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教養論その40(最終回)「本当の教養」(1,578字)
コメ3 ハックルベリーに会いに行く 103ヶ月前
本当の教養とは愚者のことである。何も考えていないということだ。賢者は、一周回ってこの境地に辿り着く。ビートルズに「フール・オン・ザ・ヒル」という歌があるが、これもそのことを歌っている。桜井章一さんとお話ししたときに、最も印象的だった言葉が「鮭はここまで約束守ってんのに」だった。だからそれが本のタ...
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教養論その39「教養とは何か?」(2,033字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 103ヶ月前
教養論という連載を続けてきて分かったのは、教養とは「知る」ということだ。そして教養を育むというのは、知るということは何かを理解することも含めて、多くのことを知るということである。ところで、「知る」という事象についての有名な言葉で、「無知の知」というのがある。この言葉は、多くの人が知っているようで...
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教養論その38「歴史から学ぶ認知フィルター」(2,041字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 103ヶ月前
人間というのは、自分の五感を通して世界を認知する。そして通常、人はその五感の能力を疑わないので、自分の認知の仕方が、そのまま世界の「事実」だと思い込んでいる。しかしながら、それは端的にいって誤りだ。人間の五感には、さまざまなフィルターがかかっているから、事実をその通りには受け取れないのである。例...
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教養論その37「歴史の距離感」(1,655字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 103ヶ月前
人間は、さまざまな経験を積むことによって教養を育む。だから、経験を積めば積むほど、教養もまた育まれるといっていいだろう。若者より老人の方が、一般的に教養が深いのはそのためである。一方で、人間が積める経験には自ずから限界がある。この世の中には、自分では体験できないこともたくさんある。そのうちの代表...
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教養論その36「自分を正しく認知するために役立った教養(後編)」
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 104ヶ月前
高校生くらいになると、映画が教養として役立つようになった。例えば『二十四の瞳』『七人の侍』『ゴッド・ファーザー』『フォレスト・ガンプ』などから、人と人との関係性――つまり人間関係、特に「家族とは何か?」ということを学ぶことができた。人間は、環境に左右されながら生きている。だから、人間を理解するには...
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教養論その35「自分を正しく認知するために役立った教養(前編)」(1,652字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 104ヶ月前
ぼくが、「自分を正しく認知するために役立った教養」といってまず思いつくのは「絵画」である。それも西洋絵画だ。ぼくの家にはいくつかの画集があって、それを眺めることによって教養が育まれた。特に、ヤン・ファン・エイクやレオナルド・ダ・ビンチ、ラファエロなど、いわゆるルネサンス期のデッサンがしっかりした...
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教養論その34「自分を素直に見ることによって初めて分かる教養の本当の役割」(1,836字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 104ヶ月前
自分に素直になるということは、もう一人の自分を持って、自分を客観的に見ることによって果たされる。自分を客観的に見ることができると、自分の弱点が見えるから、それをあまり出さないようにできる。それと同時に、自分の長所も分かるから、それを上手く出せるようになるのだ。そういうふうに、自分の長所や短所が分...
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教養論その33「素直になるということ」(1,490字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 104ヶ月前
ぼくは、あるときから「もう一人の自分」を持てるようになった。そうなったのは高校生のときである。きっかけは、恋をしたことだった。恋をしたとき、こう思った。「自分は、相手からどう思われているのだろう?」ぼくは、好きになった相手が自分のことをどう思っているか、気になった。なぜなら、相手もぼくのことを好...
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教養論その32「もう一人の自分を持つ方法(後編)」(1,592字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 105ヶ月前
もう一人の自分を持つもう一つの方法は、「他者を利用する」ということだ。他者を鏡にし、そこに映った自分を「もう一人の自分」とするのである。高校生の頃、あることに気づいた。それは、誰かと話していると、どんどんと自分の考えが分かっていく――ということだ。自分の希望や絶望、望みや嫌悪をいったものが、皮をむ...
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教養論その31「もう一人の自分を持つ方法(前編)」(2,014字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 105ヶ月前
自分の中のネガティブな感情(怒りや憎しみ)を適度に解放するためには、自分を外側から見つめるもう一人の自分を作る必要がある。そのもう一人の自分に自分を冷静に見つめさせることで、もとの自分は、あえて感情に「とらわれる」ことができるようになるのだ。激高したり、逆上したりできるのである。では、そのもう一...
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教養論その30「怒りにブレーキをかけない方法」(1,508字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 105ヶ月前
教養を正しく養うためには、正しく怒る必要がある。そうしないと、教養の負の側面に目を向けることができなくなるからだ。では、正しく怒るためにはどうすればいいか?それは、怒りにブレーキをかけないことである。それを上手く解放してあげることだ。では、どうすれば怒りを上手く解放できるのか?今回は、そのことに...
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教養論その29「教養に必要な怒り」(1,760字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 105ヶ月前
教養を正しく育むためには、教養の負の側面に目を向ける必要がある。ものごとを嫌いになったり、憎んだりする必要がある。なぜなら、この世には嫌いになるべきもの、憎むべきものというのが存在するからだ。それらをちゃんと嫌いになったり憎んだりしないと、ものごとを正しく評価できなくなる。ものごとを正しく評価で...
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教養論その28「教養の矛盾」(1,631字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 106ヶ月前
教養というのは、一般的にはものごとを肯定的にとらえる力だと思われている。ものごとの正の側面をとらえ、それを伸ばしていける力のことだと。例えば、教師でいったら生徒の良いところを見つけ、それを伸ばしていけるのが「教養ある人物」というふうにとらえられる。しかし、それは教養の片面に過ぎない。教養には、も...
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教養論その27「言語能力における美的感覚(後編)」(2,118字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 106ヶ月前
今回は、言葉における「概念としての美しさ」と「形の美しさ」について見ていく。まず、概念としての美しさ。「概念」というのは、その本質のことである。例えば、教養であったら教養の本質――それを概念という。そして、「教養」という言葉は教養の本質をどれだけ表しているのか?――それを表していればいるほど、概念と...
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教養論その26「言語能力における美的感覚(中編)」(1,754字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 106ヶ月前
「言葉の美しさ」というのは、以下の四つの要素から構成されている。1、音の美しさ2、機能としての美しさ3、概念としての美しさ4、形の美しさここで、この四つについてそれぞれ見ていく。まず、「音としての美しさ」。これは、別の言い方をすれば「朗読したときの聞こえ方の良さ」ということになろう。口から音として出...
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教養論その25「言語能力における美的感覚(前編)」(1,587字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 106ヶ月前
「教養」とは、ほとんど「言葉を知っている」ということと同義である。なぜなら、言葉というのは「知識」であり、同時に「思考の道具」であり、さらには「さまざまな事象の概念、本質を表しているもの」でもある。だから、それを知れば知識、思考力、物事の本質という三つの教養にとって重要なことを同時に習得できるの...
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教養論その24「言語能力における『想像力』とは何か?(後編)」(1,804字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 106ヶ月前
「言語能力がある」ということは、それだけ「想像力が働く」ということでもある。何に想像力が働くかといえば、それは三つある。一つは、話す相手が「どういう人か」。二つは、話す相手が「これまで何をしてきたか」。三つは、話す相手が「これからどうしたいか」。これらに対して想像力が働けば、そこで彼らが話すこと...
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教養論その23「言語能力における『想像力』とは何か?(前編)」(1,788字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 107ヶ月前
言語能力における「想像力」とは何か?それは「行間を読む力」である。あるいは「空気を読む力」ともいえる。言語外言語を受け取る力だ。そういう力のあるなしで、言語能力は大きく変わってくる。また、言語能力が変われば教養も変わってくる。すなわち、想像力を鍛えることは、そのまま教養を鍛えることにもつながるの...
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教養論その22「言語能力における『構成力』とは何か?(後編)」(1,981字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 107ヶ月前
前回は、言語能力における構成力とは何か――ということを見てきた。それは、詰まるところ「相手に伝えたいこと(ゴール)を明確にし、そこからの逆算で言葉全体を構成すること」である。話の構成の下手な人は、この「ゴール設定」ができていないため、構成ができていない。そうして、いわゆる「オチ」のない話になってし...
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教養論その21「言語能力における『構成力』とは何か?(前編)」(2,125字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 107ヶ月前
言語能力における「構成力」とは何か?言語というのは、言うまでもなく「単語の連なり」によって形成される。だから、いくら「単語」を知っていても、それだけでは「言語能力」があるとはいえない。言語能力には、その単語を「構成する力」も含まれているのだ。そしてこの構成力というのは、言語能力においては最も重要...
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教養論その20「言語能力における『知識力』とは何か?」(2,107字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 107ヶ月前
教養とは、ほとんど「言語能力」のことである。では言語能力とは何か?それは、知識力、構成力、想像力、美的感覚の四つによって構成されるものだ。それらの総合が高い人が、すなわち言語能力が高いということになる。そこで今回からは、この四つの能力――すなわち知識力、構成力、想像力、美的感覚とは一体何か? また...
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教養論その19「言語能力とは何か?」(1,673字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 108ヶ月前
「言語能力」とは何か?一般的に、それは「どれだけ多くの語彙を知っているか」と考えられている。しかしながら、それは言語能力の一つの側面を表したに過ぎない。言語能力は、いくつかの能力から構成されるものの総体だ。では、その「いくつかの能力」とは何か?それは、以下の四つである。第一は、前述した語彙力。こ...
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教養論その18「教養と言語の関係」(1,848字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 108ヶ月前
教養のことを突き詰めて考えていると、やがて「アナロジー」に突き当たった。アナロジーを用いるには、「物事の構造を読み解く力」が求められる。だから、アナロジーを突き詰めていけば、やがて物事の構造を読み解けるようになり、物事の構造を読み解けるようになれば、本質を見抜くことができるようになる。そうなると...
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教養論その17「強度の高いアナロジーを見つける方法」(1,833字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 108ヶ月前
アナロジーこそ教養の源泉である。そして、アナロジーには固有の「強度」がある。強度をどのように計るかといえば、それを使用可能な事例の数を数えるのである。使用できる数が多ければ多いほど、強度は高くなる。例えば、「矛盾」というアナロジーはとても強い。また、「境界線」というアナロジーも強い。これらは、い...
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教養論その16「アナロジーの強度」(1,838字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 109ヶ月前
昔、ジブリのドキュメンタリーを見ているときに、宮崎駿さんが若いアニメーターに対して、肉を食べたときの動画の描き方を指導している場面があった。そのとき、宮崎さんは食いちぎった肉がブルブルと震えるように描くことを教え、その後こう言ったのである。「ね、こうすると美味しそうに見えるでしょ。これが、この世...
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教養論その15「アナロジーによって教養を鍛える」(1,677字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 109ヶ月前
「アナロジー」というのは、ある事象を他の事象にたとえることである。例えば、「似ている」という事象がある。これは、「矛盾」という事象にたとえることができる。「似ている」というのは「矛盾」している。例えば、とても顔が「似ている」母親と息子がいたとする。しかし、この母親と息子、区別がつかないかというと...
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教養論その14「言葉は思考のための道具」(1,947字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 109ヶ月前
教養を身につけるためには知識が必要である。この連載では、教養の定義の一つを「面白がる力」とした。例えば、「映画を面白がる力こそが教養」としているのだが、それには「知識」を必要とする。知識がなければ、映画を面白がることはもちろん、それ以前に理解することも不可能だからだ。つまり、知識がなければ映画を...
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教養論その13「因果関係を探り当てるヘウレーカ」(2,005字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 109ヶ月前
映画「ノーカントリー」、及びその評論は、いろいろなことを教えてくれる。まず、「ノーカントリー」そのものは、普通に見るとなかなか意味が分からないところがある。しかし評論を読んでから見ると、その分からなかったところが霧が晴れたように意味が分かってくる。ところで、「意味が分かる」とは一体どういうことな...
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教養論その12「映画『ノーカントリー』で分かる『面白がり方』」(1,838字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 109ヶ月前
人に映画を薦めるとき、必ず真っ先に挙げる作品がある。それは、コーエン兄弟監督の「ノーカントリー」だ。なぜこの作品を薦めるかといえば、評論を読む前と読んだ後とで、見た感想が大きく違ってくるからだ。この作品を見る上では、評論の果たす役割が非常に大きい。それは、裏を返せば「ノーカントリー」の評論を読む...
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教養論その11「映画評論が教えてくるもの」(1,961字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 110ヶ月前
映画「真夜中のカーボーイ」において、ダスティン・ホフマンが道を渡るシーンは、印象的で、妙に心に引っかかる。しかしながら、これは映画を見ると分かるのだが、このシーンに、何かドラマ的な必然性があるわけではない。むしろドラマ的な必然性がない分、映画の中で浮いている。だからこそ、なおさら心に引っかかると...
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教養論その10「評論との向き合い方」(1,950字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 110ヶ月前
「面白がり方を学ぶ」というのは、きわめて哲学的な行為である。なぜなら、面白がり方を学べば、それだけ哲学的な感度を高めることができるからだ。それは同時に、教養を深める行為ともいえる。なぜなら、哲学的な感度を高めることができれば、それだけ教養を深めることができるからだ。では、「面白がり方」はどう学べ...
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教養論その9「面白がり方」(1,712字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 110ヶ月前
面白さの見つけ方――つまり「面白がり方」というのが、哲学的な感度、引いては教養の高さにつながる。面白がり方が上手くなればなるほど、哲学的な感度が磨かれ、教養が高まる。赤瀬川原平氏の本に「印象派の水辺」というものがある。印象派の水辺印象派の画家の絵を見ながら、彼らが描いた「水」の表現がいかに面白いか―...
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教養論その8「赤瀬川原平氏について」(2,117字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 111ヶ月前
「教養」は、「哲学的感度の高さ」と言い換えられる。そして哲学的感度の高い人は、「ちょっとした隙間やズレ」を見つけるのが得意だ。「ちょっとした隙間やズレ」を見つけるのが得意な人といって、ぼくが真っ先に思いつくのは赤瀬川原平氏である。それに続くのは、佐藤雅彦氏か。そこで今日は、赤瀬川原平氏について考...
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教養論その7「教養としての哲学」(1,595字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 111ヶ月前
哲学とは何か?これは、実は多くの人が誤解している。それをぼくは、永井均さんという哲学者の本で知った。多くの人は、哲学というのを「答え」だと思っている。例えば、有名な「人間は考える葦である」というパスカルの言葉。この「考える葦」の部分を、多くの人は哲学だと考えているのだが、実は違う。哲学とは、「問...