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「サンシャインクリエイション60」(2013年6月23日、サンシャインシティ)で配布したサークルペーパーです。
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さて、今回のFree Talkですが、ちょっと今の(主にネット上の)左派・リベラル層についていろいろと思うところがあるので、それについて書いていきたいと思います。
6月2日に福島県郡山市で開催された即売会「SUPER ADVENTURES 67」のサークルペーパーでは、(ちょうど同イベントが女性向けの色彩が強い即売会であったため)ツイッターの社会学クラスタでそれなりの人気の書き手であり、他方で若者論批判批判を私に対する批判という形でたびたびしてくる甲山太郎(@kabutoyama_taro)のジェンダー観について論評しました(サークルブログ及びニコニコチャンネル参照)。格差論に絡めてどうも狭隘ではないかと思われるジェンダー観(というよりは女性蔑視)を開陳していた甲山ですが、そんな甲山は、現代の若年層が無知、軽薄故に「右傾化」するということを問題視しています。おそらく甲山がたびたび発する若者論批判批判も、現代の若年層が甲山にとって劣化しており、それを直視しない後藤は卑怯だという認識なのでしょうが(どうでもいいですけど、私以外にも若者論批判をしている人も、特に年長の教育学者・社会学者なども含めて少なからずいるのに、なんで甲山は私ばかりくさすのでしょうかね)、そのような甲山のスタンスを代表するような書き込みが、当該イベントのサークルペーパーをネット上で公開しようとしていたときになされました。
甲山の理論がここまで「純粋化」されたのかと思うと正直感慨深いものがあります。そもそも甲山の現代の若い世代への評価は、最早「原罪」レベルになってしまっていると言えるでしょう。このような「原罪論」でまともな評価ができるのか、かなり怪しいです。
また、さらに時はさかのぼって、今年4月末、幕張メッセで行われた「ニコニコ超会議2」。当該イベントの1日目(4月27日)で、自民党のトップにして現総理の安倍晋三が登場し、多くの参加者が拍手を浴びせた一方で、民主党のブースには閑古鳥が鳴いていた――。このことが、ネット上の主に表現規制反対系の書き手をして、今の若い世代は民主党が表現規制に対抗してくれたという恩を忘れたのか、として若年層をバッシングする動きが多く見られました(実際には政治系のブースには人が入るはずもない開場直後の写真が使われており、朝日新聞などの報道に寄れば民主党ブースも結構人は入っていたようです)。そこで私はこのような連続ツイートを行いました(4月28日)。
一応私は超会議に参加していました。ただし、1日目ではなく2日目(28日)、併催の「超文学フリマ in ニコニコ超会議2」でサークルとして参加していました。同じ頃、連続ツイートにもあるように、統計系サークルの盟友「でいひま」の牧田翠氏が同日に開催されていたニコニコ学会のポスターセッションで(数多くの「ここに病院を建てよう」という付箋紙と共に)大賞を受賞しました(当日弊サークルのブースに来てくださった皆様、特に川端裕人様、飯田豊様、津田マガスタッフの皆様、誠にありがとうございました)。また各種ユーザーイベントも同様に超会議で行われていたものです。それなのに、そのほんの一場面に過ぎない状況を切り取って、あろう事か若年層全体をバッシングしてしまうのはどうかという思いが当初強くなりました。
このような、一部のリベラルを自称する層において気がかりなのが、「道徳的少数派を僭称するスノビズム」が広がっているのではないかということです。現代人、特に若年層において「右傾化」が主流の流れと見なされると、そこから距離を置いている自分はそれだけで偉い、「あいつら」とは違う、という優越感に浸れるのではないか――。先の郡山のイベントで配布したサークルペーパーも含めて、甲山太郎の議論などはまさにこれに属するものです。
このようなことが、なぜ一部の「リベラル」の態度として定着したか。連続ツイートにもあるとおり、おそらくその発端として挙げられるのが、1990年代終わり頃の若者論者、具体的に言うと宮台真司や香山リカなどそのあたりではないかと推測されます。特に香山については、1998年の『インターネット・マザー』(マガジンハウス)から、自分の世代(「大人」)と、インターネットに慣れ親しんだ世代としての「若者」を過度に区別するような議論をするようになっています。そしてそのようなスタンスが明確になったものとして、2002年の『若者の法則』(岩波新書)を見るべきでしょう。
そしてそのような「切り離し」を若年層に対するバッシングのレベルまで貶めたのが荷宮和子の『若者はなぜ怒らなくなったのか』『声に出して読めないネット掲示板』(共に中公新書ラクレ、2003年)でしょう。荷宮は前者では「意欲のない若者」を三浦展よりも2年早くスケープゴート化し、後者では「リベラル」としての自分がいかに「若者」によって抑圧されているかということをかき立てていました。その中には若年層に対する差別的な表現も多数含まれていました。
さらに香山以降の左派の流れとして、若年層の「右傾化」を問題視する文脈が定着したように見えます。そして若年層における「現実感のなさ」を問題視することにより、若年層に代表されるような現代人と、自分たち「リベラル」の乖離を問題視するようになった。それが現代のリベラルの「生存戦略」として、一部の大衆的な左派言説に定着しています。
しかし、そのような態度は、自分は抑圧されているという「物語」に結びつき、いつの間にか「リベラル」であること、すなわち「周りとは違うこと」が自己目的化し(それこそ甲山太郎のように)、さらには陰謀論的な思考とも容易に繋がります。そして自らの言説や行動から確固たる態度が失われてしまう。
さらにそれが若年層に対する「愚痴」を生み出し、そのようなものに対する「反発」としての「右傾化」を生み出してきたことも否めないでしょう。そもそも昨今のヘイトスピーチに見られるような「相対的剥奪感」や「抑圧」を殊更に騒ぎ立てるような態度は、1990年代終わり頃~2000年代半ば頃の大衆的左派言説がとってきた態度なのではないでしょうか。そしてそのような態度が、左派業界の外部からは「リベラル」の代表として認識され、過剰に反発するヘイトスピーチはもとより、それらをシニカルに捉えて「自分の議論は右派や左派を超えている」と標榜する宇野常寛的な議論をも生み出してきたのではないか。
左派が人気を失っているとすれば、それは学術的な議論にあまり信頼を置かず、香山などの大衆的な「文化人」を「リベラル」として持ち上げてきた左派のあり方自体を検証しなければならないと思います。大衆的な「左派文化人」としては、香山のほか、近年は内田樹や想田和弘などもその役割を担っていますが、彼らの議論の多くは「日本人は(自分が危険だと主張している)傾向を支持している」「自分はそういう日本人のあり方と一線を画している」という自虐的な優越感に基づいています。しかし真に必要なのは、彼らのように「こんな傾向を支持するなんて莫迦なの?死ぬの?」的なことを言うよりも、その主張がどのような根拠(できれば数値的な)に基づき、そしていかにして支持を集めるかということを考えることではないでしょうか。
このような「愚痴」に近い言説を垂れ流し続けることを続けていては、プリミティブな感情に訴えかけるような右派言説には決して勝てないでしょう。「自分の思い通りにならない」世の中や現代人を呪詛する形で相手を批判していては、味方にすべき人も失ってしまいかねません。
とりあえず、野田佳彦を「野ダメ」、橋下徹を「ハシシタ」、安倍晋三の演説を「とれもろす」、ニコニコ超会議を「パコ超」とか言う人はまず信頼に値しないと思っていいでしょう。
奥付
後藤和智の雑記帳 サンシャインクリエイション60出張版
著者:後藤 和智(Goto, Kazutomo)
発行者:後藤和智事務所OffLine
発行日:2013年6月23日
配信日:2013年7月13日
連絡先:kgoto1984@nifty.com
チャンネルURL:http://ch.nicovideo.jp/channel/kazugoto
著者ウェブサイト:http://www45.atwiki.jp/kazugoto/
Twitter:@kazugoto
Facebook…
個人:http://www.facebook.com/kazutomo.goto.5
サークル:http://www.facebook.com/kazugotooffice
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さて、今回のFree Talkですが、ちょっと今の(主にネット上の)左派・リベラル層についていろいろと思うところがあるので、それについて書いていきたいと思います。
6月2日に福島県郡山市で開催された即売会「SUPER ADVENTURES 67」のサークルペーパーでは、(ちょうど同イベントが女性向けの色彩が強い即売会であったため)ツイッターの社会学クラスタでそれなりの人気の書き手であり、他方で若者論批判批判を私に対する批判という形でたびたびしてくる甲山太郎(@kabutoyama_taro)のジェンダー観について論評しました(サークルブログ及びニコニコチャンネル参照)。格差論に絡めてどうも狭隘ではないかと思われるジェンダー観(というよりは女性蔑視)を開陳していた甲山ですが、そんな甲山は、現代の若年層が無知、軽薄故に「右傾化」するということを問題視しています。おそらく甲山がたびたび発する若者論批判批判も、現代の若年層が甲山にとって劣化しており、それを直視しない後藤は卑怯だという認識なのでしょうが(どうでもいいですけど、私以外にも若者論批判をしている人も、特に年長の教育学者・社会学者なども含めて少なからずいるのに、なんで甲山は私ばかりくさすのでしょうかね)、そのような甲山のスタンスを代表するような書き込みが、当該イベントのサークルペーパーをネット上で公開しようとしていたときになされました。
どんなに博識で賢明な人でも、「若い」というだけで、右傾化したネット空間の影響を多かれ少なかれ受けていることはほぼ間違いない。それは空気や水のようなものだから。
https://twitter.com/kabutoyama_taro/status/344321598767128578
甲山の理論がここまで「純粋化」されたのかと思うと正直感慨深いものがあります。そもそも甲山の現代の若い世代への評価は、最早「原罪」レベルになってしまっていると言えるでしょう。このような「原罪論」でまともな評価ができるのか、かなり怪しいです。
また、さらに時はさかのぼって、今年4月末、幕張メッセで行われた「ニコニコ超会議2」。当該イベントの1日目(4月27日)で、自民党のトップにして現総理の安倍晋三が登場し、多くの参加者が拍手を浴びせた一方で、民主党のブースには閑古鳥が鳴いていた――。このことが、ネット上の主に表現規制反対系の書き手をして、今の若い世代は民主党が表現規制に対抗してくれたという恩を忘れたのか、として若年層をバッシングする動きが多く見られました(実際には政治系のブースには人が入るはずもない開場直後の写真が使われており、朝日新聞などの報道に寄れば民主党ブースも結構人は入っていたようです)。そこで私はこのような連続ツイートを行いました(4月28日)。
朝から最悪のものを見た。ニコニコ超会議での自民党の熱狂ぶり、民主党の閑散ぶり(実際には民主も結構来ていたらしいけど)を見て、「オタクはニコ厨に乗っ取られた!」「今のニコ厨は消費しかしない連中だ!」って、表現規制反対派を自称する人間が主張している。それこそ規制派マインドなのに。
言っとくけど、安倍晋三に対して歓声が起こったのは確かにニコニコ超会議内でのことだ。しかし、弊スペースで紅魔統計本が売上的に大正義したり、盟友の牧田翠氏がニコニコ学会のポスターセクションで大賞取ったり、各種ユーザーイベント、同人誌即売会もその中で起こっているんだよ。
「不特定多数を示す指示語に特定の属性を付与してバッシングしたい欲望」って、それこそ規制推進派が行ってきたことではないか。活動したり調査したりせずに、「肉屋を支持する豚」呼ばわりなんて、はっきり言って(っていうか他人を豚呼ばわりしている時点で)まともに対話する気、ないでしょ。
多分そういうのは「民主党支持者である自分を全肯定してほしい」「表現規制反対派である自分を全肯定してほしい」っていうセラピー的な欲望でしかない。そしてそれは在特会的なものと表裏一体である。なぜそこに気づけないのか。
2000年代以降の一部の左派の傾向として、「道徳的少数派を僭称してスノッブを気取り大衆をバッシングする」っていう傾向がある。おそらく発端は香山リカあたりだと思うのだけど、そういうことを続けて若いリベラル的学者や活動家からそっぽを向かれたのが今の中高年左派なんじゃないですかね。
一応私は超会議に参加していました。ただし、1日目ではなく2日目(28日)、併催の「超文学フリマ in ニコニコ超会議2」でサークルとして参加していました。同じ頃、連続ツイートにもあるように、統計系サークルの盟友「でいひま」の牧田翠氏が同日に開催されていたニコニコ学会のポスターセッションで(数多くの「ここに病院を建てよう」という付箋紙と共に)大賞を受賞しました(当日弊サークルのブースに来てくださった皆様、特に川端裕人様、飯田豊様、津田マガスタッフの皆様、誠にありがとうございました)。また各種ユーザーイベントも同様に超会議で行われていたものです。それなのに、そのほんの一場面に過ぎない状況を切り取って、あろう事か若年層全体をバッシングしてしまうのはどうかという思いが当初強くなりました。
このような、一部のリベラルを自称する層において気がかりなのが、「道徳的少数派を僭称するスノビズム」が広がっているのではないかということです。現代人、特に若年層において「右傾化」が主流の流れと見なされると、そこから距離を置いている自分はそれだけで偉い、「あいつら」とは違う、という優越感に浸れるのではないか――。先の郡山のイベントで配布したサークルペーパーも含めて、甲山太郎の議論などはまさにこれに属するものです。
このようなことが、なぜ一部の「リベラル」の態度として定着したか。連続ツイートにもあるとおり、おそらくその発端として挙げられるのが、1990年代終わり頃の若者論者、具体的に言うと宮台真司や香山リカなどそのあたりではないかと推測されます。特に香山については、1998年の『インターネット・マザー』(マガジンハウス)から、自分の世代(「大人」)と、インターネットに慣れ親しんだ世代としての「若者」を過度に区別するような議論をするようになっています。そしてそのようなスタンスが明確になったものとして、2002年の『若者の法則』(岩波新書)を見るべきでしょう。
そしてそのような「切り離し」を若年層に対するバッシングのレベルまで貶めたのが荷宮和子の『若者はなぜ怒らなくなったのか』『声に出して読めないネット掲示板』(共に中公新書ラクレ、2003年)でしょう。荷宮は前者では「意欲のない若者」を三浦展よりも2年早くスケープゴート化し、後者では「リベラル」としての自分がいかに「若者」によって抑圧されているかということをかき立てていました。その中には若年層に対する差別的な表現も多数含まれていました。
さらに香山以降の左派の流れとして、若年層の「右傾化」を問題視する文脈が定着したように見えます。そして若年層における「現実感のなさ」を問題視することにより、若年層に代表されるような現代人と、自分たち「リベラル」の乖離を問題視するようになった。それが現代のリベラルの「生存戦略」として、一部の大衆的な左派言説に定着しています。
しかし、そのような態度は、自分は抑圧されているという「物語」に結びつき、いつの間にか「リベラル」であること、すなわち「周りとは違うこと」が自己目的化し(それこそ甲山太郎のように)、さらには陰謀論的な思考とも容易に繋がります。そして自らの言説や行動から確固たる態度が失われてしまう。
さらにそれが若年層に対する「愚痴」を生み出し、そのようなものに対する「反発」としての「右傾化」を生み出してきたことも否めないでしょう。そもそも昨今のヘイトスピーチに見られるような「相対的剥奪感」や「抑圧」を殊更に騒ぎ立てるような態度は、1990年代終わり頃~2000年代半ば頃の大衆的左派言説がとってきた態度なのではないでしょうか。そしてそのような態度が、左派業界の外部からは「リベラル」の代表として認識され、過剰に反発するヘイトスピーチはもとより、それらをシニカルに捉えて「自分の議論は右派や左派を超えている」と標榜する宇野常寛的な議論をも生み出してきたのではないか。
左派が人気を失っているとすれば、それは学術的な議論にあまり信頼を置かず、香山などの大衆的な「文化人」を「リベラル」として持ち上げてきた左派のあり方自体を検証しなければならないと思います。大衆的な「左派文化人」としては、香山のほか、近年は内田樹や想田和弘などもその役割を担っていますが、彼らの議論の多くは「日本人は(自分が危険だと主張している)傾向を支持している」「自分はそういう日本人のあり方と一線を画している」という自虐的な優越感に基づいています。しかし真に必要なのは、彼らのように「こんな傾向を支持するなんて莫迦なの?死ぬの?」的なことを言うよりも、その主張がどのような根拠(できれば数値的な)に基づき、そしていかにして支持を集めるかということを考えることではないでしょうか。
このような「愚痴」に近い言説を垂れ流し続けることを続けていては、プリミティブな感情に訴えかけるような右派言説には決して勝てないでしょう。「自分の思い通りにならない」世の中や現代人を呪詛する形で相手を批判していては、味方にすべき人も失ってしまいかねません。
とりあえず、野田佳彦を「野ダメ」、橋下徹を「ハシシタ」、安倍晋三の演説を「とれもろす」、ニコニコ超会議を「パコ超」とか言う人はまず信頼に値しないと思っていいでしょう。
奥付
後藤和智の雑記帳 サンシャインクリエイション60出張版
著者:後藤 和智(Goto, Kazutomo)
発行者:後藤和智事務所OffLine
発行日:2013年6月23日
配信日:2013年7月13日
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チャンネルURL:http://ch.nicovideo.jp/channel/kazugoto
著者ウェブサイト:http://www45.atwiki.jp/kazugoto/
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