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Vol.290 結城浩/「所有」について/結婚の誓い/本を書く心がけ/
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Vol.290 結城浩/「所有」について/結婚の誓い/本を書く心がけ/

2017-10-17 07:00
    Vol.290 結城浩/「所有」について/結婚の誓い/本を書く心がけ/

    結城浩の「コミュニケーションの心がけ」2017年10月17日 Vol.290

    はじめに

    おはようございます。結城浩です。

    いつも結城メルマガをご愛読ありがとうございます。

     * * *

    「ぐっとがんばる」話。

    今年も、もう10月半ば。 新刊書籍は一冊刊行で終わりそうです。

    ある日、Evernoteのノート整理をしていました。 いいアイディアや書籍の案はいろいろあるんだけど、 断片ばかりではだめですね。 どこかで「ぐっとがんばる」ことをしないと、 断片をいくら集めてもまとまりません。

    私の中での「ぐっとがんばる」様子は、 午前中、コンピュータに向かってキーボードを叩いているイメージです。

    ……私は、朝から「今日はこれについて書く」と決めている。 必要な材料も資料もぜんぶEvernoteに入っているけれど、 その大半は、すっきりクリアな頭にロードされていて、 糸をていねいにたぐるようにしてお昼まで書き進めていく…… これが私の「ぐっとがんばる」イメージです。

    結城メルマガの場合でも、Web連載の場合でも、 だいたい前日までに仕込みは済んでいます。 その日の午前中に、おおよそ半分くらいを書き上げます。 そこまで書けていれば、あとは大きなトラブルもなく、 時間を注いでその日のゴールまでたどり着く。 そのような感覚を持っています。

    本を書くときも、それに似ています。 キラキラしたアイディアだけではなく、 全体の構成が見えていて、 章単位・節単位の分解もだいたいできている。 そして「よし、今日はこの章のこの節を書こう」とか、 「よし、今日は第X章に朱を入れる日にしよう」とか、 そういう態勢になっている。 結城の「ぐっとがんばる」はそんな感じです。

    でも、ここまで書いてきて思うのは、 「ぐっとがんばる」 よりも、もっと手前に勝負どころがありそうだということ。

    たとえば、道を歩いていて、

     「そもそも第X章の構成はどうなっていたか」

    を考える時間。あるいは夜眠るときに、

     「先に進むよりも、いったん読み返した方がいいか」

    と考えたりする時間。その大切さはあなどれません。

    朝イチでコンピュータに向かってキーボードを叩いているのは、 いわば試合中。もちろんそこでは真剣に戦うんですけれど、 そのときに実力を発揮するためには、練習が別途いりますよね。

    そのような自分の練習を支えるのは、 コンピュータやツールじゃないですね。

    「輝き」というか、「感動」というか、 自分の心に力を与えてくれる何かです。

    いや、それは、もっと単純に、

     「十分な睡眠」

    なのかもしれませんけれど。

     * * *

    進路選択の話。

    こんな質問をいただきました。

    質問

    文系・理系で進路の選択をしなければいけません。 選択するときに考えた方がいいことなど、 アドバイスはありますか。

    回答

    難しいご質問ですが、何とかお答えしてみます。 文系・理系に限らない話ですけれど、進路選択で迷ったときの話。

    もしもあなたが明確な進路を持っていないならば、 「得意か・不得意か」よりは「好きか・嫌いか」 の方を大切にした方がいいと思います。

    つまり「得意だけど嫌い」よりは、 「不得意だけど好き」を優先するということです。

    なぜそう思うかというと、どんな進路選択をするにせよ、 がんばって勉強したり訓練を受けたりすることになりますよね。 だとしたら「好きなことを勉強して、 それが得意になる方がいい」と思うからです。

    もちろん、これはとてもざっくりした話です。 そもそも、ある分野に対して「得意か・不得意か」 や「好きか・嫌いか」を判断するというのが難しいことですから。

    少なくとも、 「私はこれが得意だから無条件でこれ」 のような進路選択は、 あまり賢明じゃないような気がします。 得意・不得意以外の要素も考えてみましょう。

    しっかり学んでみたら、好きじゃなかったとか、 やってみたら意外に得意だったというのはよくあります。 これから学ぼうとしている人は、 これから成長しようとしているわけです。 成長とは変化の一種ですから、 完全な判断というのは難しいですね。

    よい選択ができますように!

     * * *

    「読者を非難する著者」の話。

    ずいぶん前のことですが、 こんなできごとがありました。 微妙な問題があるので特定を避ける書き方をします。

    久しぶりに、とある著者のブログ記事を読みに行きました。 するとそこに、 「読者から届いた感想メールをさらして非難する記事」 があるのを見つけました。

    著者が晒しているその感想メールは、 読者が大きな誤読をしているものでした。 確かに大きな誤読はありますが、 著者を非難しているわけではありません。 でも著者は、 その感想メールを非難する記事を書いてしまいました。

    結城はその状況を見て悲しくなりました。

    まず、メールというものは基本的に公開するものではありません。 どんな内容であれ、 メールの書き手は本人のみにあてて書いたのですから、 むやみにブログ記事に出してはいけません。 メールを公開するときには、 本人の許可を得て行うべきであると結城は思います。

    また、誤読したとしても、 それを著者が非難するのは筋違いで、 誤読を指摘すればいいだけのことです。 むしろ著者としては、 読者を誤読させてしまったことを反省すべきでしょう。 想定外のひどい誤読だとしても、 それは著者の胸のうちに秘めて、 「こういう誤読をする読者も存在するのだ」 と理解するに留めておくのがよいと思います。

    結城が悲しくなった特に大きな理由の一つは、 「この著者は読者との通信チャネルを重視しないのだなあ」 というポイントです。

    著者が感想メール(誤読している感想メール)を勝手にさらすとしたら、 その読者はいい気持ちはしないでしょう。 またブログ記事を読んだ他の読者も同じでしょう。 そして、今後この著者の本を読んだ読者は、 本の中に気になるところがあったときに、

     「メールで知らせて、
     もしも、自分が誤読していたら、
     同じようにブログ記事でさらされるのかな。
     だったらやめておくか」

    のように考えるでしょう。 つまり、ブログ記事で読者を非難することで、 読者との通信チャネルが一つ絶たれたことになるのです。

    読者から、大きな誤読をするメールがあったとき、 著者としてとることができるアクションはいろいろありますが、 読者の感想メールをさらして非難するというのは、 かなりの悪手であると結城は思います。

    結城は、これを他山の石としましょう。

    そして読者さんにお願い。 もしも、以上のようなことを書いていた結城が、 将来、読者のメールを公にさらして非難していたら、 ぜひ、ご指摘をお願いします。

     * * *

    プログラムの話。

    「要するに、プログラムは動けばいい」という意見をたまに見ます。

    いいかげんに考えてプログラムを書いたとしても、 動かしてみて動いたらいいじゃないか。そういう意見です。 自分がプログラムの内容を理解している必要などない……という極論です。

    「動かないプログラム」が役に立つことは少ないですし、 「動くプログラム」が役に立つことは多いでしょう。 でも「動きさえすればいい」というのはかなり危険です。

    確かに、いいかげんに考えて書いたプログラムでも、 それっぽく動くかもしれません。うまく動いているうちはいいのですが、 何か変な動きをしたときに困ります。 いいかげんに考えて書いたプログラムを修正することは、 極度に難しいのです。

    きちんと考えて書いたプログラムは、プログラマが考えた理屈があります。 その理屈が実際と合致しているところではプログラムは正しく動きますが、 実際と合致していないところでは変な動きをします。

    いいかげんに考えて書いたプログラムの場合、 変な動きをしたら全体を見直すしかありません。

     「どうしてこんな動きをするのか、そもそもわからない。
      対処療法で直したら、別のバグが出てきた。
      ええい、全部を書き直せ!」

    となるのがオチです。

    それに対して、 きちんと考えて書いたプログラムの場合、 たとえ変な動きになっても、

     「そうか、この条件に見落としがあったんだ。
      だったら、ここを直せばいいな」

    のように着実に歩むことができます。

    きちんと考えて書いたプログラムには、 理屈が通った正しい部分があります。 ですから、そこを土台にして考えを進めることができるのです。

     「Aは正しい。ということは、悪いのはBだな」

    そのように考えを進めることができるのです。

    それと似ている、こんな話があります。

     ----
     ハードウェアの誤りを調べるには、
     正しく動くソフトウェアが必要である。
     
     ソフトウェアの誤りを調べるには、
     正しく動くハードウェアが必要である。
     
     (たぶんダイクストラの言葉。現在出典を確認中)
     ----

    ここには大事な主張が示されています。 何かの考えを進めたいと思うなら、 正しさの土台(あるいは正しさの基準)が必要だということです。

     * * *

    能力の話。

    若い頃は、いろんなことがササッとできました。

    考えることであれ、作ることであれ、 チャチャッと、パパッと、ササッとできたのです。

    当時は「ああ、自分は能力が高いからできるんだなあ」 と思っていました(やれやれ)。 でも、いまにして思えば「能力が高いから」というよりも、 単に「若かったから」かもしれないですね。

    私という個人が真に能力が高いというのではなく、 若いという年齢によってササッとできたのですね。 世阿弥『風姿花伝』の《花》のようなものですね。

     ----
     たとひ、人もほめ、名人などに勝つとも、
     これは、一旦めづらしき花なりと思ひさとりて、
     いよいよものまねをも直にしさだめ、
     名を得たらん人に、ことをこまかに問ひて、
     稽古をいやましにすべし。されば、時分の花を、
     真の花と知る心が、真実の花に、なほ遠ざかる心なり。
     (世阿弥『風姿花伝』より)
     ----

    若いからできるだけのこと。 若かったからできただけのこと。

    年をとってくると、 若いときには何の苦労もなくできたことができなくなります。 そのために紙にメモして忘れないようにしたり、 方法論を論じたり、えらそうなふりをして、若者を動かしたくなるのでしょう。

    若者が若者のフィールドでもがいているのと同じように、 年寄りは年寄りのフィールドでもがいているのですね。

    そんなことを考えていると、 ものがなしくなったり、ほっとしたりします。

     * * *

    カンニングペーパーの話。

    中学生のときも、高校生のときも、 「カンニングペーパー」を作るのが好きでした。

    といっても、 実際にテスト中にそれでカンニングをするわけではありません。

    今回のテストで「このカンニングペーパーに書かれたことさえ確認できたら、 私は絶対に100点をとれる」という情報は何だろうか。 そういうことを考えるのが好きだったのですね。

    三角関数の公式でも、積分の公式でもたくさんありますよね。 この「カンニングペーパー」に書いてあることさえ、 テスト中に見られるなら、ミスはないぞ! 必要があれば、ここに書いてあることから全部導出できるし!

    「これだけあれば大丈夫」という道具を並べるのが好きなのでしょう。

    実際「カンニングペーパー」を作ることそのものは、 非常に楽しい勉強でもありました。 自分がわかっていないことを確認するし、 何から何が導出できるかを調べることになるからです。

    ところが、この話にはオチがあります。 実際のテストでは導出するための時間が足りずに、 なかなか得点できなかったという……(がっかり)。

     * * *

    それではそろそろ、 今回の結城メルマガを始めましょう。

    どうぞ、ごゆっくりお読みください!

    目次

    • はじめに
    • 「所有」について
    • 森を見たり、木を見たり - 本を書く心がけ
    • 結婚は誓いを必要とする
    • おわりに
     
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