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記事 42件
  • もっとぼくに愚痴を聞かせて。

    2016-05-05 04:09  
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     あなたはひとに愚痴をいうことはあるだろうか。ぼくはある。わりにしょっちゅう。
     どうも年を取るほどに愚痴っぽくなってきた気がするので、良くないなあと思っている。
     もちろん時にはひとの愚痴を聞かされることだってある。
     で、ここから本題に入るのだが、ぼくはひとの愚痴とか自慢話とかのろけ話を聞くのが、わりに嫌いではないのだ。
     けっこう何時間でも平常心で耳を傾けていられるほうだと思っている。
     まあ、心から集中して傾聴するというわけにはいかないかもしれないが、少なくともひとの愚痴なんてとても聞いていられないということはない。
     愚痴を聞くと「大変なのだなあ」と思うし、自慢話を聞くと「偉いなあ」と感じる。
     そして、のろけ話を聞くと「リア充爆発しろ!」と――いやまあ、のろけ話を聞くことはめったにないのでよくわからない。
     とにかくぼくが愚痴や自慢話を聞かされて抱く感想はそれくらいで、特に相手に悪感情を抱くことはない。
     自分に話して相手の気分が晴れたならそれはいいことではないかというふうに考える。
     まあ、ぼくも忙しかったらいちいち相手をしていられないかもしれないが、たいてい暇なのでべつに問題はないのだ。
     ところが、世の中にはひとの愚痴なんて聞きたくないという人のほうが多いらしい。
     ふうん、と思う。そういうものなのか。
     もちろん、ぼくだってまったくわからないわけではない。逢えば必ず愚痴しかいわない人がいたらいやにもなるだろう。
     しかし、相手が疲れている時とか落ち込んでいるとき、たまに愚痴を聞くくらいのことはなんでもないし、相手の役に立てるのならそれくらいのことはしたいと思うのである。
     偽善的だろうか。そうは思わない。
     というのも、ぼくはべつにそれを自己犠牲的な「善」と思ってやっているわけではないからだ。
     ぼくは負担にならないし、相手の気分は晴れる。それだったら収支はプラスになっているのだからいいではないか、と考えるだけだ。
     なぜ、ひとは愚痴を聞かされると苛立つのだろう。
     それは、ひとつには自分が相手の負の感情のはけ口にされていると感じるからではないか。
     また、相手の負の感情そのものに付き合うことそのものがいやだということもあるだろう。
     どちらもわからないではない。ただ、ぼく自身はあまりそういうことは思わない。
     ぼくをはけ口にしてその人の感情が快復するならべつにそれでかまわないと思うのである。
     やはりなんだか偽善的なことをいっている気がする。だが、ぼく自身の考えとしてはそうではない。
     ぼくが愚痴を聞かされることに抵抗があるのだから、やはりそれは過剰な自己犠牲精神ということになるかもしれないが、そうでないのだから犠牲という言葉はふさわしくない。
     ぼくとしては他人の仕事の愚痴などを聞いていると、「へえ、世の中は大変なんだなあ」と遠い国の出来事を聞かされた旅人のような気分になる。
     何しろ、ぼく自身はまったく大変ではない仕事をしているので(そもそも仕事といえるかどうかも怪しいところだ)、他人の仕事の苦労話を聞くと心から同情する。
     また、こう書くと怒られるかもしれないが、遠い世界の愚痴はけっこう面白い。
     なるほど、世の中というところは大変なところなのだなあと思い、ぼくは一生ひきこもりで終わろうとあらためて誓ったりする。
     それはお前の聞く愚痴が特別面白いのであって、普通の愚痴は面白くないのだ、という人もいらっしゃるかもしれない。
     そうだろうか。 
  • お誕生日おめでとう。

    2015-07-30 02:22  
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     きょう、7月30日はぼくの37歳の誕生日である。
     37歳――ほとんど信じられないような歳だ。
     35歳になったときも憂鬱だった気がするが、37歳となると、これはもう、逃げ場がない。
     ぼくはもはやいかなる意味でも若者ではない。ただの中年男性である。
     ほんとうに歳を取ったものだ、と思う。何か哀しいような気持ちがする。
     そんな日に、ぼくはまた自分の二面性について考えてみた。
     前の記事では、ぼくの人格は本来のものから歪んでいるのではないか、と書いた。
     これはだれしもそうであるかもしれない。
     生まれた時の自分そのままで生きているという人など、めったにいるものではないだろう。
     ひとの人格は世間に揉まれ、社会に揺らいでしだいしだいに変わっていき、みずみずしさと柔らかさを失って硬直していく。
     筋肉が凝るように、心もまた凝る。硬くなってより柔軟に変化しづらくなっていく。
     それが「老い」ということだ。
     10歳の頃にはもうすでに老いは始まっている。とすれば、37歳のぼくなど、老人もいいところだろう。
     しかし、これはぼくだけではないだろうが、ふしぎと、子供の頃から変わっていない部分も残っているように思える。
     ぼくのなかのある部分だけは、子供の頃の自然な柔らかさのまま、保存されているような気がするのだ。
     その「本来の自分(先天的な自分)」と「大人の自分(後天的な自分)」が矛盾しあい、対立しあい、それでも混ざり合うことなく、一定の純度を保って独立しているのがぼくという人間なのではないか、と思ったりする。
     ぼくはじっさい、37歳になったいまでも、部分的には子供のままなだ。そのほかの部分はすっかり老いて硬直してしまっていることもたしかだが……。
     ひとは一般に加齢によってさまざまな邪念を身につけて硬直し、変化を恐れるようになる。
     さまざまな「常識」という名の固定観念によって硬く、硬く変わっていくのだ。
     ぼくは可能な限り柔らかくありたいと思う。
     そのためには「心のストレッチ」をして、先入観や固定観念で硬くなった心をほぐしていく作業が必要になるのだろう。
     ぼくの場合、本を読んでいる時は童心に帰る。
     おそらく、本を読んでいるときが「本来の自分」に最も近いのではないかと思う。
     その自分が「基準」になるわけだ。
     一方、感情的に昂って小さなプライドを守ろうとする自分はあきらかに後天的に身につけたものだ。
     心を柔らかく保ちたいなら、自分のなかの「怒り」や「憎しみ」と向き合わなければならないということ。
     生まれたときの裸の自分は、怒ることはあっても根に持ちはしなかったはず。それが、いつまでもひとつのことで延々と怒っているのなら、心のどこかが凝っている証拠だ。
     その凝りはどうにかしてほぐさなければならない。
     おそらく、自分なりの「正義」を重んじ、それが叶わないとなると烈火のように怒るぼくは、思春期のあたりで生まれた人格だと思う。
     本来のぼくは、もっと自然体で、力が抜けているような気がするのだ。
     その人格が「基準」となる自分で、時々、マグマのように噴出する感情は、いずれも「心の凝り」から来ているものだと思っている。
     この「凝り」をどうほぐしたものか……。
     どこまでも柔らかく自然で変化を怖れない心を取り戻したい。 
  • 自分という人間がよくわからない。

    2015-07-25 05:19  
    51pt
     えー、月末近くで会員が減っていく時期なのですが、読者の需要を無視して自分語りをしたいと思います。
     書きたいことを書きたいように書いていないと続かないですからね。
     ぼくはよく自分という人間について考えます。自分とはどういう人間だろう、と。
     するとすぐに答えが出ます。「よくわからん」と(笑)。
     これは自分のことだからわからないという側面もあるでしょうが、客観的に見ても相当よくわからない人間なんじゃないかなーと思います。
     もしかしたらぼくのまわりにいる人たちはぼくよりもぼくのことを理解しているかもしれませんが、ぼく自身はぼくのことをよくわからないなーと思っています。
     ぼくの最も親しい他者である母なども「お前はよくわからない」といいます。
     そうだろうな、と思うのですよ。ぼく自身がさっぱりわからないのだから。
     もとより、人間なんてよくわからないものではあります。
     ひとのことを理解できたと感じたとき、それはほとんど錯覚です。
     でも、そのなかでもぼくは割合にわかりづらいほうに入っていると思うのです。
     あるいはだれしも自分についてはそう思うのかもしれませんが。
     ぼくが自分の性格を「よくわからん」というのは、人格に整合性が取れていないように思えるからです。
     ぼくという人間はどこか矛盾している気がしてなりません。どこかでねじ曲がっているような……。
     いや、これもすべての人がそういう側面を持っていることではあるでしょうが、ぼくはたぶんそのねじ曲がり具合がわりと大きいほうだと思う。
     なので、自分で分析しきれない。
     具体的にいうと、ぼくは我が強いのか弱いのかわからないなあ、と思います。
     この場合の我が強いとは自分自身に対しどのくらいプライドを持っているか、ということに近い概念です。
     基本的には頭がいい人ほど我が強く、自己主張もまた激しいとぼくは考えています。
     で、その考え方でいくと、ぼくはあきらかに我が弱い人ということになると思うのですね。
     そもそもあまり頭は良くないですし、主張するべき「自己」というものがいかにもあいまいですから。
     そして、それでは肉体的な人間かというとそうでもないわけで、ぼくは空っぽな奴だなーと思います。
     何をしたいとか、何が欲しいとかいうこともありないですしね。
     この認識にはもうひとつ論拠があります。
     以前にも書いたことがありますが、 
  • ライトノベルの主人公みたいに楽しく人生を過ごしたい。

    2015-07-20 01:11  
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     敷居さん(@sikii_j)がこんなツイートをしていました。

     読み損ねていた平坂さんの『妹さえいればいい』の一巻を電子書籍で買って読んでいるのだけど、めっちゃくちゃ面白い上になんか色々と共感する部分があってやばい。中高ぼっち気味で大学辞めてしばらく経ってからやたらと仲間が増えて家にわらわらと人が集まってくるとかそれは
    https://twitter.com/sikii_j/status/622647824845402113


     ツレの影響で海外産のビールにはまったりうちに遊びに来た人が家主が漫画読みながらダラダラしている横で勝手に台所使ってなんか用意したりなんか気が付いたら勢いで旅行してたりとかもうなんなのこれ。全部やっとるぞw
    https://twitter.com/sikii_j/status/622649056217567232

     ……時代とシンクロしていやがるなー。
     えー、ここでうらやましいとか妬ましいとかばくはつしろとかいいたいところなのですが、仮にぼくが同じことをやったら3日目くらいで精神がパンクして廃人になることが容易に予想できるので、実のところ特にうらやましくはありません。
     ただ、世間は広いなー、世の中には大変な人がいるなー、と詠嘆するばかり。
     思いつきで旅行するくらいはぼくにもできそうなので今度やろうっと。
     でも、新潟からだと飛行機がいくらか高くつくんだよね。羽田とか成田からだといまはほんとうに安くあちこちへ行けるようなのだけれど。博多行って屋台でラーメン食べたいなあ。
     それはさておき、とにかく『妹さえいればいい』が面白いです。
     昔々、敷居さんに奨められてハマった『らくえん』もそうなのだけれど、これって「学校生活を謳歌できなかった人間たちの第二の青春」の話なのですよね。
     そりゃ、ぼくとか敷居さんがハマるのも当然だわ。
     ぼくも敷居さんほど極端な生活をしているわけではないとはいえ、成人してからネットを通して仲間ができてわいわい騒いで楽しんでいるという点はいっしょ。
     それもだんだんレベルアップしてきていて、最近は自分でも「……いいのかな、こんなに恵まれていて」と思うくらいの域に達しています。
     このあいだ、日本に一時帰国したペトロニウスさんを祝うために某高級レストラン(食べログランキング4.0以上)でランチを取って、その後、友人の家に転がり込んで鍋をつつきつつラジオを放送したりしたんですけれど、そのときの幸せ具合は半端なかったですね。
     広大な邸宅を食事が取れるよう改装したというスペイン料理のレストランも素晴らしかったけれど、友人宅の鍋(と釣りたてのイカ)がとにかく美味かった。
     ペトロニウスさんなんか「和食うめー」、「イカうめー」と涙を流さんばかりの勢いで食べたあと、ラジオの途中で寝てしまうし。
     いやー、幸せでした。何年かに一回ああいうことがあると、それだけで暮らしていけるかもな、というくらい。
     まあ、それはあまりにスペシャルな体験なので、「日常の豊かさ」という文脈とは少々離れているかもしれないけれど、でも、こういうイベントが時々あることじたい、ぼくの現状を示していると思う。
     普段はプアだニートだといっているぼくだけれど、結婚とかしようと思わなければ十分に楽しく暮らしていけるくらいの収入はあるんですよね。
     ええ、それもこれも皆さまのおかげなんですが、それもあって、とにかく最近、あたりまえの日常のクオリティ・オブ・ライフが格段に上がっている気がします。
     それはもう、ひとを妬もうとかうらやもうとかほとんど思わない、思う必要がないくらいです。
     まあ、もともとぼくはひとを妬む気持ちがほとんどない人間なんですけれどね。
     それにしても、最近のぼくの人生は妙に充実してきているなあ、と思いますよ、ほんとに。
     そういえば、 
  • 幸せとは人間関係である。本物の関係を通じて幸福と充実を手に入れよう。

    2015-07-18 03:01  
    51pt

     Amazonインスタント・ビデオで映画『happy しあわせを探すあなたへ』を見ました。
     いまさらではありますが、すっかりレンタルビデオに頼らなくても自宅で動画を見れる時代になりましたね。便利、便利。
     『happy』は「幸せ」について探求したドキュメンタリー映画です。
     この作品のなかにはさまざまな「幸せのかたち」が登場し、「いったい幸せってなんだろう?」という根源的な疑問に答えてくれます。
     このブログを継続的に読まれている方なら、ぼくが最近、幸せについて続けて本を読んでいっていることはご存知でしょう。
     その理由は簡単で、自分自身が幸せになりたいから。
     しかし、現実に幸せに生きることはそう容易ではありません。
     ぼくはいま、幸せと不幸せの境界くらいのところにいて、どちらにも行ける状況にあると思います。
     これから幸せのほうに行きたいのですが、そのためにはどうすればいいか? そのヒントをこの映画のなかに見いだしたいと思っていました。
     この映画は同様の疑問を抱いたらしい映画監督によって企画され、数年の歳月をかけて撮影されました。
     心理学や脳医学の世界的権威たちの協力を得、さまざまな国や立場の人々のなかに幸福を探っていきます。
     映画はまずインドの貧しい車夫を描くところから始まります。
     驚かされるのは、現代社会を生きるぼくたちから見るときわめて貧しいように見えるかれが、それでも「自分は幸せだ」と胸をはって答えていること。
     いままでこのブログでは幾度もくり返し述べてきたことですが、どうやら幸せはその人の富とはあまり関係がないらしいのです。
     じっさい、戦後日本は奇跡的とも思える経済成長を続けて来わけですが、日本人の生活満足度はほとんど変わっていないというデータもあるようです。
     富と幸せのあいだには一定の相関関係こそありますが、イコールで結べるようなたしかな関係はないということ。
     それでは、ひとの幸せはどこにあるのか? 答えはきわめてシンプルです。
     映画を一見してみて感じたことは、「幸せとは人間関係である」ということです。
     抜きん出て幸福度が高い人には、必ずといっていいほど親しい家族や友人がいる。
     そういう人とともに暮らせることが人間の幸せなのです。
     あたりまえといえばあたりまえのつまらない結論かもしれません。
     しかし、幸福学やポジティブ心理学の結論はやはりここに行き着くらしい。
     映画はアメリカや日本のたくさんの家族や仲間を描いて行きます。
     そこから導き出されるのは、良好な人間関係をたくさん持っている人ほど幸せになりやすいという事実です。
     それに対して、あまりに孤独だったり不都合な人間関係しか築けていない人はそうなりづらいばかりか、寿命さえ短くなるらしい。
     映画のなかでは、先進国のなかで最も幸福度が低い国として日本が登場します。
     ここは考えさせられるところです。
     いったいぼくたち日本人に欠けているものはなんなのか?
     真面目に懸命に生きてきたはずの日本人がなぜそれでも幸福になりきれないのか?
     映画はあまりにも仕事をしすぎるからだと匂わせていますが、それはつまり仕事に専心するあまり身近な人間関係を犠牲にしているということではないでしょうか。
     人間関係こそがひとの幸福度を大きく左右する。その事実を忘れないようにしたいと思います。
     もちろん、ひとはいくらだれかと親しくなったところで最後はひとりですし、自ら望んで孤独を選んでいる人もいることでしょう。
     そういう生き方が悪いとはいいませんし、先の記事で書いたように「孤独力」には価値があります。やたら群れればいいというものではない。
     しかし、その一方でやはりひとはその一生を通じて安易な「つながり」に留まらない本物の人間関係を求めていく必要があるのです。
     そういう関係を作り出せた人はまったき幸福をも手に入れることができます。モンスターからお姫さまを救い出した騎士のように。
     ぼくが思い出すのは、ディケンズの『クリスマス・キャロル』です。 
  • 暗くて内向的なオタクのススメ。群れず、つながらず、「孤独力」を磨こう。

    2015-07-15 05:08  
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     あるいはニコニコ動画の登場以来ということになるのかもしれない、「オタク」という言葉のイメージはずいぶんと変わった。
     それまでは「暗い/内向的な」イメージだったものが、いまでは「明るい/社交的な」イメージが強い。
     それはじっさいにオタク青少年たちの実像が変わっているからであるだろう。
     LINEやTwitterなどの発達にともなって「つながること」が重視されるようになり、アニメやゲームは体験をシェアして楽しむメディアへと変質した。
     それ自体は一概に良いこととも悪いことともいえない。ただ、そういう事実があるというだけのことだ。
     ひとついえることがあるとすれば、変化があったからには失われたものもあるということだろう。
     ぼくは基本的にこの変化を肯定的に受け止めているが、それでも時々、その失われたものが恋しくなる。
     みんなでわいわい騒いでひとつのコンテンツを共有し、明るく楽しむのは良い
  • わずかなお金で幸福が買える5つの約束。

    2015-07-13 23:43  
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     インターネットは皮肉屋の集まり、ネットでは教条的な意見は陳腐な道徳的説教とみなされ軽蔑されることが少なくない。
     だから、ここでぼくが「幸せはお金では決まらない」といったら、さぞかしたくさんのシニカルな反論が返ってくるかもしれない。
     しかし、それはたくさんの統計調査によって立証された事実なのである。
     たしかに、収入と幸福に相関関係はある。ある程度は。
     だが、収入が一定額を超えると、そこから先は驚くほどわずかしか幸福度が上がらないというのが心理学者たちが出した意見だ。
     お金と幸福について書かれた論文は数多いが、そのほとんどが同じ結論に至っている。
     曰く、お金がまったくないことは不幸だが、一定額以上お金を持っていることは必ずしも幸福を意味しない。
     また、宝くじがあたるといった幸運なライフイベントの効果もすぐに切れてしまう。
     ひとはお金では幸せになれないのだ、と。
     冷笑家たちがどんなに笑い飛ばしても、この事実は揺らがない。
     このいささか道徳的に過ぎるようにも思われる結論にどうにか異論を提示しようとしたのが、『「幸せをお金で買う」5つの授業』の著者エリザベス・ダンとマイケル・ノートンである。
     もっとも、かれらはただお金を使うだけでは幸せになれないことを認める。つまり、かれらに先行する17000ばかりの論文に敬意を表する。
     しかし、そこからさらにひとつの問いをつなげるのだ。
     それでは、お金をもっとうまく使ったとしたらどうか?
     つまり、平凡な使い方では容易に幸せになれないとしても、より気の利いた使い方をすれば違ってくるのではないか?
     その気の利いた使い方とは、具体的に以下の五か条で表される。

    1.経験を買う。
    2.ご褒美にする。
    3.時間を買う。
    4.先に支払って、あとで消費する。
    5.他人に投資する。

     これがつまり、「5つの授業」である。
     もっとも、これだけではなんのことやらわからないだろう。もう少しくわしく解説しよう。
     第1条の「経験を買う」とは、お金を「モノ」ではなく「経験」に支払うようにするという意味である。
     いまでこそシンプル・ライフが称揚されるようになったが、それでもまだ、幸せを手に入れるためにはモノを買わなければならないと思い込んでいる人は多い。
     モノはなんといってもそこに確固とした実体として存在しているという安心感がある。
     それが自分のものになるのなら、お金は惜しまないという人は少なくないだろう。
     それに対して、「経験」はいかにもあいまいである。
     たとえば、ロケットに乗って宇宙空間まで駆け上がり、わずか数分間だけそこから下界を見下ろすといった経験に数千万円の価値があると信じることは簡単ではない。
     それはたしかに胸躍る経験ではあるだろう。だが、あとには何も残らないではないか?
     それに比べて高級車や薄型テレビは、少なくとも数年のあいだは実体として残る。
     お金の使い道として、モノよりも経験を優先することはばかげているように思える。
     ところが、それがそうでもないのだ。
     なぜか? それはつまり、人間がきわめて順応性の高い生き物だからである。
     ひとは、どんなモノにもあっというまに慣れてしまうのだ。
     たとえば、高価な家に住んでいると、その家に対する満足度はしばらくは高いまま続く――しかし、生活そのものに対する満足度は一向に上がらないのである。
     それに比べて、経験にお金を使うなら、ひとは後悔をせずに済む。
     なぜなら、記憶の万華鏡のなかでは、何かしらの失敗や挫折すら美しく見えてくるから。
     ひとは「やらなかったこと」こそを悔やむ生き物なのだ。
     第2条の「ご褒美にする」は、そのお金の使い道を「ご褒美」として特別な体験にするということである。
     これも人間の飽きっぽさと強く関係している。
     ひとはただ味わうだけではあっというまに飽きてしまう。
     たとえば、美味しいチョコレートを山ほど食べられるといった経験をすると、ひと粒ひと粒のチョコのありがたみを感じなくなってしまう。
     ところが、ここでチョコを食べることを「ご褒美」に変え、簡単にはチョコを食べられないようにすると、そのチョコの美味しさは劇的に向上する。
     これを 
  • あなたは、なぜ、コミュニケーションに失敗しつづけるのか。

    2015-07-07 02:44  
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     いつになく「つながり」がもてはやされる時代である。
     LINEやFacebookを初めとするSNSの発達で、ひとは24時間だれかとつながっていることができるようになった。
     テクノロジーはついに人々の心から孤独を駆逐しつくしたように見える。
     それでいて、多くの人が「つながりつづけること」に泥のような疲労を感じてもいる。
     それが現代。
     人々はかつてなく長いあいだ他者とつながりながら、その一方でより深いつながりに飢えている。
     そして、それにもかかわらず、ほとんどの人はどうすればほんとうにつながったことになるのかなんて、知りはしないのだ。
     高石宏輔『あなたは、なぜ、つながれないのか』は「つながり」の作法に着目し、それをどこまでも詳細に解体していった一冊。
     ある人とある人が向かい合い、話し合う、それだけのことのなかにどれほどの情報量のやり取りがひそんでいるのか、あらためて自覚させられる脅威の一冊だ。
     ひととひとが向き合ってコミュニケーションを取ろうとするとき、そこには自然とある種のパワーゲームが発生する。
     どちらが会話の主導権を握るか。相手をどのようにして威圧するか。あるいは、どのようにして相手の精神をコントロールし、自分の思うままの反応を引き出すか。
     それらは剣や銃ではなく言葉を利用して戦いあう決闘に似たところがある。
     己の身体と知性の限りを尽くして相手を圧倒しつくそうとする男性的なゲーム。
     しかし、本来、ひととひとのやり取りはこのような力のぶつけあいに留まるものではない。
     ただ自分の弱点を隠し、相手の弱点を狙うといった戦術だけが有効なわけではないのだ。
     それは本来、「その人のことを知りたい」という純粋な好奇心から発して、非敵対的に続いていく共同作業である。
     それは「心を開く」ところからスタートする。相手との接触で自分が変わっていくことを許すこと。
     過剰に自分を防御して相手だけを変えようとするのではなく、自然な変化を受け入れること。
     それが、コミュニケーションだ。 いわゆる「コミュ障」だけがコミュニケーションを苦手としているわけではない。 世の中には、だれより饒舌に話しながら、一切、意味のある会話をなしえない人間もいる。そういう人物も広い意味での「コミュニケーション弱者」に入るだろう。
     世の中には、 
  • どんなに恵まれていても、ひとは飽きる。

    2015-06-30 00:05  
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     「いばや通信」のこの記事が非常に面白かった。
    http://ibaya.hatenablog.com/entries/2015/06/29
     ここで坂爪さんは「漁師とコンサルタント」という有名な寓話を取り出してこう書いている。

    坂爪「これさ、俺は『半分同意、半分違和感』って言うのが正直な感想で、半分の同意は『そう言う生活を既に手に入れている漁師は非常に豊か!』ということで、根本的に、自分で自分の人生は最高だと思っている人は、その時点で(他の人間がとやかく言うものじゃないし)勝ち組だと思っているのね」
    みっつ「はい」
    坂爪「でね、半分の違和感は自分自身に対してなんだけど、『幸せな日々に飽きることはないのかな?』っていうことなの。毎日シエスタをして、自然を楽しみ、仲の良い人達とのんびり過ごす時間は絶対に豊かだと思うけど、もしも自分だったら『絶対にもぞもぞしてくるだろ!』って思うのね」
    みっつ「はい」
    坂爪「男の子的なもぞもぞ感、とでも言いましょうか。確かに幸せなんだけど、幸せなだけじゃ足りないんだよ。毎日同じことをしていたら必ず飽きるし、『新しい何か』をしてみたくなると思うんだよ。世界にはまだ俺の知らない面白い場所があるはずだ!って、俺は絶対に思っちゃう気がするんだよ」

     まさにいまのぼくのことだな、と思う。
     家はあるし、そこそこの収入もあるし、友人はたくさんいるし、娯楽もたくさんあるし、とても幸せなのだけれど、同時に「やることがない」という退屈さの地獄に閉じ込められた感がある。それがぼく。
     もちろん、あまりに忙しいとそれはそれで苦しいことになるのだが、暇すぎることも楽ではないんだよね。
     まあ、真面目に働いている人たちからすれば何をほざいているんだと思う悩みかもしれないが、しかし、この問題、リンク先で坂爪さんが書いている通り、本質的なものだとも思う。
     「幸せなだけじゃ足りない」。
     たとえ贅沢といわれようと、それはほんとうのことなのだ。ひとは幸福なだけでは生きていけないのである。
     じっさい、ポジティブ心理学の本などを読むと、宝くじがあたった人の幸福度は予想されるほど高くないらしいということが書かれている。
     その反対に、事故などに遭って障害を負った人の幸福度も意外に低くないようだ。
     もちろん宝くじがあたった瞬間は嬉しいだろうし、怪我を負った瞬間は嘆くことだろうが、それらは長くは続かない。
     ひとは幸運であれ、不運であれ、あっというまに慣れてしまう。そういう事実があるのである。
     だから、ひとは「幸福」にも慣れるし、飽きてしまう。
     子供の頃は「学校に行かずに漫画だけ読んで暮らせたらどんなにいいだろう」と思ったものだが、じっさいにそういう暮らしをできる身の上になってみると、やはり飽きるのである。退屈するのだ。
     ニートをしていると、どうしてもこの問題に対する答えを出すことを求められる。
     ニートブロガーのPhaさんは、一箇所に常住するのが良くないと考えて、他拠点生活をすることにしたようだ。
     それが正解なのかはどうかはぼくにはわからないが、とにかく常に新しいことをしていないと退屈するというのが人間のさがであるらしい。
     これは非常にむずかしい問題である。なぜなら、この問題に対しある対策を見つけ出して実行したとしても、それがあたりまえになるとやはり慣れ、飽きてしまうからだ。
     この退屈という名の地獄に耐えることができる、あるいはそもそも退屈さを感じない能力が、即ち「無職の才能」なのだろう。
     しかし、だれもがその種の才能に恵まれているわけではないし、坂爪さんのように大人気ブログの管理人になれるわけでもない。
     それでは、どうすればいいのか? 
  • 人類の能力がすべて人工知能に抜き去られたとき、人間に何がのこるか?

    2015-06-22 22:46  
    51pt

     海に沈む夕焼けを見るために海岸まで歩いて行って来た。
     結局、雲が厚く、夕日が沈むところは見られなかったけれど、落日に照らされた雲が一刻一刻と色を変えるさまはうつくしかった。
     いいものを見た。またこんど、晴れた日にここを訪れよう。
     さて、いうまでもないことだが、海岸の夕焼けなんて見たところで一銭にもならない。
     また、だれかに褒めてもらえることもありえない。無意味といえば、この上なく無意味な行為だ。
     しかし、そうはいっても人生を多少なりとも豊かにするのはこういう無意味なことの積み重ねなのだろう。
     幸い、売るほど時間があるぼくはいくらでも無意味な行為にいそしむことができる。
     だから、テトラポットの上に座り、道すがらセブンイレブンで購入したサラミとチーズを食べながら落陽の芸術に感嘆したのであった。
     いや、しかし、海岸まで歩いていけるところに住んでいるというのは贅沢ですね。
     それにしても、「意味」とはなんだろう?
     世の中には、さも深い意味がありそうな事柄がたくさんある。だが、じっさいにはそれらにたいした意味などありはしない。
     人類の存在にしてからが、進化の樹形が生み出したある種の偶然の産物であるに過ぎないわけで、それ以上でも以下でもないのだ。
     そうであるからには、個人の社会的使命がどうとか、失笑するしかない出来の悪いジョークでしかありえない。
     べつだん、ある個人がどうがんばろうと、がんばるまいと、社会全体に大した影響を及ぼせるわけではない。
     また、いくらか影響を及ぼせたところで、それにさしたる意味があるわけではないのだ。
     ぼくのいうことはいくらかニヒリズムめいて聞こえるだろうか。そうではない。
     まともに現実を直視するのなら、ひとのやることなすことに格別の意味がないということには向き合わざるを得なくなる。
     あたりまえのことだ。天までそびえ立つビルになんの意味がある? 海底を貫通するトンネルにどんな意味があるというのか?
     それらは、ひとの力の巨大さを示すある種のモニュメントであることはたしかだろう。
     しかし、それも、ただそれだけといえばそれだけのことだ。しょせん時の波濤にさらされればいつかは崩れゆく砂の楼閣であるにすぎない。
     そして、そうであって何が悪いというのか。
     ひとのやることがすべて無意味だとしても、だからそこに価値がないということにはならない。
     価値はある。あきらかにある。より正確にいえば、そこに価値を見いだすことは可能なのである。
     なぜなら、価値とはひとがさだめて見いだすものにほかならないからだ。
     もしそこに「すごいものを作ったものだ……!」という感嘆があるのなら、意味などなくてもなんの問題もない。
     ミケランジェロのピエタにそれが生み出されなければならなかった宇宙的意義はあるだろうか?
     もちろん、あるはずもない。しかし、それはどこまでも気高く美しい。ただそれだけで十分ではないか。
     この先、人工知能が発達していくと、いままで人間しかできなかったことすべては機械によって代替可能になるだろう。
     「人間のみが持つ人間らしさ」という幻想が剥がれ落ちてゆくわけだ。
     それは絵画や音楽といった芸術分野をも含むに違いない。人間はここで「すべてにおいて機械に追い抜かれた自分たちの存在になんの意義があるか?」という問いと向き合わなければならなくなる。
     山本弘のSF長編『アイの物語』では