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記事 5件
  • 【第152回 直木賞 候補作】 『鬼はもとより』青山文平

    2015-01-07 11:55  
    「こう言っちゃ、なんでござんすが……」
     と、下っ引きは言った。
    「こんなもんが、ほんとうに商いになるんですかい」
     目は、広めの坪庭に並んだ万年青の鉢に注がれている。
    「俺は安く値付けしているからな」
     奥脇抄一郎は答えた。
    「客はけっこう付いている」
     時は宝暦八一七五八年、十月半ばのよく晴れた日の午近く。場処は聖天様に近い、浅草山川町の裏店である。元々、小塚原に移るまで刑場のあった土地で、界隈の街並みが、江戸のどん詰まりだった頃を覚えている。
     隅田川に貼り付く最寄りの今戸町には瓦を焼く達磨窯が寄せ集まって、東の風が吹けば、示し合わせたように黒い煙が襲ってくる。ほど近くの吉原へ通う客のあらかたが、目の前の日本堤を行かずに山谷堀の舟を使うのは、土手下に隠れた追ぎが珍しくもないからだ。
     そんな吹き溜まりのような土地だけあって、誰もそこを御府内とは思っちゃいない。けれど、土地の名にはしっ

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  • 【第152回 直木賞 候補作】 『あなたの本当の人生は』大島真寿美

    2015-01-07 11:53  
    1

     この小説を書いたのはわたし?? それともあなた?
     あなたはだあれ?
     わたしはだあれ?
     だれかおしえてくれないかしら?
     
     四百字詰め原稿用紙三百枚分の没原稿(またしてもこんなに紙資源を無駄にしてしまった!)を前に、おまえそんなに森和木ホリーが好きなら弟子にならねえか、と鏡味氏に言われたのだった。編集部の一番隅の、本や紙の束が堆く積み上げられている机の前。そこが編集部の僻地であるのをいいことに机と窓の間のスペースまでも鏡味氏が勝手に利用しているせいで(まるで巣だ、と来るたびに思う)、通路としての機能は完全に失われてしまっている。鏡味氏からはわずかにアルコールの臭いがしているから、もしかしたら、ランチの時にビールくらいは飲んだのかもしれない。それでそんなことを言いだしたのかもしれない。
     鏡味氏の声はつねに聞き取りにくい。おれだっておまえ、なにも好きこのんで、おまえの原稿、没にして

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  • 【第152回 直木賞 候補作】 『宇喜多の捨て嫁』木下昌輝

    2015-01-07 11:52  

     「相手は宇喜多の娘だ。それを嫁に迎えるなど、家中で毒蛇を放し飼いにするようなものぞ」
     宇喜多家の居城・石山城(後の岡山城)に、そんな言葉が響いた。
     本丸にある庭で、木刀を振っていた於葉の太刀筋が乱れる。心地よく風を切っていた切っ先が、苦しげに呻いたように聞こえた。於葉は動きを止めて、袖で頬を伝う汗を拭う。
     声は大きくはなかったが、悪意は過分に含まれていた。まだ冬が明けたばかりの早朝の石山城内は静かで、嫌でも注意を向けずにはおられない。
    「宇喜多の娘」と、先程の言葉を於葉は復唱した。体を心地よく湿らせていた汗が、たちまち違う質感を帯び始める。
     きっと昨夜到着した東美作を支配する後藤家の嫁取奉行の声だろう。随分と年かさを感じさせる声質である。まさか、その宇喜多の娘が庭で木刀を振っているとは思いもしなかったのか。・表裏第一の邪将、悪逆無道の悪将・の異名をとり、毛利や織田にも恐れられる

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  • 【第152回 直木賞 受賞作】『サラバ!』西加奈子

    2015-01-07 11:51  
    第一章 猟奇的な姉と、僕の幼少時代

     僕はこの世界に、左足から登場した。
     母の体外にそっと、本当にそっと左足を突き出して、ついでおずおずと、右足を出したそうだ。
     両足を出してから、速やかに全身を現すことはなかった。しばらくその状態でいたのは、おそらく、新しい空気との距離を、測っていたのだろう。医師が、僕の腹をしっかりんでから初めて、安心したように全身を現したのだそうだ。それから、ひくひくと体を震わせ、皆が少し心配する頃になってやっと、僕は泣き出したのだった。
     とても僕らしい、登場の仕方だと思う。
     まるきり知らない世界に、嬉々として飛び込んでゆく朗らかさは、僕にはない。あるのは、まず恐怖だ。その世界に馴染めるのか、生きてゆけるのか。恐怖はしばらく、僕の体を停止させる。そして、その停止をやっと解き、背中を押してくれるのは、諦めである。自分にはこの世界しかない、ここで生きてゆくしかな

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  • 【第152回 直木賞 候補作】 『悟浄出立』万城目学

    2015-01-07 11:50  
     「上り坂ってのは、どうしてこうも神経をすり減らすものなのかね」
     背負った行李を大儀そうに担ぎ直し、八戒はぶうと鼻を鳴らし、白い息を勢いよく宙に吐き出した。
    「あそこが頂上かな、と思って歩を進めると、決まって同じ風景がまた目の前に現れる。今度こそあの木のあたりがてっぺんで、そこから先は下り坂だろう、と見当をつけていたら、いつの間にか木の脇を通り過ぎて、やっぱり続くのは相も変わらぬ上り坂だ。どこまでも、どこまでも坂道?ああ、何だか絶望的な気分になってしまうよ」
     八戒が大きな耳をはためかせ、またもぶうと低い鼻音を鳴らすと、三蔵法師の乗る白馬の先で、悟空が舌打ちとともに振り返った。
    「おい、おしゃべりブタ。いい加減、その開きっぱなしの口を閉じろよ。そうだらだらと文句ばかり聞かされていたら、こっちまで気が滅入ってくるだろうが」
    「仕方ないだろ だいたい、こんな薄ら寒い眺めばかり続いて、愉快な気

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