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記事 11件
  • 【2015 Jリーグ】浦和レッズ 武藤雄樹「君子、大海原を往く」(3/3)

    2016-01-25 18:00  
    仙台から浦和へ加入し、一気にブレイクを果たした。しかし、その道のりには確かな下地と、目標へ突き進む固い意志があった。浦和レッズの主軸としてトップスコアラーとなり、日本代表に選出されても、その向上心は一切衰えない。真摯に、ひた向きに、武藤雄樹の挑戦は続く。[浦和レッズマガジン10月号掲載]■武藤が開花させた新スタイル、その向上心に終わりはない 日本代表の一員として出場した東アジアカップでの2ゴールはまさに真骨頂だ。北朝鮮代表戦では遠藤航(湘南)の右アーリークロスをニアサイドで受けて鮮やかな先制ゴール。また中国代表戦でも左サイドバック・米倉恒貴(G大阪)のクロスを相手よりも一歩先んじてコンタクトし、同じくニアサイドからゴールを射抜いた。相手マーカーを引き離してゴールするその手法は巧みなフリーランニングの賜物だ。特に武藤の特徴は各エリアをまたいでプレーするエリアの広さにある。特定ポジションでプレ
  • 【2015 Jリーグ】浦和レッズ 武藤雄樹「君子、大海原を往く」(2/3)

    2016-01-25 18:00  
    仙台から浦和へ加入し、一気にブレイクを果たした。しかし、その道のりには確かな下地と、目標へ突き進む固い意志があった。浦和レッズの主軸としてトップスコアラーとなり、日本代表に選出されても、その向上心は一切衰えない。真摯に、ひた向きに、武藤雄樹の挑戦は続く。[浦和レッズマガジン10月号掲載]■浦和での左シャドーは天職 武藤はゴールゲッターとしての能力も元々備え持っていた可能性が高い。しかし仙台時代はバックアップの役割で出場機会が限られ、チームシステムが4─4─2だったことで彼の能力を開花させるポジションを見出せなかったのかもしれない。 その点では、今季の浦和での左シャドーは天職とも言える。後方から縦パスを受けてフリックパス、もしくは反転してドリブルを仕掛け、シンプルにボールを放して味方選手へ託し、自らはすぐさま動き直して決定的なエリアへ飛び込んでいく。これは本人から聞いて合点したのだが、彼曰く
  • 【2015 Jリーグ】浦和レッズ 武藤雄樹「君子、大海原を往く」(1/3)

    2016-01-25 18:00  
    仙台から浦和へ加入し、一気にブレイクを果たした。しかし、その道のりには確かな下地と、目標へ突き進む固い意志があった。浦和レッズの主軸としてトップスコアラーとなり、日本代表に選出されても、その向上心は一切衰えない。真摯に、ひた向きに、武藤雄樹の挑戦は続く。[浦和レッズマガジン10月号掲載]■新天地での飛躍は必然でもあった ベガルタ仙台から浦和レッズに移籍加入してからこれまで、武藤雄樹は全力で駆け抜けてきた。 2011年に流通経済大学から仙台に加入し、今季がプロ5年目になる。だから、新人ではなく即戦力として浦和から請われ、新天地での飛躍を期した。その不退転の決意はシーズンイン直後のキャンプで如実に示されていた。 2月の鹿児島キャンプの練習中に象徴的なシーンがあった。左シャドーのポジションに入った武藤が対角方向へフリーランニングすると、ミハイロ・ペトロヴィッチ監督がすぐさま全体のプレーを止め、通
  • 【ボクの履歴書】浦和レッズ ズラタン・リュビヤンキッチ【前編】(4/4)

    2016-01-18 20:15  
    [浦和レッズマガジン10月号掲載]■サッカーで生活するための下地ができた時代 当時のユーゴスラビア代表はオシム監督に率いられた黄金世代でした。デヤン・サビチェヴィッチ、ピクシー(ドラガン・ストイコヴィッチ)、ロベルト・プロシネチキ、ヴラディミル・ユーゴヴィッチ、シニシャ・ミハイロヴィッチ、プレドラグ・ミヤトヴィッチ、ズボニミール・ボバン……。素晴らしいチームでありながら、戦争が始まればサッカーのことは考えられなくなる。本当に悲しいことです。スポーツと戦争は決して共存できないのです。ところで、今の僕らのスロベニア代表の監督であるスロチコ・カタネッツは1990年のイタリアワールドカップに出場したオシム監督率いるユーゴスラビアの代表選手でした。彼もまた、素晴らしいキャリアを築いた選手でした。 僕は残念ながらオシム監督と一緒に仕事をしたことはありません。ただ、周囲の方々とよくオシム監督の話になりま
  • 【ボクの履歴書】浦和レッズ ズラタン・リュビヤンキッチ【前編】(3/4)

    2016-01-18 20:15  
    [浦和レッズマガジン10月号掲載]■戦争による悲しい出来事 僕が育ったスロベニアという国は様々な問題の中から建国された若い国です。僕が生まれる前にユーゴスラビアという大きな国家が存在したのですが、1989年から1990年にかけて問題が発生して国家が分かれることになりました。その中でユーゴスラビアから最初に離れたのがスロベニアです。僕の中でも複雑な家庭環境がありました。両親はボスニアの出身です。それを踏まえて、僕の家族は約1週間の戦争で親戚を失う経験をしました。親戚はすべてボスニアの生まれですので、それだけその地域で悲惨な出来事があったということです。スロベニアでは内戦が起きることはなかったと記憶しています。ただスロベニアの周囲の国々は争い事が多く続き、悲しい出来事が起こりました。僕の中では、数人の親戚を失った。それが最も悲しく、寂しい出来事でした。 内戦当時の僕は幼く、周囲の状況を理解して
  • 【ボクの履歴書】浦和レッズ ズラタン・リュビヤンキッチ【前編】(2/4)

    2016-01-18 20:15  
    [浦和レッズマガジン10月号掲載]■憧れはファンバステン 僕はチームスポーツが好きなんです。皆で何かを成し遂げる。仲間と結果を得る。それがサッカーの楽しさだと思っています。個人競技に比べると、サッカーはひとりの時間が少ない。それはピッチ上でもそうですし、日々の練習、遠征での移動などに関してでもそうです。その中で、例えば僕がゴールを決めた瞬間はすべての仲間と歓喜する感情になります。それが僕にとってのサッカーの魅力です。日々の生活の中で一体となった仲間とともに喜びを分かち合う。個人競技も選手、監督、コーチなどの集団で物事を成し遂げる形がありますが、それでもサッカーほどには集団が大きくない。それぞれの価値観があると思うのですが、僕はできるだけ多くの仲間と喜びを分かち合いたい。その中で、サッカーは僕にとって最適なスポーツなのです。 子どもの頃の僕が憧れていた選手はマルコ・ファンバステン(元オランダ
  • 【ボクの履歴書】浦和レッズ ズラタン・リュビヤンキッチ【前編】(1/4)

    2016-01-18 20:15  
    [浦和レッズマガジン10月号掲載]■首都・リュブリャナでサッカー選手を夢見る 僕が生まれたのはスロベニアのリュブリャナというところです。両親がボスニア・ヘルツェゴビナから仕事を求めて移り住んで、僕はリュブリャナで育ちました。 リュブリャナはスロベニアの首都で国内では大きな街なのですが、それでも世界的に見たら小さな街です。徐々に観光が有名になってきて、車も規制されて入れない道路も多く、街巡りをするのは快適です。アイスクリームが有名で、食事も美味しいですよ。僕も帰国した時は妻と一緒にリュブリャナの街で食事をしたりしますが、ロマンティックで雰囲気の良い街です。 両親は健在です。リュブリャナの僕の自宅から両親の家までは歩いて2分くらいの距離にあります。だから母国に帰れた時は毎日両親と会ってご飯を食べたりしています。今は約8カ月くらい帰国できていないので、母親の手料理を食べたいですし、少しホームシッ
  • 【OBからの手紙vol.12】Letter from福永泰(2/2)

    2016-01-12 19:30  
    会員無料
    1995年に浦和レッズへ加入した福永泰は、半年契約の立場ながらも地道にトレーニングに取り組み、トップチームで自らの立ち位置を確立。契約延長を勝ち取った。その後、福永は7シーズン浦和に在籍。02年には仙台に移ったが、負傷に苦しみ2年で退団し、04年の途中には現役を引退した。現在、解説業も務める福永は、古巣・浦和に熱視線を送るひとりとして、愛あるメッセージを残した。<br /><br />[浦和レッズマガジン8月号掲載]<br /><br />■4年の積み上げが花開いた1stステージの無敗優勝<br /><br /> 実は、僕はもともと半年契約で、7月末の状況次第で残れるかどうかが決まることになっていた。チームに加入した翌日からトップが海外遠征に出かけたことで、残った人たちで練習をして、サテライトで試合に出て認められて、中断期間のキャンプに帯同、トップの試合に出るようになって、数字も残せるよう

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  • 【OBからの手紙vol.12】Letter from福永泰(1/2)

    2016-01-12 19:30  
    会員無料
    1995年に浦和レッズへ加入した福永泰は、半年契約の立場ながらも地道にトレーニングに取り組み、トップチームで自らの立ち位置を確立。契約延長を勝ち取った。その後、福永は7シーズン浦和に在籍。02年には仙台に移ったが、負傷に苦しみ2年で退団し、04年の途中には現役を引退した。現在、解説業も務める福永は、古巣・浦和に熱視線を送るひとりとして、愛あるメッセージを残した。[浦和レッズマガジン8月号掲載]■プロの試合はイメージよりも華やかな世界だった 僕が浦和レッズに加入したのが1995年。最初のレッズとのコンタクトは、僕が青山学院大学3年の時で、当時三菱から出向していた中村修三さんが青学大のサッカー部の監督を務めていて、修三さんに「練習参加に行ってみれば?」と言われたことがきっかけだった。4年になってからも練習参加の機会はあったけど、僕はほかのクラブにも興味があったから、レッズ加入の話は保留にしてい

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  • 【OBからの手紙vol.12】Letter from都築龍太(2/2)

    2016-01-04 18:00  
    会員無料
    2003年にガンバ大阪から浦和レッズに移籍してきた都築龍太は、浦和が栄華を極めた時代のゴールマウスを守ってきた。約7年半の在籍期間には、時に挫折を味わいながらも、数々のタイトル獲得に貢献。現在は浦和のホームタウンで政治活動に励んでいる都築が、感謝の念を抱いているクラブへメッセージを綴った。[浦和レッズマガジン10月号掲載]■年間優勝への願い、ACLでの躍進を イラン・セパハンとの決勝のアウェーゲームは、イランにいる日数を極力減らすために、近郊のドバイで3泊か4泊合宿をして、確か試合前日にイランに入ったと思う。イランは治安も良くなかったし、外にも出られないだろうから、ストレスも溜まったと思う。でもそうしたクラブの配慮のおかげで僕たちは敵地でも十分に戦えた。いろいろな積み重ねの結果、ACL優勝を達成できてうれしかった。 クラブワールドカップの準決勝・ミラン(イタリア)戦はお互いに決定機の少ない

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