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その永沢に『声をなくして』という本がある。永沢が下咽頭ガンの手術で文字通り「声をなくして」しまった後の人生を記録した本である。プロインタビュアーが声を奪われたのだ。もちろん、仕事にはならない。鳥が羽根を奪われるような苦しみであったに違いない。
そして、羽根を折られた永沢には自立の手段はない。かれは収入と生活のすべてを妻に依存し、ひたすらに酒で薬を流し込む生活を送ることになる。いってしまえばニート、いやむしろひきこもりである。
「自立」に最高の価値を置く価値観からすれば、妻に頼りっぱなしの情けない男ということになるだろう。しかし、この本を読んでいると、そもそも自立とは何だろうということが疑問に思えてくる。
決まっている、自分の足で立つことだ、と答えるひともいるだろう。とはいえ、世の中に自分の足「だけ」で立っているひとなどいるものだろうか。自覚があるかどうかにかかわらず、だれもが他のだれかに寄りかかって生きているのではないか。
声を失ったあとの永沢の人生は、自責や自殺願望との、壮絶なる戦いの日々だ。なんぴとたりとも永沢の人生を気楽ということはできない。たしかにかれは働いてはいないが、決して楽をしているわけではない。むしろ、インタビュアーとしてそれなりの誇りを持って働いていた頃のほうが遥かに楽だったに違いない、と思わせるものがある。
というわけで実に強烈な迫力がある名著なのだが、この本の白眉はあとがきである。このあとがきには、ある自殺したAV女優のことが綴られている。レズビアンでありながらAV女優をして暮らしていた少女、遠野みずほである。親から過酷な性的虐待を受けたために修羅の人生を歩むようになった彼女に向けた永沢の言葉が凄まじい。
私は昔から思っている。死ぬ、死ぬ、っていう奴に限って、必ず、自殺すると。
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死んだ方がマシって事は現実にある。死んだ方が救われるかもしれない。とりあえずもう苦しまなくてもよくなるから。だから私は残った者に同じ事を言った事がある。その一方で苦しんで生きていたのにある日突然召された(勿論自殺ではない)友人の死の理不尽さ。それが神の思し召しというのなら私は神を憎む。彼はクリスチャンであったから尚更だ。死は巨大な無に呑み込まれる抗うことのできない巨大な力だった。それはそうだろう生きているものをモノに変えていくのだから。そんな力を垣間見て尚且つ今生きているけどどちらが良いか分からない。多分寿命がきてもわからないような気がします。