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記事 74件
  • 庭について:その74(1,816字)

    2024-04-19 06:00  
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    偕楽園といったらなんといっても「梅」である。園の北東側に広大な梅園が広がっている。その数は約3000本にも及ぶ。
    そして、園のもう半分、南西側には竹や杉の鬱蒼とした森が広がっている。この梅園と森との関係が、「太極図」のような陰陽の世界を表現している。明るい梅園に対し、暗い森。それらが対になることで、偕楽園は一つの世界観、あるいは思想を示している。
    偕楽園の梅は、もともとは水戸の領民に楽しんでもらうのと同時に、弘道館の生徒たちにも心安まる場所を提供したいという思いがあって植えられた。つまりそこには、この世の「陽」を多くの人に味わってもらいたい――という思想があった。
    徳川斉昭は、陽の世界に通じること――すなわちよく遊び、よく休んでこそ、陰の世界――すなわちよく学び、よく働き、よく戦えると考えていた。
    ちなみに、偕楽園から弘道館までは徒歩で30分ほど離れているが、弘道館の庭にもたくさんの梅が植

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  • 庭について:その73(1,728字)

    2024-04-12 06:00  
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    偕楽園は水戸藩の第九代藩主徳川斉昭が、1833年に作ったものだ。つまり、江戸の末期である。
    斉昭は、優秀な政治家であり、またカリスマ性の強い思想家だった。世の中を良くしようと、徳川家の内側からいろんな改革を実行した。ちなみに、徳川最後の将軍徳川慶喜は、彼の実子である。
    斉昭は、気性が激しいことから烈公と呼ばれた。彼は、祖先でもある水戸光圀が創始した水戸学の強く信奉していた。そうしてこれを、日本中に広めた。
    するとそれは、多くの若者に影響を与え、後に明治維新が起こったり、あるいは教育勅語が起こったりすることのバックボーンともなった。その意味で、斉昭は日本近代化の陰のキーマンともいえる。
    「水戸学」とは、端的にいうと「日本主義」だ。日本という「国(国体)」がとても重要で、何ごともこれを中心に考えなければならない――そういう思想である。
    これの最大の特徴は、日本という存在を徳川や天皇よりも上に置

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  • 庭について:その72(1,748字)

    2024-04-05 06:00  
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    岡山の後楽園は、実によくできている。
    まず「物語」がある。昔は戦争のために作られたお堀が、平和になって必要なくなった。そこで放水路を新たに作って水量を減らし、湿地を使える場所にした。
    その大規模干拓工事の際に、ついでに庭を造ろうということになった。それは、干拓工事の記念でもあるが、同時に江戸時代の新しい戦い――すなわち「武」ではなく「美」の戦い――に舵を切るということでもあった。
    また、庭造りは池田綱政の趣味でもあった。そこで遊ぶのが最大の目的だが、同時に接待の道具にもなった。訪問客に、自分の権力や審美眼、デザインセンスを誇示する芸術作品だ。
    そんなふうに、後楽園の来歴にはいくつもの目的があった。それらが折り重なることによって、魅力的な物語を紡いでいるのだ。
    その池田綱政には、良きパートナーがいた。ここまで見てきたように、西洋のすぐれた庭も、たいていが趣味人の貴族が優秀な庭師との共同作業で

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  • 庭について:その71(1,796字)

    2024-03-29 06:00  
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    岡山城の周囲は、もともとあった川をねじ曲げてお堀としたため、たびたび氾濫に見舞われていた。それを、別の川を放水路として設けることで緩和し、おかげで湿地帯だったところが使える土地になった。それで、藩主は喜んでそこに庭を作った。そういう物語を持っている。
    ときは1687年である。江戸開闢からすでに90年近くが経過して、戦はもはや過去のこととなった。攻めてくる敵はいない。一方、経済や文化芸術の発展はだいじだ。
    そこで、安全になった城の外に、経済発展と文化芸術の促進を兼ね備えた庭を作ることが大名の間で流行った。いわゆる大名庭園である。
    その大名庭園の中でも、代表的なのが兼六園、後楽園、偕楽園なのだ。この3つの庭園は、建設当時から評価が高かった。後楽園も、文句なくできがよかった。それで、自然と守ろうとする気運が高まり、現代にも受け継がれている。
    大名庭園の最大の魅力は「権威」だと以前に書いた。権威は

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  • 庭について:その70(1,912字)

    2024-03-22 06:00  
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    今回は、日本三名園の一つ、後楽園について見ていきたい。
    岡山後楽園の成り立ちは、これもまた江戸時代っぽい。まずまだ戦国時代の1597年、豊臣家の家老であった宇喜多秀家が、今の岡山市を南北に貫く旭川のほとりの小高い丘の上に城を建てた。これを、小高い丘の上に建てたことから「岡山城」と名づけた。
    このとき、横を流れる旭川をお堀として有効活用するため、できた城をぐるりと取り囲むように大きく流れを迂回させた。すると城の安全性は高まったが、流れが不自然になってしまい、水量が増えると水が詰まって、城の上流がたびたび洪水に見舞われるようになった。
    この築城したときはちょうど戦国時代のピークだったから、城はなによりも戦争のためのものだった。多少の洪水には目をつむって、防御力を最大限高める必要があった。
    しかし戦国の世が終わって平和になると、洪水のうっとうしさだけが残った。しかし、今さら流れを元に戻すこともで

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  • 庭について:その69(1,752字)

    2024-03-15 06:00  
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    1
    日本三名園はいずれも「大名庭園」である。大名庭園とは、その名の通り大名が造った庭園のことで、江戸時代には大名が庭園を造ることが流行っていたのだ。
    庭園は、表向きは大名の保養や趣味、接待のための場所として作られた。そうして、大名自身が造り、周遊することを楽しんだり、家臣や藩民、お客さんに楽しんでもらったりした。
    形式はいずれも池泉回遊式庭園である。つまり真ん中に池があり、その周りに道を配して、歩いて楽しむ。
    そう考えると、大名庭園は江戸時代のテーマパークそのものである。そこを訪れることで、自然や芸術、あるいはお茶などのイベントや花見などのアトラクションを楽しむための空間だった。
    だから、日本三名園が今も観光名所となっているのは、設立当初の目的に適っている。逆にいうと、300年前に作られたテーマパークが、今なお現役で人気を博しているのがすごい。いかに江戸時代の造園を含む文化全般が魅力的だったか

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  • 庭について:その68(1,701字)

    2024-03-08 06:00  
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    2
    「日本三名園」という呼び名は有名だが、個々の庭園について詳しく知る人は少ないのではないか。ちなみに「日本三大○○」の最初は「日本三景」すなわち「松島・天橋立・宮島」だといわれている。
    この三名園に共通するのは、いずれも江戸時代に作られた回遊式庭園ということである。すなわち桂離宮の深甚な影響下にあるということだ。
    江戸は徳川の治世だが、各大名がそれぞれの藩を統治する一種の合衆国であった。そのため、大名のうちの何人かは、権力を誇示するためと、数寄者としての個性を発揮するため、庭造りに力を傾けたのである。
    それで、各地にいくつもの大名が作った庭ができた。これらを「大名庭園」ともいう。いずれも回遊式庭園で、真ん中に池を設け、その周りに遊歩道を配した。作られた場所は、藩内郊外の別邸が多かった。
    また、江戸の各大名の下屋敷にも庭は積極的に造られた。そのため、江戸はある意味庭園だらけだった。ただし、時代

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  • 庭について:その67(1,739字)

    2024-03-01 06:00  
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    今気づいたのだが、「桂離宮」と「千利休」は、字や意味は全く違うけれども、ともに同じ「りきゅう」である。「りきゅう」という語感は、庭と深い縁があるのかもしれない。
    「離宮」は「皇居の別に設けられた宮殿」という意味だ。つまり桂離宮は天皇の別邸だった。ただし「離宮」と呼ばれるようになったのは明治になってからで、できた当時は「別業」と呼ばれていた。別業とは別荘という意味である。桂にある天皇の別荘なので、「桂別業」というわけだ。
    桂離宮が建てられたのは17世紀の初頭、1615年頃、つまり江戸時代に入ってすぐの頃である。場所は、京都の西に流れる桂川の、やや上流の西岸沿いである。
    昔は、鴨川と桂川のあいだがいわゆる「都」で、川を渡るとそこは「郊外」とされた。桂離宮は、その桂川を渡った外側にあるので郊外である。
    桂離宮のある場所(京都市西京区桂)は、それ以前から貴族の別荘地として有名だった。郊外から京都の

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  • 庭について:その66(1,876字)

    2024-02-23 06:00  
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    千利休の業績と影響はとてつもなく大きく、その弟子たちもまた活躍した。彼らは利休七哲などと呼ばれた。
    このうち、よく名前を挙げられるのが古田織部である。彼は、利休の「人の真似をするな」という言葉に従い、そのマインドは継承しつつも、師匠とは趣の違った自分なりの趣味というものを押し出し、茶人として大成していった。
    それはマンガ『へうげもの』で紹介され現代人にも知られるところとなったが、一言でいうと「ケレン味がある」というものだ。例えば、利休ははからずも歪んでしまった陶器の茶碗を「侘び寂び」あるいは「ケレン味がない」ものとして好んだが、古田織部は逆に、作るときにわざと歪ませ、その数奇さを楽しんだ。
    古田織部の好んだ茶室や茶庭も、千利休のようにぎりぎりまでバランスを突き詰めた精神性の高いものではなく、型破りの、戯画的で、アバンギャルドなものだった。いうならば、古田織部は利休の「アンチテーゼ」あるいは

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  • 庭について:その65(1,628字)

    2024-02-16 06:00  
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    茶室は戦国時代に都市部の町家(商家が立ち並ぶところ)で、豊かな町人たちの間で発展した。市中の人工の建物が林立するところに、朽ちかけた山奥の農家(侘び寂びの理想)を写し取ろうと、小さな庭つきの応接小屋を建てたのが始まりだ。
    町家は、通りに面した間口はだいたい商店になっているため、人々はその奥に住んでいた。それで、家に入るには間口の脇の、細い道を通っていかなければならない。今でも、京都の町家などに残る人二人がようやくすれ違えるだけの細い道である。
    これを昔は「通り道」といって、そもそも商人たちは小さな庭として飾り立てることを好んでいた。それが、やがて茶室が流行って屋敷の最奥にそれが設けられるようになると、そこに至る道を、茶室の庭としての役割も兼ね、「山寺へと至る道」に見立てるようになる。屋敷の奥に、山中に佇む古屋のミニチュアを作ろうとしたのだ。
    その「道兼庭」を「露地」と呼んだ。今でも、建物が

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