数小節弾いただけで、私の自信は完全に打ち砕かれました。確かに私は夢見がちな少女でした。でも、だからといって、ただ甘美な死を思い、その幻想だけが私を決死のピアノ演奏に駆り立てたわけではなかったはずなのです。疲れ果て、気が狂いそうになるまでピアノと過ごした時間。厳しいと評判のピアノ教師が口元をゆるめて与えた賞賛。私がどこへいっても、まずピアノが評判になり、そしていつだってピアノをきっかけに温かいものを手に入れられる。そうした手応えのある実感の上に、私のピアノへの思いは作られていたのです。死を覚悟して演奏に望むと言うその張りつめた精神が、私をきっと未知の領域に連れて行ってくれると、そして素晴らしい演奏をさせてくれると、そんな期待は確かにあったのです。心臓を捨てれば、すごい演奏が出来るんじゃないかと。しかし、彼の演奏は残酷でした。それは私が想像もしたことがないような、素晴らしい演奏でした。到底、私が練習してきたものと同じ曲を演奏しているとは思われません。溜息だって出ません。彼の北極星の高みに比べれば、私の決意など、靴底を厚くするために命を捨てるような滑稽なものだと、気づかないわけにはいかなかったのです。私がたった一つしかない心臓を潰して、血みどろになりながらどうにか一歩前へ進んだとしても、彼の背中は遥か遠く地平線のむこうにあるんです。彼は私より一つ年上だからと、そう考えてみても何の支えにもなりませんでした。私の人生は、努力は、全て無駄なのだと、頭の覚めた部分が私に囁き続けるのです。自分がしてきたものを努力とか練習と呼ぶことさえ、顔から火が出るほど恥ずかしく思われました。
これほど的確にグレートネス・ギャップによる絶望を描き出した場面をぼくはほかに知らない。天上遥かなる「北極星の高み」。それに比べれば、自分の命がけの決意すら「靴底を厚くするために命を捨てるような滑稽なもの」に過ぎない……。これほどの絶望があるだろうか。
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天才を負かした時点でそいつは凡人じゃない
カダカっていうイーサンホーク主演の映画を見るといい
なんともいえないな そういう天才と互角以上の対決をしてる時点でそいつも天才だと思うし、そうやって毎回負けを見てるから前に進むことができないのかもしれないし まぁ 天才でもすごいやつはそれなりの努力はしてる そして一歩が常人より大きすぎる最高速度最低速度じゃなくて歩幅がでかいんだ遅くなることはないだろ? 同じ一歩で差がでるんだから
ハイフェッツ病になったヴァイオリニストは多分こういうのを味わったんだろう。うん。
絶対的に強い棋士というのは、鏡のような存在だと思います。自分が最高の手を指せば、相手も厳しい手を返してきてくれます。(2冠に後退したとはいえ)羽生さんは今でも最強の棋士だと思っています。羽生さんに比べると自分はまだまだ弱い。ただ、勝ち負けは別です。弱い棋士だって、勝つことはあります。羽生さんとの番勝負で、今の自分の実力を測りたいと思っています。
深浦康市
>>11
羽生さんと戦うことができる深浦九段も、
素晴らしい棋士だと思います。
これからも、がんばって素晴らしい将棋を指してください。
そんな時私は方向を変える。努力の方向を。
3月のライオンは同じシーン読んで良いなー。と思っていたぐらいなんですが、凄いです。ここまで読み取れるなんて。
興味深い記事でした。
才能と言えば、同じく『ヒカルの碁』の「誰にも負けたくないと思う一方で自分など遠く及ばない力にあこがれるのは、そいつが歩いていく先を見たいからだ。自分をはるかに超えていくその先を」という門脇の台詞が印象に残っています。
才能や天才に関する門脇のこの考え方は、自分の中でとてもしっくりきました。
もしかしたら多くの人間が根底に持っている本能的な願望なのかもしれないなあ、と。
宗谷を「信用し過ぎた」島田の中にも、このような願望があったのかどうかは定かではないですが。
相手を理由に努力を怠る理由にはならない
相手を理由に歩かなくていい理屈にはならない
大事なのは自分自身なのだから