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ブリティッシュ・ロックへの批判的ふりかえり(ロッキングオン16号 1974年)
1974-05-25 00:09ブリティッシュ・ロックへの批判的ふりかえり
ロッキングオン16号(1974年)
19740525
聴こえてくる音はどれも砂粒化してきた。クラウス・シュルチェは既に一粒の砂であり、タンジェリン・ドリームも既に一粒の砂の内部での時間である。レコードを聴く時は大体がヘッドホーンになってしまった。安いセットの、それでも、ボリューム8ぐらいで聴いていられるようになった。それで聴くロバート・ワイアットの<ロック・ボトム>は、すごくかぼそく弱々しく、今にも絶え入りそうで、握りしめられた掌からこぼれ落ちてきた砂のように孤独だ。
夜のひろがりを視線の道筋どおりに追っていくと夜はどんどんせばまってくる。夜はせまい。夜のその表面に、風も通り過ぎる事の出来ない一点がある。夜は砂粒だ。
ホーク・ウインドは夜を街角の<広場>として誤解したのだし、ルー・リードは夜を古ぼけた<椅子>あるいは痛んだ<ベッド>と思い込 -
ホークウィドが彼方に/ロッキングオン11号(1974年)
1974-05-15 21:07ホークウィドが彼方に
ロッキングオン11号(1974年)
19740515
音が必要な時というものがある。音にすがり着くようにして通過した、いくつかの夜があった。音はその時、最初から温もりを持っていた毛布のように思えた。私は、ともすればバランスを崩して陥ち込んでしまいそうな経路を、音にすがる事によって、かろうじて通過し得たのかも知れない。つまり、眠ってしまったのだ。それぞれの場合にその音は、GFRでありジャニスでありボウイであった。
しかし、さわやかな朝を迎える段になると、それらの重たい音も、あの重たい夜の結末と同様に、夜のぬけがらとして、私の掌に収まっているに過ぎない。私たちの潜ったそれぞれの夜が私たちのそれぞれの<個性>であるように、ボウイの音も、所詮はボウイの個性でしかなかったのだろうか。
ホークウインドの音を聴き初めて一年以上たった。執拗な我執ですがりつくようにして聴いた覚え -
チューブラベルズ(ロッキングオン11号 1974年)
1974-05-05 22:27━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
標題=チューブラベルズ
掲載媒体=ロッキングオン11号
発行会社=ロッキングオン社
執筆日=1974/05/15
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<シー・モンキー>とかいう生物が気になってしょうがない。大体からして、生物というものは、みずみずしいものであるという観念は、どうひっくり返したって変えようのない前提である。ミミズだって、きのこだって、つぶせば、何かしらの水分が出て来るのだ。今日にでも買いに行こう。
チューブラベルのレコードは、小林に借りたんだけど、2・3日聴いただけで(正確に言うと2・3夜)真崎・守のとこへ行ってしまった。ジギィーは岩谷宏に借りて関幸三に貸してしまった。でも岩谷宏は又別にどっかて借りて来たらしいから良いのだろう。誰だか知らないけど、渋谷から借りたサバスⅣを持ってた奴、返
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