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石原莞爾と東條英機:その48(1,581字)
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ハックルベリーに会いに行く 11ヶ月前
一夕会は宇垣一成や宇垣閥を牽制するために荒木貞夫、真崎甚三郎、林銑十郎を盛り上げた。実際、東條英機は荒木貞夫に相当な尊敬の念を抱いていた。荒木貞夫はどのような人物か?1877年生まれで旧一橋家の出身である。つまりバリバリの徳川だ。1897年に陸軍士官学校を卒業し、1907年には陸大を首席で卒業する。そうして...
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石原莞爾と東條英機:その47(1,652字)
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ハックルベリーに会いに行く 11ヶ月前
ここで陸軍の「派閥史」を概観してみたい。1873年に陸軍省が創設され、ここから山縣閥が始まる。山縣は1938年の生まれなので、スタート時はまだ35歳の若さであった。1889年に、ドイツに留学した東條英機の父、英教が山縣に長州閥の弊害を直談判する。それが山縣の恨みを買って、英教は出世街道から脱落する。英教は34歳...
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石原莞爾と東條英機:その46(1,696字)
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ハックルベリーに会いに行く 11ヶ月前
1929年に歩兵連隊長になった東條英機は、部下の歩兵たちにとっては理想に近い上司だった。常に下々のことを気にかけてくれ、偉ぶったところが少しもなかった。東條は、部下たち全員の顔や氏素性を覚え、何くれとなく声をかけたり、また気にかけてくれたりした。陸大を受ける将校がいたら、受験勉強に励めるよう、仕事の...
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石原莞爾と東條英機:その45(1,708字)
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ハックルベリーに会いに行く 12ヶ月前
満州事変で石原莞爾が激動の中心にいた頃、東條英機は何をしていたのか?彼は東京にいた。歩兵第一連隊長として、出世街道のほぼど真ん中を順調に歩んでいた。一方で、東條は一夕会でもど真ん中を歩いている。一夕会のトップは押しも押されもしない永田鉄山だったが、東條はその直下のナンバーツーだった。そして、忙し...
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石原莞爾と東條英機:その44(2,107字)
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ハックルベリーに会いに行く 12ヶ月前
石原莞爾はスイスから帰国した直後、仙台の歩兵第四連隊長に着任する。これは、心身の疲れから引退を申し出た石原を引きとどめるため、陸軍上層部が用意したポストだった。石原の故郷である山形に近い地で、石原の好きな歩兵たちとの仕事だ。そこで心身の疲れを癒してほしいという狙いがあった。ここから分かるのは、こ...
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石原莞爾と東條英機:その43(1,568字)
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ハックルベリーに会いに行く 12ヶ月前
石原莞爾は事変がなった後、満州での参謀の職を解かれ、日本に戻される。このとき、事変において上司に無断で自らが兵を動かした責任を取り、陸軍の除隊を申し入れる。が、慰留された上に大佐に昇進までさせられて、踏みとどまった。このことで分かるのは、石原は満州事変がなった瞬間から、それに必ずしも満足してはい...
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石原莞爾と東條英機:その42(1,952字)
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ハックルベリーに会いに行く 12ヶ月前
「満州」は、中国大陸のうち朝鮮半島と接している東端の部分だ。そこを北へ行くと、ロシア(ソ連)とも国境を接している。満州の北側は北海道よりも緯度が高く、冬は非常に寒い。鉄道が通るまでは、ほとんど未開の土地であった。それが、20世紀に入ってからの鉄道の拡大で、一気に開発されていく。そして日本は、そこに...
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石原莞爾と東條英機:その41(1,897字)
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ハックルベリーに会いに行く 13ヶ月前
関東軍は、満州事変の成り行きを見ながら、満州国の建国と、そこにおける溥儀の皇帝擁立を決めた。つまり満州は、日本に組み込むのではなく、またその統治下とするのでもなく、独立国として存在させ、その権威づけに溥儀を利用しようとしたのだ。溥儀とは誰か?愛新覚羅溥儀は、清の最後の皇帝である。いわゆるラストエ...
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石原莞爾と東條英機:その40(1,693字)
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ハックルベリーに会いに行く 13ヶ月前
石原莞爾は満州事変を計画し、現場で指揮した。ただし、石原には権限がないので、あとは上の者が乗っかってくるかどうかが勝負だった。上の者とは天皇までをも含む。石原は、満州事変で日本そのものを動かそうとしたのだ。しかしもちろん、石原が単独で計画したのではなく、そこには板垣征四郎のバックアップがあり、さ...
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石原莞爾と東條英機:その39(1,824字)
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ハックルベリーに会いに行く 13ヶ月前
当時の陸軍将校には有り体にいって「バカ」と「ずる賢いやつ」しかいなかった。ちなみにここでいう「バカ」とは、勉強はできるが考える力がない者のことだ。バカは皇道派になり、ずる賢いやつは統制派になった。そして、バカとずる賢いやつは相性が悪い。文字通り犬猿の仲である。ぼくもずる賢い人間だが、バカがこの世...
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石原莞爾と東條英機:その38(1,909字)
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ハックルベリーに会いに行く 13ヶ月前
満州事変の直前まで、張学良は中国軍と手を結んで、満州鉄道の隣に新たな鉄道を建設し、これの実質無効化を計画していた。これが一つのきっかけとなって、日本軍はとうとう陰謀に打って出る。指揮をしたのは板垣征四郎で、作戦を立案したのは石原莞爾であった。ただこのとき、板垣と石原は、いかに蜜月の中であろうと、...
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石原莞爾と東條英機:その37(1,931字)
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ハックルベリーに会いに行く 13ヶ月前
満州は中国(漢)の一部ではあったが、モンゴル人や朝鮮人も数多く入植し、異国の文化もかなり混入していた。そうして満州独自の文化というものを形作っていた。さらにそこへ北方から侵略を窺うロシアの文化も流入され、実に混沌とした状況だった。中国、モンゴル、朝鮮、ロシア、そして日本が、元からいた現地民と入り...
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石原莞爾と東條英機:その36(1,686字)
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ハックルベリーに会いに行く 14ヶ月前
張作霖爆殺事件の後、日本陸軍の陰謀だったことが、やがて張作霖陣営はもちろん、満州の一般人にさえ知られるようになった。しかし陸軍及び日本政府は、その事実を最後まで否定した。その一方で、陰謀の首謀者であった河本大作を左遷し、またその責任を取って田中義一内閣が総辞職するなど、ちぐはぐな事後処理となった...
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石原莞爾と東條英機:その35(2,481字)
コメ0
ハックルベリーに会いに行く 14ヶ月前
満州事変は、実に不思議な「歴史の綾」の中で、ほとんど偶発的に起こった。まるでジャズのアドリブのように、先が見えないまま目の前のできごとに、ほとんどの者が条件反射で動いた果て、奇跡的に成立したのだ。しかし一方で、「こちらに行きたい」という意思と方向性は確実にあった。特に石原莞爾にそれがあり、しかも...
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石原莞爾と東條英機:その34(1,711字)
コメ0
ハックルベリーに会いに行く 14ヶ月前
1929年に板垣征四郎は満州にある関東軍参謀に配属される。そうして、前から満州に赴任していた石原莞爾と再開する。ここで、一つのエピソードが起こる。関東軍参謀の将校たちが、満州の北側を視察旅行していたときのことだ。旅先のホテルで、石原莞爾が将校たちを相手に「戦争史大観」という演目で講演をした。当時、二...
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石原莞爾と東條英機:その33(1,853字)
コメ0
ハックルベリーに会いに行く 14ヶ月前
ここで石原莞爾と板垣征四郎の関係を年代順に見てみたい。ただ、陸軍の人事はかなり頻繁にまた縦横無尽に行われるので、なかなか追いにくいところがある。そのため、主だったところだけを挙げている。1885年、板垣征四郎、岩手県盛岡市に生まれる。1889年、石原莞爾、山形県鶴岡市に生まれる。1899年、板垣、仙台陸軍幼...
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石原莞爾と東條英機:その32(2,063字)
コメ0
ハックルベリーに会いに行く 15ヶ月前
石原莞爾は1920年、31歳のときに中国に赴任する。その直前には陸軍大学の教官をしていたが、そこはあまり性に合わなかった。石原は、エリート――特に陸大生クラスの人間が苦手だった。突出して頭が良いか、それとも自分の頭の弱さを知っている謙虚な人間でないと、上手く関係を持てなかった。後年、石原は自分の部隊を持...
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石原莞爾と東條英機:その31(1,747字)
コメ0
ハックルベリーに会いに行く 15ヶ月前
板垣征四郎は、陸軍士官学校を16期生として1904年10月に卒業し、すぐ日露戦争に参加する。日露戦争は、1904年2月に始まり1905年8月に終わる。だから、当時はちょうど中盤だった。この年度の陸軍士官学校生は、日露戦争のために卒業を半年早めた。そういう非常時の中での卒業だった。明けて1905年3月、満州・奉天で行われ...
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石原莞爾と東條英機:その30(1,657字)
コメ0
ハックルベリーに会いに行く 15ヶ月前
石原莞爾は1920年に中国に渡る。そこで作戦課に配属される。いわゆる諜報部だ。ただし、この頃の中国はまだ平和だったので、石原の日々も平穏だった。このとき、石原は板垣征四郎と出会っている。板垣が石原の直属の上司だったのだ。板垣征四郎は陸軍士官学校の16期で、同期にはあの永田鉄山がいた。陸軍大学には少し遅...
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石原莞爾と東條英機:その29(1,830字)
コメ2
ハックルベリーに会いに行く 16ヶ月前
石原莞爾は1918年(29歳のとき)に陸大を卒業する。その後、1920年(31歳)に中国に転出。さらに1923年(34歳)にはドイツに留学している。陸大を優秀な成績で卒業した者は数年ヨーロッパに留学するのが陸軍のならわしとなっていたからだ。この頃の石原は、世界を視察しながら自身の人格と思想とを育んでいた。日蓮主義...
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[Q&A]最近お気に入りのYouTubeは?(2,092字)
コメ0
ハックルベリーに会いに行く 16ヶ月前
[質問]最近お気に入りのYouTubeはありますか?[回答]ほんとについ最近見つけたのですが、ここはなかなかいいですね。祖国日本 - YouTube昭和軍人についての動画がいくつもあがっているのですが、なかなか公平性が担保されていて見応え十分です。これを見てあらためて思ったのは、石原莞爾と東條英機は「どうとらえるかが...
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石原莞爾と東條英機:その28(1,974字)
コメ0
ハックルベリーに会いに行く 16ヶ月前
石原莞爾は1918年(大正7年)、29歳のときに陸軍大学を「次席」で卒業する。「首席」は鈴木卒道であった。完爾はもともと陸軍大学に興味はなかったのだが、士官学校卒業後に配属された連隊で、連隊長から「絶対に行くべきだ」と強く勧められて入った。というのも、陸軍大学は誰でも行けるようなところではなかった。陸軍...
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石原莞爾と東條英機:その27(1,874字)
コメ0
ハックルベリーに会いに行く 16ヶ月前
大正以降(1910年代以降)、新聞による世論形成はいよいよ本格化していった。それに伴い、新聞業界に参入する事業者が増えたため、各紙の生き残り競争は熾烈を極めた。そんな中、朝日新聞は1915年(大正4年)、販促の一環で高校野球を始める。するとこれが大当たりし、おかげで朝日新聞は売上げを伸ばし、日本メジャー新...
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石原莞爾と東條英機:その26(2,214字)
コメ0
ハックルベリーに会いに行く 16ヶ月前
新聞全体の発行部数は、ちょうど大正に入ったくらいで最初のピークを迎える。そこまでは右肩上がりに成長してきたが、ここで伸びが鈍化し、やがて過当競争の時代に入る。そこから、生き残りをかけた熾烈な部数獲得競争が始まるのだ。そうして各新聞社は、部数獲得のためになりふり構わなくなる。まず何をしたかというと...
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石原莞爾と東條英機:その25(1,708字)
コメ0
ハックルベリーに会いに行く 17ヶ月前
近代化によっていわゆる生産性が爆発的に増大した。そうして「新聞」というものが生まれた。ものづくりの生産性が上がって、印刷物を大量に、しかも短期間に作り、配れるようになったからだ。それで、毎日印刷物を発行して配るという、それまでは夢でしかなかったソリューションが徐々に、しかし確実に構成されていった...
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石原莞爾と東條英機:その24(1,750字)
コメ0
ハックルベリーに会いに行く 17ヶ月前
一夕会はほとんど偶然にできた組織だったが、時の流れが味方して、信じられないくらいに勢力、そして権力を拡大していった。これはひとえに一夕会をリードした永田鉄山のリーダーシップ(時代の読みの確かさと求心力)もあるが、たまたまその周りに優秀なエリート将校が集まり、互いに切磋琢磨していったことの結果でも...
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石原莞爾と東條英機:その23(1,604字)
コメ0
ハックルベリーに会いに行く 17ヶ月前
二葉会と木曜会の両勉強会が合流する形で、1929年に一夕会が結成される。ただし両会は、合流後も解散はされず各々継続していた。一夕会の中心になったのはやっぱり永田鉄山で、彼はこの頃から陸軍人事の「使い方」をほぼ完璧に掌握するようになり、陸軍内での「静かなるクーデター――乗っ取り」を密かに決行し始める。そ...
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石原莞爾と東條英機:その22(1,842字)
コメ0
ハックルベリーに会いに行く 17ヶ月前
永田鉄山の作った勉強会(軍閥)である「二葉会」は、主に「陸軍人事」についての研究をしていた。陸軍人事の仕組みを解明して、どうすれば山県有朋の権力を希釈化できるか、またどうすれば自分たちの権勢を強めていけるのか、綿密に戦略が練られたのだ。一方、鈴木貞一が作った勉強会「木曜会」は、石原莞爾が参加して...
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石原莞爾と東條英機:その21(1,801字)
コメ0
ハックルベリーに会いに行く 17ヶ月前
「1920年代」はどういう時代だったのか?今が2023年なのでちょうど100年前である。1920年は、大正9年である。そして大正は15年――つまり1926年までだ。そこから昭和が始まる。そのため1920年代は、前半が大正、後半が昭和という形になる。だから、「大正から昭和に移り変わった時代」だといえよう。石原莞爾は1889年の生...
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石原莞爾と東條英機:その20(1,852字)
コメ4
ハックルベリーに会いに行く 18ヶ月前
第一次世界大戦に、日本は同盟を結んでいたイギリスを助ける形で、いうならば「つき合い」で参加した。そうして、惰性で連合国側につくこととなったのだが、結果的に戦勝国となった。ただし、おかげでそれまで親しかったドイツと敵対することとなった。陸軍の若手幹部候補生だった永田鉄山は、開戦のまさにそのときまで...
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石原莞爾と東條英機:その19(1,936字)
コメ0
ハックルベリーに会いに行く 18ヶ月前
第一次世界大戦まで、戦争は比較的短期間で終わるものだった。一年かかることはほとんどなく、たいていは数ヶ月だった。それ以上長引く場合は、政治的な交渉が難航しているだけであって、戦闘自体が長引くわけではなかった。しかし、第一次世界大戦は長引いた。なんと4年の長きに渡ったのだ。しかも、政治的交渉はほとん...
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石原莞爾と東條英機:その18(1,669字)
コメ0
ハックルベリーに会いに行く 18ヶ月前
永田鉄山は1910年(明治43年)に陸大を卒業する。26歳のときである。そこからヨーロッパに留学し、ドイツ、デンマーク、スウェーデンなどに10年間駐在する。そこで永田は、第一次世界大戦を目撃する。第一次世界大戦は、1914年から1918年にかけて行われた。だから、滞在期間の中にまるまるすっぽり納まるのだ。永田は第...
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石原莞爾と東條英機:その17(1,927字)
コメ0
ハックルベリーに会いに行く 18ヶ月前
永田は1895年、11歳のときに父が死に、長野から東京の小学校に転校する。そして1898年、14歳で東京陸軍地方幼年学校に入校すると、そこからエリート街道をひた走り、同校を2位で卒業した後、陸軍士官学校に進む。そして20歳となった1904年、陸軍士官学校を16期生として卒業する。この期は、日露戦争が勃発したため、半年...
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石原莞爾と東條英機:その16(2,233字)
コメ0
ハックルベリーに会いに行く 19ヶ月前
石原莞爾には同志であり尊敬できる先輩がいた。板垣征四郎である。板垣は1885年、石原は1889年生まれだから、4歳年上である。板垣は岩手出身、石原は山形出身だから同じ東北同士で、ともに仙台陸軍地方幼年学校出身であった。東條英機にも、やはり同志であり尊敬できる先輩がいた。永田鉄山である。永田は1884年、東條も...