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記事 45件
  • 石原莞爾と東條英機:その45(1,708字)

    2024-04-22 06:00  
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    満州事変で石原莞爾が激動の中心にいた頃、東條英機は何をしていたのか?
    彼は東京にいた。歩兵第一連隊長として、出世街道のほぼど真ん中を順調に歩んでいた。
    一方で、東條は一夕会でもど真ん中を歩いている。一夕会のトップは押しも押されもしない永田鉄山だったが、東條はその直下のナンバーツーだった。そして、忙しい永田に代わって、一夕会の中心的な役割を担っていたのだ。いうならば「幹事役」だった。
    ここまで見てきたように、一夕会は静かなるクーデターを目指した反逆者たちの集まりだ。彼らの目的は二つあって、一つは陸軍の合法的な乗っ取り(と改革)、もう一つは満蒙問題の解決である。
    そうして一夕会のうち板垣・石原ラインが満蒙問題――すなわち満州事変の中心的役割を担っていたため、東京にいた永田・東條ラインが静かなるクーデター――すなわち陸軍の改革を担うようになっていった。
    そこで東條は、歩兵第一連隊長という役職に就

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  • 石原莞爾と東條英機:その44(2,107字)

    2024-04-15 06:00  
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    石原莞爾はスイスから帰国した直後、仙台の歩兵第四連隊長に着任する。これは、心身の疲れから引退を申し出た石原を引きとどめるため、陸軍上層部が用意したポストだった。石原の故郷である山形に近い地で、石原の好きな歩兵たちとの仕事だ。そこで心身の疲れを癒してほしいという狙いがあった。
    ここから分かるのは、このときの陸軍上層部は石原に対して破格の扱いをしていたということだ。それは、満州事変の成功を評価してのものだ。満州事変と満州国の成立は、陸軍としても強く望んでいた、心から嬉しいできごとだった。それを主導してくれた石原に対する感謝の気持ちもあって、この人事になった。
    また、陸軍上層部は石原の「好み」もよく分かっていた。普通のエリートなら田舎の連隊長など絶対に望まない。もし配置されたら、「自分は左遷された」と大いに嘆くところだろう。
    しかし石原は、陸軍に入ってから除隊するまで、一貫して出世を望まなかった

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  • 石原莞爾と東條英機:その43(1,568字)

    2024-04-08 06:00  
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    石原莞爾は事変がなった後、満州での参謀の職を解かれ、日本に戻される。このとき、事変において上司に無断で自らが兵を動かした責任を取り、陸軍の除隊を申し入れる。が、慰留された上に大佐に昇進までさせられて、踏みとどまった。
    このことで分かるのは、石原は満州事変がなった瞬間から、それに必ずしも満足してはいなかったということだ。特に事変がなった直後、さまざまな政治勢力が介入し、混沌とした状況に陥った。だから石原自身は、それを計画・実行した首謀者とはいえ、離れられて少しホッとしたところがあったろう。
    この後、石原は事変をよく知る者として、松岡洋右全権に随伴して国際連盟が行われたスイスのジュネーブまで行く。ただし、このとき日本の方針はすでに陸軍上層部や政府などによって決定していたため、石原の意見が求められることは一度もなかった。
    おかけで石原も、同行はしたものの会議そのものには関心を示さず、もっぱら自分

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  • 石原莞爾と東條英機:その42(1,952字)

    2024-04-01 06:00  
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    「満州」は、中国大陸のうち朝鮮半島と接している東端の部分だ。そこを北へ行くと、ロシア(ソ連)とも国境を接している。満州の北側は北海道よりも緯度が高く、冬は非常に寒い。鉄道が通るまでは、ほとんど未開の土地であった。
    それが、20世紀に入ってからの鉄道の拡大で、一気に開発されていく。そして日本は、そこにおける鉄道の利権をロシアと争い、日露戦争が起きるのだ。これに勝利した結果、満州の鉄道利権は日本のものとなった。
    満州の南側半分を南北に貫く鉄道が「南満州鉄道(満鉄)」である。満州の主要な都市は、主要港である大連、奉天、満州の首都となる新京(長春)、ハルビンと、皆この満鉄沿いに連なっている。だから、満鉄は文字通り満州の背骨であり、逆にいえば満鉄が、満州という国家の根拠ともなっていた。
    1932年3月1日、柳条湖事件から約半年後に、満州国は成立した。コンセプトとして、石原莞爾の草案した「五族協和」が

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  • 石原莞爾と東條英機:その41(1,897字)

    2024-03-25 06:00  
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    関東軍は、満州事変の成り行きを見ながら、満州国の建国と、そこにおける溥儀の皇帝擁立を決めた。つまり満州は、日本に組み込むのではなく、またその統治下とするのでもなく、独立国として存在させ、その権威づけに溥儀を利用しようとしたのだ。
    溥儀とは誰か?
    愛新覚羅溥儀は、清の最後の皇帝である。いわゆるラストエンペラーだ。1906年に生まれ、1967年に亡くなる。生まれたのは最後の封建国家で、多感な時期に革命や戦争を経験し、20世紀後半の平和の中で亡くなった。まさに激動の生涯だったといえよう。
    溥儀は、1908年にわずか2歳で清の第12代皇帝に即位する。が、1912年の辛亥革命で清が倒れたことにより退位させられる。このとき6歳だった。2歳で即位し、6歳で退位するのだから、なんともいえないジェットコースターだ。
    その後、中国の政局が二転三転するに連れ、立場を翻弄させられる。次第にヨーロッパ各国が中国を実

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  • 石原莞爾と東條英機:その40(1,693字)

    2024-03-18 06:00  
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    石原莞爾は満州事変を計画し、現場で指揮した。ただし、石原には権限がないので、あとは上の者が乗っかってくるかどうかが勝負だった。上の者とは天皇までをも含む。石原は、満州事変で日本そのものを動かそうとしたのだ。
    しかしもちろん、石原が単独で計画したのではなく、そこには板垣征四郎のバックアップがあり、さらに永田鉄山のプロデュースがあった。この謀略の首謀者は、一夕会そのものだともいえる。一夕会が軍部を動かし、政府を動かし、日本を動かしたのだ。
    張学良が指揮する軍隊の兵力は、総勢で約45万だった。これに対して石原が率いる関東軍は、約1万だった。実に45倍の差がある。
    それでも石原は、電光石火の早業で張学良を混乱させた。そうしてずるずると反撃のいとまを与えないまま、順次満州各都市を占領下に置いていったのだ。
    こうして満州の占領は既成事実化され、日本政府もそれを追認する形となった。全ては事後承諾だったが

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  • 石原莞爾と東條英機:その39(1,824字)

    2024-03-11 06:00  
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    当時の陸軍将校には有り体にいって「バカ」と「ずる賢いやつ」しかいなかった。ちなみにここでいう「バカ」とは、勉強はできるが考える力がない者のことだ。バカは皇道派になり、ずる賢いやつは統制派になった。
    そして、バカとずる賢いやつは相性が悪い。文字通り犬猿の仲である。ぼくもずる賢い人間だが、バカがこの世で一番苦手である。
    ところで、なぜ陸軍には「ずるくなくて賢いやつ」がいなかったのか? それは全部山縣有朋のせいである。山縣有朋がずるい政治を長年に渡って続けてきたから、賢いやつは皆それに倣ったのだ。
    そういうふうに、ずるさは伝播する。組織の風紀を決定的に乱す。だから、リーダーがずるいやつでは絶対にダメだ。自慢ではないが、ぼくもリーダーに向いていない。リーダーは、バカでもなく、かといってずる賢くもない人間がするべきだ。
    林銑十郎は旧加賀藩、つまり朝敵側の武家の出身だった。ところが、山縣有朋が権勢をふ

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  • 石原莞爾と東條英機:その38(1,909字)

    2024-03-04 06:00  
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    満州事変の直前まで、張学良は中国軍と手を結んで、満州鉄道の隣に新たな鉄道を建設し、これの実質無効化を計画していた。
    これが一つのきっかけとなって、日本軍はとうとう陰謀に打って出る。指揮をしたのは板垣征四郎で、作戦を立案したのは石原莞爾であった。
    ただこのとき、板垣と石原は、いかに蜜月の中であろうと、「満州の未来をどうするか」という事変の基本コンセプトについて、とことんまですり合わせたわけではなかった。それは、なにしろ作戦が成功するかも分からなかったから、そこまで先のことを話すのは「取らぬ狸の皮算用」で、あまりよろしくないというのがあったのだろう。
    しかし、ここでコンセプトを明確にすり合わせておかなかったことが、後々満州事変の「失敗」を招くことにもなる。コンセプトが不明確だったため、後から来た他の勢力に「コンセプトの乗っ取り」を許すのだ。
    そうして石原には、それを跳ね返すだけの膂力、また求心

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  • 石原莞爾と東條英機:その37(1,931字)

    2024-02-26 06:00  
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    満州は中国(漢)の一部ではあったが、モンゴル人や朝鮮人も数多く入植し、異国の文化もかなり混入していた。そうして満州独自の文化というものを形作っていた。
    さらにそこへ北方から侵略を窺うロシアの文化も流入され、実に混沌とした状況だった。中国、モンゴル、朝鮮、ロシア、そして日本が、元からいた現地民と入り乱れている状況だった。
    そういう状況の中で、日露戦争においてロシアの侵略を排撃した日本及び日本軍は、満州における鉄道の運営と国土の防衛を担うようになった。これを契機に日本の資本などが入って、近代化と開発とが急激に進んだ。そうして、石油や石炭などの発掘が盛んに行われるようになったのだ。
    この鉱物資源は、戦争に欠かせないエネルギー供給源となったため、日本陸軍に重要視される。特に第一次世界大戦における「総力戦」をヨーロッパ現地で視察した永田鉄山は、「満蒙(満州とモンゴル)こそ日本の生命線」と考える。そも

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  • 石原莞爾と東條英機:その36(1,686字)

    2024-02-19 06:00  
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    張作霖爆殺事件の後、日本陸軍の陰謀だったことが、やがて張作霖陣営はもちろん、満州の一般人にさえ知られるようになった。しかし陸軍及び日本政府は、その事実を最後まで否定した。その一方で、陰謀の首謀者であった河本大作を左遷し、またその責任を取って田中義一内閣が総辞職するなど、ちぐはぐな事後処理となった。
    それで、陸軍の仕業だったということはもはや公然の秘密になる。おかげで、満州の日本に対する反発はかつてないほど高まった。すると、その後押しを受けて張作霖の息子である張学良が、父の軍閥を引き継ぐ。
    しかも張学良は、中国と協力体制を取り始める。父の張作霖は、中国とも対立し、満州の独立を目指していた。そのため日本にもつけいる隙があったのだが、張学良がその中国と手を結んでしまったため、日本の満州での影響力はさらに低下せざるを得なくなった。これが1928年のことである。
    一方その頃、日本では二葉会、木曜会、

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