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石原莞爾と東條英機:その28(1,974字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 11ヶ月前
石原莞爾は1918年(大正7年)、29歳のときに陸軍大学を「次席」で卒業する。「首席」は鈴木卒道であった。完爾はもともと陸軍大学に興味はなかったのだが、士官学校卒業後に配属された連隊で、連隊長から「絶対に行くべきだ」と強く勧められて入った。というのも、陸軍大学は誰でも行けるようなところではなかった。陸軍...
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石原莞爾と東條英機:その27(1,874字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 11ヶ月前
大正以降(1910年代以降)、新聞による世論形成はいよいよ本格化していった。それに伴い、新聞業界に参入する事業者が増えたため、各紙の生き残り競争は熾烈を極めた。そんな中、朝日新聞は1915年(大正4年)、販促の一環で高校野球を始める。するとこれが大当たりし、おかげで朝日新聞は売上げを伸ばし、日本メジャー新...
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石原莞爾と東條英機:その26(2,214字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 11ヶ月前
新聞全体の発行部数は、ちょうど大正に入ったくらいで最初のピークを迎える。そこまでは右肩上がりに成長してきたが、ここで伸びが鈍化し、やがて過当競争の時代に入る。そこから、生き残りをかけた熾烈な部数獲得競争が始まるのだ。そうして各新聞社は、部数獲得のためになりふり構わなくなる。まず何をしたかというと...
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石原莞爾と東條英機:その25(1,708字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 12ヶ月前
近代化によっていわゆる生産性が爆発的に増大した。そうして「新聞」というものが生まれた。ものづくりの生産性が上がって、印刷物を大量に、しかも短期間に作り、配れるようになったからだ。それで、毎日印刷物を発行して配るという、それまでは夢でしかなかったソリューションが徐々に、しかし確実に構成されていった...
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石原莞爾と東條英機:その24(1,750字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 12ヶ月前
一夕会はほとんど偶然にできた組織だったが、時の流れが味方して、信じられないくらいに勢力、そして権力を拡大していった。これはひとえに一夕会をリードした永田鉄山のリーダーシップ(時代の読みの確かさと求心力)もあるが、たまたまその周りに優秀なエリート将校が集まり、互いに切磋琢磨していったことの結果でも...
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石原莞爾と東條英機:その23(1,604字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 12ヶ月前
二葉会と木曜会の両勉強会が合流する形で、1929年に一夕会が結成される。ただし両会は、合流後も解散はされず各々継続していた。一夕会の中心になったのはやっぱり永田鉄山で、彼はこの頃から陸軍人事の「使い方」をほぼ完璧に掌握するようになり、陸軍内での「静かなるクーデター――乗っ取り」を密かに決行し始める。そ...
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石原莞爾と東條英機:その22(1,842字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 12ヶ月前
永田鉄山の作った勉強会(軍閥)である「二葉会」は、主に「陸軍人事」についての研究をしていた。陸軍人事の仕組みを解明して、どうすれば山県有朋の権力を希釈化できるか、またどうすれば自分たちの権勢を強めていけるのか、綿密に戦略が練られたのだ。一方、鈴木貞一が作った勉強会「木曜会」は、石原莞爾が参加して...
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石原莞爾と東條英機:その21(1,801字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 13ヶ月前
「1920年代」はどういう時代だったのか?今が2023年なのでちょうど100年前である。1920年は、大正9年である。そして大正は15年――つまり1926年までだ。そこから昭和が始まる。そのため1920年代は、前半が大正、後半が昭和という形になる。だから、「大正から昭和に移り変わった時代」だといえよう。石原莞爾は1889年の生...
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石原莞爾と東條英機:その20(1,852字)
コメ4 ハックルベリーに会いに行く 13ヶ月前
第一次世界大戦に、日本は同盟を結んでいたイギリスを助ける形で、いうならば「つき合い」で参加した。そうして、惰性で連合国側につくこととなったのだが、結果的に戦勝国となった。ただし、おかげでそれまで親しかったドイツと敵対することとなった。陸軍の若手幹部候補生だった永田鉄山は、開戦のまさにそのときまで...
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石原莞爾と東條英機:その19(1,936字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 13ヶ月前
第一次世界大戦まで、戦争は比較的短期間で終わるものだった。一年かかることはほとんどなく、たいていは数ヶ月だった。それ以上長引く場合は、政治的な交渉が難航しているだけであって、戦闘自体が長引くわけではなかった。しかし、第一次世界大戦は長引いた。なんと4年の長きに渡ったのだ。しかも、政治的交渉はほとん...
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石原莞爾と東條英機:その18(1,669字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 13ヶ月前
永田鉄山は1910年(明治43年)に陸大を卒業する。26歳のときである。そこからヨーロッパに留学し、ドイツ、デンマーク、スウェーデンなどに10年間駐在する。そこで永田は、第一次世界大戦を目撃する。第一次世界大戦は、1914年から1918年にかけて行われた。だから、滞在期間の中にまるまるすっぽり納まるのだ。永田は第...
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石原莞爾と東條英機:その17(1,927字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 13ヶ月前
永田は1895年、11歳のときに父が死に、長野から東京の小学校に転校する。そして1898年、14歳で東京陸軍地方幼年学校に入校すると、そこからエリート街道をひた走り、同校を2位で卒業した後、陸軍士官学校に進む。そして20歳となった1904年、陸軍士官学校を16期生として卒業する。この期は、日露戦争が勃発したため、半年...
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石原莞爾と東條英機:その16(2,233字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 14ヶ月前
石原莞爾には同志であり尊敬できる先輩がいた。板垣征四郎である。板垣は1885年、石原は1889年生まれだから、4歳年上である。板垣は岩手出身、石原は山形出身だから同じ東北同士で、ともに仙台陸軍地方幼年学校出身であった。東條英機にも、やはり同志であり尊敬できる先輩がいた。永田鉄山である。永田は1884年、東條も...
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石原莞爾と東條英機:その15(1,938字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 14ヶ月前
帝国陸軍の秘密結社を最初に作ったのは山縣有朋だ。しかしはじめ、それは秘密結社というより単なる「藩閥」だった。長州閥だ。山縣は、長州出身者を依怙贔屓し、要職に引き立てていったのだ。しかし当たり前のことだが、その動きは他藩出身者の反感を買う。それを敏感に察してから、山縣は表立った行動を控えるようにな...
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石原莞爾と東條英機:その14(1,766字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 14ヶ月前
日本の陸軍は、明治維新と共に生まれ、第二次大戦の敗戦と共に消滅する。その歴史は67年ほどであった。その67年の歴史の中で、陸軍には3つの色濃い「陰湿な体質」が形成された。その3つとは、「暗殺体質」「クーデター体質」「秘密結社体質」である。順に見ていくと、まず「暗殺体質」は、単純に「気に入らない者は殺し...
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石原莞爾と東條英機:その13(1,629字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 14ヶ月前
陸軍士官学校の16期生、永田鉄山、小畑敏四郎、岡村寧次は「三羽がらす」と呼ばれた。ちなみに、卒業時の成績は永田が首位、小畑は5位、岡村は6位だった。この3人には共通項があった。また、仲良くなったきっかけもあった。それは、ある「デキの悪い後輩」の勉強を見ていたことだ。1期下、17期のある生徒が、陸大を受け...
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石原莞爾と東條英機:その12(1,615字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 15ヶ月前
板垣征四郎は地元の盛岡中学を卒業後、仙台陸軍地方幼年学校に進む。盛岡中学では特待生で、勉強はできた。が、トップになるというのでもなく、普通の優等生だった。仙台陸軍地方幼年学校を無難に終えると、陸軍士官学校に16期生として入る。16期には戦前陸軍の超重要人物となる永田鉄山がおり、彼は岡村寧次、小畑敏四...
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石原莞爾と東條英機:その11(2,185字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 15ヶ月前
板垣征四郎は1885年(明治18年)に岩手県岩手町で生まれた。彼にとっての最重要人物は、父方の祖父、佐々木直作だった。佐々木直作は、1817年に生まれた盛岡藩士だった。長じると藩校の先生をしたり、藩主の剣術の指南をしたりした。卑近な言い方でいうと「剣道の偉い先生」で、藩の重要人物であった。盛岡藩は、1868年...
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石原莞爾と東條英機:その10(1,668字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 15ヶ月前
石原莞爾はその生涯を「傍観者」として生きた。そこにおそらく彼の限界があった。彼は、生まれてから死ぬまでずっと頭が良かったのだが、逆にいうと死ぬまでバカにはなれなかった。バカになれるだけの懐の深さや、あるいはもっと深い意味でのバカさがなかった。彼にはどこまでもバカの要素がなかった。これはどこを切っ...
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石原莞爾と東條英機:その9(1,591字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 16ヶ月前
ここで石原莞爾の人生をあらためて概観してみたい。1889年(明治22年・0歳)1月18日、山形県鶴岡に生まれる。1902年(明治35年・13歳)9月1日、仙台陸軍地方幼年学校に入学。1905年(明治38年・16歳)7月、仙台陸軍地方幼年学校卒業。9月1日、東京陸軍中央幼年学校入学。1907年(明治40年・18歳)6月、山形歩兵第32連隊...
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石原莞爾と東條英機:その8(1,857字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 16ヶ月前
石原莞爾の幼年時代は、奇矯なエピソードで彩られている。小学校一年生のとき、姉二人に連れられて学校へ行ったところ、周囲の生徒と喧嘩になった。そこで校長が試験をさせてみると、一年生で一番の成績であった。そのため、校長の機転で「一年間自宅で学習していた」ということにし、二年生に編入させられた。仙台幼年...
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石原莞爾と東條英機:その7(2,075字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 16ヶ月前
石原莞爾は1902年、13歳のときに仙台陸軍地方幼年学校に試験を受けて合格し、編入する。仙台陸軍地方幼年学校は、それより5年前の1897年にできたばかりだった。陸軍「地方」幼年学校は、仙台のみならず名古屋、大阪、広島、熊本にあり、東京は陸軍「中央」幼年学校と呼ばれた。地方で優等の者は、やがて中央に上がるよう...
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石原莞爾と東條英機:その6(1,943字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 16ヶ月前
石原莞爾は1889年、明治22年に山形県鶴岡市で生まれる。ほんの四半世紀前まで庄内藩の中心地だったところだ。庄内藩は、幕府の味方につき明治政府に最後まで抵抗したが、趨勢が決すると潔く降参した。そうしてすぐさま武家社会を廃止すると、蚕の養殖に乗り出していち早く成功する。そのため、いわゆる「朝敵」の中でも...
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石原莞爾と東條英機:その5(1,491字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 16ヶ月前
宮中某重大事件は1921年に収束する。新聞で大々的に報じられ、山縣有朋の敗北は全国民に知られるところとなった。その心労もあってか、翌1922年に83歳で山縣有朋は死ぬ。国会で国葬が提案されたが、山縣有朋を良く思わない数多くの議員から反対意見が遠慮なく出た。それでも、これまでの功績を鑑みると国葬をしないわけ...
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石原莞爾と東條英機:その4(1,504字)
コメ1 ハックルベリーに会いに行く 17ヶ月前
東條英機の父・英教は、1888年に陸大を卒業した後、ドイツ・ベルリンに留学する。このとき33歳。そこへヨーロッパを視察旅行に訪れていた山縣有朋が来る。すると英教は、同じく留学していた陸大の同期・井口省吾とともに山縣有朋をホテルに訪ね、陸軍の長州閥をあらためるよう、かなり強い口調で詰め寄った。このとき、...
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石原莞爾と東條英機:その3(1,644字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 17ヶ月前
東條英教は1855年に東京で生まれる。1868年、13歳で明治維新を経験した後、1873年、18歳で陸軍に入隊する。1877年、22歳のときに西南戦争に出征。そして1885年、30歳のときに陸軍大学を首席で卒業する。同期には4歳下だが『坂の上の雲』で有名な秋山好古などがいた。1884年、陸軍大学を卒業する少し前の29歳のときに、「...
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石原莞爾と東條英機:その2(1,692字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 17ヶ月前
石原莞爾は1889年、明治22年の生まれである。一方の東條英機は、1884年、明治17年の生まれである。二人は5歳違う。東條英機は東京で生まれた。父が軍人で東京に勤めていたからだ。英機の父は東條英教といい、1855年生まれである。1855年は明治維新の13年前であり、つまりは江戸時代の人だ。英機の父・英教は、陸奥盛岡藩...
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石原莞爾と東條英機:その1(1,692字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 17ヶ月前
石原莞爾と東條英機は面白い。そもそも昭和の帝国陸軍は知ると本当に面白いのだが、なにしろ日本は戦争に負けてしまったため、彼らのことは歴史として素直に語れないところがある。おかげで、よっぽどの国粋主義者や歴史オタクでないと、なかなか石原莞爾や東條英機について知らない。また、知っていても偏った価値観を...