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1984年のためのチューニング4/教育に対するぼくの発想(ロッキングオン58号 1980年)
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1984年のためのチューニング4/教育に対するぼくの発想(ロッキングオン58号 1980年)

1980-02-02 00:41
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    標題=1984年のためのチューニング4/教育に対するぼくの発想
    掲載媒体=ロッキングオン58号
    発行会社=ロッキングオン社
    執筆日=1980/02/01
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    教育に対するぼくの発想

    ●教育というのは、ある個人的意識を量的に拡大していくためのシステムだ。個人が主観的に発見したものにすぎないものを、客観的な制度なり法則に、あらよとばかりに移しかえ、数多くの第三者に押しつけようとするものだ。それは語学教育だろうと、思想教育だろうとなんだろうと同じことだ。

    ●簡単にいうと、ぼくは「1+1=2」という数式を客観的な真理として教育することに反対である。「1+1=?」という問いを提出し、その解答なりをひとりひとりが「発見」するために、例えば「1+1=2」という考え方がある、と伝えるべきである。情報の物理的伝達にはなんの意味もない。受信者が情報を受信するということは、まったくムクの発見でなければならないし、その驚きと興奮がなくてはならない。今の学校教育では知識は積み重なっていくだけで、発見することの輝きがない。勉強すればするほど知識の重たさで沈んでいくばかりだ。

    ●ある大学生がぼくに言った。「今の学校なんて、はみ出すこと落ちこぼれることが、橘川さん以前の人たちがいう『卒業』ですよ。無事に卒業して一流会社に入るなんて、それこそ人間として落ちこぼしてるものがあるはずだ」。

    ●学校から落ちこぼれるか、さもなくば自分の中のものを落ちこぼしていくか……てなこと書くと、さも学校を退学したり一流会社に入らなかった(入れなかった)ことだけで自己肯定する徒が出てくるだろう。なにしろこの雑誌の読者はエラク単細胞でウヌボレばかり強いのが多いようだから、アルバイトでその日暮らしをしようが東京海上に入ろうが、そんなこと趣味の問題。そんな表面的なことじゃなくてモンダイなのは、自分の現場で何やるかってことだけ。

    ●さて、ぼくは教育のシステムを充実したり制度を改革したりすることに本質的な興味を持っていない。ぼくのテーマは「どうすれば教育というものがなくなるか」だけであり、そのテーマを実現するために、とりあえず仕方なく「教育制度をよくする」ことを考えてみるのにすぎない。つまり、今の教育制度のなかで、教師というものがみんなすごくやさしくて良い人ばかりになったって、規則などなんだのが撤廃されてフリーな雰囲気になったとしても、教育というものが「ある個人の発見したものを別の個人に押しつける」ものである限り、根本的に解決されるものはない。単にゴマカされるだけだ。

    ●あなたが「良い教師」になろうとしていることに水をさすのは、今の段階では逆効果なのかもしれないけど、ただ「人を教育する」ということの根本に横たわる毒を吟味せずに、人柄だとか態度だけで「良い教師」になろうとしても、それが誰にとって良い教師なのかは明白だ。「良い教師」とは、とどのつまり学校の矛盾をきれいにおおいかくそうとするフタであり、生徒の本質的疑問を吸収する安全弁でしかない。教師が教師という立場に固執する限り、だ。それとも、あなたが、自分の立場なり思想で考える<生徒>をふやそうとしているのなら、まったくゴーマンなおせっかい、とでも言うしかない。あなたの発見したものがどんなに輝かしくとも、それをそのままの形で第三者に押しつけるとき、輝きは硬直化する。アメリカの学校だろうとソビエトの学校だろうと、教えてる中身がどう変わろうとも「教育」の持ってる本質的機能は同一だ。

    ●教育とは法律とは似た側面がある。良心的な人は、よりよい教育者になろう、よりよい法律家になろうとする。しかし、そうした努力の延長線上にあるのは「より強固に完璧に仕上っていく教育(法律)」しかなく、「教育(法律)そのものの死」をイメージすることはできない。

    ●もしぼくが今、教師だったとして、それで食わにゃあなんねえ、という立場だったらどうするだろう。まあ、教師だろうと商社員だろうと編集長だろうと、食うための仕事ということで考えれば同じなわけだから、指導要領風の授業をやることになるだろう。そういう生活の中で授業中もそれ以外も、すこしでも<教育しない>ということを念じながら生徒と接するだろう。自らの中にある<教師>という立場を愚ろうし、おちょくり、恥じるだろう。教育しない、教育できない教師が増えるのを待つだろう。生徒が反抗したら、押さえつけるのでも一緒になって考えるのでもない、ただただウロタえるだけの、無能力者になるだろう。教育に使命感を持つ人間は、右翼だろうと左翼だろうと<教育する>側に立つ人間の発想だ。絶望すべきだ。ひとりの子供に親が自分勝手な洋服を押しつけて満足することに。

    ●ぼくが誰かに何かをしゃべるとき、ぼくはその人を教育してる。誰かがぼくに何かをしゃべるとき、その人はぼくを教育してる。そして、ほんとにヴァイブレーションのあった人に対しては、ぼくがその人に何かをしゃべるときにも「発見」があり、その人がひとつのことをしゃべってくれると、2つも3つも「発見」できる。そうした日常生活の中での関係性の充実、発見のよろこび方などを学校教育ではついに教えてもらわなかった。ぼくは普通の良い生徒として学生生活を過ごして終わった。グレたわけでもハデに反抗したわけでもなかった。記憶にあるのは、高校の時、ある先生がぼくに質問してぼくは答えられず立たされた。次の授業の時、その先生は同じ質問をぼくにした。ぼくはまた答えられなかった。それが何回か続いたような記憶がある。ぼくは別にツッぱってたわけじゃないんだ。ただ分らない質問を家に帰って点検したりするというような頭の回転ができなかったんだと思う。合理的な勉強法ができなかったから当然、試験の点数はいつも悪くそのくせ点数には人並みに一喜一憂した。なんとも間の抜けた学生生活だった。だから、この雑誌の読者なんかで中学生位で、文学や哲学の本を読んでる人は、まぶしくって思わずクラクラときてしまう。そういう人が同じクラスの人達を「無自覚でオメデたくてどうしようもない」なんていうと、実はそう言われてるのはオレなんじゃないかと、いや、まぎれもなく中・高時代のオレはそうだったんだからオレ自身が責められてるんだと思ってしまう。ぼくが自分から単行本みたいなのを読みはじめたのは高三の時の五木寛之がはじめてなんだ。(ぼくの読書体験というのはそれから数年間だけ。今は年に5冊以内。「日本で一番本を読まない編集長」であると自信を持って申しあげる)。だから「無自覚でオメデたくてどうしようもない」生徒だったぼくは、決してROみたいのは読まなかっただろうし、読んでも分んなかったと思う。そいで何を言いたいのかっていうとですね、なんでそいだ
    け早く自覚的だった人が20歳すぎると、ハシにも棒にもかからいアブクみたいな存在になってしまうの?

    ●たぶん、してやられたんだと思う。表面的なところで、つまんない反抗をしてつまんない挫折とすね方を覚えさせられつまんないアキらめ方をしてしまったんだと思う。学校っていうのは今やそういう装置になっているのかもしれない。肝心要の社会の現場に出た時は、要領だけの骨ぬき、そのくせ口では左翼的な社会正義をタテマエにしてくるから一層タチが悪い。

    ●自分のハートでモノが見れない人が、いくら御立派な正論を言ったって、こちらとしては何んにも感じない。壁に向かって字を書きたくない。あなたの胸いっぱいに字を書きたい。

    P.S.
    *教育に関しては、もっと言いたいことがあるけど今日はこの辺で。教育制度に関しては欧米にいくつか教育の根本的変革の可能性につながるかもしれないケースがあるみたいだけど、当方、勉強不足のため、どなたか御存知の方、御教授ください。以前、ぼくが書いた「まず生徒の知りたいという自発的な欲求があってその次に先生をさがす塾」は、アメリカでは「ニュー・スクール」という名で実在しているらしい。

    *このところ、ぼくのやるべきことが加速度的に増大して、このままではGにつぶされそうだ。同志の登場をいつもたえず待ち望んでいる。連絡は手紙で。渋谷は80才まで生きて仕事をする、と言ったけど、当方、彼のように自制心がないので早死しそうだわい。


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