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小佐野 知り合ってずいぶん経つよね。94年1月の北尾道場(のちに武輝道場)旗揚げのときからだから25年近く。
望月 それに当時は士道館所属の空手家で、プロレスラーというわけでもなかったんですよね。空手着のまま試合に出て「正直この世界でやっていけるのかな」と模索しているうちに1年過ぎたんですけど。 たまたまスーパーJカップに出れて、1回戦で大谷(晋二郎)さんに負けたんですが、当時『週刊ゴング』の編集長だった小佐野さんから『ゴング賞』をいただいたんです。
小佐野 あったねぇ。なつかしい。
望月 あの『ゴング賞』をもらったことで「プロレス界でやってけるかもしれない」と思ったし、初めてマスコミの方に認めていただけたんですよ。その記憶がハッキリとある。『ゴング賞』がなかったら、ここまで続いたかわからないんですよ、正直。
小佐野 そういえば、『ゴング賞』のときは、天龍さんや北尾さんからも家にお礼の電話をもらったよ。べつにエコヒイキしてあげたんじゃないんだけどね。ある日の後楽園ホールでは、望月選手のお父さんから声もかけられて(笑)。
望月 ハハハハハハハ。ああいう賞って直接対決はしないで競わされてる部分があるので、そこで評価されるのは、とてつもなく嬉しいことでもありますよね。
小佐野 とくにデビューして1~2年目の頃は何も勲章がないわけだからね。
望月 そうなんですよ。「どうせもらえないだろう……」ってヒネてるぐらいでしたもん。
小佐野 あの当時は北尾さん自体が色眼鏡で見られてたよね。
望月 「プロレス界の敵」みたいな扱いでしたよね。 ナチュラルヒールのイメージ。
小佐野 その弟子だったわけだもんね。
望月 しかも空手しかできない(苦笑)。北尾さんがWARに上がったときは、付き人をしながら出入りさせていただいて。北尾さんのパートナーがいないので、ろくにプロレスを知らないままWARの試合に出ることになったんですよ。
小佐野 フフフフフ。
望月 しかも超ヘビー級の北尾さんのパートナーですから、必然的にヘビー級の試合に放り込まれて(笑)。いやあ、経験がない中で大変でした。WARのファンの皆さんは熱かったので、プロレスラーとして認めてもらえてなかったですよね。「こんな奴をリングに上げるな!」ていう罵声も浴びてました。
望月 凄かったですねぇ。6人タッグの1DAYトーナメント。デビュー3戦目でタッチワークすらわからないまま試合に出たんですよ(笑)。1回戦は石川(孝志)さん、北原(光騎)さん、維新力さんチームとの試合で。こっちは北尾さんと、全日本のチャンピオンの方だったんですけどね。
小佐野 小林明男だ。
望月 ちょっとだけプロレスに出て、空手の世界に戻られたんですけどね。ボクは北原さんと長めに戦ったんですけど、北原さんって蹴りをさばけるじゃないですか。
小佐野 シューティング出身だからね。
望月 いいようにあしらわれて、最後は丸め込まれてワン、ツー、スリーで1回戦敗退。ファンから「オマエら、二度とリングに上がるな!」という罵声を耳にしましたね(苦笑)。
小佐野 ボクも初めは純粋な空手家だと思ってたからね。取材してみたら「なんだ、プロレスが大好きじゃないか」と。
望月 ボクはUインターで高田延彦さんが北尾さんをハイキックでKOした試合を見て大興奮してたクチですからね(笑)。
小佐野 それが必殺技の「最強ハイキック」になってるんだもんね(笑)。
小佐野 そんなとき高田のハイキックに衝撃を受けて。
望月 たまたま職場の近くに士道館があって「空手の大会に出る人生もいいかな」と思って。そうしたら士道館の添野(義二)館長と北尾さんのマネージャーが昔からの知り合いで、北尾道場の旗揚げ戦に出られる選手がいないか?と。そこでボクが選ばれたんです。「たまたま」がたくさんあったわけですよ。
小佐野 高田延彦に憧れたのに北尾さんの弟子になるっていうのも凄い話だよね。
望月 北尾さんとスパーリングをやったときは、口には出しませんでしたけど心の中では「やったあ!」と(笑)。興奮しながら見た試合を自分で再現できたわけですからね。
小佐野 ハハハハハハハ。凄いなあと思ったのは、ちゃんとプロレスを教わったわけではないでしょう。受け身にしろロープワークにしろ。
望月 そうなんですよね。偉そうに言うわけじゃないですけど、25年やらせてもらってますが、誰にも教わらないまま来ちゃいましたねぇ。
小佐野 独学だよね。それは凄いよ。
望月 闘龍門(ドラゴンゲートの前身団体)に合流してからは、受け身をしっかりしないといけないって意識するようになりましたけど。ボクがデビューした頃って攻撃力さえあれば、お客さんも熱くなって一喜一憂してくれたんですけど。いまは攻めも受けも自在じゃないと評価されない時代になってますよね。
小佐野 攻防をしっかり魅せないといけないってことだね。
望月 闘龍門になってから、そこはもの凄く意識しましたね。それまでは何も意識しないまま、新日本プロレスさんとかでも試合してたんですけど(苦笑)。
小佐野 デビュー戦の相手が、スープレックスマシーンのタズマニアックだったよね。バッカンバッカン投げられて(笑)。あの試合は凄かった。
望月 あれ、最初は士道館の同門同士で空手のエキビションマッチをやるという話だったんですよ。その時点で空手を始めて5ヵ月目だったんですけどね。
小佐野 えっ、そんなもんだったの?(笑)。
望月 そうなんですよ。だって高田vs北尾が92年11月。ちょっと独学で鍛えてから93年5月に入門して。
小佐野 デビュー戦が94年の1月だから、たしかに5ヵ月だ。士道館の代表として出てたけど、月謝払って道場に通ってたわけだもんね。
望月 ボクは添野館長の直弟子だったので目にとまりやすかったんでしょうね。「エキビションマッチはなくなった。その代わりにプロレスラーとの異種格闘技戦になったからな」と(笑)。
小佐野 全然違う話になっちゃった(笑)。
望月 「できるか?」とか聞かれないですよ。こっちも「押忍!」で断れないですから。
小佐野 それで北原みたいな格闘系の選手だったらまだいいんだろうけど、スープレックス系だもんね。
望月 受け身なんか習ってないですからね。脳天から投げられて(苦笑)。
望月 いまでも覚えてますが、3分足らずで終わった試合が『ゴング』さんでカラー1ページで扱ってもらいましたから(笑)。
小佐野 それだけインパクトがあったということだよね(笑)。
望月 正直、身体が壊されるんじゃないか……というくらいの思いでリングに上がったんですけどね。大怪我もしなかったし、「プロレスをやれちゃうんじゃないのかな」って。
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