になってはいけないのか、と思われるかもしれません。正義のため怒りをたぎらせ、それを行動につなげることが「世直し」のためには必要なのではないか、と。
     それは一面の事実ではあるかもしれませんが、人間は感情に行動を任せるとしばしば判断を誤るものです。
     そもそも普段でも人間の行動には感情にもとづいたバイアスがかかっていて、純粋に論理的に動いているわけではない。これは社会心理学や行動経済学の世界では広く知られた事実です。
     たとえば、一般に人間は「名前と顔のある個人」については強い関心を抱きますが、「無数の名もなき人々」に対しては冷淡です。
     具体的にかわいそうな個人がいればその人のために感情を昂らせるけれど、それが十人、百人、十万人となると、とたんに冷たい態度しか取れなくなったりするのです。
     これは実験によってあきらかになっているファクトであり、かのスターリンはこのことを「ひとりの死は悲劇だ。しかし、百万人の死は統計に過ぎない」と的確、かつ冷酷に表現しました。
     じっさい、そうだろうと思います。理屈で考えるなら百万人の死はひとりの死の百万倍の悲劇であるわけですが、ぼくたちはなかなかそういうふうには認識できない。
     理屈ではそういうことだとわかっていても、たとえば遠いアフリカの紛争や虐殺事件に深い関心を抱くことはなかなか困難です。
     その一方で可愛い犬がみぞにはまって動けなくなったといったニュースには強い興味を抱いたりする。人間はそういう感情の生きものなのです。
     ですが、まさにそうであるからこそ、感情に支配されるのではなく、感情を支配しようと努力するべきなのではないでしょうか。
     ポール・ブルームの『反共感論』という本があるのですが、「共感」という感情にもとづく行動は、べつの見方をするなら差別的です。そのような感情に支配されることは危険だ。
     「心からかわいそうだと思える人たち」のためには動けても、「とても同情には値しないとしか思えない人たち」のためには動けないことになる。
     だからこそ、ぼくはあくまで理性にもとづいて行動するべきだと思うのです。少なくとも、そのようにあろうとするべきかと。
     「特定の個人やある集団に寄り添わない」理性による判断は、あるいは冷たいものと見えるかもしれません。
     しかし、「弱者に優しい」共感の政治がしょせんは「かわいそうに思える人たち」をひいきする差別的な行動でしかありえないのに対し、理性による判断は可能な限りフェアであろうとします。
     ぼくはそのほうがまともだと思う。だれよりも感情的な人間であるからこそ、そう考えるのです。
     おわり。 
  • 福島県産食品に関する統計なんてあてにならないと考える人へ。

    2019-06-05 05:30  
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     Twitterで室井佑月さんのツイートを追いかけています。雑誌やテレビ番組などでさまざまに活躍しておられる方ですが、Twitterでは福島県の食品に関する持論を繰り広げて大きな批判を受けています。
     ぼくの目から見ても、かなりトンデモに片足を突っ込んでいるように映るのですが、いまのところ、どんなに批判を受けてもまったくその信念に揺らぎはないようです。
     で、その室井さんのツイートのなかでも興味深かったのがこれ。

    国が出す数字もあてにならないんだから、そのほかの自治体が出す数字も、ってならない? だから、そういうことを怒らなくてはいけないと思わない?https://twitter.com/YuzukiMuroi/status/1135542752496631808

     この「国が出す数字もあてにならない」はおそらく昨年発覚した統計不正問題のことを指しているのでしょう。今回はちょっとこの話をしようと思います。
     いや、ぼくはべつだん政治評論家ではありませんから、あまり政治関連の記事を続けるのもどうかとも思うのですが、まあ、このブログはぼくが興味があることを不連続に提示していく趣旨だから良いとしましょう。
     さて、皆さんご存知のこととは思いますが、2018年、厚生労働省による統計の不正が報道されました。
     政府発表の統計情報が間違えていたわけですから、これは大問題であるわけですが、今回の論点はこれを指して「国が出す数字もあてにならない」といえるのかどうか、そして「そのほかの自治体が出す数字も」あてにならないといえるのか、さらにいうと室井さんが主張しているように福島県の食品の安全性に関連する統計は間違えている可能性があるのかということです。ひとつずつ考えていきましょう。
     まず、厚生労働省による統計不正問題とはどのような問題であったか。きちんとニュースを読んでいればわかることですし、また、ちょっとググってもらえばわかるとも思うのですが、簡単にいうと、以下の二点が挙げられます。
     ただ、例によってぼくのしろうと判断なので、どこか間違えているところがあったらご指摘ください。

    ①2004年から2017年にかけて、東京都の毎月勤労統計において、「全数調査」をすべきところを「一部抽出調査」を行っていた。
    ②2018年に、その都内の数字を全数調査に近づけるための復元処理を行ったが、その事実を公表しなかった。

     このことはくわしくは厚労省のサイトで情報が公開されています。
    https://www.mhlw.go.jp/content/10700000/000467631.pdf
     つまり、十数年にわたってちゃんとしたやり方で統計を取るべきところを簡易的なやり方で済ませ、さらにその数字を正しいものに近づけようとしたことも操作したことも公表しなかった、ということですね。
     繰り返しますが、個人的には、これは政府統計への信頼感を揺るがす大問題だと考えています。ぼくたち民間人は基本的に国が出すこの種の数字を信用して判断しているわけですから、それが誤っていたとなるとあらゆる判断が狂ってきます。
     さらに、そこにアベノミクス(どうでもいいけれど、このネーミング、最低だよな)の成果を偽装しようとする政府関係者の意向が関わっていたのではないかという疑惑が加わって、この問題は安倍政権にとっての汚点のひとつとなりました。
     しかし、それでは、この問題の存在をもって「国が出す数字もあてにならない」といえるのでしょうか?
     まあ、実際に「国が出す数字」が間違えていたのは客観的事実であるわけですから、これは一理あると思います。しかし、ひとつ間違いがあったからといって、「国が出す数字」全般が間違えていると考えるべきかというと、ぼくは否定的です。
     ごくあたりまえのことですが、「国が出す数字」の大半はかなり正確なものであるはずです。もちろん、そこには算出方法などにもとづくさまざまな問題があり、単純に無条件に正しいものと考えるべきではありませんが、数ある数字のひとつが間違えていたからといって統計をまったく信じないというのは行き過ぎでしょう。
     逆説的ないい方になりますが、ひとつが間違えていただけでも大問題になっているわけですし、さらにいうなら、そのひとつも指摘があって発覚したわけです。
     そもそも、常識的に考えて統計の数字を大きくいじれば最終的にはどこかでつじつまが合わなくなってくるはずですから、まさに今回の例のように、だれかが気づいて指摘します。
     そして、日本には「統計法」が存在しますから、指摘されたら関係者は罰則を受ける可能性があります。それほど簡単に意図して数字をいじることはできないのです。
     いや、そうはいっても、この不正には安倍政権の意向が関わっていたんじゃないか、少なくとも何かしらの忖度があったんじゃないか、とおっしゃる方もいらっしゃるでしょう。
     ですが、①の抽出方法の不正に関しては2004年からのことですから、現政権だけの問題とはいえません。②の数字の復元処理は、もしかしたら政権の意向が関わっていたといえるかもしれませんし、野党はその方向で政権を批判しているようですが、おそらくその可能性はそれほど高くないでしょう。
     この統計不正は単純にアベノミクスの結果をより良く見せているとはいえないし、その上、結果としては政権の足をひっぱっているからです。
     「アベがアベノミクスの成果を良く見せるために数字を偽装したに違いない」というのはいかにも陰謀論的な見方です。
     そういう可能性がまったくないとはいえませんが、問題の発端が2004年であることを考えると、この問題はむしろ、国の統計に関わる人材の質的、量的な不足の問題と見ることが妥当かと思います。
     たぶん単純に人が足りないんじゃないかな。それこそしろうと判断なのであまり迂闊なことはいえませんが。
     さて、これが「国が出す数字もあてにならない」ということです。必ずしも単純に「あてにならない」とはいえないし、まして政権が思うままに数字を操っているなどということは相当に考えがたいということはおわかりいただけたのではないでしょうか。
     で、それならここから敷衍して、「そのほかの自治体が出す数字も」あてにならないといえるかというと、やはりぼくは否定的です。
     もちろん、「国が出す数字」と同様、それらの数字が完全に正確なものであるとは限りませんが、まったくあてにならないということはないでしょう。
     さらにいうなら、福島県の食品の安全性に関する数字は、その気になればだれでも検証できる性質のものであり、国連や民間団体による調査も存在します。それが政権の意向により操作されていると見るのは、あまりに非現実的かつ陰謀論的な発想です。
     たしかに、政府や自治体が発表する情報に対して懐疑的態度を崩さないことは大切なことでしょう。権威の発表だからといって鵜呑みにすることは間違えている。
     しかし、「ある情報を鵜呑みにしないこと」と「怪しいと決めつけること」は本質的に異なります。
     国連を初めとする複数の機関による調査がそろって問題ないことを示しており、さらにいうならしろうとでもいくらでも調査が可能な数字を根拠もなく信用できないと決めつけることはやはり非合理的な態度だと考えます。
     たしかに「アベが政権の維持のために手をまわしてすべての数字を操っている」といった可能性は皆無とはいえないでしょう。ですが、このような発想は陰謀論そのもの。ユダヤ人が裏から世界を操っているという意見と何ら変わりません。
     陰謀論について考えるとき、むずかしいのは、実際にこの社会には大小さまざまな陰謀が存在しているので、大規模な陰謀の可能性を論理によって完全に否定することはできないことです。
     白か黒か、純白か漆黒か、という話はできない。だから、考えるべきなのはその陰謀説が合理的に考えてどのくらい妥当か、ということでしょう。
     そして、いままでつらつらと書いてきた理由によって、ぼくは福島産の食品に関して組織的な数字の不正が行われている可能性は限りなく低い、と考えます。室井さんは間違えている。あるいは少なくとも、その発言には合理的な根拠がない。そう思う。
     それにしても、どうして彼女はこのような偏った思想を強く思いこんでしまったのでしょうか? そして、批判されても変えようとしないのでしょうか? ようするにこの人は愚かなのだ、といって済ませてしまえば簡単ですが、ぼくはそうは思いません。
     むしろ、ぼくたちは彼女の例から客観的かつ合理的に考えることのむずかしさを学ぶべきです。
     人間は決してつねに論理的に考える生き物ではなく、その思考にはさまざまな偏り(バイアス)がかかっていることは心理学の知見として知られています。
     その「認知バイアス」は合わせて実に200以上もあるらしいのですが、そのなかでもぼくが重要だと考えるのが「認知的不協和」と「バックファイアー効果」です。
     簡単にいうと、認知的不協和とは自分が持っている信念と異なることを告げられると不快を覚えること、バックファイアー効果とは新しく信念と異なる情報を教えられても信念を正すことはできず、より強化してしまうことです。
     つまり、人間はいったん何かしらのことを信じてしまうと、後から正確な情報を与えられても修正は容易ではないのです。
     これは人間一般に共通するバイアスですから、相当に賢い人でもなかなか抜け出せないトラップだといえます。
     さらにいうと、ぼくは「発言行為にもとづくバイアス」もあると考えています。人間はいったん自分の意見を口に出してしまうと、後からそれが間違えていたことがわかってもなかなか訂正できないということです。
     室井さんはまさにこのバイアスに嵌まっているのではないか、と思うのです。そして、ぼくたちはだれでもこの種のバイアスに嵌まり込む危険がある。その可能性を回避するためにはどうすればいいのか、いま、考えているところです。
     これはイデオロギーの問題ではありません。思想的に右翼(ネトウヨ)であろうと、左翼(パヨク)であろうと、思考のバイアスのために誤った結論を導き出してしまい、またそれを修正することができなくなってしまう可能性はつねにあります。
     思うに、まず大切なのは、強い「信念」を持たないようにすることではないでしょうか。何かの思想なり価値観を信奉することはしかたないとしても、それを絶対視せず、なおかつ、そのほかの価値観に敬意を払いつづけること。
     つまり、保守ならリベラルに、リベラルなら保守に対しリスペクトを払う姿勢が大切だと思います。もっというなら、もし安倍首相が嫌いなら安倍首相に対してこそ敬意を忘れないようにするべきなのです。
     いうまでもありませんが、それは安倍首相の言動なり政策を無批判に受け入れるということではありません。そうではなく、「敬意をもって批判的に観測する」ことが大切だということ。
     そうでないと、邪悪な極右の独裁者であるところのアベシンゾウに関連することはすべて間違えているに違いない、というバイアスにあっさり嵌まり込んでしまいます。
     先日紹介したF35は欠陥機であるという見方はまさにその典型です。坊主憎けりゃ袈裟まで憎いではありませんが、人間はあらかじめ何かしらの信念なり偏見を持っているとどうしてもそれを強化する方向に進んでしまいがちなものなのです。
     もっというなら、インターネットでは「エコーチェンバー現象」が働くので、その方向性が強化されるのですが、いいかげん長くなったのでその話は省きます。
     なるべくイデオロギーにもとづくバイアスに嵌まらず、冷静かつ客観的に物事を考えたいものですね。でわでわ。 
  • F35はほんとうにポンコツ欠陥機なのか? ネットの疑問を検証してみた。

    2019-06-03 04:19  
    51pt
     えー、最近、Twitterを眺めておりますと、「F35大量購入問題」というものをよく見かけます。
     これは「アベがポンコツ戦闘機のF35を一度に100機も爆買いした! これは戦争のための準備に違いない! そんな金があるならもっと福祉に使え!」というようなご意見なのですが、あまりに一方的なトーンに、ぼくは疑問を感じずにはいられませんでした。
     ほんとうにF35はポンコツの欠陥機なの? 安倍首相はトランプ大統領へ献上するために購入したの? その点がちょっと鵜呑みにはできなかったわけです。
     そこで、書籍や雑誌を購入したり、Googleさんにお伺いを立ててみたりして、調べてみました。で、結論からいうと、F35の購入が適切であるかどうかは判断できないものの、少なくともネットの意見の多くは誤解や極論であることがわかりました。
     とはいえ、ぼくも特にミリオタでなし専門家でなし、あくまで短期間で調べ上げた情報ですからすべてが正しいとはいい切れません。ご意見、ご批判はうけたまわります。大筋としては間違えていないと思うけれどね。
     とりあえず、主だった「ネットの疑問」を六つ並べて答えてみたので、興味がある人は読んでみてください。ちなみに、『航空ファン』2019年7月号、『F35「超」入門』、それにいくつかのネット上の記事を参考にさせていただきました。ありがとうございます。

    ネットの疑問① F35はつい最近、墜落したばかりだ。そして、アメリカでも墜落事故を起こしている。これは欠陥機としかいいようがないではないか。こんなポンコツ機体を購入するアベは売国奴だ。
    海燕の意見① これに関しては、墜落事故の事実そのものは間違いではない。先の4月9日、航空自衛隊第305飛行隊所属のF35A(70-8705/AX-5)が太平洋上で事故を起こしている。そして、昨年の9月28日にもアメリカでF35Bが墜落している。 しかし、逆にいえばF35の墜落は現在、この2件のみ。これは、アメリカ製戦闘機の歴史において、記録的な少なさであるといって良い。 実際、F35はこのアメリカでの事故が起こる前にF35は20万時間連続無事故記録を打ち立てており、これはきわめて異例の数字だ。現実に、現在のアメリカの主力戦闘機であるF22は累計飛行時間10万時間までに3機が墜落している。 もちろん、理想をいうなら事故はゼロであることが望ましいわけだが、1,2件の事故が起きたからといって特別に欠陥があるかのように喧伝することは間違いとしかいいようがない。


    ネットの疑問② F35の購入代金、維持管理費用は数兆円に及ぶ。この大金を福祉に回せば多くの人が救われるのではないか。
    海燕の答え② たしかに、一面ではそうだということができる。しかし、それをいうのならF35ひとつのみならず、自衛隊の運営にかかる費用すべてが無駄な出費ということになるだろう。 現実には、自衛隊の国防能力は日本の安全保障のために必要な経費であり、だからこそ国会で予算が承認されているのである。F35を購入しなければその分の予算が浮くことは事実だが、そのかわり、日本の領空警備能力は格段に落ちることになる。 その結果として、日本の安全保障は危機的な状況になるかもしれない。福祉は福祉として重要な問題だが、だからといって軍事費を削って良いということにはならない。


    ネットの疑問③ このような戦闘機の大量購入はあきらかに戦争を目的としたものだ。アベは戦争をしたくてたまらないのではないか。平和は外交で勝ち取るべきだ。
    海燕の意見③ 戦闘機を大量に購入したからといって、それで戦争をするつもりだとは限らない。事実、自衛隊はいままで多数の戦闘機を運用してきたが、先の太平洋戦争以来、一度も実戦に使用していない。 もちろん、だからといってそれらの戦闘機が無駄だったというわけことにはならない。航空自衛隊の兵器の役割の第一は日本の領空の制空権を守ることであり、その役割を果たしている以上、戦闘機に抑止力としての存在意義は十分にある。 また、安倍首相が戦争をしたくてたまらないのかどうかは何しろ内心のことなので何とも判断できないが、少なくともそうだと考えるべき根拠はない。 「これほどの数の戦闘機を買ったからには、戦争をするつもりに違いない」という人は、いままで自衛隊が200機のF15を所有していながら一度も戦争していないことをどう考えているのだろうか。 平和は外交で勝ち取るものであることはその通りだが、その外交の前提となるのは対等の軍事力である。軍事的に圧倒的に劣っている状況と、一定の利がある状況、どちらが外交的に有利であるかはあらためて語るまでもない。


    ネットの疑問④ F35の購入はアベがトランプとのゴルフで決めたことで、目的はトランプに大金を献上することだ。こんなことが許されていいのだろうか。
    海燕の意見④ あまりにもあたりまえのことだが、F35の購入は安倍首相がトランプ大統領とのゴルフの間に独断で決定したことではない。 この件に関する予算はすでに2018年の段階で国会の予算審議を通過しており、安倍首相がゴルフの間に決定することは純粋に物理的な意味で不可能である。 それでもトランプ大統領へのおもねりのためにF35の購入が決定されたのではないかという疑いを捨てられない人もいるかもしれない。 だが、実際には2013年12月に定められた「防衛大綱」および「中期防衛力整備計画(2014~2018)」には「近代化改修に適さない戦闘機について、能力の高い戦闘機に代替するための検討を行い、必要な措置を講ずる」、「航空偵察部隊1個飛行隊を廃止し、飛行隊を新編」と明記されている。 2013年のアメリカはオバマ政権下であり、トランプ現大統領はいち民間人、そのただの民間人のために戦闘機の購入予定を立てることなどありえるはずがない。


    ネットの疑問⑤ すでにイタリア、カナダ、ドイツ、の三国は欠陥機であると判明したF35の購入を中止している。そんなポンコツを日本が購入する意味があるだろうか。
    海燕の意見⑤ たしかにイタリアはF35の調達を断念している。しかし、それは「現在の情勢のもとでは、技術的諸問題と労働力不足に関連して戦闘機製造計画を縮小することは追徴金の原因となるため」という金銭的理由であり、F35が欠陥機であるからではない。 また、カナダは現在、次期戦闘機の導入を検討中だが、F35はその候補のなかに挙がっている。F35に決定しないのは、ユーロファイター・タイフーン、ラファール、スーパー・ホーネットなど、その他の機体でも十分に任務に耐えるという理由であり、F35が欠陥機だからではない。


    ネットの疑問⑥ アメリカの監査院ではF35に966件もの不具合が指摘されている。これはF35が欠陥機である証拠だ。このような機体を買わせられたのは災厄だ。
    海燕の意見⑥ ここでいう「アメリカの監査院」とはGAO(Government Accountability Office)という組織のことで、国民が収めた税金が適切に使用されているかという観点からさまざな政府の支出、あるいは事業などについて調査し報告書をまとめている。 「966件もの不具合」とは、このGAOがリリースした報告書に記載されている情報であるが、そこには対処しなければ安全にかかわる重大な不具合から、ごく細かい不具合に至るまで、試験・評価の過程で指摘されたものすべてが含まれており、飛行の安全に関係しないものもある(どうやらその大半は機体よりも超複雑化したソフトウェアの問題らしい)。 その966件のうち、「飛行の安全、情報保全、あるいはそのほかのクリティカルな要求事項に関わる不具合」にあたるカテゴリー1に属する不具合は111件、そしてそのなかで全規模量産開始までに対処が間に合わない見通しとなっているものは25件に過ぎない。 25件でも十分だと思われるかもしれないが、少なくとも不具合の所在はわかっているわけで、段階的にアップデートしていくことは可能だろう。 これはMicrosoftのWindowsが発売後にアップデートしていくことに近い。F35は戦闘機であると同時に「空飛ぶ巨大コンピューター」であり、「大規模ネットワークの突端」である。ソフトウェアの部分は後から改善していくことが可能なのだ。