閉じる
閉じる
×
80年代からコラムやインタビューなどを通して、アメリカのプロレスの風景を伝えてきてくれたフミ・サイトーことコラムニスト斎藤文彦氏の連載「斎藤文彦INTERVIEWS」。マット界が誇るスーパースターや名勝負、事件の背景を探ることで、プロレスの見方を深めていきます! 今回のテーマは日本の女子プロレス史・前編です!
Dropkick「斎藤文彦INTERVIEWS」バックナンバー
■棚橋弘至vsクリス・ジェリコから見る新日本・AEW提携の可能性
■エンド・オブ・デケイド――プロレス界の2010年代
■新日本プロレスの“ケニー・オメガ入国妨害事件”という陰謀論
■WWEvsAEW「水曜日テレビ戦争」の見方
■WWEペイジの伝記的映画『ファイティング・ファミリー』
■AEWチャンピオンベルト盗難事件
■「ミスター・プロレス」ハーリー・レイスの偉大さを知ろう
■ウルティモ・ドラゴンの偉大なる功績を再検証する
■ネット社会に出現したニュータイプAEW、その可能性
■都市伝説的試合映像ブレット・ハートvsトム・マギー、ついに発掘される
■レッスルマニアウィーク現地取材レポート
■平成という「アントニオ猪木が去った時代」
■アメリカの新団体AEWは脅威になりえるか
■それでもケニー・オメガは新日本プロレスに残るか
■【追悼・爆弾小僧】すべてはダイナマイト・キッドから始まった
■“怪物脳”に覚醒したケニー・オメガ
■怪物デイブ・メルツァーと『レスリング・オブザーバー』
■新日本プロレスのMSG侵攻は「WWE一強独裁」に何をもたらすのか
■怪物ブロック・レスナーを通して見えてくる「プロレスの作り方」
■追悼・マサ斎藤さん……献杯はカクテル「SAITO」で
■皇帝戦士ビッグバン・ベイダーよ、永遠に
■ジャイアント馬場夫人と親友サンマルチノ、2人の死――
■ベルトに届かず…されど「世界に届いた中邑真輔」のレッスルマニアを語ろう
■ステファニー・マクマホン、幻想と現実の境界線がない生活
■ロンダ旋風、中邑&ASUKAダブル優勝!! ロイヤルランブル1万字総括
■アメリカンドリーム、ゴールダスト、コーディ……ローデス親子それぞれの物語
■ジェリコvsケニー実現で考える「アメリカから見たプロレスの国ニッポン」
■旭日双光章受賞!! 白覆面の魔王ザ・デストロイヤー
■みんなが愛した美人マネージャー、エリザベス!
■職業は世界チャンピオン! リック・フレアー!!
■怪死、自殺、大事故……呪われた鉄の爪エリック一家の悲劇
■ミスターTからメイウェザーまで! WWEをメジャー化させたセレブリティマッチ
■馬場、猪木から中邑真輔まで!「WWEと日本人プロレスラー」
■WWEの最高傑作ジ・アンダーテイカー、リングを去る
■『1984年のUWF』はサイテーの本!
■「現場監督」長州力と取材拒否
■ジェイク“ザ・スネーク”ロバーツ…ヘビに人生を飲み込まれなかった男
■追悼ジミー・スヌーカ……スーパーフライの栄光と殺人疑惑
■ドナルド・トランプを“怪物”にしたのはビンス・マクマホンなのか
――ブシロード傘下となったスターダムが女性ファン獲得に強い意欲を見せていますが、女子プロレスといえば10代の女性ファンが中心だった時代もありましたね。
フミ とくにクラッシュ・ギャルズ全盛時代はそうでしたね。後楽園ホールの超満員のお客さんは女の子ばかりで、まるで飛行機のジェットエンジンのような歓声。おそろいのハッピを着込んだ応援団。選手によって決められた色の紙テープを投げるタイミングも決まっていた。まるで宝塚歌劇団の世界でした。ですけど、その多くはプロレスファンじゃなかったんです。クラッシュ・ギャルズのファン。プロレスのことがあまりよくわかってなくて、アキレス腱固めに対して「落とせ!」コールの大合唱を送っていたんです。
――アキレス腱固めは相手を落とす技ではないですね(笑)。
フミ クラッシュ・ギャルズ以前の女子プロレスの世界は男性ファンが中心だったんですが、もともと女子プロレスはどちらかといえば大衆芸能に近いジャンルで、スポーツとして認められていなかったんです。その始まりは1954年(昭和29年)、力道山・木村政彦vsシャープ兄弟という日本プロレスの夜明けの年と同じなんですね。
――歴史自体は日本の男子プロレスと変わりないんですね。
フミ そのルーツも民俗学的な議論の対象になったりはしているんです。プロレスそのものはアメリカからやってきたものですけど、日本の女子プロレスの場合は女相撲の流れを汲んでいるという学説もあって。女相撲にルーツを求めると17世紀まで遡ることになるんですが、女相撲は1930年代あたりまでは現存していたらしいんです。つまり日本が第2次世界大戦に突き進んでいった時代あたりまで。ただ、女相撲はスポーツとしては報道されてこなかったために記録や文献が少ない。現在の女性の自立、女性の活躍の歴史を探るために、女相撲を調べている方もいらっしゃるんですが、いかんせん資料自体があまり見当たらないんです。スポーツとして報道されたりしていれば、新聞の記事に試合結果が残っていたりしますよね。「◯月◯日にどこで試合があった」と。でも、大衆芸能寄りにカテゴライズされるものなので、競技としての記録は残ってなかったんですね。
――あくまでも芸能として捉えられていたんですね。
フミ 女相撲の文献は、その末裔の方の親戚の家の押し入れの中に、写真や会場で配ったと思われるチラシが発見されたりする程度でした。 どうしてその女相撲が女子プロレスに結びつくかといえば、日本の女子プロレスは男子のプロレスの一部門から始まってはいないからなのです。
――女相撲といった大衆芸能の流れから生まれたものであるということですね。
フミ 言葉は悪いですが、どちらもドサ回り、つまり巡業公演をするものですからね。アメリカの女子プロレスのルーツをいえば、コーラ・リビングストーン、ミルドレッド・バークという人たちがいたり、みんなも知ってるファビラス・ムーラがいます。彼女たちが稽古をつけてデビューさせた女子プロレスラーも多かったんですが、あくまで男子の興行の中に女子の試合が1試合だけレイアウトされていただけ。あれだけ広大なアメリカという国でも、1940~50年代には女子レスラーの数は100名にも満たなかった。女子プロレスラーのなり手が少ないというよりはディスプレイされる場所がなかったということなのかもしれません。
――女子プロレス団体があればまた違ったんでしょうね。
フミ ミルドレッド・バークが1930年代から1940年代にかけてスーパースターになったのは、アメリカは第2次世界大戦でヨーロッパに百万人単位の兵隊を送っていたために男性の人口が減ってしまったというひとつの要因があった。プロレスも然りで選手が手薄になったところにミルドレッド・バークが全米でメインイベントを張っていたからなんです。日本で初めて力道山を主役としたプロレスが行なわれた1954年(昭和29年)11月に、そのミルドレッド・バークの一座が単独で来日して興行を行なっているんですね。 場所はGHQが接収したメモリアルホール(旧・両国国技館)。そこで3日連続1万人興行をやっているんです。来日したのはミルドレッド・バークを含めた6選手。そこに加わったのは、日本人初の女子レスラーと言われる猪狩貞子、法城寺宏衣らなんです。
この続きと、追悼ケンドー・ナガサキ、暗黒・新日本、亀田vsJBC、井上直樹、平田樹…などの2月更新記事が550円(税込み)でまとめて読める「11万字・記事22本の詰め合わせセット」はコチラ
https://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar1871460
この記事の続きだけをお読みになりたい方は下をクリック!1記事85円から購入できます!
この記事は有料です。記事を購読すると、続きをお読みいただけます。
入会して購読
この記事は過去記事の為、今入会しても読めません。ニコニコポイントでご購入下さい。