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記事 6件
  • 【第153回 直木賞 候補作】『東京帝大叡古教授』門井 慶喜

    2015-07-02 13:54  

     第一話 図書館の死体
     うとうととして目ざめると東京だった。長旅で体がこわばっている。私はばりばりと音を立てるようにして三等客車の固い椅子から身をひきはがし、車室を出て、新橋停車場(ステーション)のプラットホームに降り立った。ここから路面電車へ乗り継がなければならないことは、事前の調べでわかっている。
     が、いなか者のかなしさ、私はそれまで路面電車なんか見たこともなかった。
     どこへ行けば乗れるのかさえ見当もつかなかったから、改札場を出たところで勇気を出し、見知らぬ紳士に声をかけた。紳士は、
    「ああん?」
     露骨にいやな顔をしたあげく、何ひとつ教えてくれぬまま行ってしまった。私はもう一生ぶんの気疲れがして、内心、
     ――東京は、“おじい”ところじゃ。
     生まれ里のことばで嘆いたものだった。私はまだ十九歳だった。
     結局、路面電車には乗らなかった。
     乗るだけの気力がなかった。私はそれか

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  • 【第153回 直木賞 候補作】『若冲』澤田 瞳子

    2015-07-02 13:53  
     鳴鶴
        一
     大きな角盆をよいしょ、と抱え、お志乃(しの)はつや光りする箱階段をふり仰いだ。
     女子の足には少々高すぎる段を上がる都度、わざと足を踏み鳴らす。顔料(がんりょう)の入った絵皿が盆の中でかたこと動き、ここ数日家内に満ちている梅の香が、その時ばかりは膠(にかわ)の匂いに紛れて消えた。
     階段をこうもにぎやかに上るのは、二階間で絵を描く源左衛門(げんざえもん)への合図だ。なにせ家業を二人の弟に任せ、朝から晩まで自室で絵を描く兄は、ちょっと声をかけたぐらいではお志乃に気付いてくれない。敷居際で待ちぼうけを食らわぬよう、こうして物音を立てながら部屋に向かうのが、兄妹の長年の約束事であった。
     京の春は冷えが厳しいが、今年は暦が改まった直後から、不思議に暖かな日が続いている。表店(おもてだな)の喧騒とは裏腹に、常に湿っぽい静謐の内にある「枡源(ますげん)」の店奥にも、うららかな陽

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  • 【第153回 直木賞 候補作】『永い言い訳』西川 美和

    2015-07-02 13:52  
     ぼく
     大学の時につきあった彼女は、絶頂に達する直前になると、もうやめて、と決まって言った。ぼくを鼓舞する意味の「もうやめて」ではない。ほんとにやめて、自分から身体を放してしまうのだった。
     彼女はしかし、ぼくを拒絶しているつもりはないと言った。そばに寄り添い、ぼくのまだ薄かった胸に尖ったあごを乗せ、収まりのつかないあそこを片手で掴んだまま、何故もうやめなければならないのかについての長い言い訳を語って聞かせた。
    「小学校の三年生の時に、お誕生日会を盛大にやったの。お母さんが腕を振るったごちそうを食べて、歌を歌ってケーキを食べて、プレゼントをもらった後に、風船割り競争をやったのね」
    「風船割り競争?」
    「膨らませた風船を椅子に置いて、お尻で割っては次の人のところに走って帰って来てリレーするやつよ。割れなきゃバトンタッチは出来ない。知らない?」
    「いや、わかるよ。やったことはないけどね。でも

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  • 【第153回 直木賞 候補作】『アンタッチャブル』馳 星周

    2015-07-02 13:51  
        1
     ハムの連中の冷ややかな視線を背中に感じながら、宮澤武(みやざわたけし)は警察総合庁舎別館三階の廊下を早足で歩いた。
     ハム――公安の連中に対する刑事警察の蔑称だ。公安の公の字を分解すればカタカナのハムになる。廊下をすれ違うハムの連中はだれもが没個性で、その辺を歩いているサラリーマンと見分けがつかない。十人十色、様々な個性がきら星のごとく寄り集まった捜査一課とはまるで毛色が違う。捜一では没個性は能無しと同じだと見なされる。
    〈外事三課〉と書かれたプレートが貼ってあるドアをノックする。返事はなかった。宮澤はドアを開け、声を張り上げた。
    「おはようございます」
     だだっ広いフロアがロッカーで五つのスペースに区切られていた。人の気配はするのだが宮澤の挨拶に応じる者はいない。
     舌打ちを押し殺し、宮澤はフロアを進んだ。五つに区切られたスペースを睥睨(へいげい)できるデスクに眠たそうな顔

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  • 【第153回 直木賞 受賞作】『流』東山 彰良

    2015-07-02 13:50  
     プロローグ
     その黒曜石の碑(ひ)は角が取れ、ところどころ剥(は)がれ落ち、刻まれた文字もまたかなり風化していたが、それでも肝心な部分は辛うじて読み取ることができた。
    一九四三年九月二十九日、匪賊葉尊麟は此の地にて無辜の民五十六名を惨殺せり。内訳は男三十一人、女二十五人。もっとも被害甚大だったのは沙河庄で――(数行にわたって判読不能)――うち十八人が殺され、村長王克強一家は皆殺しの憂き目を見た。以後本件は沙河庄惨案と呼ばれるに至る。
     碑文を写真に収めてしまうと、とたんに手持ち無沙汰になって途方に暮れてしまった。
     腰をのばし、どこまでも広がる冬枯れの畑を見渡す。この日の青島の気温は一、二度しかないはずだが、天気晴朗にして風はなく、おかげであまり寒いとは感じなかった。
     かつてこの場所に集落があったとは到底思えないほど人煙(じんえん)は遠く、かすかだった。
     色の黒い年寄りがひとり、畦道

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  • 【第153回 直木賞 候補作】『ナイルパーチの女子会』柚木 麻子

    2015-07-02 13:49  
         1  泳ぎたいな、と思った。
     シャツ、スカート、下着を足元に脱ぎ捨て、素肌に水の柔らかさと光の屈折を感じて、音のない空間をどこまでも心の赴(おもむ)くままに進んでいきたい。水温が肌になじむにつれ、自分と世界の境界線が曖昧(あいまい)になり、体重も年齢も性別もその意味を失う。言葉を発しようとしたら、すべてあぶくになって高く高く昇り、白い彼方に滲(にじ)んでやがて消えていく。暑い季節は終わろうとしているのに、何故そんな風に思うのだろうか。
     そうだ。目の前の早朝のオフィスは、人の気配がない屋内プールによく似ているのだ。
     コースロープで区切られたように整然と並んだデスク、水面を思わせるしんとした薄青い無人の空間。塩素とインクのトナーのにおいも、何かを思い出しそうになる刺激臭という点で、非常によく似ている。誰にも邪魔されずに仕事をするため、一人になれる時間と場所を探したら、一日の大半

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