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先日、ぼくが監修した新しい本『最後のプレイボール~甲子園だけが高校野球ではない~』が発売された。高校野球に携わる選手やマネージャー、指導者、あるいはその家族の実話を集めたドキュメンタリー集だ。全部で22編の物語が収録されている。
その中に印象的なエピソードがあった。
そのエピソードの主人公は、医者の家系に生まれた。彼は、子供の頃から周囲の影響で医者を目指していたが、同時に野球も大好きで、熱心に取り組んでいた。そうして高校に入る頃には、甲子園を目指して真面目に取り組むようになった。
すると、野球への愛情はどんどんと高まっていった。やがてプロ野球選手になることを夢見るようになり、高校最後の夏は地区大会で負けてしまったのだが、そこで諦めることなく、進学しても続けようと、浪人をして野球の強い大学を志した。
――と、ここまでは比較的よくある話なのだが、面白いのはここからだ。
そうやって野球の強い大学を志していたのだが、いざ受験勉強を始めると、徐々に野球への思いが薄れていった。そうして「自分はやっぱり医者になった方がいいのではないか」と考え、そこから再度進路を変更し、あらためて医大を志したのだ。
そんなふうに、勉強を始めるのが遅れてしまった関係で、医大の受験にも二度失敗した。しかし三浪の末、ようやく志望する医大に合格し、医者になるための第一歩を踏み出すことができた。
このエピソードを読んだとき、ぼくは面白いと思った。なぜなら、こういう話は普通はドキュメンタリーとして取りあげないからだ。
というのも、この少年の生き方は、あまりにも「収まり」が悪い。医者と野球との間を不安定に揺れ動いているため、何かがドラマチックに展開するわけではない。「三浪」という苦労こそしたものの、最後は「医者」という元の鞘に収まっている。その意味で、「起承転結」が弱いのだ。
もう一つ、このエピソードがドキュメンタリーに相応しくないのは、少年が夢を「諦め」ているところだ。いや、医者という目標は諦めなかったが、野球という夢はあっさりと捨てた。そこのところも、ドラマチックさに欠けるところなのだ。
それゆえ、ドキュメンタリーではあまり見たことがない結構を持っているのだが、そこが逆に面白いのだ。こういうふうに起承転結が弱く、そのときどきで揺れ動くさまは、ドラマ性には欠けるが、その分とてもリアル――現実的なのである。
現実の社会では、よく「夢を諦めないこと」の重要性が喧伝されている。しかし実際は、ほとんどの人が何らかの夢を諦め、また叶えた人でも、人はやがて死んでしまうのだから、そこにずっと居続けられるわけではない。
だから、夢というのは諦めないことより、実は諦めることを教えた方が、よっぽど役に立つのだ。
その意味で、ぼくは「甲子園大会」というものの意義に、今回あらためて気づかされた。
というのも、ほとんどの高校球児たちは、甲子園に出られない。参加する4000校の中で、出られるのはわずか50校ほど――その倍率は80分の1という、非常に狭き門なのである。
そのため、ほとんどの球児たちが、甲子園に出たいという夢を、残酷にも断たれてしまう。
しかし、そういうふうに残酷であるがゆえに、逆に球児たちは、そこで野球を諦められるのではないか。甲子園という華やかな舞台があり、その道が険しいからこそ、きれいさっぱり足を洗うことができる。そうして、次の道へと踏み出すことができる。
このエピソードに出てきた少年も、結局野球を引退することを決めた。そうして医者という新たな道を見つけ出して、そこに第一歩を踏み出した。
彼が「野球」という夢を諦められたのは、甲子園への道が残酷に断たれたからこそだ。そこで自分の実力のなさを思い知らされたおかげで、進路を変更し、医大に合格することができたのである。
この少年に限らず、球児には、高校を最後に野球をやめる人が少なくない。そこでは無数の夢が砕け散っている。地区予選が人生において「最後のプレイボール」になる少年が、本当に多いのだ。
しかし、そういうふうに夢が砕け散るからこそ、新しい道が拓ける。甲子園という大きな夢が挫折したからこそ、新たな道へと一歩を踏み出す勇気が湧きあがってくる。
この「最後のプレイボール~甲子園だけが高校野球ではない~」という本は、そういう夢が砕け散った人々の実話を集めたものである。そこには何より、色んな人の「夢の諦め方」というものが描かれているのだ。
「最後のプレイボール~甲子園だけが高校野球ではない~」
岩崎夏海「最後のプレイボール~甲子園だけが高校野球ではない~」出版インタビュー
その中に印象的なエピソードがあった。
そのエピソードの主人公は、医者の家系に生まれた。彼は、子供の頃から周囲の影響で医者を目指していたが、同時に野球も大好きで、熱心に取り組んでいた。そうして高校に入る頃には、甲子園を目指して真面目に取り組むようになった。
すると、野球への愛情はどんどんと高まっていった。やがてプロ野球選手になることを夢見るようになり、高校最後の夏は地区大会で負けてしまったのだが、そこで諦めることなく、進学しても続けようと、浪人をして野球の強い大学を志した。
――と、ここまでは比較的よくある話なのだが、面白いのはここからだ。
そうやって野球の強い大学を志していたのだが、いざ受験勉強を始めると、徐々に野球への思いが薄れていった。そうして「自分はやっぱり医者になった方がいいのではないか」と考え、そこから再度進路を変更し、あらためて医大を志したのだ。
そんなふうに、勉強を始めるのが遅れてしまった関係で、医大の受験にも二度失敗した。しかし三浪の末、ようやく志望する医大に合格し、医者になるための第一歩を踏み出すことができた。
このエピソードを読んだとき、ぼくは面白いと思った。なぜなら、こういう話は普通はドキュメンタリーとして取りあげないからだ。
というのも、この少年の生き方は、あまりにも「収まり」が悪い。医者と野球との間を不安定に揺れ動いているため、何かがドラマチックに展開するわけではない。「三浪」という苦労こそしたものの、最後は「医者」という元の鞘に収まっている。その意味で、「起承転結」が弱いのだ。
もう一つ、このエピソードがドキュメンタリーに相応しくないのは、少年が夢を「諦め」ているところだ。いや、医者という目標は諦めなかったが、野球という夢はあっさりと捨てた。そこのところも、ドラマチックさに欠けるところなのだ。
それゆえ、ドキュメンタリーではあまり見たことがない結構を持っているのだが、そこが逆に面白いのだ。こういうふうに起承転結が弱く、そのときどきで揺れ動くさまは、ドラマ性には欠けるが、その分とてもリアル――現実的なのである。
現実の社会では、よく「夢を諦めないこと」の重要性が喧伝されている。しかし実際は、ほとんどの人が何らかの夢を諦め、また叶えた人でも、人はやがて死んでしまうのだから、そこにずっと居続けられるわけではない。
だから、夢というのは諦めないことより、実は諦めることを教えた方が、よっぽど役に立つのだ。
その意味で、ぼくは「甲子園大会」というものの意義に、今回あらためて気づかされた。
というのも、ほとんどの高校球児たちは、甲子園に出られない。参加する4000校の中で、出られるのはわずか50校ほど――その倍率は80分の1という、非常に狭き門なのである。
そのため、ほとんどの球児たちが、甲子園に出たいという夢を、残酷にも断たれてしまう。
しかし、そういうふうに残酷であるがゆえに、逆に球児たちは、そこで野球を諦められるのではないか。甲子園という華やかな舞台があり、その道が険しいからこそ、きれいさっぱり足を洗うことができる。そうして、次の道へと踏み出すことができる。
このエピソードに出てきた少年も、結局野球を引退することを決めた。そうして医者という新たな道を見つけ出して、そこに第一歩を踏み出した。
彼が「野球」という夢を諦められたのは、甲子園への道が残酷に断たれたからこそだ。そこで自分の実力のなさを思い知らされたおかげで、進路を変更し、医大に合格することができたのである。
この少年に限らず、球児には、高校を最後に野球をやめる人が少なくない。そこでは無数の夢が砕け散っている。地区予選が人生において「最後のプレイボール」になる少年が、本当に多いのだ。
しかし、そういうふうに夢が砕け散るからこそ、新しい道が拓ける。甲子園という大きな夢が挫折したからこそ、新たな道へと一歩を踏み出す勇気が湧きあがってくる。
この「最後のプレイボール~甲子園だけが高校野球ではない~」という本は、そういう夢が砕け散った人々の実話を集めたものである。そこには何より、色んな人の「夢の諦め方」というものが描かれているのだ。
「最後のプレイボール~甲子園だけが高校野球ではない~」
岩崎夏海「最後のプレイボール~甲子園だけが高校野球ではない~」出版インタビュー
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