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2013年7月の記事 5件

【大山くまおの「ドラゴンズ談話室」(7)】“あの”山井がノーヒットノーラン。強い巨人を倒すのもドラゴンズ!

 どうにもこうにも毎日暑いですね。われらがドラゴンズは、オールスター前の6連戦を5勝1敗、しかも宿敵巨人を3タテ! と、ようやく上昇気流に乗ったところ。このままの勢いで後半戦を突っ走ってほしいものです。  前半戦のドラゴンズからは、谷繁選手の2000本安打をはじめ、さまざまな記録が生まれました。なかでも特筆すべきなのが山井大介投手の記録したノーヒットノーランです。山井投手といえば、日本中を話題騒然とさせた2007年日本シリーズ第6戦における8回までのパーフェクトピッチングとその後の途中降板が多くの人の記憶に残っていることでしょう。2010年8月には、巨人戦で9回無死までのノーヒットノーラン未遂も経験しています(坂本め!)。3年後、3年後と来て、7年越し3回目の挑戦で念願のノーヒットノーランを達成したわけです。その間には、丸2年間勝ち星から見放されている時期もありましたし、クローザーに配置転換されて活躍した時期もありました。どん底の時期、さまざまな苦労の時期を経たうえでの大記録ですから、われわれファンの感動もひとしおでした。  ところで、ドラゴンズでは今までに山井投手を含めて11人のノーヒッターが生まれています。その顔触れは、そのままドラゴンズの球史と言っても過言ではありません。簡単ではありますが、11人を振り返ってみましょう。  ドラゴンズ史上最初のノーヒッターは、西沢道夫です。彼の名前を聞いてピンと来る人も多いと思いでしょう。西沢道夫こそ初代ミスタードラゴンズ、彼の背番号15番はドラゴンズの永久欠番になっています。西沢がノーヒットノーランを達成したのは1942年のこと。中日新聞社が発足した年であり、まだドラゴンズは前身の名古屋軍でした。この年、西沢は世界最長記録である延長28回を1人で完投しています。また、戦争を挟んで打者として復帰して大暴れ、1954年の最初の日本一にも大いに貢献しました。なお、1950年に記録した「3割30本100打点100得点」はドラゴンズの選手としては福留孝介まで到達する打者のいなかった記録です。文字通りのスーパーマンであり、永久欠番も当然といった感じです。  西沢が記録した翌年の1943年には、石丸進一が記録しています。戦火の中で達成された戦前最後のノーヒットノーランとして記録されています。石丸は1944年に学徒出陣によって召集。1945年、ノーヒットノーランを達成したわずか2年後に自ら神風特別攻撃隊に志願し、沖縄の海に散りました。石丸は特攻隊員として亡くなった、唯一のプロ野球選手です。出撃前に同僚とキャッチボールを行い、「これで思い残すことはない」と笑顔で叫んでグラブを放り投げ、飛行場へ去って行ったエピソードがよく知られています。特攻前にはボールに「われ人生 24歳にして尽きる」と遺書を記しました。石丸については、牛島秀彦『消えた春―特攻に散った投手石丸進一』(河出文庫)が詳しいので、興味を持った方はご一読ください。  次のノーヒッターは、ご存じ“御大”ことドラゴンズ球史を代表する大エース・杉下茂です。“魔球”フォークボールを駆使し、1954年には32勝を挙げて日本一の原動力となりました。杉下がノーヒットノーランを達成したのは日本一の翌年の1955年のこと。国鉄を相手にあの400勝投手・金田正一と投げ合い、1対0のスコアで勝利しました。出した走者は四球の1人だけという準完全試合、その四球の相手も金田だったといいます。なお、金田は1957年にドラゴンズ相手に準完全試合を達成していますが、そのとき投げ合ったのも杉下でした。「自分が見た最高の投手は杉下茂さん」と“天皇”カネヤンに言わせるほどの存在であり、2人は終生のライバルだったのです。  わずか2年後の1957年には、大矢根博臣がノーヒットノーランを記録しています。シュートを武器に、杉下とともにドラゴンズの主力投手として活躍、1956年と1958年にはそれぞれ20勝以上をマークしました。成績だけ見ると典型的な“隔年投手”でしたが、その狭間の年にノーヒットノーランを記録するのですから、やはり名投手なのでしょう。三振を奪うというより内野ゴロを打たせて取るタイプのピッチャーで、ノーヒットノーランのときも三振は2つだけでした。引退後はドラゴンズOB会副会長を務め、現在は名古屋市内でスナックを経営しているのだとか。  中山義朗(中山俊丈)がノーヒットノーランを記録したのは1964年のこと。ドラゴンズには幾多の名サウスポーがいましたが、2年連続で20勝を挙げた左腕は中山だけです。戦後初めて巨人相手にノーヒットノーランを達成したことから、“巨人キラー”と呼ばれました。杉下、星野、山本昌、川上ら名だたる巨人キラーを輩出しているドラゴンズですが、中山もその1人なのです。不調や故障に苦しみ、2年間勝ち星ゼロから復活してのノーヒットノーラン劇でした。そのあたりの経緯は山井とも似ていますね。  

渋井哲也の「生きづらさオンライン」

子ども・若者の生きづらさ・自殺・自傷・ネット心中・家出などをメインに取材してきたフリーライター渋井哲也のメールマガジンです。インタビューや事件取材、裁判傍聴を通じて、生きづらさの背景を探ります。テーマは主に子ども・若者たちの生きづらさですが、大人たちの「子ども・若者時代」も関連するものは取り上げて行きます。歌舞伎町やキャバクラの話もしていくつもりです。*ブロマガでは、相談や質問を受け付けています。宛先はメールで。hampen1017@gmail.com 回答はQ&Aなどで答えていきますが、プライバシーの問題や個別性が高いと判断できるときには個別にメールを差し上げます。

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渋井哲也

フリーライター。1969年10月、栃木県生まれ。1998年8月、長野日報社退社。以後フリーに。若者の生きづらさ、自殺、自傷行為、援助交際、家出、少年犯罪、ネットコミュニケーション、ネット犯罪などを取材しています。2011年3月11日の東日本大震災、それに伴う東京電力・福島第一原発の事故も取材している。

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