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80年代からコラムやインタビューなどを通して、アメリカのプロレスの風景を伝えてきてくれたフミ・サイトーことコラムニスト斎藤文彦氏の連載「斎藤文彦INTERVIEWS」。マット界が誇るスーパースターや名勝負、事件の背景を探ることで、プロレスの見方を深めていきます! 今回のテーマは“最後のエスニック系ヒール”アイアン・シーク」です!
Dropkick「斎藤文彦INTERVIEWS」バックナンバー
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■AEWチャンピオンベルト盗難事件
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■怪物ブロック・レスナーを通して見えてくる「プロレスの作り方」
■追悼・マサ斎藤さん……献杯はカクテル「SAITO」で
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■ステファニー・マクマホン、幻想と現実の境界線がない生活
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■アメリカンドリーム、ゴールダスト、コーディ……ローデス親子それぞれの物語
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■ジェイク“ザ・スネーク”ロバーツ…ヘビに人生を飲み込まれなかった男
■追悼ジミー・スヌーカ……スーパーフライの栄光と殺人疑惑
――今回は先日お亡くなりになったアイアン・シークさんについて語っていただきたいと思います。
フミ わかりました。ほとんどいまの日本のプロレスファンは、アイアン・シークのことをスーパースターという捉え方はしてないし、新しい世代にファンは名前しか知らない方も多いと思うんですね。
――アイアン・シークを知っているのはギリギリ30代のプロレスファンですね。
フミ 日本では一般的にコシティと呼ばれているイラニアン・クラブというこん棒のような木製のトレーニング器具がありますよね。彼のことを知らなくても、アイアン・シークが巨大なクラブを何百回と振り回デモンストレーションの映像を見たことはあるかもしれません。
――アイアン・シークといえば巨大コシティのイメージがありますね。
フミ 20代のプロレスファンだったらアイアン・シークの存在すら知らないかもしれないし、30代でも馴染みが薄いということになるのかもしれないけれど、実力的にもプロフィル的にも「超一流」というランク付けはしていいんじゃないかと思います。アイアン・シークはあのボブ・バックランドに勝ってWWE(当時WWF)世界ヘビー級チャンピオンになっています。当時のボブ・バックランドは、“ニューヨークの帝王”として足掛け7年も続く長期政権を築いていて、その時代に終止符を打ったのがアイアン・シークでした。それが83年12月のこと。翌84年1月にハルク・ホーガンにベルトを奪われて、そこからハルク・ホーガン時代がスタートします。WWEの全米ツアー体制がスタートして、翌85年には世紀の祭典レッスルマニア第1回大会が開かれ、バックランド時代とはまったく違う新しいWWEの世界がスタートするんですが、アイアン・シークはその時代と時代の接着剤というか、バトンタッチという大きな役割を果たしたんですね。
――時代をブリッジしたレスラーのイメージがめちゃくちゃ強いですね。
フミ アイアン・シークがバックランドからベルトを奪ったのが83年12月で、ハルク・ホーガンに奪われたのが84年1月だから、たった1ヵ月の短期政権ではあるんです。そこだけクローズアップしちゃうと、バックランド政権からハルク・ホーガン政権へのトランジションにすぎないかもしれないけれど、バックランドからすれば「アイアン・シークだったらベルトを取られても仕方がない」と思ったわけです。
――あー、なるほど。そこは大事な視点ですね。
フミ 短期政権ながらWWEのベルトを腰に巻くのにふさわしい人材だったということですね。バックランドとアイアン・シークのタイトルマッチは、じつは元NCAAチャンピオン対元AAUチャンピオンの対決だった。ふたりとももともとはレスリングの全米チャンピオンでしたから、アイアン・シークの実力を認めていたのでしょう。バックランドに勝ってチャンピオンになってもまったく不自然ではない実力派だった。その経歴を簡単に紹介すると、1942年生まれだから年齢は猪木さんよりひとつ上。享年81だからいいお歳ですね。じつは60歳過ぎまでインディー・シーンで細々と現役を続けていたのは、やっぱりビッグネームで、シークが出場することで興行が成立するからです。なぜアイアン・シークがアメリカでそこまでヒールとして売れたかというと、1979年に起きた、世界を震撼させたイランのアメリカ大使館人質事件がありましたよね。
――あのときは人質を救出するために架空のSF映画『アルゴ』をでっちあげて、人質がその映画スタッフになりすましたという。その模様を描いた映画『アルゴ』はアカデミー賞作品賞になりました。
フミ あの事件が起きたことで、アメリカ国内でイランは敵国となったわけです。アイアン・シークはイラン出身でしたが、デビュー当時は本名のコシロ・バジリ(発音はカズロー・バシーリ)を名乗り、レスリング出身の地味なベビーフェイスでした。イランアメリカ大使館人質事件をきっかけにヒールになったわけじゃなくて、その事件からさかのぼること3年前の76年頃からアイアン・シークに変身していた。
――事件前にベビーからキャラチェンジしたんですね。
フミ アメリカのプロレスのキャラクター設定では、中東系というかイスラム系はヒール的なポジションだったんですが、あの事件が現実の世界で起きたことでアイアン・シークは本物のヒールになってしまったわけです。
――つまり、作られた悪役だったわけじゃないと。
フミ キャラクター先行というわけではなく、レスリングの実力も兼ね備えた本格派の悪役。WWEの公式プロフィールでは、レスリングのイラン代表選手としてメキシコオリンピックに出場……ということになってはいるんですが、実際はオリンピック出場経験はないんです。1970年にイランからアメリカに亡命して、アメリカでグリーンカード(永住権)を取りました。そしてAAU全米選手権のグレコローマンで優勝している。選手としてはオリンピックに出場していませんが、やっぱりレスリングの実力は本物なので、72年のミュンヘン、76年のモントリオールの2大会でアメリカ代表チームのコーチを務めた。
――それでいてプロレスでは反米キャラをやってるわけですから面白いですね。
フミ プロレス入りしたのはAWAのバーン・ガニア道場で、リック・フレアーやケン・パテラらといっしょにトレーニングに汗を流しました。74年にはコシロ・バジリの本名で新日本プロレスに初来日。そのときはそれほど注目されなかったんだけど、斜めに反って落とすジャーマン・スープレックスはマニアの目に止まってました。プロレス式のジャーマンは綺麗に弧を描くブリッジでフォールを取る技ですが、アマレス式は斜めに落としていって、そのままグラウンドの体勢になってもグリップの手を離さない。こんなジャーマンがあるんだってことで密かに注目されていたんです。アイアン・シークに変身してからの必勝パターンはサイドスープレックス、アメリカでガットレンチって呼ぶんですけど、そこからのキャメルクラッチですね。
――キャメルクラッチは中東系ヒールの大御所ザ・シークからの流れなんですね
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コメント
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フミさんが語ってDropkickが取り上げてくれたことで更にシークさんの偉業が現代に伝えられます。本当にいい記事。感謝。
シークさん本当にお疲れさまでした。
いいことしか語られていないのが残念だ。
シュウヒラタさんも、ブログにアイアンシークのネタを書いてますよね。最後の良き時代の、良きヒールレスラー。チャーミングでウィットに富んでいて、ホンモノであり続けた。